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ポエニ戦争
〜宿敵ローマを打ち破った名将ハン二バルの足跡〜
* 古代世界の天王山 *
 紀元前3世紀の半ば、ヘレニズム世界の勝者を決める一大決戦とも呼べる戦争が起こった。地中海の覇権をかけて二つの国家がしのぎを削って激突したのである。その二つの国家とは、着々と世界制覇を目論むローマ帝国と地中海の女王と呼ばれたカルタゴであった。

 両雄は100年の長きに渡り三たび激突した。ある時はピレネーの山々を血に染めて、またある時は地中海の海上を血に染めて戦われた。1世紀に渡って繰り返されたこの戦いが、今日の世界文明に与えた影響ははかり知れないものがある。

  カルタゴはフェニキア人の植民市の一つで、紀元前9世紀の初め頃に建国されたと伝えられている。人口は最盛期には70万を数えたと言われている。商業活動は目覚ましく、数ある植民市の中でも最も活気づいていた。今日、地中海の各地の遺跡からは、カルタゴ製の銀製品が多数発見されている。カルタゴは紀元前6世紀になると、地中海全域を完璧に支配するようになった。しかもその一人舞台は約300年間も続くのである。
 しかし、カルタゴは、まもなく台頭してきた新興勢力と争わねばならなくなる。その国家は、極めて支配欲が強く、狡猾、万事において抜け目のない性格を持っていた。彼らはイタリア半島をほぼ制覇し、たちまち頭角をあらわして来た。その国家とは、言わずと知れたローマ帝国である。今や列強の一つに数えられることになったローマは、シチリア、つまり、カルタゴの支配圏にまで駒を進めて来た。ここに至り、この二つの国家は、正面きっての対決を避けることは不可能になってきた。
 ローマとカルタゴは地中海を隔てる形で対峙していた。直線距離で言えば、500キロほどである。風に乗れば当時の船で3日で行ける。地中海で向かい合った巨大な二つの帝国にとって、いずれどちらかが滅亡するまで戦うことはもはや避けられない宿命なのかもしれなかった。
* ついに両雄が激突 *
 そしてその日はやって来た。紀元前264年、シシリー島内のカルタゴの植民市にローマが干渉したことが原因で、ついに武力衝突が起こったのである。これがきっかけで、カルタゴとローマは1世紀にも渡る長き戦いに突入していくことになる。
 シチリアは、両雄にとって引くに引けぬ決戦の舞台と化した。ローマもカルタゴもこの地に、持てるすべてを注ぎ込んだ。完全なる総力戦になった。戦いはシチリア島やその周辺海域でも戦われた。それはかつてない激戦であった。約70年ほど前に行われたアレクサンダー大王の遠征ですら、これほどまでの死傷者は出なかったという。数えきれない兵士が死に、多くの市民が虐殺された。またこの間、シチリア沖で嵐に遭遇し、ローマ海軍のほとんど全部の船が難破し、一晩で兵士10万人以上が水死したという悲劇も起こっている。
 陸戦はローマの方が一枚上だったが、カルタゴには象軍団という秘密兵器があった。恐るべき威力を持つこの象の軍団は、今で言えば、超重戦車部隊というところだろうか。
 ある時など、ローマ軍がアフリカまで侵攻したことがあったが、それを迎え撃ったのは100頭以上の象軍団だった。この象軍団と遭遇したローマ軍は、象の発する体臭を感知した軍馬が恐怖で暴れ狂い、全く使い物にならなくなったと言われている。
筏に戦象を乗せて渡河するカルタゴの軍団
 また、百頭以上の象が集団となり突進するパワーは、想像を絶する破壊力があり、敵兵は驚愕しパニック状態に陥ったと言われている。結局、ローマ軍は、この戦闘では退却を余儀なくされてしまった。
