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ペルセポリス炎上
〜アレクサンダー大王の隠された素顔〜
 ペルセポリスは、ペルシア帝国の栄光の都とうたわれ、その王宮建設には、ダリウス、クセルクセスと親子2代にわたり、延々、数十年を費やしたと言われている。ところが、一人の独裁者の酒に酔った軽はずみな乱痴気騒ぎが原因で、この壮麗な都は、一夜で灰燼に帰してしまったのである。事実、現在もペルセポリスの遺跡からは、当時の放火の後と思える灰が大量に出てくる。
 一体、今から2千3百35年前に、この王宮で何が起こったのだろうか?
* 田舎者あつかいされるマケドニア人 *
 ペルシア戦争が終わって、半世紀も経った頃、ギリシア全土は再び不穏な気配に包まれていた。ペルシア戦争に勝利を持たらしたアテネは、次第に横暴となり、他のポリスにアテネ流のやり方を強引に押し付けるまでになっていた。このため、ギリシアの各ポリスは、密かにアテネに対して敵がい心を燃やすようになっていった。アテネのこうした横柄な態度に嫉妬を抱いていたスパルタは、こうした不満を持つポリスと同盟を組み、アテネに対して戦宣を布告した。ついにギリシア全土を内乱に巻き込んだペロポネソス戦争が始まったのである。

 この内乱は27年間も続いた。ギリシア全土は、戦争のために荒廃し尽くし、最後には、恐ろしい疫病がまん延し、アテネの敗北でようやく幕は下ろされたものの、ギリシアの各ポリスは、すっかり疲弊してしまった。もはやアテネには、侵略者ペルシアに打ち勝った時のような健気なさは微塵もなく、ギリシア全体は衰退して元気を失ない、あたかも廃人のようになってしまったのである。

 そんなギリシアを救うかのようにあらわれたのが、北方のマケドニアだった。マケドニアはその頃、密かに金鉱を手中にし、そのおかげで急速に経済力をつけて頭角をあらわした国家だった。しかしギリシア人の中には、マケドニア人を同じギリシア人だと考えずに、未開の野蛮人だとして嫌う風潮があった。

 確かに、マケドニア人は他のギリシア人のように南下もせず、流行遅れで保守的、おまけに言葉使いは野卑で、立ち居振る舞いも古めかしく野暮ったい面があった。そこでマケドニアの王フィリッポスは、とうとう武力を使って反マケドニアの勢力をねじ伏せ、ギリシア全土の指導者としての勝ち名乗りを上げたのであった。
 ここにいたり全ギリシアを統一したマケドニアは、コリントスで平和会議を召集し、マケドニア主導の同盟を作り上げた。
 翌年、最初のヘラス連盟会議がコリントスで行われ、ペルシアへの復讐の決議がなされた。ところが、まもなくして、フィリッポスは、娘の結婚式の場で、怨みを持つ者によって暗殺されてしまったのである。
 そこで、弱冠20才になったばかりのアレクサンダーは、ただちに王位につくことになった。彼は父王の遺志を受け継ぎ、ペルシア遠征の準備を進めることになった。
アレクサンダー大王
* 強引で気っ風のいいアレクサンダー *

 その際、アレクサンダーは、遠征を始めるにあたり、デルフィに行って神託を問いに行ったが、あいにく、その日は神託を問うことが許されていない日だったので、巫女の姿は、アポロン神殿にはなかった。そこで彼は使者を出し、巫女を呼びにやったが、巫女は、今日だけは絶対ダメだと言って断固、神殿に行くことを断った。そこで、彼自身が、直接巫女のもとに行き、巫女を有無を言わさず強引に神殿まで引っ張って来たのであった。

