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邪馬台国の卑弥呼
〜神話と伝説に彩られた邪馬台国の謎〜
 かがり火のはぜる音がする。周囲には柵が巡らされていた。柵の要所要所にはかがり火が焚かれ、武装した兵士が配置されている。今、宮殿の奥深くでは、ある重大な占いがとりおこなわれようとしていた。

 白い絹の衣装をまとい、首には玉の首飾りを2重にかけた卑弥呼は、焼け焦げた骨の亀裂を食い入るように凝視していた。一瞬、張り詰めた静寂だけが過ぎ去ってゆく。すっくと立ち上がった卑弥呼は、この時代の女性としては随分背が高く雪のような白い肌をしていた。それは、彼女が大陸系北方民族の血を引いていることを如実に物語るものであった。
 やがて、彼女は大袈裟な身ぶりで天を仰いだ。類まれな霊力を秘めた彼女の脳裏に何かがよぎったのであろうか。次第に、彼女の切れ長の目は大きく見開かれ異様な輝きを帯びていく。神憑かり状態になったのだ。胸に抱かれている銅鏡が一際輝いた時、彼女の口から呪文のような言葉が次々と吐き出された。
「我ら、ともに日の祖(おおみおや)につかうるもの・・・異神(まがつかみ)の占いにはしるしもあらわさぬ・・・南に火が・・・けしきあり! 日の神の御使いにつかうるもの・・・ともにめぐれり・・・何ぞ行きて都つくらざらむ!」
 その低い声は、力強く怒りが込められているかのような響きとなって、静寂の闇の中に吸い込まれていくかのようだった。 
* 紀元3世紀ごろの日本 *
 今から1700年ほど昔、日本がようやく国家としての形をとりはじめたころ、海の向こうの中国では漢が滅び、魏、呉、蜀の三つの強国がそれぞれ覇をとなえて争ていた。世に言う三国志の時代である。つまり、ありとあらゆる知謀が駆使されて駆け引きや決戦が行われ、英雄が多数あらわれたロマン溢れる時代でもあった。
 こうした中国の動静は三国志という記録書に詳しい。その中に当時の日本の様子を描いたと思われる記述が出て来るくだりがある。その2千文字ほどの記述箇所は魏志倭人伝と呼ばれ、今日、我々はそれによってこの頃の古代日本がどのような状態にあったのかをうかがい知ることが出来るのだ。
 その頃、日本は中国側から倭(わ)と呼ばれていた。まだ漢が健在だった一世紀頃の日本は、100以上の小国に分かれひたすら牽制し合いしのぎを削っている時代であった。
 まもなく、その中で当時北九州にあった奴国(なこく)という国が頭角をあらわし、リーダー的存在になって来る。
 紀元57年、奴国は中国の強大な権力を得て後ろ楯にしようと使者を送って来た。
 それに対して、時の光武帝は、奴国を倭の代表国として認めることになる。そして、その地位を認めるものとして金の印章を送ったのであった。
 ところが、100年ほど経つと、漢は滅亡してしまい中国は三国に分裂してしまった。一方、そのあおりを受けて奴国も威光を失ってしまい、日本は再び内乱状態となってしまうのである。
1784年に志賀島(しかのしま)で発見された金印。2.3センチの正方形で重さ108グラム、純金度は95%である。
 内乱は30国に分裂して数十年の間抗争を続けた。やがて、女王卑弥呼の統治する邪馬台国が力を着けてこれらを制覇していった。3世紀の中頃、概ね内乱状態にあった国々をまとめあげた卑弥呼は、中国の三国の一つ魏に使者を送り奴隷や布を献上した。
 魏は中国北東部と朝鮮半島の一部まで勢力圏を持つ国で、地理的にも最も日本に影響力を持つ国であった。
 魏としては、当時、対立状態にあった朝鮮半島の強国高句麗(こうくり)と三国のもう一つの雄、南の呉を牽制するためにも倭の力が必要であった。
 このため、魏は、邪馬台国を倭の代表国として公認したばかりでなく、金印と銅鏡100枚という破格の待遇を送ったのであった。
