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クレオパトラの海底宮殿
〜甦る伝説の都、クレオパトラの宮殿の謎〜
 1996年11月、衝撃的なニュースが世界中を駆け巡った。そのビッグニュースは以下の内容だった。
「アレクサンドリア沖8メートルの海底で、約2千年前のものと見られる古代エジプト、プトレマイオス朝の王宮跡を発見! 女王クレオパトラの宮殿か?」
 それはまさしく、20世紀最大の発見にも匹敵する大ニュースだった。それ以後、海底からは様々な遺跡が引き上げられた。小型のスフィンクスを始め、大小の花崗岩製の石柱、アンフォラと呼ばれる素焼きの壷の数々、指輪など金銀の製品など約1千点におよぶ品々であった。

 

* 古代世界の中心アレクサンドリア *
 今をさかのぼること、約2千年ほど前・・・かつてアレクサンダー大王が建設したとされる古代都市アレクサンドリアは、地中海の中継貿易の要として発展し、アレクサンドリアにないものはなく、あるとすれば雪ぐらいであろうとまで言われるほど、古代世界で繁栄を極めた都市であった。インドや中国などの東洋から、はるばる運ばれて来た香辛料や宝石、絹、美術品などの珍しい品々は、ここから海を渡ってローマに持たらされたのである。港には一攫千金を夢見る商人たちで毎日ごった返していた。アレクサンドリアは古代の国際都市さながらに、さまざまな民族が混じり合った都市で、その人口は憂に百万を数えたと言われている。
 アレクサンドリア市内には、市内の4分の一を占めるとまで言われた広大な王宮の他、巨大な神殿、ムセイオン(学術研究所)などがあった。とりわけこの一角につくられたアレクサンドリア図書館には、数十万巻の文献が収められており、古代世界の頭脳を集約していると言っても過言ではなかった。事実、医学、文学、天文学など世界のありとあらゆる学問がこの場所に集められていたのである。
 アレクサンドリアは、当時の著名な建築家によって設計され、ギリシアの様式にならって真っすぐで幅広の道が碁盤目状に走っていた。東の太陽門をくぐって市内に入ると、東西に走る道幅30メートルの大通りが走っていた。市の中央にはアゴラと言われる広場を始め、円形闘技場などがあった。都の北側には王宮と霊廟があり、南側には神殿や公共の建物が配置されていた。アレクサンドリアは古代世界の最も洗練されたモダンな大都市と言ってよかった。
 さらに、アレクサンドリアの内湾には、アンティロドス島という小さな小島があり、市内にあった広大な王宮の離れのような小宮殿が建てられていたという。その小島の名前の由来は定かではないが、ヘリオスの青銅像のあったロードス島を意識したものだと伝えられている。
 これよりさかのぼること2百年ほど昔、地中海を挟んで、エーゲ海の東の端にあるロードス島にはヘリオスという青銅の巨人がそびえ立っていた。
 紀元前3世紀の始めにつくられたこの巨像は、古代世界の七不思議にも数えられ、ギリシア文明のシンボル的存在であった。
 アレクサンドリアの人々は、エーゲ海のロードス島に対抗する意味で、湾内に浮かぶこの小島にアンティロドス島(ロードスに対抗するという意味)と名づけたのであろう。
 そこには、古代世界の中心はあくまで自分たちであるのだと自負するアレクサンドリア人の心のあらわれを感じ取ることが出来るようだ。
ロードス島に佇む青銅のヘルメスの巨像。高さは、実に50メートル以上もあった。
* 宮殿で過ごしたクレオパトラの熱き思い出 *
 アレクサンドリア湾の沖合い数百メートルに浮かぶ小さな島、アンティロドス島・・・そこに、かつてたたずんでいた宮殿は、女王クレオパトラの憩いの場であったとも言われている。
 水中から引き上げられた花崗岩の柱の断片などから復元された宮殿のイメージは、直線を主体とする中庭を囲む内向きの小宮殿であった。
 そこには、伝統的な左右対称性を貫く重々しい宗教的な色合いはない。
 厳格な基壇もないその宮殿は、くつろぎと安らぎを与える雰囲気が感じ取れるものであった。
 きっと宮殿内には、彼女を愛した二人のローマの武将、カエサルとアントニーの愛用した部屋もあったに違いない。
宮殿跡で発見された小型スフィンクスの頭部
 若き頃、まだ少女の面影を残すクレオパトラは、その部屋で時間の経つのも忘れてローマの権力者カエサルと、夜通し語りあったことだろう。そこで二人は女王と独裁者という自らの立場を忘れて、一人の女と男となり情熱にまかせて語り合ったにちがいない。
 宮殿のテラスに出て、心地よい潮風を感じながら、二人の会話は、尽きることなく続けられたはずだ。その二人のシルエットをファロスの大灯台の明かりが美しく浮き立たせる・・・
 将来のエジプトのことや、まだ行ったこともない海の彼方のローマの話など、彼女は好奇心に目をキラキラ輝かせてカエサルの言葉に耳を傾けたのだろうか。一方、カエサルの方も、クレオパトラの溢れんばかりの魅力にたちまち恋の虜にされていったのである。
 カエサル亡き後、今度は、ローマの若き護衛隊長アントニーが彼女の虜にされてしまう。妖艶とも思えるほどに女の美しさにさらに磨きがかかったクレオパトラにとって単純で無骨なアントニーを魅了することなど難しくなかったはずだ。
 彼女は、一度は挫折を味わったものの、再度、自らの夢をアントニーに托そうと決意したのである。
 しかしやがて、オクタビアヌスの陰謀によって、全ローマ市民の怒りの矛先が自分たちに向けられてしまう。
 ローマと雌雄を決するべく何百隻の艦隊を率いて出陣しようとする前夜も、クレオパトラとアントニーは、ここでしばし一夜を共にしたことであろう。
