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ツタンカーメンの謎
〜その生い立ちと謎の死をめぐる疑惑〜
* 3300年の眠りから目覚めて *
 ツタンカーメン王の墓の発見は、世紀の一大発見であると言われている。ほとんどの人々は、無傷のままの古代エジプトのファラオの墓が、発見されることは、もはやあり得ないだろうと考えていた。
 古代エジプトには、現在わかっているだけでも、90人以上のファラオが記録されている。しかし、そのすべてが盗掘にあい、墓内のすべては持ち去られ、何も残こされていないあり様だった。このように3千年もの間、一度も盗掘にあうこともなく、封印されたままの王墓が発見されることは、考古学上の奇跡以外にあり得ない出来事だと考えられていたのである。
 しかし、1922年11月26日、その日に奇跡は起った。
 それからというもの、黄金や宝石をふんだんに使って作られた2千点を越す副葬品の数々、王のミイラを守っていた純金のマスクなど、古代エジプトの莫大な富を物語る輝くばかりの品々が続々と発見されていった。それらは、3千年もの時の隔たりを経ても、いまだ色あせることもなく、調和のとれた輝きを失っていなかった。
王墓発見時の副葬品の数々、それらは2千点以上にも及ぶ財宝の山だった・・・。
 まさしくそれは、一点一点が、財宝と呼ぶにふさわしいものだった。
青銅と金で出来た燈台、象牙と金の装飾つきの優美な腰掛け、半透明のアラバスター製の盃、象牙と金、宝石でつくられた床几、黄金のサンダルや宝石がつまった大小の宝石箱など・・・・どれ一つ取っても、目を見張る輝くばかりの品々だった。
アラバスター製の容器類
 中でも、若きツタンカーメン王と王妃アンケセナーメンが描かれている黄金の玉座は、とりわけ、最も価値あるものとされている。
宝石箱と金箔を張り詰めた厨子
純金の女神像
 玄室の奥からは、もう一つの部屋の入り口が見つかり、そこからは、全面に金が張られ、聖コブラや守護女神の像が取り囲むように配置されている大きな逗子型の箱が見つかった。
 後に、発掘者カーターは、あまりの優美さで、息が詰まりそうになったと述べている。
 この優美な箱からは、死者の内臓を納めた壷の他、2体の胎児のミイラ、・・・そして、ツタンカーメン王のミイラを納めた人形棺が安置されていた。
 人形棺は、3重の造りになっており、石英岩をくり抜いて造られた石棺によって守られていた。
黄金の王座、ツタンカーメンと王妃アンケセナーメンが描かれている
 人形棺は、どれもが素晴らしいもので、第1、第2の人形棺は、いずれも木製金張りで各所に宝石を散りばめた豪華なもので、第三の人形棺に関しては、何と輝くばかりの純金製で、重さ約1トン以上もあった。
 さらに、その下には、後に有名になった黄金のマスクを被ったツタンカーメン王のミイラが、黄金のミイラバンドに巻かれて眠っていたのである。
純金製の第三の人形棺
 この世紀の一大発見は、それまで無名だったツタンカーメンの名を、一躍世界に轟かせた。
 その結果、ツタンカーメンは、世界中で、その名を知らぬ者はいないというほど有名になったのである。
人形棺を開き調査を続けるカーター
 では3千年もの間、眠り続けたツタンカーメンとはいかなる王だったのか?
そして、王位継承にまつわる話には、どんなドラマや陰謀が秘められていたのであろうか?
