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水の迷宮ナン・マドール
〜海上に造られた不思議な石造遺跡の謎〜
* サンゴ礁に浮かぶ不思議な遺跡群 *
 ミクロネシア、ポナペ島は大小26の小島に囲まれた火山島で、別名、石造りの島として知られている。島の周りは珊瑚礁にとり囲まれ、中央には800メートル級の山がそびえ立っている。

 ポナペ島は淡路島の3分の2ほどの丸い形をした小島で、現在、人口は3万8千人ほどである。この島は一年を通して降雨量が大変多い。そのため島内には小川が多く、四つの大きな滝もあり、非常に多くの種類の熱帯植物が繁茂している。そのため緑と花の美しい島として、太平洋の花園と呼ばれているほどである。

 さて、この風光明美な島には太平洋諸島最大と言われる石造遺跡が存在するのである。問題の遺跡は、ポナペ島の南東部に位置するテムエン島のサンゴ礁にある。それは実に、不思議な海上遺跡というべきもので、1200メートル×600メートル、広さにして70ヘクタールほどのサンゴ礁の中に玄武岩とサンゴで造られた大小92の人工島が展開しているのである。この92もある人工島の上には、正方形か長方形をした囲壁が築かれているのだ。

 つまり、ディズニーランドより若干狭いエリア内に、大小の方形をした城塁とも囲壁とも呼べそうな玄武岩で出来た人工の島が、乱雑にごちゃごちゃになって浮かんでいると言えば想像がつくだろうか。ここには外洋からの入口は1ヶ所しかなく、人工島はそれぞれが水路によって結ばれている。

 現在では、残念なことに、遺跡の南西部には、マングローブが生い茂り、その姿を半分以上隠してしまっている。
 ポナペの人々はこの遺跡をナン・マドールと呼んでいる。
 ナン・マドールとは、「神々と人間との間に広がる空間」という意味があるらしく、とてつもない無限の広がりを表す言葉らしい。
人工島の上に築かれた玄武岩の外壁
* 特徴的なそれぞれの人工島 *
 92もある人工の島は、まず玄武岩で外囲いをして土台をつくった上にサンゴを敷き詰めて造られている。島の表面はつき固められて平らにされ、水上からは2メートルほどの高さになっている。昔はこの平らな島の上に、マングローブやパンの木を柱にして木造家屋が建てられていたものと推測されている。

 特に、儀式や王の住居などの重要な島では、サンゴを敷き詰めた表面上に、さらに玄武岩の石柱を使って、数メートルの高さに及ぶ外壁が設けられている。
 外壁は、一本10トンほどもある玄武岩の細長い角柱を数メートルごとに切り出したものを交互に組み、まるで校倉造りのようにして、積み上げられて出来上がった代物である。
玄武岩の石柱は、直径50センチ、数メートル重さ5トンから15トンほどある。
 この石柱の中にはサンゴや石が詰められ、その規模は大きいもので高さ数メートルから10メートルぐらい、幅3メートルほどである。材料となった玄武岩はポナペ島の北部の島ジョカージ島から運ばれたと見られている。ポナペ島は火山島なので、これら溶岩で造られた玄武岩が至る所に産出するのである。玄武岩は崩れると5角形もしくは6角形の柱状になって割れるが、これらをいかだに乗せて運び、組み立てたと考えられているのだ。
 ナン・マダール全体で用いられたこれらの角柱の数は、膨大な量で恐らく50万本を下らないだろうと言われている。

 この92もある人工島には、王の住居、儀式の島、聖職者の墓、来客用のための施設、召使や兵士の住まいなど・・・それぞれ専門的な役割分担があったらしい。
 つまり、92の島々には、それぞれ、異なる目的が与えられていたと思われるのだ。
 また、この島々には多くのタブーやしきたりがあったとされている。
 まず、ナン・マドールへの外洋からの唯一の入り口には、巨大な石垣が築かれている。
ナン・マドールの玄関に相当する位置には、二重の外壁に囲まれた儀式の島がある。
 これは、外洋の強い波風、潮流から都を守るためのもので、言わば港の防波堤のような存在であった。
 次いで、その奥に入ると高さ8メートルに及び、二重になった外壁に囲まれた重要な島がある。
 ここには、代々の王の墓があるばかりではなく、祈とう、審判と言った重要な儀式が行われていたのである。そして緊急の際は要塞としての役割も担っていた。
王の墓と思われる人工島には、玄武岩の石柱が十数本並べられている。
 その背後には、聖職者の住居や葬儀のための島、さらには守衛隊が常駐したとされる島があった。
 ナン・マドールでは人が死ぬと遺体をココナッツオイルや花などで死に化粧を施し、遺品と供に包んだ上で、カヌーに乗せ、故人が生前訪れた島々を巡り、最後に、この島にたどりつくという葬儀の儀式が行われたのである。
ナン・マドール遺跡の概略図
 一方、守衛隊の駐屯する島には、女性は上陸することは出来なかったということだ。 そこから南西部に向かうと、さらに大小の島々が所狭しと浮かんでいる。比較的重要な役割を持った島としては、王族の住居、貯蔵と生産の島、養殖池、医療施設などがある。
 貯蔵と生産の島では主にココナッツ・オイルを精製した。ポナペ島中のヤシの実は、この島に集められ、ヤシの実の、皮むき、等級分けなどが行われ、分業体制でオイルを生産したのである。生産された油は、儀式用や灯火用としてナン・マドール中へ供給された。

