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イースター島のモアイ
〜伝説を生んだ巨石像のルーツと謎を探る〜
* 不思議な巨石像 *
 イースター島は、チリの海岸より3000キロの西方の南太平洋上に位置する火山島である。この島は1722年4月6日に発見されたが、その日がイースターだったことから、この呼び名がついた。この島の周囲は58キロ、面積180平方キロである。つまり伊豆大島の約2倍程、佐渡島の4分の1程度に過ぎない。
 ところで、この島には、モアイと呼ばれる実に不思議な石像が島のあちこちに立っている。モアイ一つは平均5メートル前後、重さは4〜5トンである。中には巨大なもので、高さ20メートル、重さ50トンにもおよぶものもある。
 約230体のモアイはそれぞれ島の斜面にたたずみ、海の方角を見据えている。島の東部にある死火山ラノ・ララクの斜面には切り出し途中と思われる未完成のものまであり、それらを含めると実に千体を越す数である。これらの石像は荒削りの凹凸面で、それは石のみを用いられてつくられたと見られている。
 このモアイは、つくられた当時は石の台座にのせてあったと見られるが、今では満足な形をしているものはなく、倒れたり、土中に埋もれたままになっている。
 頭の上に高さ1.5メートルほど、直径2メートルぐらいの赤い石の帽子がかぶらされていたようだが、今では石の帽子をかぶっているものもほとんどない。 
* モアイは巨大大陸の名残? *
 さて、この不思議な石像には数多くの疑問がつきまとう。 イースター島の石像については発見以来、くまなく調査され、島のあらゆることが知らされてきたが、最も知りたいと思われることは何一つわかっていないのである。しかも、このような特徴を持った石像は、この島を除き、数千キロの地域にわたりどこにも見られない。
 まず、何の目的でこれほどおびただしい数の巨大な石像をつくったのだろうか? そして、遠く離れている唯一の石切り場からどのようにして、これらの巨大な石像を運んで来れたのか?
 それに加えて、モアイの向いている方角にも謎はつきまとう。北と東の方向を向いているモアイは一つもないのである。これはいかなる意味を持つのであろうか? そして、なぜ、これらの石像の顔の特徴がみな一様なのか? モアイ像はこの島のかつての支配者の顔を似せてつくられたのだろうか? 
 しかし、そう仮定すると石像の持つ特徴は、この島の地元の住民の顔つきとはかけ離れ過ぎている。石像はどれも耳が大きくのっぺりした顔で、額は引っ込みあごは突き出た恰好をしている。おまけにどの石像も薄い唇をすぼめて笑みを浮かべているように見えるのだ。それは、まことに不思議な表情と言うほかない。
  それに、約200体ほどのモアイが、いかなる事態に直面したのか、突然と作業が中断されて、石切り場に放棄されてしまったというのも謎である。
 このような謎の裏付けとして、この島が、かつて陥没した巨大大陸の一部ではなかったかとする説すら考え出されたこともある。
モアイの石切り場の様子
 こう考えたのはチャーチワードというイギリス人で、それによれば5万年もの昔、中部太平洋にムーという巨大な大陸が存在していたというのである。ムーは6400万人の人口を数え非常に高度な文明を持っていた。
 この広大な大陸には、見たこともないような珍しい生物がたくさんいた。不思議な羽を持った蝶や奇妙な恰好をした昆虫が多数生息していたのだ。大陸のいたるところには、広大な草原地帯があり、そこでは絶滅したはずのマストドン象が群れをなして移動を繰り返していた。また上空には、これまた聞いたこともない鳴き声を上げて飛び交う奇妙な形をした鳥が無数に舞っていたのである。全くそれは不思議な楽園のようにも思えるほどであった。
 ムー人は、高度な建築技術を有する人々であった。帝国の中心部には大きな石の神殿が無数に築かれ、あちこちに巨大な石の像やモニュメントが建てられていたのである。クモの巣のように張り巡らされた道路は、帝国の四方八方にくまなく伸びていた。それらの道路には石が敷き詰められて、少しの隙間もなく草一本はえない見事なつくりであったという。
