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トロイの木馬伝説
〜伝説に描かれた物語の真相〜
* ギリシア神話に描かれたトロイ戦争 *
 古代ギリシアの詩人ホメロスは「イリアス」という作品で、伝説のトロイ戦争を細かく描写している。それによると物語の前半はギリシアの神々の話から始まり、後半にはトロイ城をめぐるリアルな攻防戦に終始しており、言わば、現実的描写と神話の要素が絡み合った一大叙事詩とも言える作品である。
 叙事詩によれば、トロイ戦争が起ったのは、紀元前1200年頃とされている。「イリアス」がつくられたのは紀元前9世紀頃と見なされているので、そうなると約400年ほど昔のことをホメロスは綴っていることになる。ちなみにイリアスとはギリシア人のトロイを意味する言葉である。
 端的に言えば、トロイ戦争とは一人の美女が原因で起きた事件と言えそうだ。
* 絶世の美女をめぐって *
 その女性の名はヘレンといい、父は神々の主ゼウスであった。やがて成長したヘレンは、絶世の美女となりギリシア中の王子たちに求婚されるまでになった。
 ヘレンは多くの求婚者の中からミケーネの王子メネラオスを選び、スパルタの王城に住んだ。
 当時、ミケーネはギリシアの中でも最も強力な王国であった。
スパルタの王女ヘレン、ゼウスがスパルタ王妃レダに生ませた王女。表向きは、スパルタ王の王女として育てられた。
 その頃、ギリシアのぺリオン山では神々の結婚式が行われていた。結婚式にはすべての神々が招かれたが、争いの女神エリスだけは招待されなかった。
 無視されたと知って怒ったエリスは災いの種を播くために黄金のりんごを婚宴の席上に投げ込んだのであった。
 その黄金のりんごには「最も美しい女神にこのりんごを捧げる」と描かれていた。当然、その場に居合わせた3人の女神、ヘラ、アテナ、アフロディテの間で激しい論争が巻き起こされることになった。つまり、争いの神エリスの放ったりんごは予想どうり災いの種となったのである。
 3人の女神は自分こそは、そのりんごを得るにふさわしい存在だと主張して一歩も譲ることはなかった。そして挙句に、彼女らはその判定をゼウスに迫って来たのであった。ゼウスは悪い予感が当たったとばかり尻込みをしたが、そこは全能の神ゼウスである。
 平静心を装いながら、傍にいたトロイのパリス王子に、まんまと審査員の役を押しつけうまく逃げてしまったのであった。
 かくして、パリス王子は、ゼウスの依頼を断り切れず審査する立場になってしまった。女神ヘラは自分を選んでくれれば、小アジア全土を与えようと言った。アテナはあらゆる戦での勝利を約束した。アフロディテは世界中で最も美しい女性と結婚させてあげようと言った。
 パリス王子は一途で純真な青年であった。ロマンチックで美しい女性との結婚を夢見ていた彼は、果たしてアフロディテに黄金のりんごを送ったのであった。
 虚栄心を満たされたアフロディテは、にっこりと微笑むと、嫉妬に歯ぎしりする二人の女神をしり目に、望みを叶えてあげますとばかり、パリス王子をエーゲ海の向こうのスパルタの王城内へと導いて行った。そしてそこで、パリス王子は絶世の美女ヘレンを目撃したのだった。
 ヘレンを一目見て、たちまちのぼせ上がったパリス王子は、彼女に夫と幼い娘がいることを知りつつも、自らの熱き思いを彼女に訴えざるを得なかった。一方、アフロディテはヘレンの方にも恋心を吹き込んでいたので、彼女の方もパリス王子の言うがままとなり、あまたの財宝を船に積み込むと夜陰に乗じて海に乗り出しトロイに向かっていったのであった。
* 10年越しの長期戦に *
 パリス王子とヘレンが密かにスパルタを出帆したのを知った夫のメネラオスは激怒した。さっそく、兄であるミケーネ王のアガメムノンと相談して遠征軍をトロイに送ることを決めてしまった。ギリシア全土から兵がかき集められた。軍船だけでも1000隻を下らぬ大軍団であった。やがてギリシアの大艦隊は、エーゲ海を渡りトロイの城を望見出来るほどに接近した。
 攻撃に先だって、ギリシア側は使者を送り、ヘレン返還を求めた。パリス王子はこれを固く拒否した。トロイ側はすべての城門を閉ざして城内に立てこもり防戦の構えを取った。こうしてトロイ戦争の幕は切って落とされたのである。
 それからというもの、両軍は激しい戦闘をくりかえした。ある時は戦車を駆り、あるいは白兵戦で、あるいは一騎討ちで戦われた。
 しかし、トロイの城の守りは固く、ギリシア軍はなかなかこれを落とすことは出来なかった。 
 しかも、小アジアの他の国々もトロイに味方し援軍を送ったので、戦争は激しく総力戦の様相を見せ始めた。
トロヤ戦争を描いたレリーフの一部
 こうして、戦争は長期戦となり、ついに10年目にさしかかろうとしていた。その間にギリシアの英雄は多数戦死し、一方、パリス王子も矢を胸に受けて戦死してしまった。パリス王子が亡くなると、残されたヘレンを巡って三人の弟が争い、結局、デイポボスが次の夫になっていた。争いに敗れたヘレノスという弟は、山中に逃げ延びたところをギリシア軍に捕われ、尋問の末トロイの守りの秘密を明かしてしまった。