 戦いは一進一退をくりかえした。しかし海軍力に勝るカルタゴの方が、やや優勢だと思われた。ローマはかつてないこの強敵に何度も辛酸を嘗めさせられていた。このままではカルタゴが、ローマ軍をシチリアから一掃することも長くないように思われた。
 その最中、ローマにとって幸運なことが起きた。シチリア沖で難破したカルタゴの軍船をほぼ無傷で手に入れたのである。それは5段櫂つきの最新型の軍船でカルタゴ海軍の主力をなす船であった。ローマは急きょ、ギリシア人造船技師の手助けのもと、わずか3か月足らずで同型の軍船を100隻以上も建造した。
 同時に、それに加えて新しい兵器も考案された。それは、敵船に肉薄して打ち込まれる可動式の桟橋であった。その先端には鉄製のカギがついており、いったん、降り下ろされると、敵船の甲板に打ち込まれて両方の船をガッチリつなぎ止めてしまうという仕掛けになっていた。
 ローマは、カルタゴの軍船に肉薄して、この可動式の桟橋を使って相手の船に引っ掛け、歩兵をなだれ込ませ白兵戦に持ち込もうと考えていた。つまり、ローマお得意の陸戦を海上でも展開しようとしたのである。こうしてローマは、海上でもカルタゴと互角に渡り合えるようになっていった。
海上での決戦の様子(第一次ポエニ戦争)
 この総力戦は24年間も続いた。さすがに双方ともに疲労の色は隠せなくなって来た。しかし、制限される兵士については、ローマの方が一枚うわてであった。イタリア周辺の同盟国より後から後から補充出来るローマ軍に対して、カルタゴの人的資源は限られていたのである。結局カルタゴは疲弊してしまい、屈辱的な和平を結ぶはめになった。
 失った代価は大きいものだった。カルタゴは、シチリア島、サルジニア島の両島を手放した上、賠償金は実に3200タラント(1タラントは金49キロ)という巨額なもので、それを20年ローンで支払うというものであった。
* 第二次ポエニ戦争 *
 その後23年間、小康状態が続いた。重税を課せられたカルタゴであったが、賠償金を返済しながらも、国力は着実に回復軌道に乗せていた。そして紀元前219年、復讐を誓うカルタゴは再びローマに挑戦状をたたきつけたのであった。この時、カルタゴに一人の偉大な将軍があらわれた。人は彼をカルタゴの救世主と呼び、ある人は獅子の子と呼んだ。その将軍は、雪をいただくピレネー山脈の山々を越え、アルプスの野を駆け巡り、数々の死闘を繰り返して、ローマ帝国を滅亡一歩手前にまで追い込んだのである。その偉大な人物こそ、名将ハンニバルその人であった。
 ハンニバルは9才の時、父ハミルカルとともに、スペインに渡っている。その理由として、ローマ攻略の拠点をつくるつもりだったとか、アフリカに勢力対立の構図が出来上がっていて、それから逃れるためだったとか、スペインの地にカルタゴ人の第二の故郷をつくるつもりだったとか、いろいろと言われる。
 しかし、この地にはカルタゴ本国にとってプラスになる要素が揃っていた。この地方には、金、銀、スズが大量に眠っていたのである。カルタゴは、この地で産出されるこれらの資源で、ローマの賠償にあてていく一方、20年後には、再び、強大な経済力を持って甦ることになるのである。
ハンニバル(BC247〜BC183)カルタゴの生んだ偉大な名将
 スペイン、アンダルシア地方を支配するにあたり、ハミルカルは、スペイン地方の領主と婚姻政策を行い関係を密にしていった。ハミルカル自身も土着の領主の娘を娶っている。それは、まるでペルシアにおけるアレクサンダー大王のようだった。さらに、首都を設けると、そこには王宮も建てられた。その首都は、カルタゴ・ノバ(新カルタゴ)と名づけられた。
 賠償金支払いと言う名目で、カルタゴのスペインにおける活動を黙認して来たローマ帝国だったが、わずかな期間で再び強大化してきたカルタゴに脅威を感じ始めていた。そこで、ローマから使者がスペインに向けて使わされた。このローマからの使者は次のような条約を締結させようとカルタゴ側に迫ってきた。
