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マヤの聖なる泉
〜翼のある蛇と生けにえの泉の伝説〜
* 不思議な文明 *
 アメリカ中部、ユカタン半島にはマヤという謎に包まれた文明が存在していた。
 19世紀の中頃、探検家たちによってこの遺跡が発見され、その存在が広く世界に紹介されるようになると、この文明の持つ独自性が謎としてクローズアップされることになった。
 熱帯雨林のジャングルで発見されたマヤの遺跡には、 ある時、都市がなんらかの理由で放棄されて住民は誰一人いなくなり、突然滅亡した痕跡があったのである。これは当時、大きな謎とされ、マヤ文明は不可解な文明であると考えられてきた最大の理由でもあった。
 また、マヤ文明は天体観測に傑出した文明であることもわかった。ジャングルに建てられた天文台の円屋根には無数の穴が開けられ、特定の星々の動きを観察出来るようになっていた。彼らの知識は信じられないほど高度なもので、19世紀まで知られることがなかった海王星や天王星の存在までも知っていたと思われるのである。それに加えて、彼らマヤ人は260日を一年とする独自なカレンダーを使っていた。
 これらの事実から、マヤ人は宇宙から飛来してきた宇宙人で、ジャングルに潜んだのは、地球人との接触を恐れたためではなかろうかと考えられたこともあった。マヤ文明が突然と消えるようになくなったのは、巨大な宇宙船で宇宙に戻ったからではないかという興味本位の説まで受け入れられたのである。
* 不可解な謎 *
 今日では、マヤ文明がいきなり密林に誕生し、そしてある日突然、どこかへ消え去ったわけではなく、徐々に放棄されて、その結果、次第に密林に飲み込まれていったことが明らかになった。
 それによれば、マヤ文明は紀元前5世紀ごろ、熱帯雨林の中で開花した、言わば、密林の文明と言われている。これまでの四大文明が肥沃な大河流域で誕生したのに比べると、高温多湿の厳しい自然環境で、しかも食物供給にも乏しい密林で発展したマヤ文明は特異な存在だと考えられている。
 マヤ族は、ワシャクトゥン、ティカル、セイバルと呼ばれる地方で、神殿を中心とした宗教都市を築き上げた。その中でもマヤ地方のほぼ中心に位置するティカルの神殿都市は、5つの巨大ピラミッドを擁し、200以上の石碑、祭壇を備え、マヤ文明を代表するほどの規模を誇る大神殿都市であった。ティカルの最盛期には、約10万人の人口を有していたと思われている。
 ティカルの神殿の最大のものは、高さ70メートルにも及び、それら神殿ピラミッドの先端は密林から突き出て、遠くから見れば、あたかも樹海に浮かぶ小島のように映っていたことであろう。
 また、マヤ文明は、古代エジプト、古代中国のように、一人の王が、頂点に立って支配する中央集権体制ではなく、各神殿都市どうし横のつながりで成り立つ文明であった。ユカタン半島には、これまでに、そうした神殿都市の遺跡が大小80ほども発見されている。
 各都市間には戦争はあったようだが、それは相手を征服してその領土を奪ってしまうという性格のものではなく、むしろ生けにえの捕虜を得るための戦争と言った特徴を持っていた。従って、お互い一定数の捕虜が得られた時点で戦いは終わりになることもあった。
 メキシコ内陸部で、これらの宗教都市は、建造物の増改築をくり返して都市の規模を拡大して、その後、1千年以上の長きにわたり繁栄を続けたと見られている。
 ところがどうしたことか、マヤ族は9世紀になって、1千年以上にわたって住み慣れたこれらの密林の神殿都市を急に見捨ててしまうのである。その後は、マヤ族は中部メキシコを捨てて、ユカタン半島の北部低地帯に移動してゆくのである。
 しかも、マヤ族が最終的に移動したユカタン半島の北部は、川もなく地はやせており、農耕には不向きな土地なのであった。なぜ彼らは、急に都市を放棄してこのような場所に移住してしまったのだろうか?