 それによれば、トロイ城内にあるアテナ神殿には、パラディオンという像が安置されており、それが安泰である以上、トロイは絶対に陥落しないということであった。

 それを聞き出したギリシア側は夜陰に乗じて城内に侵入して、首尾よくパラディオンを盗み出してしまった。そうして、オデュセウスという知者が木馬の計を考えたのである。

 オデュセウスは、さっそく工匠たちに巨大な木馬をつくらせた。その木馬は中は空洞になっており50人の勇者が潜むことが出来る巨大なものであった。最後に彼は、木馬の外側に「故国帰還の感謝を込めてアテナ女神に捧げる」と彫らせた。
 つまり、これは盗んだパラディオンの像の代わりにギリシア軍がアテナ女神に捧げてその許しを乞うということである。例え敵方の神殿に祭られていようが、アテネ女神はギリシア人の心の拠り所であったのである。ただし、これがトロイのアテネ神殿に入れられてしまえば、トロイは不死身となってしまうので、城門を通れなくするために巨大につくったのだとスパイを使って噂を流布させることも忘れなかった。
 そうして、50人の勇士を秘めた巨大な木馬は、荒野に置き去りにされた。一方、ギリシア全軍は陣営をすべて焼き払って撤退し、夜の間に出帆し、近くの島陰に隠れて事の成りゆきを見守っていた。
 翌日、ギリシア軍が一人残らず撤退して巨大な木馬だけが、残されているのを見たトロイ側は、戦争がついに終わったと狂喜したが、この巨大な木馬を果たして城内に入れていいものか思案に暮れてしまった。
木馬を城内に引き入れるトロイ軍
 結局、噂も手伝いトロイ側はこの巨大な木馬を神殿に捧げることに決めた。総掛かりで、城門の一部を取り壊して、巨大な木馬をその日のうちに城内に引き入れてしまったのであった。