 まず条約には、エブロ河より東に立ち入ることはまかりならぬとあった。さらに、この河の南に位置するサグントウムの町を侵略してはならぬという条項も盛り込まれていた。サムントウムという町は、険しい丘の上に建てられた要塞都市でローマ帝国の保護下にあった。この町は、カルタゴ勢力と境を接する位置にあることから、両雄が再び相見えるとすれば、まっ先に攻撃される恐れがあった。つまりローマは、この町を敵勢力に対する最前線基地と見なしていたのであろう。しかし、この条約はわずか6年後に破られることになる。サグントウムの町を攻撃したハンニバルの大軍は、エブロ河を渡って東進を続け、両雄が再び激突するからである。
 サグントウムの町を陥落させたカルタゴ軍は、その数カ月後には、フランス南部アルル地方にまで到達した。ハンニバルの戦力は歩兵3万8千、騎兵8千ほどで、これに37頭の象軍団が加わっていた。さらにローヌ河を渡河することに成功した軍団は、北方からローマを攻略すべくアルプス山脈に進路を向けたのであった。いよいよハンニバルにとって、アルプス越えという正念場を迎えることになる。
* 痛恨のアルプス越え *
 しかし、アルプス越えは想像を絶するほどひどいものだった。特に37頭の象には過酷過ぎる行軍だった。8月とは言え、2千メートルを越す高所ともなると、夜の冷え込みが限りなく厳しい。
 固くなった万年雪に舞う吹雪は、肌に突き刺すような痛みを伴った。凍てつくような寒さが彼らを襲い、疲労と空腹により多くの兵士が脱落していった。行軍中、狭い山道を踏み外し、多くの兵士が馬もろとも断末魔の叫びを残して落ちていくこともあった。
 その上、敵対する山岳部族の襲撃が、それに追い討ちを駆けた。彼らは、山頂より巨石を投げ落としては、ハン二バルの軍勢に多大な損害を与えたのである。
 結局、この過酷な行軍は、15日間にも及び、アルプスを越えることが出来たのは2万の歩兵と6千の騎兵だけだった。
アルプス越えをするハン二バルの軍団、遠くでは、象が足を踏み外して落下してゆくのが見える。
当初、出発した時に比べると、4割強が失われたことになる。象軍団に関しては、半数近くがアルプスを越えることは出来なかった。しかし反面、この苦しい環境を乗り越えた彼らの心には、不撓不屈の精神がみなぎっていた。しかも、ハンニバルの行軍中の毅然とした態度は、兵士の確固たる信頼を勝ち得ることにもなった。彼はカルタゴ将兵の心をしっかりと掌握していたのである。
 こうして、アルプス山中を見事突破したハンニバルの大軍は、9月になる頃には、ついにイタリア平原にその雄姿をあらわした。今や百戦錬磨と化した屈強の軍団は、再び、進撃を開始した。目指すは宿敵ローマ帝国の心臓部である。
* 動揺する元老院 *
 ローマは、ハンニバルの意外な作戦に度胆を抜かれた。ローマ元老院に動揺の色が走る。海からの敵ばかりに気を取られていたローマ帝国は、思いもかけぬ方向からの奇襲に浮き足立った。まさか、断崖絶壁のアルプス山脈を乗り越え、過酷な環境をものともせず、大軍団が迫って来るなど、予想すらしていなかったのだ。そのローマの腹づもりを見抜いたのか、ハンニバルの軍勢は、裏をかくように背後から攻撃してきたのであった。しかも、この神出鬼没の軍団は、その後、16年間もカンパニア(中部イタリア)の地に留まり、ローマ帝国の脅威になり続けるのである。
 12月も終わりになる頃、ハン二バルの軍勢は、ポー河を渡り、トレビア河畔にまで進撃していた。一方、ローマの方も手をこまねいてはいたわけではなかった。シシリーからの援軍を呼び寄せると着々と迎え討つ準備を進めていたのである。今やローマ軍は、歩兵、騎兵合わせて4万ほどにまでにふくれあがっていた。両軍の兵力は、ほぼ同じくらいで、トレビア河を挟んで対峙する形で布陣していた。