* 太陽崇拝と神官団との対立 *
 ツタンカーメンは、紀元前1360年頃に即位し、18歳前後で死去した短命の王だとされている。ツタンカーメンの出生には、謎が多いが、彼の父は、アメンヘテプ3世ではなかろうかと考えられている。母親は、数多くいた名の知れぬ側室が生んだという説もあるが、事実は不明である。アメン ヘテプ3世の場合、妻だけでも12人、側室にいたっては、何しろ、300人以上もいたことになっているのである。
 ツタンカーメンの父、アメンヘテプ3世は、政治のことには関心はなく、スポーツや遊び、女性に熱をあげることが多かったようである。その頃、エジプトは古来より、多神教、アメン神を崇拝しており、神官たちの権威がすこぶる強く、ファラオの政治姿勢にも絶えず、口をはさんでくる始末だった。
 もともと、古代エジプトの神々は、動物や自然にあるものの形で表現されることが多かった。
 創造の神クヌムは、雄羊の姿をしており、墓の守護神アヌビスは、山犬の姿であり、学問の神トトは朱鷺やヒヒの姿であり、戦いの神セクメトは、ライオンであり、生命をつかさどる神ラーは太陽・・・といった案配である。それらは、頭が動物で体は人間の恰好であらわされることが多かった。
 神々に深い関係があるとされた動物は、神殿内に飼われて、豪勢な毎日を過ごしていた。
 神殿の池では、水の神ワニがのびのびと日光浴をしており、愛と歓喜の女神バステットでもある猫などは、一日中、神殿内で優雅にぶらついていたのである。
 学問の神トト
墓の守護神アヌビス
戦いの神セクメト
体は人間の女性
 そして、それら多くの神々のひとつひとつには、神話があり、それらは政治・経済の行事にも関係しており、生活慣習の細部にまで影響を及ぼしていた。それらすべてを取り仕切ることの出来る神官の権力が、増大してくるのは当然と言えた。実際、ファラオと言えども、彼らのいろんな助言、忠告には従わなくてはならなかったのである。
 もともと、そういった神官たちの民族主義的考え方が好きでなく、日頃の彼らの横暴を嫌っていた彼は、太陽神のみ信奉するという一神教をあらたにつくりあげることで、神官たちに対抗しようとした。この神は、アテン神と呼ばれ太陽の日輪を指すもので、従来の神々と違って、具体的な形を持たず抽象的な存在だった。
 彼は神官たちの反対を押し切り、豪華な王宮を建てて、一年の大半をそこで過ごすようになった。 その際、宮殿の庭には、大きな人工の池をつくって、船を浮かべ、そこで多くの美女と楽士らとともに響宴に興じる毎日であった。
 その一方、アメンヘテプ3世は自分の宗教のための神殿を建設するためには、ためらわずに工事を進めていった。そのためには、祖先のため込んだ莫大な富を消費することも辞さず、惜し気もなく、それこそ湯水のごとく使っていった。
 そうして、後世に残るカルナック神殿やナクソール神殿など大規模な建造物を国中の至るところにつくっていったのである。

 彼の王位は、80才近くで亡くなるまで、約38年間もの長きにわたり続いた。
ルクソール神殿、アメンヘテプ3世を表わした石像がある。
 後を引き継いだ末子の息子も前王の名前を受け継ぎ、アメンヘテプ4世ということになった。アメンヘテプ4世は即位時は、まだ12才の子供だったが、父の側室を妃にすることになった。妃となった女性は、彼より若干年上で、王宮では、ネフェルティティ(やってきた美女)と呼ばれていた。
 彼女は、小アジアの王国から側室として迎え入れられた王妃で、小柄ではあったが、きれいなアーモンド型の目をした美女だった。
 アメンヘテプ4世は、王位につくと、前の父王の路線を引きついだが、やがて、それ以上に強行とも思える宗教改革を押し進めることになる。
王妃ネフェルティティ
 例えば、太陽崇拝のアテン神を正式に国家神に引き上げ、従来の多神教であるアメン神を排斥しようとしたのである。そうなると、横暴な神官たちは権威を失ってしまい、あれこれ、ファラオに口出しが出来なくなってしまう。このことで、ファラオと神官たちとの対立は決定的なものになってしまった。これは3千年もの歴史を持つ従来の価値観への挑戦とも言える画期的な出来事であった。