魏は、邪馬台国に金印と銅鏡100枚を送った。金印を送られることは、最高級の待遇を意味していた。
 ところが、邪馬台国はすべての国々を統一しているわけではなかった。30か国中29か国までを支配下に置いてはいたが、残りの一国、狗奴国(くなこく)という国だけは、依然、服属する意志を見せず邪馬台国にことごとく敵対していたのである。つまり、女王が率いる連合と狗奴国という強力な単一国家の対立が続いていたのである。恐らく、魏としては、邪馬台国も狗奴国もともに朝貢関係にあったのだが、あえて大多数の国々をまとめあげている邪馬台国に倭の代表格の地位を与えたものと思われる。
 邪馬台国が主導する29か国は女王連合とも呼ばれ、威圧的なつながりではなく民主的な同盟形態だったようだ。女王卑弥呼はそれらの国々から共立という形で輩出された存在であった。それに対して、狗奴国という国は、男王が支配し質実剛健で強力、かなり好戦的な国家であったと考えられている。カリスマ色の強い卑弥呼主導の女王連合に比べるとだいぶ性格を異にするものであった。それは、あたかも古代ギリシアのアテネとスパルタの関係を彷佛とさせるように思えてならない。
* 邪馬台国を治める謎の女王 *
 卑弥呼は決して民衆の面前に姿をあらわすこともなく宮殿の奥深くに籠り、千人もの侍女を従える身分であった。
 宮殿は、3重に設けられた柵で囲まれており、周囲は常に武器を持った兵士で警備されていた。男は一切入ることは出来なかった。
 その宮殿の奥の部屋で祭事が行われ、神がかりとなった彼女の口から神のお告げが下されたのである。
 そのお告げは、男としてただ一人宮殿内の出入りを許可されていた彼女の弟が外部に持たらしたという。
女王卑弥呼は、宮殿の奥に籠り誰も彼女の姿を見ることは出来なかった。周囲は武器を持った兵で厳重に警備されていた・・・
 その当時の政治は占いによって万事が決められていた。つまり、骨を焼きそのひび割れや割れ具合などから、その年の収穫から祭事全般までを決めている時代であった。神がかりとなった巫女の口から出たお告げにより国のあらゆる政策が行われていたのである。
 例えば、骨がとんでもない割れ方をしたりすると、その年には飢饉が来るとか病気が流行るとか予想され大騒ぎになるのである。
 そして、山の神などを沈めるためにただちに処女が生けにえとして捧げられたり、奴隷が何十人も生き埋めにされたりするのである。
 天変地異などは、神の起こす超自然的なものと信じられている時代だったから止む終えないとも言えるが、現在の我々の考えからすると想像を絶するほどかけ離れた価値観であった。
何か決定する際には、その吉凶を知るために骨が焼かれ占いがなされた。
* 魏志倭人伝に描かれた当時の日本の様子 *
 魏志倭人伝には、その頃の倭人の生活の様子も描かれている。それによれば、男は、大人も子供も顔や体に入れ墨をしていたらしい。入れ墨は国々によって模様が異なり、その絵柄によって身分をあらわしていたようである。髪はみずら状に結って木綿の布を鉢巻きのように頭に巻いていた。
 着物は、男は幅広の布を巻き付けているだけだった。女性は貫頭衣と言って一枚の布の真ん中に穴を開けて、そこから首を出し腰のところで紐でしばっていた。男女ともに裸足であった。
 住居は竪穴式で、一つの家に10人ほどが住んでいた。恐らく、寝起きするのも一緒で大人子供の区別も男女別もなかったにちがいない。身分の高い人だけが、床の張ってある建物に住むことが出来るのである。
 一夫多妻制であったが、妻は焼きもちを焼くこともなく大変貞潔であった。
 倭人は野菜を生で食べ、竹や木の高杯に食物を盛ってそれを手で食べる。また、倭人は大変な酒好きで人々が集まると飲んで騒ぐ。
この頃の庶民の住居はこのタイプで、西日本の一部で高床式の住居が出現した程度であった。