 氷雨の降りしきる夜明け前に、ハンニバルが行動を開始した、騎兵の一部を渡河させたのである。しかし、これはローマ軍を誘い出す囮であった。彼らローマ軍に、冷たい河を渡らせて、騎兵が思う存分活躍出来る広い平原に誘導しようとしたのである。
 思惑通り、ローマ軍はこれに襲いかかって来た。ハンニバルの騎兵は、あえて戦わず後退する。ローマ軍は勢いに乗じて河を渡って来た。勇み足で渡河したローマ軍だったが、待ち構えていたハンニバルの歩兵が剣を振りかざして襲いかかった。意表を突かれたローマ軍は、押し返されて対岸の本体に援軍を要請した。こうして結局、ローマ全軍が氷のようなトレビア河を渡って来ることになった。ここに、ハンニバルの誘導戦術は的中した。
 最初のうちは、ローマ軍が優勢だった。ハン二バルの歩兵は、次第に押され戦列が乱れ出した。その時、ローマ兵の背後の暗闇から騎兵が襲いかかって来た。これこそハンニバルが待ち望んでいた瞬間であった。
トレビアの戦闘
BC 218年、12月
 彼は、その前夜、2千名の精鋭部隊を夜陰に乗じて南の峰に待機させていたのである。ローマ軍は、突然の背後からの攻撃に慌てふためいてしまった。まもなく、両翼の騎兵もローマ軍を包囲する形となり、三方を囲まれたローマ軍は大混乱に陥った。霧が出て氷雨がますます激しくなる中、ついにローマ軍は算を乱して敗走し出した。
 こうして、トレビアの戦闘は、ハンニバルの一方的勝利に終わった。ローマ軍を撃退したハンニバルはさらなる南下を続ける。一方ローマは、この時点では敗戦にもかかわらず、さほど沈痛な雰囲気に包まれていなかった。敗因を雪と霧によるものだと分析したのもその一つであった。さらにスペインでは、ローマ軍がカルタゴの守備軍を破っていたし、シシリー沖では、ローマ艦隊がカルタゴの艦隊を打ち負かしたという吉報が続々と入り、この敗戦を帳消しにしたからであった。
 それから半年後、アペニン山地の南下を続けたハンニバルの軍勢は、中部イタリア付近に布陣していた。ここはローマより百数十キロほど離れた地点で、言わば、ローマ帝国の玄関先にあたる。トレビアで敗北を帰したローマは、軍団の立て直しを行い、この場所で、ハンニバルの軍勢を迎え討とうと考えていた。次ぎなる戦場はトラシメヌス湖畔に決まった。
 この湖は、北岸の峡谷に長さ9キロほどの道路が一本走り、背後に山が迫っている。周囲は森で鬱蒼としている場所である。戦闘は、6月のある夜明け前に始まった。その日は、朝から霧が深く立ち込めていた。
 カルタゴの後衛だと思ったローマ軍は、それを追撃するかのように峡谷沿いに走る道を入って来たのである。ローマはまたしても、ハンニバルの陽動戦術に引っ掛かってしまった。攻撃命令が下る。満を持したカルタゴ軍が高みから襲いかかった。
 弓矢が雨あられと放たれ、次いで、歩兵が剣を振りかざして突進して来る。薮から棒の攻撃に、ローマ軍は、慌てふためいた。細い道に伸びきった彼らは、戦闘隊形をとることすら出来ない。
トラシメヌス湖畔の戦い
BC 217年6月
 その上、深い霧のために、ローマ軍は、自軍の位置もわからず、一体どの方角から攻撃を受けているのかさえもわからぬほどであった。結局、戦闘は数時間で決着した。霧が晴れ出した頃、湖畔はローマ兵の死体で埋まっていた。湖に突き落とされて溺死した兵士も数知れなかった。死んだ兵士1万5千あまり、戦死者の中には、元老院議員の遺体30体を始め、最高指揮官らしき遺体も混じっていた。ハン二バル側の損害はきわめて軽微であった。
