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時に忘れられた街
〜ローマの古代都市ポンペイを襲った悲劇〜
* リゾート都市ポンペイ *
 ローマから南東に下ること約250キロ、ナポリ湾を一望出来るベスビアス火山の山ろくにポンペイはある。この地は、ことわざにもあるように、世界一風光明媚な場所として知られていた。
 そのためか、この都市は、富裕のローマ人の保養地として、貴族の別荘が多数あったことでも有名であった。周囲3キロ弱の東西に長いこの都市は、商業で大いに栄え、人口は2万人程度だったらしい。そのうち4割は奴隷で占められていた。
 ポンペイの歴史は古く、紀元前8世紀頃には存在していた。紀元前4世紀には、ローマに占領されてしまうが、紀元前1世紀頃、再度、ローマの支配を嫌って反乱を起こすも鎮圧されローマの軍門に下った過去を持っている。しかし、ローマは、ポンペイを蹂躙することはせず、この都市を寛大に扱った。市民にはローマの市民権が与えられ、自治権すら認められたのである。
 ここに至り、ポンペイはローマの植民市となり、退役した軍人や金持ち連中がローマより移り住むようになったのである。やがてポンペイの住民は、ローマからの入植者と混じり合っていった。人々には兵役の義務もなく、納税の負担もなくゆったりと豊かな平和を楽しむことが出来た。
* 退廃的なローマ文化 *

 紀元1世紀頃のローマは、シーザーの時代が終わり、帝政が始まっていた。暴君として知られるネロが、あらゆる贅沢を欲しいままにして、日夜、宴に明け暮れていた時代でもある。そして、キリスト教徒の迫害が一段と激しくなったのもこの頃である。もはや、ローマ帝国に対抗出来るいかなる勢力もこの地上には存在せず、地中海一帯を我が海と称するなど、まさに世界に冠たる大ローマ帝国のらん熟の時代でもあった。それを象徴するかのように、わずか一年後には、巨大円形闘技場コロッセウムが完成間近かに控えていた。

 貴族の生活は、たいそう贅沢で美食にうつつを抜かす毎日だった。夕方から始まるディナーでは、狭くて薄暗い寝室で各自が、ベッドで寝そべり、左ひじをつき右手で食事をするのが習わしであった。各個人が横になる場所はあらかじめ決められていた。
貴族のディナーの様子、宵の口から始まって晩遅くまで、延々と続いた。
ディナーは長い時間をかけて延々と行われた。奴隷がオードブルを皮切りに、ありとあらゆる山海の珍しいごちそうを運んでくると、夕食はいつしか宴に変わって行くことも珍しくなかった。時には、音楽が奏でられ、男女がたわむれあって、思わぬ興を添えることもあった。ローマ人は熱くしたぶどう酒を飲むのが大好きで、悪酔いした客人が奴隷に解放されている絵も残っているほどだ。
 ある宴会では、あふれんばかりのごちそうが並べられているテーブルの前で、口の中に棒や羽根を差し込み、今まで食べたごちそうを吐き散らし、胃の中を空っぽにして、また別なごちそうにかぶりつくという事が行われた。
 客の吐き散らした汚物を片付けるのは奴隷の仕事だった。
 こうした胸のむかつく悪趣味な飽食が行われる一方、その影では、貧富の差は激しく、多くの人々が飢えで死んでいく矛盾に満ちた時代でもあったのである。
宴の様子を描いた絵、右下の客は、悪酔いして奴隷に支えられている。
 すべての道はローマへと言われたように、ローマの都市はほとんどが石で鋪装されていた。
 ポンペイも例外ではなく、道路はすべて石で覆われ、整備され計画的につくられていた。
 大雨が降った時は、そのまま下水道の役割も果たした。たまった雨水は汚泥とともに、斜面をつたって近くの河や海に流れ出る仕組みになっていたのである。
ポンペイの道路、石で鋪装されて、下水道も兼ねていた。
 そして、横断歩道には、踏み石が並んでいて市民は水かさが増えても、その上を歩けば足を濡らさずに何なく渡れるようになっていた。特に金持ちの家の前の道路などはモザイクで装飾されているほどであった。
 市内には大小4つの公衆浴場があった。その隣には、アスレチッククラブのような運動をする施設が続いており、人々は、球技のようなゲームを楽しんでは、汗を流し、頃合を見計らって浴場に汗を流しに行ったのである。古代のローマ人は大変な入浴好きで、彼らは何かと言えば公衆浴場に集まってきては、一日の大半をそこで過ごしていた。そこでは、政治的な談義から、次の剣闘士の試合の予想や賭け、わい談に至るまで、実に様々な話がなされるのであった。時には、その中で宴会すら行われることもあった。まさに、公衆浴場は人々の日常生活の一部になっており、サロンのような場所でもあったのである。
 公衆浴場は、男女別に分かれており、冷水と温水と熱水があった。   
 温水は昼間太陽で暖められたものを、さらに青銅製のボイラーで湧かして各浴室に配水されるようになっていた。
 そこで人々は、しばし冷水プールにつかった後、次の温水の浴室に行き体を温めたのである。ポンペイの場合、火山のふもとにあるにも関わらず、温泉は出なかったようだ。
ローマの公衆浴場の様子、運動施設の横には、各浴室が隣接している。
 このようにポンペイに限らず、ローマの各都市は、水道や公衆浴場の施設が非常に高度に整備されていたので、個人的に浴室を持つ必要はなかった。一部の裕福な貴族だけが、贅沢なサウナつき浴室を家に備えているぐらいだった。

