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密林に消えた都市
〜忘却の彼方に眠り続けた巨大石窟寺院の謎〜
* 壮大な密林の寺院 *
 何気なく東の方に眼をやった時、私の視線は、釘付けにされてしまった。森の途切れた広大なところにそれはあった。霞みがかった密林の彼方に、丸屋根と5つの塔を持つ巨大な輪郭がうっすらとそびえ立っていたのだ。
 近づくにつれて、私は、その壮大な廃虚に息を飲み、次第に圧倒され、完全に酔わされてしまった。近くで見たそれは、ますます素晴らしく、細部の美しさ、仕上げの壮麗さに至っては、心からの讃美と歓喜を感じざるを得ない。かくも美しく壮大な建築物が、密林の奥深く、この世の片隅に、人知れず存在していようとは一体誰に想像出来たであろうか? この空前絶後の建築物を前にして言葉など出ようはずもない。魂は震え、想像力は絶するのみである・・・
 フランス人アンリ・ムオは、アンコールワットを真近に見た時の感想をこのように述べている。それは、1860年、1月22日の夕刻の出来事であった。彼が大メコン川を遡ってインドシナの奥地に入ってすでに3年余りの月日が経っていた。

 アンコールワットの偉容に絶大なる感銘を受けたアンリ・ムオは、それら遺跡の秀麗な浮き彫りの数々、見事なまでの彫刻類から、かつてこの地に高度な文化を持った未知の文明が存在していたと推測した。彼はその間、遺跡の壁面に彫られたレリーフを写生したり、見取り図を作ったりして、この地に留まり、三週間余りを過ごした。アンコール遺跡の重要性を見抜いた彼は、その後、壮大な石造建築群と優れた芸術をヨーロッパやアメリカに紹介し、世界に大々的に知らしめることになったのである。
* 知られざる奥地の調査 *
 これまで幾世紀もの間、アンコール・ワットは、密林の中に埋もれ、忘れ去られたような存在だった。
 確かに、何人かの来航者たちが、その著書の中で言及してはいたが、不明な点があまりにも多すぎた。なにしろ、アンコール遺跡の大部分は地中に埋もれ、うっそうと茂った大樹林によってその全容が隠されている状態であったからだ。
 当時、ベンガル湾と東シナ海に挟まれた二つの半島が形成する広大なインドシナは、その奥地は不毛の大平原と見られ、海岸線が知られているだけであった。
アンリ・ムオ、フランスの探検家(1826ー1861)
 16世紀に設立された東インド会社以来、そこを拠点として探険を行ったイギリス人は、インドシナの全容を徐々にではあるが明らかにしていった。
 しかし、メコン川の奥地に広がっていると思われる広大な水源地帯に至っては全く未知のままの状態で残されていた。
アンリ・ムオが描いたスケッチ