 このトラシメヌス湖畔の敗北は、さすがにローマに深刻なダメージを与えた。惨敗の知らせが届くと、民衆の叫び声や夫を失った女の泣叫ぶ声があちこちに上がる。やがて、元老院の知らせを聞くために、民衆が続々と広場に集まって来た。壇上に立った執政官の一人は、声高らかに民衆に語りかける。敵は卑劣な手段で我が防衛網を突破した。しかし我らの守りは鉄壁である。しかし威勢のいい内容に比べ、その声は沈痛で重々しい響きに満ちていた。
* ローマの主力を破る *
 7月後半、ハンニバルは、ついにローマ帝国のふところ深く、南イタリアにまで陣を進めていた。ここで、一年近くにらみ合いが続く。危急存亡の時と見て取ったローマは、この間、戦力の立て直しに必死だった。ローマ元老院は、総力を挙げて、より抜きの最精鋭の軍団を集結させていた。あらゆる人員と物資が集められた。彼らは、ここで、ハンニバルの軍勢を止めなければ、もう後がないことを知っていたのだ。一方、ハンニバルの方も、来るべく決戦のためにローマ軍の物資貯蔵地だったカンネーを落とし陣を張る。やがて、それを追うようにローマ軍が到着して来た。
 こうして、カンネーは、両軍にとって雌雄を決する天王山の様相を帯び始めた。両陣営の距離はわずか5キロほどである。ハンニバルの手持ちは、5万人ほどであった。対するローマ軍は、8個軍団、約8万を越える大兵力であった。その中には6千の騎兵も混じっていた。これは未曾有と言っていいほど大規模で強大な戦力であった。しかも、今回、ローマ軍は、中央の主力の攻撃力を高めるために、12人の兵士の厚さで進撃させる作戦を考えていた。12人と言えば、通常の2倍の密度である。正面の幅を狭め、優勢な兵力で、カルタゴ軍の中央部に斬り込み、大穴を開けて一挙に粉砕してしまおうとしていたのである。そうすれば、敵の騎兵が背後に回り込む時間までには片がつくと考えたのであろう。ともかく、ローマとしてはトレビア戦の二の舞いは踏みたくなかったのである。
 一方、ハンニバルは、5キロ彼方で集結を続けるローマ軍の大陣営を見て、そのもくろみを見抜いていた。歩兵の大集団で中央突破を計るという戦術は、ローマお得意の伝統的お家芸であった。それに対して、彼のとるべく戦闘プランはすでに出来上がっていった。斜線陣という戦法をとることを決意したのである。つまり、両翼に主力を置き、二つの強力な翼で相手を包囲してしまい殲滅してしまう作戦である。そのため、両翼には、それぞれ大量の騎兵と重装歩兵が配置された。
 しかし、この作戦にはかなりの危険も伴っていた。もし、中央部が包囲する前に持ちこたえられずに粉砕されてしまったら? そしてもし、両翼が予定通り敵の背後に回り込めなかったら? ・・・恐らく全軍は塵じりになって、それこそ木っ端微塵に粉砕されてしまうであろう。しかし戦力的に劣るカルタゴにとっては、もはやこの作戦しか残されていなかったのだ。言うなれば、肉を切らせて骨を切る戦法しかないのである。そして数時間後には、否おうなく悲惨な敗北か勝利か、そのどちらかが決まるのである。
 8月2日の夜明け、ついに決戦の火ぶたは切られた。夏で水かさの減ったアウフィドウス河をローマ軍が渡って来た。いよいよ、剣と楯を持ったローマの重装歩兵が、ひたひたと迫って来る。両軍の距離が数十メートルにまで近付いた時、両軍の弓矢が一斉に放たれる。
 しかし、ほとんどが空を切る。それと同時にローマ軍が猛然と突撃して来る。カルタゴ軍はあえて、それを受けて立つ恰好となった。次の瞬間、ものすごい剣と剣のぶつかり合う金属音がして、兵士の怒声や鎧や楯のぶつかり合う鈍い音が上がり、砂塵が宙を舞った。戦場はたちまち恐ろしい修羅場と化した。