 しかし、こうした、清潔好きのローマ人にも、頭に湧くシラミには、ほとほと手を焼いていた。上流階級から一般人まで、ほとんどすべての人が、共通して頭のシラミに悩んでいたようだ。ポンペイで発見された遺体の多くには、あまりの痒さに、我慢出来ずに、頭皮を掻きむしった炎症の跡が生々しく残されていたのである。

 性愛も大ぴらに行われたらしく、特にローマの影響を直接受けるようになると、とみに退廃の色が濃くなってきた。人妻の浮気など、もはや珍しくも何ともなく、男たちの浮気も公然と行われていた。売春宿は、街の真ん中の目立つ所にあって、客を誘う女たちの嬌声が、昼間から響き渡っていた。発見された娼家の跡からは、ギリシアの女奴隷が、わずかワイン2杯分という安い値段で商売をしていた記録も残っている。
* ローマ人の残酷な娯楽 *
 ポンペイには、娯楽施設として、二つの劇場と円形闘技場があった。
 劇場では、音楽の演奏会や詩の朗読、ギリシアの劇などが上演された。
 とりわけ、マリオネットのような道化芝居がよく上演され人々の笑いを誘っていたが、上演内容によっては、効果をいっそう高めるために、死刑囚を使い、舞台上で実際に殺される場合もあったという。
ポンペイの野外劇場、5千人ほど収容出来た。
 円形闘技場では、残酷さを売り物とする異常なショーが催される場所で、人々の関心が一番高い施設だったと言える。
 休日ともなると、人々は、朝早くからこぞってつめかけた。
 そこでは、剣闘士や猛獣などの対決が次々と行われ、大量の血が流されるのであった。
投網剣闘士が、かぶっていた魚型の兜
 飢えたライオンが、気が狂ったように剣闘士に飛びかかって行く光景を興奮状態になった観衆がはやし立てる様子は、もはや、どう見ても正常とは考えられず、ローマ文化の退廃とらん熟の精神をそこに見たと言っても過言ではないだろう。
 こうした、ローマ文化の絢爛豪華とも言える最中に、ポンペイは、神の摂理のままに滅び、永久にこの地上から姿を消す運命を背負っていた。しかし、それは、奢りたかぶった人々への神の怒りの鉄槌というべきものかもしれなかった。
* 不吉な前兆 *
 この古代都市には、数日前から恐ろしい滅亡の時を予感させる予兆とも言える地震がひっきりなしに続いていた。しかし、多くのポンペイ市民は、そのうち治まるだろうと楽観的にしか考えていなかった。ベスビアス火山は定期的に活動を開始しては治まるのが常だったからである。それが証拠に、15年ほど前の活動による大地震の被害にしても、今はすっかり修復されて、街は以前よりも立派になっていたのである。もはや、人々の心の中からは当時の噴火の恐怖は忘れられていた。