 ムオは、こうした知られざる土地を調査する目的で、ロンドン科学協会から派遣されていたのだ。彼に与えられた使命は、アンナン(ベトナム地方)、カンボジアの未開の土地を開拓し、そこに生息する動植物の分布を記録し、トンレ・サップ(太湖)湖畔に散在していると思われる遺跡群を地誌に書き込むことであった。
 琵琶湖の10倍以上の広さがあるというこの湖は、東南アジア最大の湖として知られ、カンボジアの中央部にまで広がっている。
 まるで、ひょうたんを逆さにしたような形状をしており、3月から10月の雨期ともなると、3倍以上にも膨れ上がると言われている。
 そのため、水没から逃れるために、毎年8キロも移動を繰り返す村もあったり、中には水上で生活している人々も珍しくない。
トンレ・サップ湖。水上の村
 また、トンレ・サップ湖は、世界一魚影が濃い湖ということでも知られており、アンコール文明の食料庫とも言われてきたほどである。最盛期には、50万人以上いたという人口を養うことが出来たのもそのためである。ここでは、2メートルを越す鯉に似た魚やナマズの類から淡水産のふぐまで、実に200種類もの魚類が生息しているのである。この湖で採れる魚は、遺跡の壁画にも、浮き彫りとして数多く残されている。アンリ・ムオは、この湖を船で渡った際、トンレ・サップ湖のことをカンボジアの小さな地中海と称し、横断するには3日間を要するだろうと感想を述べている。また魚の大群で船底がこすれるほどだったと記録している。
* アンコールワットその起源 *
 今日、アンコールワットの遺跡は、調査によりその全貌が明らかにされつつある。この世界最大の石造寺院が建設されたのは、今から900年ほど前、紀元12世紀の中頃であると見られている。その当時、この地を支配していたのは古代クメール王国(アンコール王朝)という強大な帝国であった。
 12世紀から13世紀にかけて、この王朝は最盛期をむかえ、タイ東北部からラオス、ベトナムの南部にまで勢力圏を拡大し、ほぼインドシナ半島全域を支配下に置き、巨大な文化圏を形成したのである。その時、クメール王国の名はインドシナ全土に知れ渡り、その威光は東南アジアの隅々にまで轟いたと言われている。伝説によれば、朝貢した国王の数は百二十を数え、5百万の軍隊を有し、王の財宝を並べるだけでも数里の長さになったというから途方もない国力を備えていたと思われる。
 最盛期に即位したスールヤヴァルマン2世は、1113年に即位するなり巨大石造寺院アンコール・ワットの建造に着手し始めた。そして30年という膨大な歳月と莫大な人員を動員し、人海戦術によって完成させたと言われている。
 スールヤヴァルマン2世(太陽王の意)は、歴代の王の中でも、最強の王と言われており、その絶大な権力を具体的に知らしめようとして、この巨大石造寺院を建設したのだと言われている。
 彼はアンコール・ワット建設と平行して、自らの国力を誇示するために、隣国のチャンパやベトナムに侵入を繰り返し、略奪と破壊を欲しいままにした。
 ところが彼が死んでしまうと、その反動で国内は混乱して弱体化してしまい、逆にチャンパ軍の反撃を食らうことになってしまった。こうしてアンコールの都は占領され、敗れたカンボジア軍は地方にチリジリになってしまった。
スールヤヴァルマン2世当時のインドシナの情勢(12世紀初め)
* アンコール・トムの建設 *
 しかし数年後、アンコール奪回の機会が来たと悟ったジャヤヴァルマン7世は、満を持して挙兵し、再びチャンパ軍を打ち負かし、アンコールを敵の手から取り戻したのであった。その後、シャヤヴァルマン7世は、チャンパ軍によって破壊された都を修復し、新たな都を建設しようと考えた。そして出来上がったのが王都アンコール・トム(大きな王都)であった。
 新しく、クメール王国の都となったアンコール・トムは、周囲を12キロの濠で囲まれ、高さ8メートルの分厚い城壁で取り巻かれた堅固な城塞都市であった。
 また、この都市は、計画的に建設されたもので、古代インドの建設ルールに基づいていた。それによると、王の住む都は正方形でなくてはならず、東西南北には、主要道路が縦横に走り、それは中央で交差するものと定められていたのである。
 そして、交差の中心には、バイヨン(崇高な塔の意)と呼ばれるピラミッド型の石造寺院が建立されねばならないのである。かくして、アンコール・トムの都は、この法則に基づき正確に建設されていた。
アンコール・トムの南大門