 ローマ軍の猛攻の前に、カルタゴの中央部は、次第に押しつぶされていく。無数の兵士が断末魔の声を上げながら地面に倒れてゆく。かつてないローマ軍の激しい攻撃ぶりに、中央部のカルタゴの兵士は、持ちこたえきれず、じりじりと後退を余儀なくされた。
カンネーの決戦
BC 216年、8月2日
 そして、ついに、多くの者が剣や楯も放り出し逃げ出そうとした。カルタゴの中央部が崩壊する兆しを見せ始めたのだ。ハンニバルは、今こそ締める時だとばかり、怖じ気づいた兵士たちに向かって懸命に励ました。ひるむな! がんばれ!もう少しだ。がんばれ!・・・ハンニバルの必死の励ましに兵士は、再び剣を握りしめ、死力を尽くしてこれに報いようとする。いったん、崩れかけたと思われた戦線は、今一度、立ち直った。しかし長くは持ちこたえられそうもない・・・
 その時、ローマ兵の背後に鋭い矢が突き刺さった。多くのローマ兵が絶叫をあげてバタバタと倒れ出した。味方の騎兵が、ついにローマ軍の背後に回り込むことに成功したのだ。
 この瞬間、立場は完全に逆転した。守勢に立たされたのはローマ側になったのである。後方をカルタゴの騎兵に囲まれたローマ軍はたちまちバラバラになりパニック状態に陥った。
 ヒュン、ヒュンといううなりをあげて、鋭い矢が風を切ってローマ兵の背中に容赦なく突き刺さっていく。断末魔の声が響き渡り、剣と楯を投げ出してローマ兵が次々と地面に折り重なってゆく。後は、勝利を確信したカルタゴ兵によるあくなき大殺戮が続けられてゆく・・・
 太陽が西に傾き、真夏の暑さもゆるんだ頃、戦いは終わっていた。
カンネーの戦い、背後からの敵に大混乱に陥ったローマ軍。
 戦場を埋め尽くしたのは、ローマ兵の屍の山であった。その数、実に5万以上。累々と横たわる屍の中には、元老院議員の死体も80体(元老院議員は600名が定員)混じっていたという。残されたローマ軍の陣営の数千の兵士も降伏した。ローマ軍の最高指揮官ファロは、50騎ほどの騎兵に守られてからくも戦場を離脱した。一方、カルタゴ軍の戦死者は5千に過ぎなかった。
 ローマはこの戦いで8つの正規軍団を失った。(ローマ帝国には約30の正規軍団がある)ローマ帝国の中でも、最精鋭を自負する最強の軍団が一つ残らず壊滅してしまったのだ。今や、ハン二バルはついにローマ帝国に勝利したのである。彼は大胆な賭けに勝った。歴史上、類例のない野戦における包囲殲滅戦の典型として、幾世紀にも称讃されるほどの完璧な勝利であった。
 夕闇の迫る中、高台に立った彼は、遠く霞がかったアペニン山脈から、ローマに続く果てしない道のりを見渡したような気がした。もはや、街道沿いに敵兵の姿はなかった。後は、一挙にローマの心臓部に進撃して、これに止めを刺すだけでよかったのだ。
* 名将スキピオの作戦 *
 その夜、将軍たちから、「一気にローマを衝くべきだ」という声が口々に上がったが、ハンニバルは、あくまで慎重だった。それはなぜか? 彼には、それなりの理由があった。奇襲するには、ローマは依然巨大であり、包囲されてもちょっとやそっとでは落ちないということを知っていたのだ。逆に、包囲したカルタゴの軍勢の補給が断たれる危険性がある。それよりも、彼は、勝利の波紋を地中海一帯に広めることの方が重要だと考えていた。同盟市の離反を誘い、反ローマ勢力の力を借り、スペインでの敵の補給路を断つこと、つまり、ローマ帝国の要所要所にくさびを打ち込もうとしていたのである。そうすれば、ローマは腐り切った老木のように、自ら崩壊を起こすはずであった。
 しかし、案に反して、ローマの同盟市の連携は揺らぎそうもなかった。しかも、スペインでは、ローマ軍にダメージを与えることが出来ず、補給路を断つために出撃したカルタゴの艦隊は、逆にローマ艦隊に痛い敗北を帰してしまっていた。確かに、ある地方では、反旗を翻してハンニバルの軍勢に加わった部族もいた。ヘレニズムの強国マケドニアがハンニバルの陣営に加わり物資面での援助を約束したことも幸いした。しかし、全体的に見れば局地的なものなのであった。大勢を動かすまでには至らないのである。ここに至り、ハンニバルの読みに狂いが生じて来た。
