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死の都 モヘンジョ・ダロ
〜封印された古代都市の謎、その時、何が起きたのか?〜
* 4500年前の古代都市 *
 1921年、インダス川の下流に大きな仏塔の一部が大地からのぞいているのが発見された。それは、2世紀前後の大僧院の一部であろうとの予測のもとに、ただちに、発掘が開始された。ところが、掘り進むにつれて、その遺跡はたんなる僧院などではなく、巨大な古代都市の遺跡であることが明らかとなった。

 発掘は十数年の間、休みなく続けられた。こうしてこの古代都市の姿は少しずつ姿をあらわしてきた。堅固な城塞、整然とした碁盤目状の街路、完備された排水設備、見上げるばかりの穀物倉、広大な沐浴場・・・それらは何千年も前に緻密な都市計画のもとに建設された周囲5キロにもおよぶ巨大都市であることを物語っていた。
 当時この古代都市は人口約3万人ほどを擁していたと思われ、絶頂期は紀元前2500年頃と推定された。さらに、この遺跡はこの時すでに発見されていたハラッパの遺跡とあらゆる面で類似するものであった。
 しかしハラッパの遺跡はインダス川の上流に位置し、こことは600キロも離れていた。つまり、東京と大阪ほどの距離の隔たりがあったのである。しかし、中間地点に小規模の遺跡も次々と発見されるにつれ、驚くべきことにこの二つの古代都市は、ともに巨大な文化圏を形成していたことが、その後の調査で判明したのである。現在、我々はそれを古代インダス文明と呼んでいる。
* 考えられる数々の滅亡原因 *
 発掘が進むにつれ、この古代都市の遺跡には、どうしても説明のつかない多くの謎が浮かび上がって来るようになった。そのひとつに、遺跡のあちこちに見られるわけのわからない人骨の山である。それらは、路上や井戸端、さまざまなところに、うつ伏せになったり、仰向けになったりして不自然な状態で横たわっていた。
発掘された遺体の一部、頭部には鈍器で殴られた跡があった。
 こうした、発掘中に発見された数十体の人骨のおかげで、この古代都市はモヘンジョ・ダロ(死の丘)というありがたくない名前を頂戴することとなってしまった。
 発掘された遺体は、全部で46体あった。それは、ある時は14体ひと固まりとなり、またある所には20体、9体というように、複数の場所から小グループに分かれて発見された。共通して言えることは、それらの遺体にはすべて虐殺された徴候がみられたことである。なぜならば、ほとんどの遺体には頭部に打撃を受けた損傷があったのである。
 ある遺体の頭骨には、長さ15センチにもおよぶ斬り傷があった。象牙職人の一家らしい9体の遺体に関しては、5体までもが子供であり、この中には首を斬り落とされたような格好でうずくまっていた子供もあった。このことから、恐らく今から何千年も前のある日に突然、凄まじい惨劇がこの一家を襲ったものと思われた。
 このような虐殺の痕跡は、600キロ離れたハラッパの遺跡からも多数発見されている。
 これがきっかけとなり、好戦的な異民族、すなわちアーリア人の侵入によって、この古代文明は滅亡したという説が生まれたのである。
 しかし、遺跡から発見されたのは、46体のみで、当時3万人を擁したと思われるこの巨大都市の人々はどこに消えたのか、依然、謎に包まれたままだ。
インダス川の上流に位置するハラッパの遺跡、モヘンジョ・ダロとは600キロ離れている。
 発見された46体の遺体は、地表近くから掘り出されており、これが比較的新しい年代のものであることが判明した。つまりモヘンジョ・ダロの遺構は20メートル以上もあることが確認されており、当初、紀元前2500年前後と見積もった起原をはるかにさかのぼることがはっきりしてきたのである。
* 古代都市の起源の謎 *
 現在も、モヘンジョダロの最下層がどこまで続いているのか謎である。それは数メートル掘っただけで、塩分を含んだ地下水が吹き出して来る悪条件が発掘を困難にしているからだ。一度、アメリカの調査隊が廃水ポンプをフルに活用して発掘に乗り出したが、遺跡の堆積はどこまでも続いており見当すらつかなかったという。
