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万里の長城
〜数百万人の人柱が眠る巨大な墓標〜
* 宇宙から見える長城 *
 万里の長城は、月から地球を見た場合、見ることの出来る唯一の人工的な建造物であると言われている。その長さは約2700キロあると言われ、これは日本列島と同じ長さに相当する。しかも、長城は、二重三重になっていて、それらをすべて加えていけば、総延長は、実に6700キロに及び、日本列島の2倍以上に相当するのである。
 確かに、それは、大蛇のうねりのごとく山から山へ、峰から峰へ、峡谷を下り河川をまたぎ、遠くの山肌にへばりつき、いかなる困難な場所をも切り開き、天も地も無視したように、はるか地平線の彼方にまで、延々と切れ目なく続いているのである。
 あたかも、広大な中国大陸を縦横に果てしなく走る、巨石でつくられたジェットコースターのようにも思えるほどである。このとてつもない代物は、文句なしに世界一の建造物であり、長城建設に使われた材料で、エジプトの大ピラミッドを30個以上も造れるのである。
 つまり、東は渤海湾の山海関(さんかいかん)に端を発し、中国本土の北辺を西に向かい、北京と大同の北方を経由して、黄河を越え、さらに陝西省の北端を南西に抜け、ここで再び黄河を渡って、そのまま北西に砂漠地帯を走り続けて、いわゆるシルクロードの玄関口と言われる敦煌(とんこう)の手前の嘉峪関(かよくかん)にまで達する途方もない大城壁と言えば少しは理解出来よう。
*国境を脅かす異民族の恐怖*
 万里の長城のルーツは、中国最古と言われる殷王朝(紀元前15世紀)にまでさかのぼる。

 その当時、黄河流域の一部を領有していたに過ぎなかった殷は、その領土が拡大するにつれて、北方異民族の脅威にさらされる危険が増え始めてきた。
 中国の北方には、匈奴、蒙古、鮮卑、女真などといわれる遊牧民族がいて、気ままに南下して来ては、繁華な都市を襲撃し、金品、食糧を強奪し、人々を虐殺し街々を焼き払ったのである。この蛮族のすさまじい略奪の波状攻撃を阻止するために、防御用の城塞を築き始めたのが長城の起源だと言われている。
 最近、湖北省や河南省からは殷王朝のものと思われる巨大な城郭の遺構が発見されている。それは、高さ10メートル、幅30メートル、頂上幅5メートルの構造を持ち、一辺の長さ2000メートルはあろうかという巨大な城郭で、1万人が毎日労働しても、20年以上はかかると思われる規模のものである。
 その事業は次の周王朝になっても受け継がれ、紀元前4世紀の春秋戦国時代になると、それぞれの国が独自に華北の辺境に城郭を築き始めた。
* 一段と強力にした始皇帝 *
 それらのまとめ役というのが、紀元前2世紀に出現した秦であろう。秦は中国全土を始めて統一した王朝で、強力な独裁政権に物を言わせて、これまで各国が造っていた城郭や城壁をつなぎ合わせて一本の防御線としたのであった。つまり、これまで破線であった城壁が一本の実線となったのである。さらに、秦は黄河に沿って、大規模な長城構築にもとりかかった。
 その一大事業を押し進めた秦の始皇帝は、異常とも思える熱意で、かなり強引とも言える方法を取りつづけた。
 始皇帝はどんな断崖、絶壁、峡谷などの困難な地形をものともせず、ひたすら西に西に城壁を建造し続けた。
 自尊心のひじょうに強い始皇帝にとって、蛮族の勝手なふるまいは許せるものではなかったのである。
 こうした長城の建造を進めるかたわら、名将蒙恬(もうてん)に、30万の大軍を与え、匈奴撃滅を命じたりもした。そして、匈奴討伐によって、あらたに領土が増えると、開拓のためと称して内地から囚人たちを労働者として多数送り込ませた。
* 身の毛もよだつ強制労働 *
 記録によると、流刑者たちは丸坊主にされ、鎖をひきずったまま何年も要塞を築き上げるべく強制労働に従事させられたらしい。その苦労たるや想像を絶するものであったと思われる。始皇帝は、さらに数十万の貧しい人々を強制的にその地に移住させたりもした。
 移住させた人々は、石切り場やれんがづくりに強制的に従事させられ、工事が進むにつれ、もっと労働力が必要になると軍隊にも剣を捨てさせて工事に従わせたという。その際、 命令を拒んだり異を唱える者あらば、問答無用で生きたまま深い杭に突き落とされ生き埋めにされていったのである。
 数百万の人々は、水も食糧もない不毛の山地や砂漠で、いつ襲って来るかもしれぬ匈奴の恐怖におびえながら、それこそ牛馬のようにこき使われたのであった。冬ともなると、零下20度にも達する堪え難い自然条件下で働かねばならず、もし逃亡して捕まろうものなら、その場で首が刎ねられるのである。
 この地獄のような環境のもとで、日に何百、何千といった人間が飢えと疲労で死んでいったが、まるでボロくずでも捨てるように建築中の城壁に投げ込まれて人柱として埋められていったのである。数キロの城壁を完成させるのに、どれだけのおびただしい人間の人柱が埋められているのか想像もつかないほどだ。