 反ローマ感情の強いのケルト人たちでさえ、慎重にハンニバルの動向を見守っていた。果たして、カルタゴの軍団がいつまで勝ち続けることが出来るのか? 彼らは、下手にハンニバルに着いたことで、後になって、ローマの怒りに触れるのを恐れていた。
 しかし、ローマもハンニバルの軍団を打ち破ることが出来ない。お互い近くにいながら打ち負かすことが出来ないのだ。このにらみ合いは15年の長期に及んだ。
 この時、ローマの将軍だったスキピオは、一計を案じた。優勢なローマ海軍の力を持って、今こそ、カルタゴ本国を不意打ちすれば、手薄な守備隊は、うろたえた挙句に和平に応じて来るのではないかというものだった。そして、紀元前204年、密かに3万5千の兵力で船出したスキピオは、カルタゴの北に兵力を上陸させ、カルタゴ本国を急襲したのである。
スキピオ、ローマの名将
BC 236年〜183
 ローマ軍は、周辺地域を焼き払い都市を略奪した。こうした行為は1年以上にも及んだ。その間、カルタゴ守備軍とので幾度も戦闘が起きたが、どうしてもスキピオの指揮するローマ軍に勝てない。やがて、しびれを切らしたカルタゴ市民からハンニバルを本国に呼び戻そうとする声が上がり始めた。こうして、ハンニバルは1万5千の兵を乗船させ祖国の危機を救うべく本国に戻ることにした。病人や馬、傷ついた者は残すしかない。それは9才の時、祖国を離れて以来、実に、36年ぶりの帰国だった。
 最後の決戦が行われたのは、紀元前202年の春のことだった。近郊のザマの大平原で両方の大軍が対峙していた。双方4万の兵力は、見かけは互角に見えた。しかし、その質にはかなりの違いがあった。ハンニバルの軍団は、もはや、イタリアで連戦連勝を続けた千軍万馬の兵団ではなかったのだ。
 軍団の半数以上は、臨時徴集されてきた者や傭兵で、寄せ集めの兵士だった。彼らは戦闘経験にも乏しく士気もかなり低かった。従って、信頼出来るのは、イタリアから連れて来た老精兵の1万5千のみであった。その上、何度も勝利のきっかけをつくった騎兵の精鋭もなく、今いるのは見掛けだけの騎兵だった。共にアルプス越えをして苦楽をともにし、信頼し合った部下ではなかったのである。敵に勝っている部分があるとすれば、80頭の象軍団が加わっていると言うことであろうか。
 ハンニバルの軍団は、新旧を混ぜ合わせたアンバランスな構成になっていた。従って、これまでの作戦は取れず、新しい戦術に切り替えるしかない。ハンニバルは、精鋭の手兵1万5千を後方に配置して温存させることにした。前線に2万5千の傭兵と徴集兵を置き、彼らがローマ軍とつばぜり合いを演じている間に、敵の隙を見抜き、そこに精鋭部隊を全力投入しようというのである。だが、この戦術には幾つかの懸念があった。まず、精鋭部隊を温存させる行為が傭兵たちの士気を弱めはしないか? 不信を抱いた彼らが寝返らないか? そして、ローマ軍の過酷な攻撃にどれほど持ちこたえることが出来るのか? ハンニバルの心境は穏やかならぬものがあった。
 夜明けとともに戦端が開かれた。土煙の中、ホルンのような雄叫びを上げて象軍団が突進を開始する。しかし、この突撃は空振りに終わった。象軍団の突進を計算していたローマは、各陣営を一つにまとめず、各部隊に隙間をとる陣形にしていたからである。続いて、ローマの重装歩兵が斬り掛かって来る。ものすごい金属がへしゃげるような音がした。全軍入り乱れての白兵戦となった。まもなくカルタゴの前線は押され出した。それは、予想以上に早いものであった。