 モヘンジョ・ダロは、何千年もの気の遠くなる時の流れの中で、最初の生活圏が廃虚になると、その上にさらなる遺跡が覆い、またしばらくすると、その上に別な遺跡が覆うと言った感じで、年輪のように何十にも重なっていったと思われている。
 恐らくこの古代都市の起原は、紀元前4千年か5千年ほどと推測されるが、そうなると世界最古の文明ということになる。
モヘンジョ・ダロの発掘現場
 つまりインダス文明こそ、人類の文明発祥の地だということになるのだ。
 今日、この文明の起原も謎のままだが、どうしてこのような巨大な文明が崩壊して、こつ然と滅んでいったのかはもっと大きな謎に包まれている。
 アーリア人の侵入は、紀元前1500年頃とされており、もしこの異民族による侵入が原因で滅んでいったのなら、大虐殺や破壊の跡を示すもっと多くの痕跡が、至る所で発見されているはずである。しかし大虐殺や破壊を示す証拠はなく、発見されたのは例の46体の遺体のみなのである。しかもそれより下の古い地層からは、遺体はおろか人が生活していた事を裏づけるような遺品もほとんど出てこないのだ。これは一体全体、どういうことだろう?
 モヘンジョ・ダロは、アーリア人が南下して来た頃にはすでに崩壊し、文明としては寿命を終えたゴーストタウンのような状態で、土中に埋もれていたのではなかったのだろうか?
 すなわち、虐殺された46の遺体は、文明の死に際に起こったアーリア人による最後のダメ押しだったとも考えられるのである。
 最近までは、モヘンジョ・ダロを始めとする古代インダス文明は強大な異民族の侵入によって滅亡したことになっていた。
モヘンジョ・ダロから出土した踊り子と呼ばれる青銅製の像。先住民をあらわしているとされる
 しかし今では、この文明に致命傷を与えたものは、もっと他に原因があったのではないかと考えられるようになった。
* 気候の激変による滅亡説 *
 第一の筆頭に挙げられるのは、気候の変化による環境の激変である。モヘンジョ・ダロの遺跡からは、多くの印章が出土しているが、それらにはトラ、水牛、像など、湿地帯や水辺に住む動物がたくさん描かれている。
 つまり当時は、雨の量ももっと多く、水量の豊かな草木が生い茂る恵まれた自然環境だったと想像されるのだ。
 ところが今はどうだろう。モヘンジョダロの遺跡は、熱風に息も止まりそうになるほど乾燥し、強烈な太陽は容赦なく肌を焦がす焦熱地獄なのである。このような過酷な自然環境のもとでは、高度な都市が建設され、文明を育んだとは到底考えられない思いがするのである。
 ある地理学者は、雨を持たらして来た低気圧が、紀元前3千年頃から、ゆっくりと北に移動してしまい、それがためにインド西北部は、乾燥し、荒涼とした風土になってしまったと主張する。
 一方、人為的な環境破壊が原因だとする説もある。それによると、都市建設に必要なかま焼きレンガを焼くために、木を伐採し過ぎたため、大地の乾燥化が起こり、気温の方も一気に上昇してしまったというのである。
出土した印章、2〜5センチほどで、凍石製、護符などに使用された。
 確かに、千年以上も繰り返し繰り返し、燃料用の木の伐採を続けてきたことは、大地から森や草地を奪うことになる。裸地となり、蒸発しやすくなった大地は、地中の奥にある塩分を地表にどんどん吸い上げてゆくのだ。これが長年続けられると、やがて地表は塩分で堅く覆われてしまい、作物は育たなくなってしまう。こうした自然破壊が徐々に進んだ結果、塩害と環境の悪化で、人々は都市に見切りをつけ、別な土地目指して、次第に移動していったのではないかというのである。
 自然環境の悪化の原因としては、大洪水とインダス川の水路の変化を挙げる説もある。モヘンジョ・ダロの遺跡にも、過去に大規模な洪水に見舞われた痕跡が少なくとも3度以上あるのだ。遺跡に残る70センチにおよぶ厚い堆積土は、洪水後もなかなか水が引かず、長いことそこに留まっていたことを意味している。つまり、大洪水がこの文明に致命傷を与えたというのである。