 疫病が蔓延したためだとか、突然襲った天変地異が原因だとか、戦争が起きたためだとか、凶作のせいだとか・・・いろいろ考えられているが、いずれも決定的と言える理由はない。 
* 不気味な泉と翼のある蛇の伝説 *
 ユカタン半島北部は、河川のない地帯ではあったが、その代わり無数のわき水の出る場所に恵まれていた。彼らマヤ人はこれを拠り所として新たな都市づくりに励んでいった。彼らはわき水の出る場所をセノテスと呼んでいた。
 北部の地で無数の神殿都市が築かれていったが、チチェン・イッツァは、それらの中でも最も、抜きん出た存在だった。
 この地には、大きな泉が二つもあった。この二つの泉はどちらも、直径60メートル、水面までは20メートル、水の湧き出る場所は水面下20メートルの深さにあった。この二つの泉は互いに1、6キロほど離れており、あたかも隕石の衝突によって出来た穴のような恰好をしているところも同じだった。
 マヤ人は、このうちの一つをかんがい用とし、もう一つは、神聖なものとして、雨の神ユムチャクに捧げるものとした。
 確かに、こちらの泉は陰うつで、濃い緑色をした泉の底には、雨の神が住んでいてもおかしくない雰囲気を漂わせていた。
 しかも、この泉はジャングルに埋もれ、蛇、ムカデ、毒虫が多く生息する気味の悪い場所でもあった。
多くの犠牲と財宝を飲み込んだ聖なる泉。
 この聖なる泉から約400メートルほど離れた場所に彼らは神殿を建設した。この神殿はカスティーヨのピラミッドとかククルカンの神殿とか呼ばれ、高さ24メートル、底辺59メートルで9層からなる階段状のピラミッドだった。
 ククルカンとは翼のある蛇という意味で、この神殿から聖なる泉までは、石を敷き詰められた幅4メートルほどの立派な道が通っていた。
 両側には翼のある蛇の石像や心臓を食べるワシの像などが何百と立ち並び、それはさながら橋の欄干のような状態を呈していた。
 翼のある蛇の伝説は、マヤ人の間に古くから伝わるものであり、どうやら実在したかつてのユカタン地方の支配者ではなかったかと思われている。
ククルカンの神殿
 彼は実在し、生き神としてあがめられ、それを象徴したのが翼のある蛇のイメージだったのではないかと思われているのだ。
 さて、このククルカンの神殿と聖なる泉は、干ばつになった時の生けにえの儀式と深い関係があった。
人身供儀用の石像と戦士の角柱
* 雨の神にささげる生けにえの儀式 *
 ひでりが続き作物が枯れ始めると、人々は雨の神ユムチャクの怒りによるものだと考えた。そこでこの怒りを鎮めるために、14才の美しい処女が選ばれ、雨の神の花嫁として聖なる泉に投げ込まれたのである。
 その儀式が行われる時は、すべての国民はいけにえになる少女を見送るため、この場所、チチェンに集まって来たという。
 800年ほど前のある日に行われた儀式を想像してみよう。ククルカンの神殿では、花嫁衣装を身にまとったひとりの美しい少女が、きらびやかな装身具をつけ、今まさに雨の神のもとに使わされるのを待っている。
 やがて、夜明けとともに生けにえの儀式が開始された。まず、何十段もある急な石段をゆっくり下っていくと、聖なる泉に続く4百メートルほどの石畳に出る。少女はいすに腰掛けたまま、神輿をかつぐかのように若いお供連中に運ばれてゆくのである。その行列に音楽の列も加わり、太鼓の音、笛の音、雨の神を讃える歌などとともに、大勢の人々の見守る中、密林の中にある聖なる泉に向かってゆっくり行進してゆく。
 石の道が終わる頃には、回りはうっそうとしたジャングルの中に入り込んでおり、朝もやの中に聖なる泉が突如として現れ、不気味に青黒い水面をたたえている。
 そこで、すべての音楽は鳴り止み、祭司長の雨の神を敬う祈りの声だけが響きわたるのだ。
 それが、終わると、再び音楽が始まり、祭司長の合図とともに、花嫁は連れ出されるのである。
千年も前、聖なる泉の雨の神に召されるべく花嫁はこの道を通っていったのだろうか。
 泉の淵に連れていかれた少女は、6人の祭司によって前後に揺さぶられる。そのうち、太鼓の音、笛の音がクライマックスに達した瞬間、少女は6人の祭司の手によって、暗い泉の中に投げ込まれるのである。少女は、大きな弧を描いて何十メートルも落下してゆき、やがて、大きな音と水しぶきとともに不気味で暗い水中に沈んでゆくのである。それと同時に、護衛となる若者も少女の後を追うように飛び込んでいく。そして間髪なく、黄金、宝石など雨の神にささげられる貴重品が、次々とその水しぶきに向かって投げ込まれたということである。
 この身の毛もよだつ伝説は、16世紀のランダ司教によって書き記され、この話は長い間、謎とされていた。マヤ文明には絵文書なるものが多数存在していたのだが、当時のスペイン人たちは、キリスト教を広めるために、不必要と考え、これらのマヤの記録書をほとんどすべて灰にしてしまっていたのである。
 ところが、20世紀の初めになって、一人のアメリカ人エドワード・トンプソンによって、この聖なる泉にまつわる恐ろしい伝説は、実証されることになった。彼は、資金を集め、パワーシャベルをこの泉の淵に取りつけたのである。何日も作業は続けられ、シャベルは、泉の底から溜まっているものをくわえて上がってきたが、汚物と枯れ木ばかりでそれらしきものは見つからなかった。
 しかし、ある日のこと、神殿の花瓶や硬玉のかけらなどが、含まれ出し、それをきっかけに、指輪、ネックレスなどの装身具、黄金の固まり、金銀製の工芸品や数々の財宝が次々と上がってきた。
そして、最後には、この話を裏づけるかのように、青年男女の痛ましい骸骨が多数発見されたのであった・・・
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