 巫女はアレクサンダーの何とも強引なやり方に開いた口が塞がらぬと言った面持ちで茫然と彼の顔を見つめて半ばあきれてこう言った。
「あなたは絶対に負けないお方だ・・・」アレクサンダーはこの言葉を聞くなり、手をたたいて喜び、こう叫んだという。「もうそれで神託を問う必要はなくなった。今の言葉こそ、余が望んでいた言葉なのだ。今、その言葉がまさに巫女の口より発せられた!」
 このエピソードは、アレクサンダーの血気盛んで一徹な一面をよくあらわしているようで面白い。日本でも織田信長が、今川義元の大軍を桶狭間(おけはざま)で迎え討つにあたり、これと似たような話を残している。
 信長はいよいよ望みなき戦いに出陣するにあたり、熱田神宮で戦勝祈願をした時、付き従う部下のほとんどに、絶望の表情が浮かんでいるのを感じ取っていた。実際、信長の軍勢に比べると、敵の今川義元の軍勢は、あまりにも大軍であり、誰もが万に一つの勝算のない絶望の戦いだと思っていたのである。

 そこで、信長は、部下の面前で、この合戦に打ち勝つ者あらば、投ずる銭は表が出るであろうと言って銭を投げたが、果たして、投げられた銭はすべてに表が出た。そこで信長は「神明、我に味方せり」と高らかに宣言して、轡を鳴らさせ、部下に勝利を確信させたのである。

 そして、事実、急に訪れた雷雨を味方につけて敵の大軍に忍び寄り、義元一人をピンポイントで狙う奇襲攻撃を行い、見事、歴史的とも言える奇跡の勝利を手中にしたのであった。
信長が戦勝祈願をしたと言われる熱田神宮
 後になってわかった事は、この銭は、信長が密かに細工したもので、両面とも表だったらしい。これが、事実かフィクションなのかは、別として、アレクサンダーにも信長にも、神仏でさえも、強引に味方につけてしまおうとする凄まじい気迫があったのである。もっとも、後世に名を残すほどの英雄であれば、この程度の気迫があって当然であろう。

 こうして、ペルシアへの復讐という合い言葉のもと、遠征軍の準備が開始された。ヘラス連盟のもと、諸ポリスからは兵や軍船、資金が抽出された。この結果、アレクサンダーに与えられたのは3万5千の歩兵、5千の騎兵であった。それは、マケドニアの兵が主軸となったギリシア連合軍であった。海軍は、主にヘラス連盟が用意した三段櫂船160隻ほどであった。しかし、連盟が用意した軍資金はわずかで、この時点で、すでに、200タラントン(1タラントン=金49キロ)の負債が出来てしまった。彼の指揮する三段櫂船の漕ぎ手に支払う給料だけでも、毎月、50タラントン必要であったというから、遠征は、最初から、資金不足に泣いてスタートせざるを得なかったのである。50タラントンと言えば、現代の相場で約7千万円というところだろうか。

 そのため、彼は、将兵たちの不満が出ないようにするために、自分の土地、財産をどんどん分ち与えた。アレクサンダーが、あまりにも、気前よく部下に分ち与えるのを見た将軍の一人が、「そんなことしていたら、あなたには、何も残らなくなってしまうが、それでもいいのか?」と言ったという話が伝わっている。その問いに若きアレクサンダーは「私には、希望が残されているからよい」と答えたということである。あまりにも、恰好のよい話ではあるが、事実、彼にはこうした気っ風のよさがあった。
* イッソスの戦いでペルシアを破る *

 こうしてアレクサンダー指揮の遠征軍は、150年前にペルシアがギリシアに攻め込んだ時とちょうど逆のルートを辿り、ヘレスポント海峡を渡って、小アジアに姿をあらわした。この時、彼の軍隊は30日分の糧食しかなかったというから、資金や食糧は現地調達する以外になかった。

 メソポタミア地方の入り口にあたるイッソスという所まで進撃したアレクサンダーの軍団は、始めて、ペルシアの大軍勢と相対することになった。ペルシア軍は、60万とも言われ、ギリシア軍をはるかに上回る大軍であった。この巨大なペルシア軍をダレイオス3世が出陣し、じきじきに指揮にあたっていた。