 しかしこのムー帝国は、その絶頂期とも言える時期に、突如、滅び去る運命を背負っていた。ある日、恐ろしい天変が襲ったのだ。すべての火山が爆発し、ムー帝国全体を揺さぶると同時にものすごい地震が繰り返し起きた。多くの都市はなぎ倒され、あらゆる神殿や巨石像は崩壊した。高さ数十メートルの巨大津波が押し寄せ、6400万人の住民と数えきれない動植物を道連れにして、ムー大陸は奈落の海の底に沈んで行ったのである。
 この大陸が沈んだ後には、わずかな溶岩錐の小島がいくつか残されるだけとなり、かつてのムーの巨石文明の名残りをとどめることになった。そしてイースター島もその一つだというのである。
* 鳥人伝説と異星人説 *
 一方、この島にはまた、いつの頃からか、鳥人伝説というものが伝えられている。それによればその昔、空より鳥人の群れが舞い降りたことになっている。鳥人たちは超自然的な能力を使い、何トンもある巨石を自由自在に運んで行ったという。
 またモアイ自ら歩いて行ったともいう。そしていつの日か、鳥人たちは消え失せてしまい、残された巨石像は置き去りにされたというものである。それを物語るかのように、島の絶壁の至る所には、大きな目を持った空飛ぶ人間の彫刻が多数刻まれているのである。
 スイスの文筆家 デニケンは、島に伝わる鳥人伝説は、はるか以前に、異星人が舞い降りた証にちがいないと主張する。
 事故か何かでやむ終えず不時着した彼らは、人類がいずれ宇宙に進出した時に理解できるように、この島の地中深くに彼らの記録を保存し、目印になるように巨石像を島の周囲に配置したというのである。
 モアイが限られた空の方角に向けられているのは、異星人がどの星から飛来してきたのか知らしめるためで、その際、何十トンもある巨石を運ぶために重力を相殺する技術が用いられたのだという。こうしたことが鳥人伝説を生んだというのである。
かつてモアイの目には白色の石灰岩がはめこまれていた(復元された様子)
 したがって、デニケンによるとイースター島のモアイも世界各地に残る異星人飛来の理由を証明するためのジグソーパズルの一つに過ぎないとしているのだ。
* 永久に沈黙を続けるモアイ *
 このモアイをつくったイースター島の住民が何者でどこから来たのかは不明だが、その由来とも思える古い伝説が伝えられている。
 それによると昔、イースター島の東にはマラエレンガという広大な国があった。国王が死ぬと、二人の王子が王位を争ったが、コーという王子が勝利をおさめ、破れた方のマトア王子は一族とともに、大型カヌー2隻に分乗して新しい新天地目指して、西の海に旅立った。長い航海の末たどりついたのが今日のイースター島だったというのである。
 この伝説はノルウェーのハイエルダールによって証明され、裏づけられた。1947年、彼と5人の仲間はペルーのリマ港をいかだに乗って漂流し、約8600キロを101日かかって到達したのである。
 彼の説によると、イースター島はペルーよりの移民であり、巨石文化もペルーのインカ帝国の技術者とともに海を渡ってもたらされたというのである。極端に耳の長いモアイの像の特徴は、ペルー・インディアンの貴族の風習を連想させるとしている。
 しかし依然、疑問は残る。それはペルーとイースター島の巨石技術の根本的相違である。イースター島には文字が存在するが、ペルーには文字は存在しないのである。イースター島には石板に刻まれた象形文字が67枚存在しているが、今もって解読不可能なのである。
 この石板には、この島にまつわる歴史や宗教儀式に関する詩歌が描かれていたらしいが、19世紀に島の1000人を超える住民が奴隷として連れて行かれてしまった際、その中に数少ない解読者も混じっていたということである。結局、強制労働によってその解読出来る人間も死んでしまい石板に刻まれた象形文字を読める人間は誰一人いなくなってしまった。その後、島には天然痘がまん延して住民のほとんどは死に絶えてしまったということである。
 この象形文字が解読されることがない限り、モアイの数多くの謎を解くことは永久に不可能に違いない。
おびただしいモアイがなぜつくられたのか?
どうしてある日突然、一切の作業が中断され見捨てられたのか?
彼らにその時何が起ったのか?
モアイに繰り返し刻まれたメッセージは何だったのだろうか?  
モアイは何も語らず何世紀も沈黙を守ったままである。
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