 インダス川の河道が変わってしまい、モヘンジョ・ダロから遠のいたからと言う説もある。
 そもそもこの広大な川は、たびたび氾濫を起こしては、次にどのようなコースで流れるかわからぬほど、気まぐれで不安定な川として知られていた。
 20年の統計をとった資料を見ても、よくもこれだけ好き勝手に河道を変えられるものかと感心してしまうほどである。
 現在、モヘンジョ・ダロは、一番近いインダス川の支流から5キロは離れてしまっている。上流のハラッパでは、当時の古い河床の跡が残されており、それによると川の流路が10キロも北に移動してしまった事実を物語っているのだ。
廃水設備の跡、耐水性の高いかま焼きレンガを使用している。
 水資源が遠ざかっていったために、滅亡したという話は、タクラマカン砂漠の桜蘭、ミーランがよく知られているが、インダス文明の一つのカリバンガンという古代都市も、そのことが原因で滅亡したと考えられている。
タール砂漠(大インド砂漠)日本の総面積の3分の2ほどの広さがある。
 カリバンガンは、大河の側にあり、豊かな水源に恵まれていたが、今ではタール砂漠のはずれで半ば埋もれてしまっている。その近くには、幅3キロにも及ぶ枯れた河床が見られるのみである。
 突発的な天変地異が原因で、文明が滅亡したという説も拭いきれない。シンド地方(パキスタン南部)や、マクラーン海岸一帯は、元来、地殻変動が活発な所で、19世紀の始めには、長さ80キロ、幅24キロの地域が、突然、高さ4.5メートルももちあがったこともある。それによってインダス川がせき止められ、4300平方キロ(琵琶湖の面積の6倍以上)の土地を水浸しにし、大惨事を起こしたこともあるのだ。
 2002年には、カンベイ湾の40メートルの海底から、9500年前の超古代都市の遺跡が発見されたという驚くべきニュースも報道されたが、こうした地殻変動や天変地異も文明を死に至らしめる原因となったのは確かなようだ。
* 古代に核戦争があった? *
 また、モヘンジョ・ダロにまつわる不思議の一つとして、現地の人々にガラスになった町と呼ばれ、黒いガラス質の石がびっしりと地面を覆っている場所がある。その半径400メートルほどのエリアは、恐らく、砂やレンガが2000度以上という超高熱を瞬間に浴びた結果、溶解しガラス状に固形化したものであろうと言われているものだ。しかもそこでは、実に通常の50倍という高濃度の放射能が検出された。
 今日、これと同様の物質が見られるのは、ある特定の場所以外にはあり得ない。核実験が行われた砂漠である。そこでは、ものすごい熱によって砂がガラス状になった物質を見つ出すことが出来るのである。すると、この場所で何千年も前に、核爆発が起きたのだろうか?
 古代インドの2大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」には、神々の戦争シーンが描かれた箇所がある。そこでは、数々の恐怖の兵器が登場する。
 ヴィマナという水銀と強風を動力として滑空する空中飛行機は、ものすごい轟音とともに、太陽の輝きにも似た火炎の尾を残して、天高く雲の山に昇ってゆくという。
 その乗り物から、神々の一人が、都市に向かってアグネアの矢を投げるくだりがあるが、その都市は万の太陽よりも激しく輝き、生物は死に絶え、灰と化してしまったとある。
 まるで核兵器の投下シーンを連想してしまうようだが、これらの叙事詩がつくられた頃は、まさしく、モヘンジョ・ダロはその文明の絶頂期にあったのである。
 これらの叙事詩や伝説の意味するものが、この遺跡に残された不思議な痕跡とどう関係しているのかはわからないが、叙事詩のあらわした世界が、モヘンジョ・ダロの滅亡に反映していないとは言いきれないのではないだろうか。

 

 この文明の致命傷となったのは、依然何だったのか、不明のままだが、封印された謎が、現代の文明存亡のあり方を示唆していることは否めない事実であろう・・・
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