 しかし彼我の数こそ違え、ペルシア軍にはいろいろな弱点が内包していた。
 それはペルシア軍が一つの民族から成り立つ組織でなかったということである。実際、兵士は領内のさまざま所からかき集められており、無理やり連れてこられた兵士たちの士気も低いものであった。
 おまけに、この中には、互いに利害関係の衝突する異なる民族も多数含まれていた。マケドニアに反感を持つギリシア人の傭兵部隊がダリウス3世の近衛兵になっていたぐらいである。
 そんなわけで、ペルシア軍は、規模こそ大軍ではあったが、一つにまとまって大きな力を発揮できる軍隊ではなかったのである。
イッソスで巨大なペルシア軍と遭遇したアレクサンダーの軍
 ペルシアの軍団は、150年前に、ギリシアに攻め込んだ時のパワーは、すでになく、精彩をすっかり欠いてしまっていた。言わば、烏合の衆に等しいものであった。

 これに加えて、ダリウス3世自身も、貴族育ちで優柔不断、臆病だったというから、最高指揮官としては、はなはだ資質に欠く性格であった。事実、日頃から贅沢な暮らしが染み付いていたダリウスは、戦場でも豪勢な生活をしたいために、多数の妾、王女を始め、ありとあらゆる豪奢な家具調度品まで持ち込んでいた。まさに、貴族化して、弱体化し、挙句の果てに、源氏に壇の浦まで追い詰められて滅ぼされた平家を彷佛とさせるところがある。
 紀元前333年、イッソスにて、両軍は、ピナロス川を挟んで対峙する形となった。ここでは、左手に地中海、右手にアマノス山地に挟まれた左右4キロほどの平地が戦場となった。アレクサンダーは、右翼の騎兵を率いて渡河するなり、対岸に布陣するダリウスの本陣目指して、勢いよくペルシア軍の中央部に集中攻撃をかけた。
 アレクサンダー自らが真っ先に敵陣に突っ込んでいくこの戦法は、全軍の士気を鼓舞し、否が応にも盛り上がった。
 こうして、アレクサンダーは、ダリウスの本陣にまで肉薄していくのであるが、この時の様子が、ポンペイで発見された壁画にリアルに描かれている。
敵陣に斬り込むアレクサンダー
 戦闘は、激しくアレクサンダーは、この時、腿に負傷した。
 ダリウスは、左右に鎌のついた戦車に乗って指揮していたが、アレクサンダーの率いる騎兵が、阿修羅のごとく、自分の方向に真一文字に斬り込んでくるのを見て、急に恐ろしくなり、臆病風に吹かれて逃げ出したのである。そうなると、もろいもので、ペルシア軍は、逃げ出す者が続出して、たちまち崩壊してしまった。
 ダリウスの逃げ去った後には、おびたたしい戦死者、贅沢な家具類、財宝、大量の食料が残されていた。そして、何よりも、驚いたことには、ダリウス自身の母、妻、二人の娘までが見捨てられていたのであった。この事実は、ダリウスの人間性を物語っていると言えよう。
ダリウス3世

 当然、彼女らも、戦利品の一部としてアレクサンダーの手中に帰することとなった。しかし、アレクサンダーは、ダリウスの美しい王妃たちに、指一本触れる事もなく、王の一族として、丁重に扱ったのであった。これは彼が、今後ペルシアを統治する際に、ペルシア人の協力が必要になると考えた上での配慮ではなかったかと思われる。