 また、この火山の火口は、剣奴であったスパルタクスが一時逃げ込んだことでも知られていた。彼に率いられた剣奴の反乱は、ローマ帝国に深刻な厄害を与えるも、2年後に鎮圧され、数万の奴隷はアッピア街道沿いに磔にされて無惨な最後を遂げた。その奴隷たちの怨念よるものか10年後に、この火山は大爆発を起こし、ポンペイ始め、周辺の都市を道連れにしてこの世の地獄を現出することになるのである。
 このわずか標高1300メートルに満たない山が、ポンペイの街を死の灰によって埋め尽くすのである。ベスビアス山の頂上付近から延々と広がる見事なぶどう畑が、数日後には大噴火によって焼けただれた赤茶色の溶岩のために、すべてが灰燼に帰することになろうとは誰が予想していたことだろうか? しかし時は刻まれ、残酷な運命は着実に忍び寄っていたのである。
* 運命の時 *
 その日・・・紀元79年8月24日、真夏のうだるような暑い昼下がりに、突然と噴火は始まった。 大地を揺るがす地響きが続き、ものすごい大音響とともに、ベスビアス火山の頂は吹っ飛び、火口がぽっかり口をあけた。吐き出された雲はきのこ状になって天に向ってグングンと上昇していった。頭上を黒い無気味な雲がものすごい勢いで覆い尽くしていった。まだ真っ昼間だというのにポンペイの街は真っ暗になった。
 バラバラと灰と軽石が、雨あられのごとく降り注いできた。
 やがて、火口からは、長く異様な火炎がチロチロと吹き出し、高温と化した泥流は溢れ出し、ポンペイの街に向ってゆっくり流れ出した。
 ついに怒りに目覚めたこの山は、今後3日3晩にわたり、灰と石と雲を吐き続け、すべてを埋め尽くしていくのである。
大噴火を起こしたベスビアス山
 しかし、まだこの段階になっても、ポンペイの人々の多くは、事態を楽観視していた。彼らは、家にこもり、降り注ぐ灰と軽石の雨が小康状態になるのを待っていたのである。しかし、待てども待てども、灰と軽石の雨は、弱まる気配などなく、ますます激しさを加えていった。暗闇の中で、肩を寄せあっていた人々は、外で、自分たちの家に異変が起こっていくのを感じ始めていた。それは、のしかかった灰と火山弾の重みのために、家全体が押しつぶされるかもしれないという不安であった。実際、壁の一部には亀裂が入り、屋根はメラメラといやな音をたててきしみ、突如、屋根の一部は陥没して、大量の灰がドッと落ちてくる状態が続いていたのである。
 数時間後、灰は2メートル以上の高さにまで積もっていた。家々の中には、重みで潰れたり、崩壊していくものが現れ出した。やがて恐ろしいことには、危険きわまりない拳大の真っ赤に焼けた軽石が勢いよく落ちてくるようになった。それらは、水蒸気の尾を引きながら、勢いよく落下してきて、道路や家の屋根に当たると鈍い音をたてて跳ね返った。
* 襲いかかる恐怖 *
 もはや、一刻の猶予もないと悟った人々は、家が崩れる前に、安全な場所に非難するしか方法がないことを感じ始めていた。
 だが、安全な場所など、もうどこにもなかったのである。
 一寸先も見えない暗闇の中で、あちこちの家から家族がいぶり出されるように出て来た。
逃げまどうポンペイ市民を描いた絵
しかし、その彼らも、真っ暗やみの中で、方向がわからなくなり、手を握り合ってはいるものの、でたらめに這い回るのが精一杯だった。
 彼らは、鼻と口を布でおおい、布を何重にも頭にしばりつけて逃げ回った。ある家族は、力尽き抱き合ったまま苦しんだあげく道路上で息絶えた。ある者は、落ちてきた火山弾に頭を潰されて即死した。子供たちは有毒ガスで目をやられ、涙を流して地面を這いずり回り、悶え苦しんで窒息死した。
 犬は、もはや外してくれる飼い主のないまま、濃い煙で、呼吸が出来なくなり、鎖でつながれたままけいれんしながら死んでいった。
悶え苦しんで死んだ犬
 家で飼われていた数頭のラバは、かいば桶につながれたまま、重なり横倒しになって死んだ。
連なって死んだラバ
 ある金持ちは、両手に金貨をしっかり握りしめて、道路の傍にうずくまり、のたうち回って死んだ。
 ある家族は、最後の瞬間まで、お互いをかばい合うようにして最後を迎えた。
 父親はしっかりと娘の手を握ったまま、恐怖に震える妻を支えて地面にうつ伏せになって死んでいった。
 母親は、あどけない子供を抱いたままうずくまり窒息死した。また、恋人らしき若い男女は、しっかりと抱擁したままこと切れた。
 ついほんのわずか数十分前まで、何事もなく生活していた人々が、突如地獄に突き落とされ、たちまち無惨な屍に変わり果てていった。
 何千もの軌跡を描いていた人生のドラマが、その瞬間、いっせいに断ち切られたのである。
 海めざして逃げようとした人々には、もっと悲惨な運命が待ち構えていた。
 摂氏何百度という高温の火砕流が、白い蒸気を吐きながら、すごいスピードで迫って行ったのである。やがて、それは、アッという間もなく、逃げまどう彼らに追いつき、一瞬にして焼き殺していった。数百人という人々が、一団となり、折り重なるように死んでいった。人々は、少しでも生き延びたい一心で、死体の山によじ上って、少しでも新鮮な空気を吸おうとしたが、結局、のどを掻きむしって皆死んでいった。
 こうして、逃げ遅れ、犠牲になった人々は、ポンペイ市民の約1割にあたる2千人ぐらいだろうと考えられている。
 すべての人々が死に絶えた後も、灰や火山弾は、弱まることなく降り続けた。それは、三日三晩、ひっきりなしに降り積もった。
 そして、ポンペイの街は10メートルにおよぶ灰の層で完全に埋め尽くされてしまったのである。
 そして、ポンペイはいつしか時に忘れられていった。千数百年後、偶然発見されて奇跡の街と呼ばれるようになるまで・・・
* よみがえるポンペイの街 *
 1700年間火山灰の下に眠っていたポンペイを目覚めさせたのは、一人の井戸掘り職人だった。18世紀の初めのことである。ポンペイ近郊の別荘で井戸を掘っているとき、美しい大理石の像を見つけたのだ。それをきっかけに、モザイクやフレスコ画、金や銀の食器、様々な日常家具類などが続々と出土してきた。