 彼らの礼儀正しさには目の見張るものがある。目上の人には手を合わせて挨拶をする。もし、道端などで出会えば、身分の低い方は、そろそろと草むらに退いてうやうやしく両手を地につけるのだ。彼らの社会では盗みや争い事が信じられないほど少ない。・・・現在の日本から見れば、タメ息が出そうになるほど倫理観に満ちた社会なのであった。

* 魏志倭人伝に描かれてある邪馬台国の位置 *
 今日、邪馬台国がどこにあったのか古代史の最大の謎とされている。その原因は、唯一の資料である魏志倭人伝の記述があいまいだからである。指示通りに行くと、陸地を通り越して遥か南方の海上付近に行ってしまう計算となる。これではいくら何でもおかしい。そこで、方位が若干誤っているものと考えられた。つまり、約60度ほど上方に修正すればつじつまが合って来る。こうしたことを踏まえて、邪馬台国までの道のりを辿ってみることにしよう。
 倭人伝によると、朝鮮半島の帯方郡(たいほうぐん)(帯方郡は魏の支配権内にあった)から邪馬台国へ行く道のりが記されている。それによれば、日本側に面した韓国の海岸まで水行で7000里とある。最終目標の邪馬台国までは12000里ほどあるらしいので、海峡横断に3000里かかるとして、九州に上陸してから差し引き2000里ほどの旅となる。
 魏の1里は約80メートルほどなので7000里は560キロほどということになる。また、当時の中国の航行技術だと1日で300里ほど進めたらしい。つまり船だと1日で約24キロ進むことになる。それを念頭に置いて考えれば、沿岸沿いを船で航行して24日ほどで韓国の日本側の海岸に到達ということになる。
 さて、ここから、いよいよ本格的に海を渡って日本に向かうコースとなる。

 まず、南へ1000里進むと対馬に到着するとある。韓国の海岸からは、晴れていれば対馬の島影がうっすらと望めるはずだ。従って、それを見ながら漕ぎ出すことになる。
 対馬は絶海の孤島で、島民は海のものを採って生活をしているらしい。
 次いで、対馬から南へ1000里進むと壱岐(いき)に到着する。ここも、見渡す限り草木で覆われた島で、良田も少なく人々は物々交換で生計を立てねばならない。
当時の大陸と日本を結ぶ主要ルート、海峡の幅は160キロほどあり、おまけに流れも激しく、当時の航海技術だとリスクが大きかった。
 そして、壱岐からさらに南へ1000里ほど進むと末盧国(まつろこく)に到着する。いよいよ上陸することになるわけだ。
 末盧国という国は佐賀県松浦郡あたりにあったらしい。つまり、このルートが紀元3世紀頃の大陸と日本を結ぶ主要ルートだったのだ。末盧国は住居4千戸ほどで、住民は海に潜って魚や貝類を採って生活していたようだ。この末盧国を出発して東方向へ500里ほど歩けば伊都国(いとこく)に到着する。つまり40キロほど隣というわけだが、この距離は歩いて2日ほどの距離である。伊都国は千戸ほどの小さな国だ。
 さらに東へ100里ばかり歩くと奴国(なこく)に着く。約8キロ足らずということなので伊都国とは隣接している。
 この国は、2百年ほど前は、漢より倭の代表格として認められたほどの国であったが、今はそれほどの国力はなくなっている。
 しかし、2万戸の住居があったらしいから人口はかなり多いと言えるだろう。
魏志倭人伝の方位を若干60度ほど上方向に修正した上でたどると、通過国の地理的位置は上の図のように予想される。
 博多湾の入口付近にある志賀島では、漢から送られたという金印が発見されている。このことからも、この付近一帯はかつて奴国だったと断言してもいいように思う。
 この奴国を東へ出発すること100里ばかりで不弥国(ふみこく)という国に着く。この国も奴国の8キロ東に隣接していることになる。この国も千戸ばかりの伊都国と同じくらいの小国である。
 さて、いよいよ不弥国を出発するがここからは船旅となる。倭人伝によれば、南に水行20日ほど下ると投馬国に着くらしい。この投馬国には5万戸ほどの住居があるということである。しかし、邪馬台国に行くには、ここからさらに水行10日かかり、その上、さらに徒歩で1か月もかかると記されている。