  こうして、イッソスの戦いは、わずか半日足らずでアレクサンダーの大勝利で終わった。
 このあと、彼は、逃げたダリウスを追撃せずに、軍団の進路をエジプトに向けた。
 イッソスの戦いで勝利をしたとは言え、地中海には、まだ、強力なペルシア艦隊が健在であり、ギリシア軍の兵站を脅かしていたのである。
 後顧の憂いを消しておくためにも、ペルシア艦隊の根城と言われるシドン、ティルス、フェニキアの諸都市を落とし、さらには、エジプトを制圧しておく必要があったのである。
アレクサンダーの軍は、次々にフェニキアの諸都市を陥落させた。
* ガウガメラの戦いでペルシアを滅ぼす *

 こうして約2年かけて、エジプトを解放して後顧の憂いを消したアレクサンダーは、再びダリウスと刃を交えるために出発した。彼はシリアを北に進み、ユーフラテス、ティグリスの両川を渡り終えたが、そのあたりでペルシア軍の前哨部隊と遭遇した。そしてダリウスはガウガメラという村で陣を張っていることがわかったのである。

 この地は広い平原で、アレクサンダーは数日間、地形をよく調べて慎重に作戦を練った。一方、対するペルシア軍は、またしても5万のギリシア軍の数倍以上の大軍で、おまけに象の一群を始め、両輪に鎌のついた戦車隊までずらりと並べていた。

 いよいよ一触即発のムードの中、両軍にらみあいのまま日は沈んでいった。ペルシア軍は、ギリシア軍が夜襲をかけてくるものと信じ込み、全部隊を完全武装のまま待機させ徹夜で見張らせ続けていた。ギリシアの陣営は無気味なほど沈黙を守っていた。

 それに反して、ペルシアの陣営では何百何千というかがり火が夜通し焚かれ夜空を明々と染め上げている異様な光景が展開されていた。パチパチ、メラメラというかがり火の音に混じって、象や馬の雄叫びが鳴り響き、あらゆる武具や武器、甲冑の触れあう音が絶えまなくこだましていた。ペルシア軍は固唾を飲んでいつ始まってもおかしくないギリシア軍の夜襲を待受けていたのである。

 ところがギリシア軍は、とうとう夜襲をかけて来ないまま夜が明け出した。ペルシア兵は、徹夜の緊張で疲労困ぱいしてしまった。それどころか、夜が明けるとともに、ギリシア軍は満を持して戦端を開いたのであった。まず、ギリシア軍の左翼が進撃して来た。これに呼応するかのようにペルシアの右翼が接触した。これはアレクサンダーの陽動作戦の一部だったが、ペルシア軍はまんまと罠にはまってしまった。
 やがてペルシア軍の左翼が移動を開始した頃、中央にわずかの隙間が出来た。アレクサンダーはここぞとばかり、精鋭の騎兵隊をこの隙間にクサビのごとく打ち込んだのであった。
 戦力を集中して中央を突破するという作戦は、彼の最も得意とする戦術であった。
 徹夜で疲れきったペルシア兵は、分断され、混乱状態に陥った。それに比べて、たっぷりと休養を取っていたギリシア兵は、凄まじい攻撃ぶりだった。戦塵は立ち上り、視界は妨げられた。
騎兵の先頭に立つアレクサンダー
 中央で指揮を取っていたダリウスは、またしても、アレクサンダーの激しい斬り込みで、恐怖のあまり戦線を離脱し始めた。
 彼は大鎌のついた戦車に乗っていたので、戦死者の死体の群に引っ掛かって逃走もままならぬ状態であった。慌てふためいたダリウスは、指揮するのも忘れて、戦車を捨て馬に乗り換えて遁走してしまった。
 こうして、決戦と思われたガウガメラの会戦の勝敗はあっけなくついた。
 彼は再びペルシアの大軍相手に圧勝した。狡猾なダリウスは、またしても討ち漏してしまったものの、この数時間の戦いで、事実上ペルシア帝国は滅び去ったのである。紀元前331年10月1日のことであった。
ペルシア軍の戦象を攻撃する密集歩兵隊
 その後、バビロニン、スーサと進軍したが、都市の抵抗は一切ないばかりか住民は総出でアレクサンダーの軍を出迎えたので、彼は何なく無血入城を果たすことが出来たのであった。
 ありとあらゆる莫大な財宝が彼の手に落ちた。それは、何千何万というラクダや家畜、そして12万タラントン以上という巨額の金貨類や高価な財宝の数々であったと言われている。
バビロンに入城するアレクサンダー
* 遊女タイスの演説に乗せられる *