 仕方なくハンニバルは、虎の子の精鋭部隊を投入することを決意した。再び、カルタゴ軍が盛り返しローマ軍を押し返す。さすがに、歴戦の勇士ぞろいだけあって、このままローマの陣営を突っ切れそうに見えた。しかし、この時、背後に、ローマの騎兵が襲いかかって来た。味方の騎兵が打ち負けたのである。すべてはカンネーの逆になった。今やカルタゴ軍は包囲されてしまったのだ。精鋭部隊は、最後まで善戦を続けたが全滅した。残りの2万も降伏する。ハンニバルは命からがら戦場を離脱した。ハンニバルの軍団を撃破したローマ軍は、一気にカルタゴに迫って来た。ローマとは違って、もはやカルタゴに後はなかった。ローマ軍が城内に突入して大略奪を始める前に停戦を受け入れるしかなかった。
 しかし、停戦の条件は、全く過酷過ぎるものであった。これ以後、カルタゴは象軍団の保有禁止を始め、アフリカ以外のいかなる領土も放棄するのである。賠償金に関しては、実に50年ローンで1万タラント。しかし今となっては、これを受け入れるしかないのだ。拒否すれば、カルタゴは滅ぼされるであろう。まもなく、港ではローマ軍によって5百隻以上の軍船が焼き払われた。立ち上るその煙は遠くからでも見渡せたという。
 一方、ハンニバルは亡命しその後、20年間、反ローマ勢力を率いて再起の機会をうかがった。シリア軍を率いてイタリアに再上陸の計画もあったが、ついに果たせず、逆にローマへの陰謀が発覚して逃げ場を失った時、自ら毒を仰いで命を断ったといわれている。その際、彼の最後の言葉が残されている。
「年老いた一人の人間の死を待ち望んでも、なかなか叶えられそうもないようだから、私の方から、ローマ人の心配を断ち、彼らの望みを満たしてやろうというのである」
 確かに、ローマ帝国を震撼させたハンニバルらしい不敵な言葉である。今日、ハンニバルを讃える声は多い。彼の生き様はこの世に命ある限り、強大でごう慢な権力に臆することなく、最後の最後まで屈することのない敢闘精神そのものであった。事実、強大なローマ帝国を向こうに回して、全地中海規模で作戦をとりつづけ、あらゆる戦いに常に勝利を収めたのである。まさにアレクサンダー大王と並び称される史上稀なる天才軍略家。だがその彼を持ってしても、運命には抗うことは出来なかった・・・
* 平和と堕落への道 *
 ハンニバルが死んで半世紀後、ローマは、条約不履行を口実にカルタゴに三度、戦争を仕掛けてきた。それは理屈も何もあったものではなかった。後顧の憂いを完全に消してしまうには、カルタゴを地上から抹殺しておきたかったのである。
 ローマ人のカルタゴへの憎しみは止まるところを知らなかった。残虐な鬼と化したローマは、カルタゴを徹底的に破壊した。都市は完全に廃虚にされ、人々はすべて奴隷として連れ去られた。
 そればかりか、未来永劫、草木一本生やさぬとばかり土地には塩を穿ったのである。まさに、それは家康が天下をとるために豊臣家を滅ぼした大阪の陣のようであった。
 こうしてローマは、最大最強のライバル、カルタゴを地上から抹殺した。
カルタゴの廃虚
 宿敵カルタゴを滅ぼし、その後、マケドニアとシリア両国をも支配下に置いたローマは、それから1世紀後には、最後に残ったヘレニズムの大国クレオパトラ女王の支配するエジプトをも滅ぼすことになる。そしてローマは世界帝国の道を歩み出すのである。

 その後、この地上に我が敵は存在せず、地中海を我らの海と称し永遠に続くと思われたローマの平和も、やがては、腐敗しきった享楽、贅沢と貧困、豊穰と飢餓、ありとあらゆる内部矛盾がまん延し、ローマ人の心を蝕んでいくのであった。

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