マップナビ
ヘリオスの巨像
〜ロードス島にそそり立つ青銅の巨人〜
* ロードス島の重要性 *
 ロードス島は、エーゲ海の東南にある島でクレタ島に次ぐ大きさがある。ボスポラス海峡と地中海オリエントとを結ぶ海上貿易の要地に位置し、古来より多くの民族にとっての重要な中継地として大変栄えた島である。

 しかし、小アジアとはわずか18キロの距離しかなく、そのため大陸からの影響も受けやすく、この島の歴史に大きな影響を与えている。
 紀元前5世紀に始まったペルシア戦争の時は、ペルシアの陣営に加わり、ペルシアが破れた後は、ギリシア陣営としてデロス同盟に加えられた。デロス同盟とは今後のペルシアの脅威に対して、各ポリスが資金を出し合って海軍力を保持して備えようというもので一種の軍事同盟であった。アテネがこれを主導し、最盛期には300あまりのポリスが参加していた。

 やがて北方のマケドニアが強大になってギリシア全域を征服した折は、ロードス島はアレキサンダー大王の支配下に入り、小アジアへの兵員、物資を送る中継基地としての役割を担なわされるようになった。

 このように、ロードス島はその地理的位置から戦略上の重要拠点として常に時の勢力のなすがままに従う運命にあったと見ていいだろう。
 その後、マケドニアがエジプトと戦争をした時には、利害関係上、エジプトに組して船舶多数をプトレマイオス1世に提供した。それに立腹したマケドニアは4万の軍勢と400隻あまりの軍艦で攻め寄せ、ロードス島を包囲した。マケドニア軍は、当時のもっとも強力と言われる青銅製の攻城砲、破城槌といったものまで持って来て、容赦のない攻撃を続けた。

 当時のロードス島には、老若男女合わせても4万人ほどしかいなかったが、戦後の自由を約束して、奴隷にまで武器を持たせて死に物狂いで防戦したという。島内の神殿は壊され、城壁を補強する材料として使われた。女性たちは弓の弦の材料として、進んで自分たちの髪の毛を差し出したと言われている。
 こうして、約1年あまりの間、必死の抵抗が続く中、エジプトから大艦隊の援軍が駆けつけ、ロードス島は落城寸前のところを免れたのであった。不意を突かれたマケドニア軍は、多くの武器をそのままにして本国に逃げ帰ったのであった。 紀元前305年の出来事である。
* 武器を溶かして青銅の巨像をつくる *
 ロードス島の人々は、プトレマイオス1世を「救い主」として仰ぎ、王への感謝と戦勝を記念して、マケドニア軍が残していった大量の青銅器の武器を溶かし、自分たちの太陽神であるヘリオスの記念像を造ろうと考えたのである。ヘリオスとは太陽神のことであり、後のギリシア神話のアポロンのことである。
 場所としては、ロードスの港の突き出た岬が選ばれた。記録によると、この巨像は彫刻家カレスの作とされ、12年の歳月を費やして造られたという。

 完成した巨像は青銅製で高さ33メートル、胴まわりは18メートル、ももの太さ3.3メートルあり、台座まで合わせると、高さは実に50メートルにおよぶものと思われた。巨大な台座は白い大理石で出来ており、15メートル以上の高さがあった。
 巨像の頭には、象徴でもある太陽光線をあらわす放射状の冠で飾られていた。さらに、この巨像には、足から頭部に至るまで、らせん状の階段が設けられていて頭部にはいくつかの部屋があり、そこからは眼下に広がるロードス港が一望出来るようになっていた。
恐らく、真っ青なエーゲ海と小アジアの澄んだ山々をバックに数百隻のあまたの船が行き交う素晴らしい大パノラマが見渡せたにちがいない。
 夜になると、この巨大な青銅の巨人の両目には、火があかあかと灯され燈台の役割も果たしていた。その光は、はるか沖合いを航行する船からもはっきり認められたという。
東に向いて立つヘリオスの巨像
 古代の数学者フィロンは、この巨像を世界の七不思議の一つにあげて、巨像の持つ壮大さと人類がこれまでに造り得た最も均整のとれた彫像であると惜しみない賞賛の言葉を送っている。 
 この巨像は港の突き出た突堤の端に小アジアの方角を向いて両足をつけて立っていた。港の入り口に両足を開いて立ち、その下を船が出入りしたとする想像もあるが、それだと幅が60メートルもある港口をまたがねばならない。
ヘリオスの巨像を描いた中世の絵
そのような場合、像の身長は120メートル以上も必要となり、理論上造ることは不可能であろう。
* 倒壊した巨像の運命 *
 しかし、この偉大な巨像は造られてからわずか半世紀足らずで、地上から姿を消してしまう運命にあった。エーゲ海一帯を襲った大地震のために、巨大な両足の部分を残し、岩の上に崩れ落ちてしまったのである。 紀元前227年のことである。

 その後、久しくして、この地を旅したローマ人は地上にバラバラになっている断片を見て、その巨大さに唖然としたという。崩れ落ちた巨像の親指を両手で回せる人はほとんどなく、指の長さはふつうの立像ほどもあったということだ。
 倒れた巨像は800年以上も横たわったままであったが、7世紀にロードス島がイスラム教徒に占領されてしまうと、スクラップとしてユダヤの商人に売却されてしまった。その際、青銅の破片を運ぶのに900頭のラクダが必要だったという。
 今日、ヘリオスの巨像の断片は一つとして残されておらず、かつて、この場所に巨像が立っていたと思われる港の突堤には、牝鹿のブロンズ像が立てられているのみである。
 だが、2300年ものその昔、古代のロードス港にそそり立っていた巨大なヘリオスの像に思いをはせる時、かつてこの巨像を造った人々の太陽神にささげるロマンと情熱が伝わって来るようである。
ロードス港の入り口
トップページへ
アクセスカウンター

inserted by FC2 system