 紀元前331年1月中旬、ついにアレクサンダーはペルシア帝国の首都ペルセポリスにも入城を果たした。しかしここで彼は意外にも、この都市を占領した直後に、部下のマケドニア兵に略奪を許可したのである。略奪は丸一日ひっきりなしに続き、マケドニア兵同士、より高価な略奪物を奪い合おうとして、命を落とす者すらあらわれた。略奪はエスカレートして、高価な工芸品や彫像はつるはしでたたき壊され、各人がその破片を持ち去る始末であった。住民たちは出合い頭に斬り殺され、女性は装飾品を身に付けたまま、引き立てられて奴隷にされてしまった。

 アレクサンダーはなぜここに至り、略奪行為を許したのだろうか? 彼はバビロン、スーサという大都市を占領した時も、略奪を許すことはなかったのである。だが、こうしたアレクサンダーの行為は、将兵に次第に不満やストレスを蓄積させる原因となっていったと考えられる。もっともこの時代、軍隊が敵の都市を落とした場合、兵士たちによる略奪は、勝利者の当然の権利だと考えられていた。彼はこうした兵士の不満を解消し、欲望を拡散させ、さらなる遠征への士気高揚をかき立てるには、略奪を許可するが最も手っ取り早いと考えたのであろうか。
 略奪が終わり、4か月も経った頃、アレクサンダーは、逃げた敗軍の将ダリウスを追撃し、さらなる遠征を開始するにあたり、その前日、ペルセポリスで豪華な饗宴を催した。将兵たちは、歓楽のおもむくままに痛飲して酔いが回るにつれて、すっかりのぼせ上がってしまった。この時、同席していたアテネ出身の遊女、タイスが立ち上がって大演説をぶち上げた。

「もしも大王様が、私たちとともに行列を組んで王宮に火を放ち、ペルシア人の栄光を一瞬のうちに消し去ることが出来れば、その昔、アテネを焼き払ったクセルクセスに仇が討てるというもの。きっと立派にやったと、大王様の名は末代にまで語り継がれることになるでしょう!」
 タイスは自分の故郷でもあるアテネのパルテノン神殿がペルシア人の手によって燃やされたことを恨んでいたのである。

「おお、そうだそうだ!」
「まったくその通りだ!」
「ペルシア人の王宮など燃やしてしまえ!」

 この遊女の言葉に、酒で理性を失っている将兵は、拍手喝采を送り、兵士たちはギリシアへの冒涜行為に復讐しろなどと口々に叫んだ。

「ようし、オレが世界の偉大な征服者であることを示してやろう!」 「今こそ勝利の行列を組もうぞ!」
この雰囲気に煽られたアレクサンダーは、今や完全にのぼせ上がっていた。

 たちまち多くの松明に火がつけられ、行列が出来上がった。もちろん先頭を行くのは、酒に酔ったアレクサンダーだった。

 彼は、「おれについて来い」などと叫びながら、火のついた松明を持って宮殿内の廊下を進んでいった。彼の後を手に手に火のついた松明を持った遊女のタイスやマケドニアの将兵がつきしたがった。そして、歌声や笛、太鼓が吹き鳴らされる中、王宮の壁布を皮切りとして、ありとあらゆるものに火がつけられていったのである。
 こうして、次々に火をつけられた王宮は、パッと燃え上がり、風に煽られるや、ゴーという音とともに、たちまち、業火となって広がっていった。
 壮麗な百柱殿も、華麗なダリウスの謁見の間も、紅蓮の炎で包まれていった。
酒宴での出来心でペルセポリスに火がつけられた。
 大火災は天をも焦がす勢いとなり、レバノン杉の見事な大屋根は、ドッと崩れ落ちた。夜空には無気味な火の粉が無数に乱舞した。

