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中国最古の王朝
〜中国最古の遺跡、殷墟と幻の夏王朝の存在〜
* 最古の中国文明発祥の地 *
 中国北部の乾燥した砂塵が舞う広大な平野をゆったりと流れる大河のほとりで、一つの文明が産声を上げようとしていた。
 後に黄河と呼ばれることになるこの大河は、遠くの山岳地帯から土砂を絶え間なく流し込んでは、下流に大量の泥土を堆積させていった。また、北方の蒙古から吹き寄せる黄色の砂塵は、何千年もの間に、何メートルもの厚みとなって大地に降り注いだ。こうした二つの自然作用によって、やがて見渡す限りの広大な大平原が出来上がっていった。そのうち、河底に積った泥土は流れを塞き止めて、時おりすさまじい氾濫を起こすようになる。水浸しになった大地はやがて水が引いて乾燥するが、また氾濫して水浸しになる。これを何回も何回も、数千年以上も繰り返すうちに豊沃で広大な平野が出来上がっていった。
 わずかな雨と肥沃な大地は作物の耕作に向いていた。大河の周辺にはさまざまな鳥類が住みつくようになった。森林には鹿が多数住みついていたし、はるか南の高地には、サイやゾウといった今はいるはずのない生き物さえ生息していた。やがて、粗末な小屋をつくって人々が住み着くようなった。人々は狩猟をしたり、ムギやキビの畑をつくって農業を営んで生活するようになる。何百年も経つうちに、集落は数を増しその規模も大きくなっていった。
 こうして、黄河文明は誕生に至ったのである。紀元前2500年頃のことである。今日我々は、その文明が世界四大文明の一つであることを知っている。ところが、中国最古の王朝が誕生するのは、それからまだ千年ほど待たねばならない。
* 高度な工芸、青銅器文明だった殷王朝 *
 1928年のこと、中国河南省黄河の流域に位置する安陽市(あんようし)の西北に、中国最古の王朝の墳墓と思われる遺跡が点在しているのが発見された。その遺跡は、今からざっと3千年ほど前のものと推定され、紀元前13世紀から紀元前10世紀頃のものと思われた。
 遺跡は王の墳墓の他、貴族のものと思われる中規模の墳墓も多数あり、さらに西方には平民たちの住居跡も発見された。
 現在、広大な敷地内に民家はなく、夜ともなると、風が吹きすさんで3千年前の亡霊が騒ぎ立てるような気味の悪い場所である。
 この遺跡は確認できる中国最古の殷王朝(いんおうちょう)(商とも言われる)の墳墓と言われ、殷墟(いんきょ)とも呼ばれている。
空から見た殷墟の様子(1930年頃)
 さて、殷の時代はどのような時代だったのだろうか? この遺跡から発見されるさまざまな出土品などからこの王朝の性格を推し量ることが出来る。まず言えることは、殷の社会は王権を頂点とする強力なピラミッド型社会であったということだ。階層は幾重にも分かれており、その底辺には戦争捕虜を主とする奴隷が最下層をなしていたと思われる。
 奴隷は戦争捕虜であることが多く、大部分が異民族であった。彼らは人間とは思われず言わば消耗品のような存在であった。ただ、工芸職人のような技術を持った者ならば稀少価値もあり、いい待遇にありつけて出世することも夢ではなかった。しかし、何の技術も持たない者にとっては悲惨であった。体に障害があって労働に適しないと見られると即座に打ち殺されるのである。人権があって不十分ながらも生活保証のある今日からは想像することも出来ない世の中なのであった。