 そうして、ついに邪馬台国に到着する。この国は女王連合の中心をなす国だけにさすがに人口も多く7万戸ほどの住居がある。倭人伝では、この後、残りの23か国が次々と連なっているが、名前だけの紹介がされているだけである。最後に、女王連合に敵対する謎の戦闘的な国家、狗奴国が南方に位置しているとだけ書かれている。
 以上が魏志倭人伝に書かれている邪馬台国に至るあらましである。

* 北九州説と畿内説が有力候補地 *
 さて、ここで問題なのは、投馬国に至る水行20日という記述と投馬国から水行10日、陸行1月という記述なのである。不弥国あたりまでは、どうにか行けてもそこから投馬国に行くルートはどうにでも解釈されてしまうのだ。つまり、九州東岸沿いに行くことも、また、瀬戸内海を経て本州に向かうことも考えられるからである。それと、これまでは距離を何里何里と正確に記述されていたが、ここからは、方角と日数だけの表示になっている。このことも、わかりにくくしている原因でもある。
 しかし、帯方郡から邪馬台国まで12000里と最初にうたっているので、不弥国までの地点で、すでに10700里を走破しているので、残り1300里と考えれば、距離にして100キロそこそこの圏内に邪馬台国があったことになる。例え、本州にあったとしても、到底近畿圏まで到達出来る距離ではない。
 もし、九州東岸を下った場合、投馬国は九州の北東部あたりということになり、邪馬台国の位置は、それよりやや下って大分県あたりということになってしまう。そうなると、狗奴国は、熊本県もしくは宮崎県あたりに存在していたことになる。
 しかし、一方、邪馬台国の畿内説も根強く、水行10日、陸行1か月などの表現をそのまま解釈すれば遥か大和地方まで行くことも可能となる。その場合、12000里という倭人伝の最初の記述が誤りだったと仮定せねばならない。そうなると、投馬国は中国地方あたりに存在していたことになり、狗奴国は紀伊半島の和歌山あたりということになってしまうのだ。 

 しかも、大和地方は、3世紀頃の出土品や古墳が大変多く物的証拠において候補地としては魅力のあるエリアなのである。

 このため、九州にあったとする説と畿内にあったとする説に大きく二分されることになる。

 