 最初、狂喜して見上げていたアレクサンダーだったが、ここに至り、急に酔いが醒めて来た。それと同時に、自分のしでかした愚かな行為にようやく気がついた彼は、急いで火を消そうとしたが、もうすでに後の祭りだった。こうして彼の軽はずみな一瞬の出来心で、栄光の都とうたわれたペルセポリスは灰と化してしまったのであった。確かに、それは、彼にとっては歴史的とも言える汚点かもしれなかった。
* 酒癖の悪かったアレクサンダー *

 歴史家の中には、この事件こそ、彼の人格的な堕落の始まりと断定している者も少なくはない。確かに、アレクサンダーは、軍事的には天賦の才能に恵まれていた。勇気、迅速さ、捕虜に対する寛大さ・・・すべて一級のものであった。しかし、度を越えた酒好きな性格は、それら、すべての美徳を打ち消してしまうほどのものであったいう。

 普段は、愉快で善意に欠けることもないアレクサンダーであったが、酒を飲むと、人が変わったように自慢話を始め、他人に不愉快な感じを与えたという。お世辞を言われれば、手もなく乗せられ、居合わせた人々は、あまりの彼の豹変ぶりに当惑を隠すことが出来なかった。飲んだ後は入浴後昼まで眠り、時には一日中眠って過ごすことすらあった。行軍中にも、二日酔いで、指揮官たちに問われようが、酔い伏して一言の返事すら返せない有り様であったという。

 ペルシアが滅んだ後も、アレクサンダーに反感を持つ者は、日増しに増加の一途を辿り、紀元前328年には、酒宴の席での口論が高じて、血を分けた兄弟のクレイトスを刺殺してしまった。
 それから、一年後には、アレクサンダーの暗殺未遂事件があり、逮捕された十代の若者は、裁判で彼の思い上がりと酒に酔った挙句の横暴には堪え難いものがあると死を覚悟で動機をぶちあげたりしている。
 さらには、彼が遠征途中にして、熱病に倒れたのも、酒宴での酒の飲み過ぎで体が衰弱していたのが原因だったとする説もあるくらいなのである。
 紀元前323年6月11日、アレクサンダーは32才の若さで死んだ。彼が東方遠征を開始して以来11年後のことであった。
行軍中に熱病に倒れたアレクサンダー
* アレクサンダーの陰鬱な血筋 *

 多くの独裁者で、文化の破壊者ばかりが目につく中、偉大な創造者として捉えられ、ヘレニズム文化を創設したイメージの強いアレクサンダーだが、ペルセポリス炎上と大破壊の事実を見る時、彼の人間性のもろさを感じてしまわざるを得ない。それは、現実と理想の間で、否応もなく起きてしまった真実かもしれないが、彼の隠されたもう一つの素顔をかいま見るような気がするのである。

 また、アレクサンダーは、スーサで、ギリシア人とペルシア人の数千人の集団結婚式を挙げ、自らも亡きペルシア王ダリウス3世の長女と結婚し、東方化を推進しようとしたが、彼の死後、まもなくその王妃は、すでにバクトリアで結婚し、彼の第一夫人となっていたロクサネによって暗殺されてしまった。暗殺をそそのかしたのは、アレクサンダーの実母オリュンピアだった。しかし、そのオリュンピアもまもなく、ギリシアの権力をねらうカサンドラによって殺され、その時、ロクサネとアレクサンダーの幼児もともに殺されてしまうのである。こうして、彼の血筋は途絶えてしまう運命にあった。

 彼の父フィリッポスも暗殺されたのを考えると、アレクサンダーの家系には何か呪われた血が流れているとしか言いようがない・・・      

 

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