 文化面では、出土されるさまざまな青銅器や玉石製品、土器、什器などから、殷の文明が、かなりの美意識と技術を有していたことがわかっている。つまり、大は建築土木から小は繊細な工芸品に至るまで、その後のどの時代の文明と比較してもそん色がないばかりか、それ以上の優れた文明であった。
 とりわけ、青銅器に至っては、すでに完塾の域に達していたといっても過言ではなく、まことに驚くべき水準にあった。
 青銅器の表面には、獣面文(じゅうめんもん)と言われる龍や奇怪な動物を混ぜ合わせたような抽象的な文様が一面に施こされていることが多かった。
 どの絵柄を見ても、神獣というよりは妖怪か何かのように見える。恐ろしい形相で口元は裂け、鋭い牙をむきだし、太くて長い角はぐにゃぐにゃと曲がっている・・・・見るからに恐ろし気で殺気だった雰囲気が全体に溢れているのだ。
 これは人間をはるかに超越した神々は、その容姿も想像を絶した特異なものでなければならないとする独特な宗教観によるものであったと思われる。
表面には、獣面文と言われる奇怪な紋様が所狭しと施されている。(紀元前11世紀頃のもの)
 殷の時代では、こうした青銅器が無数につくられ、中国の輝かしい青銅器文明の頂点を極めたのであった。ところが、これらの青銅器の類は日常生活で用いられることはなく、すべて祭祀の際に用いられただけであった。理由はあまりに高価であったために、実用には転用されなかったためだ。これらの青銅製品が高値の花でなくなり、農器具や日常生活品になるのはまだまだ先のことである。したがって、経済の基盤をなすものは、相変わらず木や石や骨などを加工した石器時代と同じ品物であった。
* 血も凍る殷の集団処刑 *
 しかし、文化面でこれほど集大成を見たこの王朝には意外な側面があった。それは血塗られた儀式とも言うべきなのか、おびただしい殉死者や犠牲者の人骨が見られたことである。
 殷墟はおおよそ24平方キロほどもあり、中心に王の墓と思われる墳墓があった。その周囲には千2百もの深い杭(四角い穴)が整然とうがたれており、その中にはどれもおびただしい人骨が埋められていたのである。
 それも、10体づつまとまって綺麗に並べられた状態であった。衝撃的なことに、人骨はすべて首と胴体を切り離されていたのである。
 これらの人骨は人身御供として殺された奴隷と思われるものであった。
殷墟の発掘の様子(1930年頃)
 この当時は、王が死ぬと生前仕えた衛兵や家来もこぞって殉死するのが習わしであった。死後の世界でも主人に仕えようとしたのである。その際、奴隷も有無を言わさず殉死させられたが、それは殉死というよりも、むしろ集団処刑と言った方がふさわしい内容であった。彼らに選択の余地などなく、その処刑方法はゾッとするほど残酷なものであった。
 殷墟を目の前にする時、身の毛もよだつ光景が脳裏に浮かんで来るようだ・・・
 3千年前の儀式の当日、小雨のぱらつく肌寒いその日、奴隷たちは両手を前に荒縄でしばられ、逃げられないように数珠つなぎにされて一列に並ばされていた。そして、祭祀の何がしかの祈り事が終わった頃、衛兵によって、ある坑(深い穴のこと)の場所にまで強引に引っ張られて行ったのだ。その坑の側には、大きな青竜刀を構えた斬首人がたたずんでいた。
 彼らは、そこで、まるでオートメーションの工場か何かのように、順々に首を斬り落とされ実に悲惨な殺され方をしたのである。
 次から次へと機械的に斬首していく様は、想像しただけでも血も凍る戦慄を覚えるようである。
 遊園地でジェットコースターに乗る順番を待つように、ただひたすら自分の死の瞬間が来るのを待つという心境とはいかなるものであろうか?
深い坑の底には頭部のない胴体だけの人骨が10体ずつ埋められていた!