 その他、瀬戸内海を回らず山陰側を回るコースとか、四国を回るコースとか、あるいは筑後川を下って有明海に出るコースとかいろいろあって事態をさらにややこしいものにしている。
 中には邪馬台国や卑弥呼などもともと存在せず、中国側の捏造だとする説まで飛び出して来るありさまで真相は錯綜して収拾のつかない状態になってしまうのである。
魏志倭人伝の解釈の仕方によっては、邪馬台国の位置は九州にも大和にも存在することになる?
 つまり、仮定やら想像が入り込むことで邪馬台国の位置はどうにでも変わって来ると言えそうだ。これは、恐らく、魏の使節団が伊都国止まりで、そこから先の道順は、当時の倭人から聞くなどして書いたからとしか思えない。つまりは、又聞きの又聞きだからあやふやな記述となってしまったとしか思えないのだ。
 邪馬台国がどこにあったかを考える場合、候補地をひねり出すことは出来ても、確実にその場所だと断言するためにはそこそこの証拠が必要なのである。つまり、その場所から出土される遺跡、遺物、墳墓や副葬品の年代などが完全に合致して考古学的な裏付けがなされないといけないのだ。そう考えると、どの候補地も一長一短あるが、確実な決め手に欠くというのが現実のようである。
* 空白の4世紀に何が起こったのか? *
 さて、魏から倭の代表として認められ、金印と銅鏡百枚を送られた卑弥呼だったが、その後、どういう運命が待ち構えていたのだろう? 
 皮肉なことに、邪馬台国が魏との交渉を開始してまもなく戦雲は急を告げようとしていた。南の狗奴国が、突如、邪馬台国連合に侵略を開始したのだ。狗奴国の攻撃は執拗で激しく邪馬台国は苦戦を強いられた。たまらず、卑弥呼は魏に援軍を要請する。しかし、邪馬台国、狗奴国、双方に友好関係があった魏は、どちらかに加担することはせず、その代わりに調停をかって出るのである。その甲斐あってようやく内乱は収拾に向かって行った。
 その内乱の最中、卑弥呼は死んだ。紀元250年頃と思われている。死因はわからないが、高齢による自然死とも暗殺とも言われている。卑弥呼が亡くなると、墓として塚が築かれたと言う。それは、魏尺で百歩(140メートル)もある大きなものだったらしい。そこには、副葬品などとともに百人以上の奴隷が一緒に埋められたという。この通りだとすれば、今も卑弥呼はここで眠っていることになる。
 卑弥呼亡き後、邪馬台国には男王が立ったが人々はそれに服さず連合は分裂状態になってしまった。
 そこで卑弥呼の血筋を汲む、台与(とよ)という13才の少女を女王に立てることになった。すると、人々は服して内乱は収まった。再び平和が戻ったのだ。
 ・・・魏志倭人伝の記述はここまでだ。ここで倭に関する記述はすべて終わっている。・・・その後の史実はどうであったろうか?
女王卑弥呼は、今もどこかの古墳で人知れず眠っている?
 しかし、まもなく魏は晋(しん)によって滅ぼされてしまう運命にあった。紀元266年、そこで新しく女王の座についた台与は、魏に代わって新しく興った晋に使者を送った。ところが、これを最後に記録は途絶え、倭の歴史は闇に姿を消してしまうのである。つまり、使者を送った台与が晋よりどういう待遇を受けたのか、あるいは、邪馬台国や狗奴国が、その後どうなってしまったのかは一切わからないのだ。
 しかし、それから百年余り経った4世紀の終わり頃には、強大な統一王朝が出来上がっていたと見えて、朝鮮半島に大軍を出兵して高句麗や新羅を相手に幾度も激戦を交えたことが史実に記録されているのだ。つまり、空白の1世紀足らずの間に、何かとんでもないことが起き、強大な力を持った国家が日本に誕生したということである。それも、強力な朝鮮半島の雄、高句麗や新羅を相手に互角に戦えるほどの力を持った国家が・・・一体、この間に何が起きたのか?
 4世紀は、謎の世紀と呼ばれ、日本の古代史の中でも空白になっている時期である。中国側の資料もなく、この時期、日本の古代史がどういう状態であったのかよくわからないのだ。言わば霧がかかったぼやけた神話と伝説の時代なのである。ただ、5世紀前半には、我国初の統一王朝として、大和朝廷が成立したことが判明しているだけである。