 このバイヨンという寺院は、世界の中心にあるという須弥山(しゅみせん)を象徴したもので、風化した黒い岩峰と言った感じの印象を受ける。須弥山とは、インド神話の中でたびたび登場し、神々が住むと言う聖山、メール山を漢訳したものと言われ、宇宙の中心を意味するものである。このメール山は、仏教に取り込まれ、日本に伝えられる過程で、非常に優れ、あるいは不思議なという意味のニュアンスとして意訳されるようになった。奈良の大仏が座る蓮の花びらには、ことごとくこの須弥山が描かれているということである。
 バイヨンは、中心塔と小塔が林立して成り立っており、高さは、実に45メートルもある壮大な規模で、その上部には、微笑を浮かべる人面像が172個もついている。さらに、バイヨン寺院の北西には、王宮と宮殿内の寺院があった。紅土石を3層に積み上げ、最上階に祠堂を持つこの寺院は当時のヒンズー教の宇宙観を凝縮したものと言われている。
 そして、東西南北の主要道路に仕切られた敷地は、4つの階級の居住区として厳格に振り分けられていた。まず、北にはバラモン(僧侶)、東にはクシャトリア(王族)、南にバイシャ(一般人)、西にシュードラ(奴隷)の順であった。
 アンコール・ワットは、アンコール・トムのすぐ南に位置する巨大石造寺院でその規模は、神殿としては世界最大である。中央部には65メートルもある巨大な塔がそびえ、その周囲を対角線上に4つの小塔が林立している。       
 さらに、それら寺院本体の周囲を回廊が三重に取り囲み、一番外側を濠が取り巻いている。濠は幅190メートルもあり、東西1500メートル、南北1300メートルの長方形である。しかも、4方位の軸線にしたがって、微塵の狂いもなく正確につくられているのである。
* アンコール・ワットは世界最大の霊廟? *
 アンコールには主要な遺跡が60ほどあるが、すべての遺跡が東を向いているのに対し、正面が西を向いているのは、アンコール・ワットだけである。これはいかなる理由によるものか? この理由を巡って様々に論議が交わされてきたが、今日ではアンコールワットは、寺院でもあるが、王の死後は墳墓としての目的も持っていたために、西に向けられて建てられたのだと考えられている。つまり西という方位は、死後の世界と密接な関係があったのである。ただし確実な証拠があるわけでもなく、アンコール・ワットが霊廟だったという考えは、想像の域を出ていない。
 アンコール・ワット建設にあたっては、賦役として村人を駆り出し、戦争で得た捕虜を中心に、常にのべ10万人ほどの人間が動員されたのではないかと考えられている。
 その内訳は、石工3万人、運搬人1万5千人、木工職人5千人、仏師彫工など5千人、その他、食料や生活必需品などの調達する数万の人足から成り立っていた。
 彼らは現場近くに村をなして生活し、完成するまでの何十年という時間を灼熱の太陽のもと、汗とほこりまみれになりながら過酷な条件下でぶっ通しで働いていたと想像されている。
世界最大の神殿、アンコール・ワットの全景
 このように、アンコール・ワットクラスの寺院を建設するには、天文学的な人員と膨大な歳月が必要だったのである。言わば、国家的大事業であり、それを可能にしたクメール王朝は、絶大な国力と権力を兼ね備えていた証だったということが言えるだろう。
* 天地創造を描いた壮大な壁面彫刻 *
 クメール王朝は、その後も、実力ある王が次々と登場したために、さんぜんと光り輝く黄金時代が保持され続けられたのであった。その結果、アンコール遺跡群と呼ばれる大小千3百にも及ぶ石造建築物が建てられたのである。
 その壮麗な遺跡の数々、魅惑的な彫刻類、優美にして繊細な神殿は、千年たった今でも、見る者に驚異と畏怖の念を抱かせて止まない。
 まさしく、そこに古代クメール人の力量、忍耐力、智能、権力が集約されていると言っても過言ではないだろう。
アンコール・トム北側にある象のテラス
 古代クメール王国は、その高度な芸術様式もさることながら、近隣諸国に及ぼした影響力に至っては、計り知れないものがあったのである。この時代が東南アジアのギリシアと呼ばれる由縁は、ここから来るのであろう。
 特に、アンコール・ワットは、クメール美術の集大成ともいわれている。5基の塔の周囲を3重の回廊が巡っているが、一番外側の回廊は、一周すると760メートルにもなる。しかも、その長大な壁面には、細密な浮き彫りが所狭しと彫られているのである。
プノン・バケンの最上壇に安置されている女神デヴァター
 そのテーマは、天地創造が主体であるが、神々と阿修羅との戦い、天国と地獄、動物に乗った神々の行列、様々な戦闘シーンなどが描かれており、見る者を異次元の世界に誘い込んでしまう一種独特のムードを持っている。全くそれは、実に不思議な印象を与える空間という他ない。
 この回廊をひと回りすれば、天地創造から、幾度かの戦を経て、運命の空しさまでを説く長大な叙事詩をかいま見ることが出来るのだ。