 そして、しばらくすると、ポンペイで犠牲になった人々の遺体も多数発見されていった。遺体そのものは、腐敗分解してしまっていたが、火山灰に包まれて固まった死者の鋳型とも呼べる空間が残されていたのだ。

 慎重に穴を開けられた空間に、医療用器具を使って空洞の内部をきれいにした後、石膏を流し込む。3日ほどして、固まって取り出されたそれは、痛ましい犠牲者の苦悩に満ちた姿を現出していた。 それは、犠牲になった人々の姿勢をとどめているばかりでなく、死を迎えた瞬間の苦悶の表情や着ていた衣装から、ヘアスタイルまで完璧にとどめていたのである。そればかりか、人々の生前の職業から、年令性別、健康状態まで推測出来たほどだった。

 その後、この方法で何百体とも知れぬ死者の鋳型が取られたのである。それは、はるか過去に生きていて、神の意のままに突然と眠りについた2千年前の人々が、生々しくこの世に蘇った瞬間でもあった。

 こうして、ポンペイから掘り起こされた様々な出土品や死者たちは、2千年という時間を超えて、赤裸々にある真実を我々に語りかけて来るのである。
パン屋で発見された若い夫婦の絵
 やがては、パックス・ロマーナ(ローマの平和)とうたわれ、平和と安らぎを謳歌していたと思われたローマ人も、実は、その心は、影で忍び寄るさまざまな不安に蝕まれ、脅えていたのである。
「明日はどうなるかわからない。楽しもう。生きている限り」
これは、当時のポンペイの人々の人生観をあらわした言葉である。
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