* 神話が謎を解く鍵をにぎっている? *
 6世紀につくられた古事記や日本書紀には、神武天皇の伝説や倭建の命(やまとたけるのみこと)の神話など、国造りに関するさまざまな内容の伝承が書かれている。こうした幻想的な神話の中にも真実が含まれていると考えるなら、空白の4世紀を神話の側面から推測することが出来るかもしれない。
 神武(じんむ)天皇伝説のあらましとはこうである。国を治めるための最も適当な所はどこかと考えた天皇は、いろいろ思索した結果、東の方がよかろうという結論を得た。そこで九州の日向を出発した天皇は、まず安岐の国(広島県)へ行き、それから吉備の国(岡山県)でしばらく過ごすことにした。その後も東へ東へと進み、浪速の渡(大阪湾)を越えて旅を続けた。天皇は、東進を続けながらも暴威をふるう神々を説得し、ついに畝傍山(うねび)の山麓にある橿原の宮(奈良県かしはら市)に落ち着き、そこで国を治めることにしたという話だ。
 また倭建の命(やまとたけるのみこと)の神話は、その強く激しい気性を買われた建の命が、天皇の命を受けて、朝廷に服従せぬ未開人や神々を征伐するために東に西に忙しく奔走するという話である。建の命は、まず九州の熊襲(くまそ)の国に行く。建の命は女装して近づき、二人の主長を油断させてまんまと刺し殺すのである。次いで、都に帰る途中でも出雲の国に立ち寄り、出雲の建(いずものたける)ににせの太刀と交換させて見事討ち殺してしまう。ところが、帰るとすぐに、天皇から東方12国の蝦夷(えぞ)征伐に行けと言われるので席の暖まる暇もない。ついには、あまりの忙しさに愚痴をこぼすというストーリーである。
 こうした神話や伝説は、恐らく、4世紀中頃、大和王朝が国内統一を押し進めた事実を物語っているのではないかとも思えるのだ。
 神武天皇も倭建の命にしても想像上の人物であるが、国の取った行動が架空の英雄としてデフォルメされ擬人化されたものだとすれば理解出来る。
 こうしたことから、次のような仮説が考えられる。
 台与が女王になってまもなく南の狗奴国の大攻勢が始まり、とうとう邪馬台国連合が征服されてしまったという考え方もある。九州全土を征服した狗奴国は、今度は、その野望の矛先を朝鮮半島にも向けるのである。そうして大軍を送り高句麗と幾度か刃を交えたのである。それと平行して、本格的に国内の敵対勢力の征伐を進めるために東に東にと拠点を移していった結果、大和朝廷になったという説。
 あるいは、狗奴国との対立が続く中、執拗な狗奴国からの攻撃の矛先から逃れるために、邪馬台国が九州から海を渡って大和地方に東進したという考え方も出来る。大和に腰をすえた邪馬台国は、しばらくは九州の狗奴国(クマソ)との戦争に明け暮れるが、やがて、狗奴国を見事平定し強力な大和王権を確立するのである。
 それとは反対に、もともと大和にあった勢力が空白の1世紀の間に強大となって大和朝廷となり、九州にあった邪馬台国や狗奴国など地方勢力を次々と征服して行ったという説。この場合だと、倭建の命が滅ぼした九州の熊襲は狗奴国で、出雲の建は出雲地方の敵対勢力だったということも考えられるのだ。
 一方、畿内説をとると、邪馬台国がそのまま着実に力をつけて大和朝廷になり、その過程で全国の対抗勢力を次々と打ち負かしていったということになる。
 いずれにしても、謎に満ちた空白の4世紀は、白い霧の漂う神話と伝説の中にあり真相はベールに包まれたままだ。
 もし、こうした断片の一つ、卑弥呼が魏から送られたという金印が多くの副葬品とともにどこかの墳墓から発見されることにでもなれば、真相は一挙に解決することになるかもしれないのだ。
幻の邪馬台国の謎が解ける日は来るのだろうか?
 そうなれば、日本の古代史のみならず、ひいては、今日の日本の歴史観そのものが根底から揺り動かされるほどの大発見となるに違いない。

 伝説の都、邪馬台国は、一体、どこにあって、女王卑弥呼は今どこに眠っているのだろう? 考えれば考えるほど謎は謎を呼び、大いに好奇心をかきたてられる古代のロマンと言えよう。

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