 ある奴隷はついに自分の番が来たことを悟った。彼はそこで首を投げ出すように命令される。坑の周囲にはおびただしい血だまりが出来ている。それらを見ても、もはや何も感じない。彼の頭の中からはいかなる恐怖の感覚も消え失せているのだ。しゃがんでうなだれた瞬間、下方の深い坑の底に、すでに殺された仲間の生首が転がってるのが垣間見えたであろう。しかし、まもなく目を閉じるや否や、突然、彼の意識は途絶えたのである。彼が最後に見たものは、麻で織られた自分の粗末な衣服の切れ端と足もとの赤っぽい小砂利のまじった地面であった。3千年経った今も、彼の意識は途絶えたままだ。彼は自分が死んだことも気づかぬままに死んだのである。・・・しかし、考えようによっては、苦痛に満ちた現世からおさらば出来たのであるから、彼にとっては、この方が幸せであったと見るべきかもしれない。
* 明らかにされる殷の社会 *
 発掘品の中には、青銅製の什器や器も数多く出土しており、精緻な芸術品も含まれていた。これだけでも殷の青銅文化の水準の高さを知るには十分であった。中には、生けにえにされた人肉を煮て食したと思われる方鼎(ほうてい)という器なども出土されているが、これは呪術的な儀式として使用されたのであろう。
 武器は、青銅製の刀剣類や槍、弓などがあった。青銅器に描かれた絵柄から、当時の戦車を想像することも出来る。それによると、両側に大きな木製の車輪がついた長方形の箱に、3人ほどの青銅製の甲冑をつけた兵士が乗り込むというもので、それを二頭か四頭の馬に引かせて戦場を走らせるのである。
 乗員はそれぞれ違った役割を分担していた。まず、馬を操り戦車の操縦をする兵士が中央にいて、その左右には、槍とか弓を持った兵士がいた。
 彼らは、3人が一組となり戦車を巧みに操り、弓や槍で敵をねらい撃ったのである。戦車は戦場の花形と言ってもよく乗ることの出来たのは貴族だけであった。
 戦争では、戦車の後を軽装備の歩兵が、全力で駆け足で付き従ったと思われる。
掘り出された当時の戦車、側に2頭の馬と乗員だった兵士の遺骨がきちんと埋められていた。
 彼らは、先頭を行く戦車にやられた敵兵のとどめを刺したり、敵の戦車から落ちた敵将の首を取ったりするのが役割であった。古代の戦争では戦車と追随する十数名の歩兵が一つの単位となる。こうしたグループが何百台と群れをなして、土煙を上げてけたたましい音を響かせながら原野を駆け巡るのは実に雄大な景観でもあったろう。
 文字も使用されたことがわかっている。これらの文字は、言わば漢字の祖先ともいう文字で、それらは亀の甲羅や牛の骨などに刻まれていた。
 そのため、この文字は甲骨文字と呼ばれている。甲骨文字はこれまでに、4千以上が確認され、文字を刻んだ亀甲自体も10万個以上が発見されている。
 恐らく、占いの内容か何かがこれら獣骨や亀甲に彫られ、それらを火にくべて、その割れ方を見て吉凶を占ったと思われている。
甲骨文字、現代の漢字の起源と言われる。
* 最古の夏王朝の存在 *
 殷は中国で最古の王朝だと言われているが、それより以前に夏(か)(華ともいう)というもっと古い王朝があったと言われている。しかし、夏王朝は司馬遷(しばせん)の「史記」という文献の中にのみ語られているに過ぎず幻の王朝と見なされている。しかし、記述がかなり具体的なので実際に存在した王朝だと考えている人も多い。
 それによると、夏は禹(う)によって興った王朝で、5百年近くも続いた王朝だとされている。初代皇帝の禹は知力にすぐれた人物で、特に治水事業にその才能をいかんなく発揮した。全国各地を回って、数多くの堤防をつくり、人々の暮らしを向上させ農業生産に目覚ましい成果を上げたと伝えられている。こうして、民衆に敬われ、長期にわたって続いた夏だったが、17代目の傑王(けつおう)の時、あまりに暴虐であったために、ついに民衆の反乱が起こり、殷の湯王(とうおう)によって滅ぼされてしまったとあるのだ。つまり、史記によれば、殷は最古の王朝ではなく、夏を滅ぼして登場した王朝だったということになる。
 しかし、夏王朝については、今だに、それに相当する遺跡が発見されておらず、その存在が疑問視されているのも事実だ。5百年もの長きにわたって歴史上に実在したのならば、そこそこの遺跡が残されてもいいはずなのにそれが見当たらないのである。

 しかし、中国の古代史の研究はまだ始まったばかり。最近になって、未知の遺跡がたびたび発見されている。こうしたことを踏まえて、研究家の中には、夏は絶対に実在した王朝であると確信している人も多い。もし、殷墟ならず夏墟が黄河のほとりのどこかで発見されるということにでもなれば、中国古代史を書き替える一大発見となるに違いない。

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