 回廊の東側、つまり入り口にあたる壁面には、天地創造をテーマにする雄壮な浮き彫りが、約50メートルも続いている。これは大海をかき混ぜることで湧き出て来る不死の霊液(アムリタ)を手に入れるために、88人の阿修羅と85名の神々が大マンダラ山を回転させるという話の一コマである。

 阿修羅と神々は、それぞれ、大蛇(ナーガ)を綱代わりに抱え、それを引っ張り合うことで、マンダラ山をグルグルと回転させ、大海をかき混ぜるのである。
 この綱引きを指示するのは、ヴィシュヌ神である。そのかき混ぜ作業は、千年間休みなく続けられ、海中の魚やワニは逃げまどい、やがては、大海は乳の海と化した。そして、ついに、不死の霊液が水底から湧き出て、それを取り出したヴィシュヌ神によって天高く掲げられるのである。こうして、世界の新しい始まりが告げられる。
* 壮大な天国と地獄のイメージ *
 さらに、叙事詩は続く。北側の壁面になると、20を数える様々な神々の姿が描かれているのだ。二頭立ての馬車に乗り、背後に大きな日輪をつけた太陽神スーリヤ、その上には、月の神チャンドラ、さらに、孔雀、象、水牛、ライオンなどにまたがる8体の不思議な神々の行列が続いている。これらは、東西南北を守護する方位神なのだろうか? 一説には、この神々は惑星の動きを象徴しているのだともいう。
 西の壁面に移ると、そこには、両親族が骨肉相食む壮絶な戦闘シーンが繰り広げられている。
 そこには、勇壮な行進や、軍馬や戦象に乗った兵士たちが描かれている。両軍は、壁面の中央部分で激突し、両軍相見えての肉弾戦を展開するのである。
 弓矢を放つ者、槍を振りかざす者、矢が突き刺さり死して横たわる者など熾烈な戦闘が延々と続く。
ラーマーヤナに描かれた壮絶な戦闘シーン、第一回廊西側の壁画
 南の壁面になると、天国と地獄のイメージとなる。死者が天国か地獄に選別されるのである。地獄に堕ちた者は、生前の罪に応じて、閻魔大王の前に引き出され、そこで、むち打ち、舌抜きなどの様々な責め苦を負うのである。浮き彫りには、火あぶりにされる男、阿修羅に殺される人間、磔の刑にされる男女などが描かれている。
 アンコール・ワットの回廊の壁面には、ヒンズー教の宇宙観と神々の悠久の時間が凝縮されて描かれているのである。回廊をひと回りすると、宇宙創造から分裂、カオス、地獄、消滅に至るまでの一連の流れを目にすることが出来るのだ。それは、ほとんど永遠と思われる時間をわずかな時間で疑似体験出来る空間なのである。創造の神ヴィシュヌが起きている間が宇宙の存在している時であり、眠るとともに、この世の一切合切が消滅するのである。しかし、翌朝まどろんでいたヴィシュヌが目覚めると、宇宙は再び再生される。このような、無限とも言える時の流れの繰り返しは、ヒンズー教の宇宙観でもあり、アンコール・ワットは、それを視覚化した空間ということが言えるだろう。
* 増大する隣国の脅威 *
 しかし、どうしたことかあれほど強大で繁栄を欲しいままにしたクメール王朝も、王家の内紛などから衰退の一途をたどることになる。15世紀に入ると、東のアユタヤ王朝が、次第に強大化し、クメール王国を脅かす存在になる。クメールの王は、増大するシャムの脅威から遠ざかるため、アンコールを捨てて南方に宮廷を移さねばならないほど事態はひっ迫するのである。