 その後も、王はいかなる神官団の反対にも、耳を貸すことなく、次々と強行策を打ち出していった。国内の神殿や記念碑は破壊され、名前すら削り取られて消されていった。また、王は名前をアクナテンと改名したりした。アクナテンとは「アテン」、つまり太陽神に使えるしもべという意味である。
 それと平行して、ナイルの東岸にあるテル・エル・アマルナの地に新しい都をつくり、これまでのテーべから首都の変遷を断行した。このように、旧来の神々に対する排斥は容赦なく続き、ついには太陽神を信奉する自分と家族すべてを崇拝するように国民に強制してくる有り様だった。
 しかし、ここで奇妙なことが起こる。15年間、あれほど仲睦まじかった王妃ネフェルティティを王宮から追い出してしまったのである。 理由はわからない。
 そして、自分の三女と結婚したり、12才ほど年下のスメンクカラーと呼ばれる弟を身近におき、異常な愛情を示したりして、性的にも奇怪な変化を見せ始めるのである。
 これは、アクナテンが脳水腫という病気に犯されていたためと思われ、その結果、神経面や精神面に異常をきたしたのではないかと考えられている。
アテン神を崇拝する王妃ネフェルティティ
 この病気にかかると、生殖機能が衰え、上半身は痩せ衰え、一方、下半身は脂肪でむくんでいく。精神面では知能が遅れ、情緒不安定となり、何か一つのことをし始めると、ただそれだけに夢中になってしまうという傾向があるらしい。


 彼が、旧来の神々の像まで破壊して、太陽神を異常なほどにまで盲信し始めた背景には、病気が一段と進み、深刻になったためではないかと思われる節がある。

 一方、王宮を追い出されたネフェルティティは、北の宮殿で、悲痛な思いで、3人の娘と暮らし始めたが、そこには幼いツタンカーメンもいた。これはネフェルティティが密かに権力に帰り咲くことを考えて、ツタンカーメンを引き取っていたのだとされている。彼女は、アクナテンが死んだ後の後継者として、ツタンカーメンをファラオに据え付けるつもりだったのである。彼女は実に冷静で計算高い性格だった。
 この時のツタンカーメンはまだ7、8才の子供であったが、ネフェルティティにとっては、唯一希望の光のような存在だったはずである。
* 少年王ツタンカーメンの誕生 *
 それから2年経った頃、アクナテンは32才で死んだ。死因は、病気の悪化によるものとも考えられるが、詳細は不明である。アクナテンが異常に目をかけていた異母兄弟の王子スメンクカラーも、20才に満たない若さで後を追うように死んだ。
 これはネフェルティティによる毒殺説などあるが、死因はわからない。こうして、アメンホテップ3世の血を受け継ぐ息子2人が死んでしまった今、王位継承に一番近い王子は、ツタンカーメンだけになってしまったのである。
 このとき、おそらくネフェルティティは、思い通りになったことで内心ほくそ笑んだことだろう。その時、ツタンカーメンは10才ぐらいで、ネフェルティティは35才ほどだった。
  アメンヘテプ4世
長い鼻、こけた頬、痩せこけた胸、むくんだ下半身と病気の特徴が見られる。
 また、ネフェルティティはツタンカーメンに自分の三女アンケセナーメンと結婚させて、王位に即けさせることに成功する。こうしてツタンカーメンを通じて、権力の座に再び返り咲こうとした彼女の考えは、すべて順調に進んだと思われた矢先であったが、ここでネフェルティティは37才にして不慮の死を遂げてしまった。
 理由は不明だが、彼女はアメン神復興を目指すテーべ派神官団によって暗殺されたのではないかとも考えられている。もともと小アジア出身の彼女は、エジプト伝来の多神教になじめず、強力に太陽神(アテン神)を崇拝する一神教の推進者でもあったからだ。
 ツタンカーメンが王位に即く背景には、こうした宗教改革にまつわる権力争いと政治闘争という波乱に満ちた事情があったのである。