 島の中には様々な養殖池もあった。儀式用のシャコ貝、亀、うなぎなどを養殖したと思える池が発見されているのである。シャコ貝を養殖する池には、外洋と連絡するトンネルが発見されており、そこから新鮮な海水を常時、供給したと思われている。医療専用の島では、病人は全てこの島に運ばれ治療を受けたようだ。
 その他、厨房専門の島からは、食材とされたおびただしい魚介類の残骸などが出てくる。また、牢獄や刑場とされた島、墓地専用の島、大きなカヌーのための船着き場、食料貯蔵庫の島まで、実に多くの役割を持った島が存在していたのである。まさに、多くの専門化された機能を持つ水上の都であった。
 土台になっている島自体は、海面から1、2メートルほどしかないので、潮が上げてくると、島は水没して姿が見えなくなってしまう。
 そんな時、あたかも大小百近くもある方型をした玄武岩の囲壁だけが海上に浮かんでいるかのような異様な景観となる。
 その様は、まさしく古代の巨石海上都市さながらである。
潮が満ちてくると、やがて、人工島は水面下に姿を隠してしまう。
 この文明が絶頂期だった頃、さぞかし勇壮な景観だったことだろう。きっと、水の都ベニスのように人々は、カヌ−を使って、これらの島の間を行き来していたに違いないのである。
* 壮大な水上の祭祀センターだった! *
 では、この不思議な水上の都とでも言うべき壮大な遺跡群を誰がいつ何の目的で造ったのだろうか?
 19世紀の中頃になって、ドイツの博物館員だったヨハン・クバリーという研究所員が、この遺跡発掘に興味を持ち、憑かれたように調査に乗り出した。そして長年、情熱的に研究を積み重ねた結果、一応の解答を得たのであった。

 それによると、ナン・マドールの遺跡は、12世紀頃から15世紀の間にかけて、徐々に、建設されていったというのである。ナン・マドールが、その繁栄を欲しいままにしていた時、そこにはかなり強大な政治権力と経済力を兼ね備えた王朝が存在した事実も判明した。彼は、その王朝はポナペ島に伝わる古い言い伝えからサワテロールという王朝と推測したのである。サワテーロル王朝は16代続いたが、最後の王の時、悪政が起こり、内乱の結果、滅亡したということである。

 クバリーは、その後も、現地に留まり、研究を続けたが、帰国の段になって船の遭難に合い、血の結晶とも思われた長年の研究記録をすべて無くしてしまった。かろうじて助かったものの、魂の抜けたような状態になった彼は、呆然と日々を過ごし、やがて原因不明の死を遂げてしまった。
 一方、イギリスの退役軍人でもあったチャーチワードは、このナン・マドール遺跡こそ、失われたムー大陸の聖都ヒラニプラであると考えたようだ。
 ムー大陸は、南太平洋上に存在したとされる巨大大陸だが、1万3千年もの昔に、突如、大陥没に見舞われ、6400万人の人々とともに海中に没し去ってしまったとされている。
 その際、ムーの聖都だったヒラニプラは、高地であったがために水没をまぬがれ、その他の山の頂上は、ミクロネシアの島々になったというのである。
ジェームズ・チャーチワード
(1851〜1936)退役当時は陸軍大佐だった。
 確かに、ミクロネシアやポリネシアには巨石による不思議な遺跡が多い。ヤップ島の巨石の通貨を始め、パラオ諸島の謎の石柱や石像、トンガ島の40トンもある石の門、イースター島の約1千ものモアイに象徴される遺跡群は、エジプトのピラミッドにも匹敵すると偉業だと言っても過言ではない。
 これらの巨石のモニュメントの建造には、高度な技術力、そして何万という労働力を動員出来る強大な権力がなくては、到底なし得るものではないと考えたチャーチワードは、ここにかつて一続きになった巨大な大陸が存在したと考えたのである。
 とりわけナン・マドロールは、その規模、精巧さの素晴らしさにおいて、ムー帝国の高度な文明を象徴するにふさわしい存在だったとも言えよう。
チャーチワードが考えたムー大陸。その規模は、東西8千キロ、南北5千キロにも及び、太平洋の半分を占める広大さだった。
 しかし近年、最新の放射性炭素による年代測定の結果、ナン・マドール遺跡の造られた年代は、13世紀前後という結果が出ている。こうしてチャーチワードのムー大陸説も、打ち消されることとなった。
 その後の調査が進むにしたがって、ナン・マドールには、都市としての機能はなく、ポナペの民衆は、ここに住むことを許されてはいなかったことが明らかになった。ここに、常駐しているのは、王族や貴族、聖職者ぐらいなもので、民衆は、特定の限られた儀式の日にのみ、来ることを許されているぐらいだった。

 こうして長きにわたって、拡張を続けて来たナン・マドールも15世紀頃から、次第に衰退し始め、大航海時代の16世紀の終わり頃、スペイン人によって発見された時には、すでに、見捨てられ廃虚の状態であったということが報告されている。

* 無常観がただようナン・マドール *
 ナン・マドールが造られた頃、日本では平安時代をむかえ、時の権力者、平清盛が安岐の宮島に厳島神社を建立したが、なぜかイメージがだぶるように思えてならない。ナン・マドールも、厳島神社も、ともに水上の一大祭司センターだったいう点では似通った存在と言えよう。
 満潮時に見る厳島神社は、幽玄そのものである。

 そこには自然と人工美が融合した見事な調和が現出されている。
 水面上にたたずむ社殿と大鳥居の姿は、あたかも現世にはない竜宮城の世界をそこに見る思いである。
厳島神社の大鳥居、日本3大景観の一つにも数えられている。
 一方、南国の真っ赤な夕日を浴びて、水上に無数に浮かぶナン・マドールの遺跡群も、この上なく美しく、そして一抹の哀愁を漂わせている。 
 そこには当時、日本人の美意識の基準ともなった「もののあはれ」に通じる何かがあるような気がするのである。
ナン・マドールの黄昏れ
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