アクチウムの海戦、クレオパトラの艦隊は、ローマ艦隊を数量ではるかに上回っていたが、補給を断たれたために壊滅の憂き目を見た。
 だが、運命は彼らに味方しなかった。ローマよりも優勢と思われた大艦隊は、ローマの知将アグリッパの前にほとんど戦うことなく敗れ去った。もはや、命運の尽きかけた二人に味方する者はなく、寝返りや裏切りの連続でアントニーは寂しく自決し、誇り高き女王クレオパトラも自らを毒蛇に噛ませてアントニーの後を追ったのである。
* ストラボンの見たアレクサンドリア *
 クレオパトラが死んで数年ほど経った頃、地理学者だったストラボンは、アレクサンドリアを訪れたが、この時、詳細な様子を残している。
「地中海から湾口にさしかかっていくと、やがて、右手にファロスの大灯台が見えてくる。その高さは130メートル以上もあり、その光は、沖合50キロ手前からでも仰ぎ見ることができるものであった」
「さらに近づくにつれ、その巨大な灯台の全容が明らかになってくる」
「灯台は三層の白大理石製の構造物から成り立っており、一辺36メートルもある正方形の建物のフロアには無数の彫像や柱が所狭しと立ち並んでいるのが見える」
「そして、その上には、34メートルもある八角形がそびえ立っているのである。左手にはロキアス岬が見える」
「そこには宮殿とイシスの神殿、色とりどりの小さな建物が林立している。いよいよ湾内に入っていくとアンティロドス島という小島があり、その小島にも宮殿と小さな船着き場を仰ぎ見ることが出来る・・・」
ファロス島にあった大灯台、130メートルもあり、現代の超高層ビルにも匹敵する高さだったという。
 アレクサンドリア湾は、東側からはロキアス岬が伸び、西側からはファロス島がせり出すような地形で突き出ており、その湾への入り口はわずか300メートルほどしかない。しかも、周辺には暗礁がいたるところにあることから、湾内に出入りする船にとっては危険極まりない状態であった。夜間ともなると、入港することはまず不可能に近い。事実、その周辺の海底からは座礁して沈んだと思われる古代の船の残骸、積荷であった素焼きの壷がいたるところで発見されている。こういうところから大灯台の必要性が生まれたのであろう。
 当時、ペルシアを倒すために、この地に趣いたアレクサンダー大王は、西洋と東洋の一大中継基地としての港をアレクサンドリアにつくることを考え、約1、3キロ海上にあったファロス島に堤防を築かせて本土と陸続きにした。そしてその上に、大灯台を建設する命を出したのである。建設は大王の死後も続けられ、十数年の歳月を費やして完成したと伝えられている。
* 見果てぬクレオパトラの夢 *
 ストラボンがアレクサンドリアを訪れた時は、アンティロドス島もまだ洋上に姿を見せており、古代世界の七不思議に数えられたファロスの大灯台もアレクサンドリアの海上をあまねく照らし出していた。しかし今日、アンティロドス島もファロスの大灯台も存在しない。アンティロドス島は、4世紀に起きた大地震と大津波によって海底に没し去り、ファロス大灯台の方は、8世紀後半に起きた大地震によって倒壊してしまったのだ。当時、50キロ以上の彼方の海上を照らし出したと言われるこの大灯台の光源の秘密が何だったのか? また、文献に記述されている透明な石とは何だったのか?そして、それをいかにして360度回転させ得たのかは、今では推測する以外にない。
 この大灯台の遺跡は、クレオパトラの宮殿が発見される一年ほど前に、ファロス島周辺の海底から発見されている。
 大灯台の外壁の一部とみられる巨石、装飾品や石像などが次々と発見されたのである。恐らく、8世紀の大地震によって倒壊した一部なのであろうか。
 中には40トンを越す巨石もあって、伝説にうたわれたファロスの大灯台がいかに巨大な建造物であったのかうかがい知ることが出来るものであった。
今日のファロス島の様子、崩壊した灯台の基礎を使って、15世紀につくられたカイト・ベイ要塞の建物が残されている。
 現在にいたるまで、ストラボンの記録や古代の文献などから、アレクサンドリア湾内には、これらの遺跡が沈んでいることは間違いのない事実だと思われていた。しかし、長い年月の間、どうしても見つけることが出来なかった。その第一の理由は、湾内の透明度の低さが原因だった。
 つまり湾内は、ナイル川が上流から運んでくる土砂で常に濁った状態なのである。それに加えて風向きが変われば、潮流はすぐ変りやすく、海はたちまち荒れ模様となり潜水することも出来なくなるのだ。よしんば潜ったとしても、うねりによって、海底はかき回された状態で海中は無数の浮遊物が舞い上がり一寸先も見えなくなってしまうのである。暗い海中では、強烈なライトを用いても遠くまでは照らすことは出来ない。そうした自然環境がこれまで2千年間も発見を阻んでいたのである。
 今日、GPSなどのハイテク機器の使用が、困難な条件下での発見につながることとなった。それは2千年前のベールが解き明かされ、クレオパトラが現代に蘇った瞬間のようでもあった。
 記録によれば、女王クレオパトラは、ミイラにされて埋葬されたとも伝えられている。彼女の墓がどこにあったのかは未だにわかっていない。また、彼女が最も尊敬したと言われるアレクサンダー大王の墓も発見されてはいない。いつの日か、アレクサンドリアの海底から彼女の墓が姿をあらわす日が来るのだろうか?
 クレオパトラが何よりも愛したエジプト、彼女の描いた夢は2千年の時を経て今も続いているのである・・・
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