* ツタンカーメンの謎の死 *
 こうして、アクナテン、ネフェルティティと死んでしまった今、後ろ楯を失ったアテン神は、逆に異端の神とされ急速に勢力をなくしていった。ツタンカーメンも治世3年後に、首都を元のテーべに戻し、自らも旧来の多神教、アメン神の信奉者であることを宣言した。そうして、かつて、打ち壊された神殿の修復の命令を出したりした。彼としてはこれ以上、旧来のテーべ派の神官団と対立したくなかったのである。
 かくして、3千年という長大な多神教の伝統を持つエジプトの歴史の中で、数十年というほんの短かい期間ではあったが、2代にわたる特異な宗教改革は終わりを告げた。
 しかし、そのわずかな間にも、新しい首都テル・エル・アマルナでは、独自な表現方法による新しい芸術が芽生えたりしている。
 ネフェルティティの肖像に見られるように、表情豊かな写実的な描写などは、伝統的で動きのないエジプト芸術とは一線を画しているものと言ってもよい。
 そのツタンカーメンの在位も長くは続かなかった。それから、まもなくして、紀元前1340年1月の末、ツタンカーメンは突然の死に見舞われたのである。亨年19才足らず。その在位は9年と続かなかった。
テル・エル・アマルナ芸術を代表するネフェルティティの肖像
 その死因は不明で、狩りが好きだった若き王が、猛獣を捕らえようとして事故に遭遇したというもの、また、王位を狙っていた野心家の将軍に暗殺されたとするもの、マラリアなどの病気による死亡説などあるが、すべて推測の域を出ていない。
 ただ、発見されたツタンカーメンのミイラを検証した結果、そのあまりのぜい弱な骨格などから、何らかの病気によるものではないかと考えられている。
 なにしろ、大腿骨と皮膚の間は3ミリの厚さしかなく、これはミイラと言うことを差し引いても、生前は虚弱で異常に痩せていたと思われるのである。また、脳水腫に犯されて死んだ兄のアクナテンにも見られるように病気の系統を持つ血筋だったということもその理由にあげられるだろう。
ツタンカーメン王のミイラ
* 歴史から忘れられた少年王の墓 *
 ツタンカーメンの若すぎる突然の死は、王墓が出来ていないということもあり、急きょ、大臣用に準備されていた墓を王用に変更することにして、急ピッチで葬儀の準備が行われた。夜を徹して工事が進められ、3つの人形棺や厨子が完成した時は、もう葬儀の直前になっていたという。
 こうして、あわただしく副葬品がかき集められて埋葬されたにもかかわらず、まもなくして2度の盗掘に会っている。しかし2度とも失敗して王墓は再び封印され直した。
 また、ツタンカーメンはあまりに短く、業績も多くないこともあり、歴代のファラオの名前を記したリストに名前が刻まれる事もなかった。このことがツタンカーメンの名を歴史の中から抹殺することとなった。
 やがて、時が経つにつれて、この少年王の存在は忘れられていった。ツタンカーメンの死後、230年程たった頃、この墓の上にラムセス6世の王墓づくりのための作業用の小屋が建てられたぐらいだったから、もうその頃にはこの少年王の墓の存在を知る者は誰一人いなくなっていたのであろう。
 そして、3千年という気が遠くなる時間だけが、ゆっくり経過した・・・。
 やがて、20世紀になって、ツタンカーメンの墓が発見されるのだが、まもなくして始まった相次ぐ発掘関係者の奇怪な死は、ファラオの呪いとして世界中に知れわたり、ツタンカーメンの名をさらに有名なものにした。王墓の発掘から、6年後には12人の関係者が変死し、7年後には墓を見た関係者の生き残りは2人だけということになってしまったのだ。
 偶然なのか、これほど多くの人々に不可解な死や不幸をもたらし続けた原因は、何だったのか? 本当に呪いによるものなのか? これもツタンカーメンにまつわる大きな謎の一つになっていると言えるだろう。
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