 その後も、シャムとベトナム双方から侵攻を受けたカンボジアは、国内の混乱から立ち直ることが出来ず、そのうち、アンコールの遺跡群は、密林の中に置き去りにされてしまうのである。そうして、アンコールワットを始め、クメールの栄光を記録した偉大な遺跡の数々は、5百年間も、忘却の彼方に追いやられてしまった。しかし、全くアンコールの遺跡が人々の記憶から忘れ去られていたというわけでもない。

 何人かのポルトガル人やイスパニア人、中国人来航者たちが、密林に埋もれたアンコール遺跡を伝え聞き、訪れたりしたことはあったようである。また、カンボジア人自身も偶然、訪れたという話も残っている。
 それは、16世紀の中頃の出来事で、カンボジアのある王が、密林奥深く象狩りに出かけた時のことだった。
 王の家来たちが、密林を切り開いていくと、果たして、壮麗な大建造物の一群にぶつかった。彼らはさらにその遺跡の中に入ろうとしたが、樹木が至る所に繁茂していたので、諦めざるを得なかった。
 しかし、それらの建造物が自分たちの祖先が建設した都に違いないと確信した彼らは、大いに喜んだということである。
アンコール・ワットの中央にそびえる65メートルの巨塔
* 無常観のただよう遺跡 *
 しかし、当時のヨーロッパ人は、そうとは考えなかった。その遺跡を建設した真の主は、誰だろうと、いろいろ詮索したようである。その結果、紀元前に、東方遠征を行ったアレクサンダー大王だという説や、ローマ帝国の領土を最大にしたトラヤヌス帝(五賢帝の一人)が、もう一つの大帝国の首都として建設したのだという説など、中には、これこそ、古代のアトランティスの首都の名残りであるという説まで飛び出し熱き論争に火をつけることになった。

 日本からも、来航者が行ったと見えて、アンコール・ワット内部の十字回廊の石柱には、墨で書かれた落書きがいくつか残されている。それは、17世紀の初め頃とされるが、長い戦国時代が終わり、徳川幕府がようやく始まった時期でもある。ここを訪れた日本人たちは、アンコール・ワットを祇園精舎だと思い込んでいたようだ。

 平家物語などで知られる祇園精舎は、紀元前6世紀に、釈迦が説法をした寺のことで、北インドのガンジス川のほとりにあった。そこで、釈迦の説法を聞いた多くの人間が、深い感銘を受けたと言われている。当時、カンボジアは天竺と呼ばれていたので、アンコールもインドの一部と思われたにちがいない。

 しかし、栄華を極め絶大な権力の象徴でもあったはずの場所が、その後、滅亡し、密林の奥深くに朽ち果てて、その挙句に、仏教の一大聖地と間違えられるのも不思議な因縁としか言いようがない。なぜならば、祇園精舎から始まる一連の名文は、「諸行無常」と「盛者必衰」という2つの仏教の無常観をうたっているからである。そこには、次のような意味が表されている。

 この世には、万物は、常に変化し、同じままであることはない。驕りたかぶる者もそれは永遠に続くわけではなく、春の夜の夢のように短いもの。どんな勇猛な者も最後には滅びていく。ただ、風の前にある塵のようなものであるということを・・・
 確かに、アンコールの遺跡は、今日、過去のカンボジアの栄光の記憶と人間に内包する悲しい運命の予感を同時に感じさせてくれる場所でもある。そこには、神々の時間が漂う反面、忌わしい内戦の記憶が混在している空間とも言えるだろう。 
 アンコール・ワットの第一回廊の壁面には、今も機関銃による掃射の弾痕が生々しく残されている。また、中回廊に安置されていた仏像60体は、当時のポルポト兵士によって、ハンマーで粉々に打ち砕かれ、石クズのように打ち捨てられている。まさに、ここには、様々な神々が集い天地創造をうたった偉大な浮き彫りと醜悪で野蛮きわまる戦争の爪痕が同居しているのである。

人間が持つ根本的な二大本能・・・創造と破壊が、こうした形で表現されているのも無常観を誘う誘因になっているのかもしれない。
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