「史記」を著わした司馬遷は、このような民の苦労を顧みず無謀きわまりない工事を押し進めた始皇帝とそれを補助した名将蒙恬に対し激しい論評を加えている。
 さらに、不老不死を夢見る始皇帝は、伝説の不老不死の薬を求めて、深い谷や山などあらゆる場所に多くの人手を使って探索を命じ惜し気もなく財力を投入したりした。
 しかし、このような無鉄砲な恐怖政治が長続きもするはずがなく、十数年後に始皇帝が死ぬや否や、全国各地で農民の反乱がぼっ発し、秦は一代限りで瓦礫のごとく滅亡してしまった。
始皇帝
* ついにシルクロードまで伸ばす *
 秦の滅亡後、再び中国を統一した漢は、秦の強硬策とは打って変わって懐柔策に終始した。
 匈奴の恐ろしさ、手強さを十分思い知らされていたので、美女やあらゆる貢ぎ物を定期的に送り、匈奴の機嫌をとるという柔軟な政策に転向したわけである。しかし、そうするかたわらにも長城建設だけは絶えまなく続け、ついに敦煌から西のさい果ての地、シルクロードの玄関口と呼ばれる玉門関(ぎょくもんかん)にまで延長させたのであった。
 17世紀の明の時代になると、長城構築はさらに大規模に行われた。
 これまでの長城の修理補強だけでなく、望楼の数を増やし大砲を備え、首都北京のあたりは二重三重にして城壁をさらに高く頑丈なものとしたのである。
望楼に続く急な階段
 それは、12世紀のチンギス・ハン率いる蒙古による侵入が、いかに破壊的で恐ろしいものであるか思い知ったゆえの教訓であり、これら蛮族に対する恐怖心がさらなる長城建造のパワーとなっていったものと思われる。
 北京付近の長城は、特に頑丈で念入りに造られており、高さ9メートル、幅4.5メートル、底部9メートルもある。
 しかも、1.5メートルほどの凹凸型の城壁が、北側に向いて造られているのである。そこには、銃眼も設けられていて、下から放たれる矢を防ぎ、逆に攻撃しやすい構造になっているのだ。
北方に向けられた城壁
 そういった規模のものが累々と、それこそ無限にどこまでも続いているのである。しかし、明時代に行われたさらなる増強工事で計り知れない人間の命が失われていったのも確かであった。
* 世界で最も長い墓場 *
 かくして、これほどまでに、巨額の費用をかけ、何百万とも知れぬ人命を犠牲にして造られた万里の長城も200年後には、あっけなく北方の女真族に突破され中国全土を蹂躙されてしまう運命にあった。
 このように、おびただしい犠牲を払って造られた万里の長城であったが、現実問題として、蛮族の侵入を食い止めることは出来なかったのである。いくら頑強に建造しようが、肝心な時には役に立たず、彼ら蛮族の侵入をいとも容易く許してしまったのであった。

 万里の長城は、数百万の無念の霊が眠る世界で最も長い墓場であると見ていいだろう。


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