 その夜はトロイの城内では戦勝記念と城が不滅になったことを祝して盛んな響宴を催した。その夜、トロイの城兵らは、酒の酔いも手伝いぐっすり寝込んでしまった。

 頃を見計らった50人の勇士は、木馬から出るや否や行動を起こした。海上のギリシア軍には合図を送り、内側からは、すべての城門を開けたのである。

 まもなく、満を持したギリシア軍はトロイの城内になだれ込んだ。
 そうして彼らは、火を掲げて城内を駆け巡り王宮や兵舎、神殿を襲い、殺戮と略奪、破壊をほしいままにしたのである。こうして、燃えさかる業火の中でトロイは滅亡した。
 かくして、ヘレンはオデュセウスによって助け出された。メネラオスはヘレンとともに奪った財宝と数多くの捕虜を従えて、故国スパルタに向かって船出していった・・・。
トロイ落城の様子
 以上がホメロスの叙事詩「イリアス」の語るあらましである。
* 発掘されたトロイ *
 長い間、この伝説は叙事詩の中で人々に読まれ語られてはきた。しかし、誰一人としてこの話が本当にあった出来事と信ずる者はいなかった。すべて古代の吟遊詩人が豊かな想像力を駆使して描いた神話の中だけの世界だと思っていたのである。
 この叙事詩を現実の世界に変えたのは、シュリーマンという一人のドイツ人だった。彼は8才の頃、クリスマスの日に父親からプレゼントされた一冊の絵本に大感銘を受けた。
 まだ幼かったにもかかわらず彼は、絵本の中の話が実際に起きた出来事だと信じ込んだ。そして、必ずこの伝説の町トロイを発見しようと決心したのである。
ハインリッヒ・シュリーマン
 シュリーマンはその後、実業家としても、大成功を収め巨額の資産を築き上げた。また、彼は勤勉で大変な努力家だった。事業の傍ら、古代ギリシア語を始め、実に18か国語を独学によってマスターしたのだった。
 そして19世紀の後半、シュリーマンは事業で蓄えた莫大な資金に物を言わして発掘を開始、見事トロイの町を掘りあてたのであった。つまり、8才の少年の夢は実に40年後に実現したのである。かくしてシュリーマンは人々から神話を堀当てた人と呼ばれるようになった。
* 神話と現実のはざまの中で *

 発掘されたトロイの町の廃虚は9層から成り立っていた。ゆっくりと堀進んで行くに従い、業火によって大量の焼けた陶土が表れて来た。また、いたるところで、火災の跡が歴然としてきた。これは堅固なトロイの城塞が大火災を被って滅亡したことを意味するものであった。そしてまもなく、その焼けた陶土の中から、黄金の杯、銀の大がめ、黄金の王冠、腕輪、ネックレスなどといったトロイの財宝の数々が続々とあらわれて来たのであった。

 こうして伝説のトロイ戦争が神話の世界の産物ではなく、歴史上で本当に起った事件として証明されたのであった。
 しかし一方、ヘレンやパリス王子やメネラオス、オデュセウスが実在したのかどうかは不明である。
 それに、ギリシア軍が難攻不落のトロイ城を落とすために50人もの兵を潜ますことの出来る巨大な木馬を本当につくったのかどうかも定かでない。
トロイの遺跡
 史実は神話と伝説の奥深くに隠され、真相は常闇の世界をさまよっているからだ。それにしても、トロイ戦争の原因が一人の美女を巡るだけという単純なものだったのだろうか?
 紀元前12世紀頃のエーゲ海一帯には、ギリシアの海賊が横行していて小アジア沿岸の都市は、相当な略奪の被害を受けたというから、小アジアの諸都市が一致協力して、ギリシア側に対処していたといわれている。その結果、両者の間で何らかの深刻な利害対立が引き起こされ、戦争につながっていったと考えられなくもない。
 その原因が何だったかはわからないが、最終的には、トロイを中心とする小アジア連合軍とスパルタ率いるギリシア連合軍が10年越しの戦に没入していったと考えられるのだ。ただ文書記録もない時代のこと。人から人へと語り継がれる何世紀もの間に、様々に変化して神話化されていったことは多いに考えられることだ。
 しかし、今から3200年もの昔、何かとても大切なものを巡って、ギリシア軍とトロイ軍は命をかけて戦った。それが何を巡る争いだったのかは、今となっては知るよしもない。

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