雨の日
〜何気ない日常の向こうから恐怖がのぞく瞬間〜
 その日は朝から雨が降っていた。窓の外ではピチャピチャと雨のしぶきがしたたり落ちている。「あああ、また雨か、チッ!」亀井龍太は額に水をかけるようにして洗面をすますと、もう少しで底の抜けるおんぼろカバンを小脇にかかえて彼の通学しているA高校に向かった。
 8時40分・・・10分の遅刻である。遅刻常習犯として知られている龍太であったが、やはり教室に向かう足取りは重かった。がら〜!戸がきしむ。目、目、目、龍太に対する疑惑、軽蔑をまじえたような視線、そう、まるで殺人光線の中をかいくぐっていくかのように龍太は自分の席に向かうはずであった。
 ない。ないのだ。いつものようなざわめかしさが、罵りの声が、そんな馬鹿なことが、しかし、事実にちがいなかった。物音ひとつしないのである。龍太はいつもとちがう異様な雰囲気に気が付いた。
 教室には全員確かにそろっている。しかし自分に振り向く者は一人もいないばかりか、机のきしむ音さえもないのだ。
 まるで墓石がきちんと整列しているとでも言った感じなのだ。みんな、ふざけているのだろうか、いや、しかし・・・
 異様なムードの中で一時間目の始まりを知らせるチャイムが冷たく響きわたった。1時間目は物理だった。「物理か、ついてねえな」龍太はそうつぶやきながら机の上に白紙のレポート用紙を投げ出した。そのとき、鉛筆が一本、龍太の手からすべり落ちていった。「カコーン!」鉛筆は床にはねかえって墓場のような静けさの中を突き刺すような音が響きわたっていった。後はあの胸の悪くなるような静けさだけがおもむろに続く。
 いつ始まったのだろう。どこから入ってきたともわからぬ山崎先生が授業を始めていた。先生もいつもと様子が違っていた。いつもはニコニコと間抜け面をさらしているのだが、そうではなかった。メガネの奥に光る眼をギョロつかせ表情ひとつ変えやしない。先生はぎこちなく動く手で何やら黒板に描いていた。そう、それはまるで何か機械の設計図のようでもあり、また奇妙な動物の解剖図のようにも見えた。やがて書き終わるなり、いつもとは信じられぬ人相の悪い面で先生は何やらしゃべりはじめた。
「人間を溶かすのに必要なエネルギーは5万6千カロリーで、ジュールで計算すると約4万4千ジュールなんでさあ。・・・はあ、小数点以下は計算してもナンセンスで」
 そこでチャイムは鳴った。再び狂気的な静けさ。ただかすかに雨のガラスをたたく音だけが聞こえてくる。
 龍太が正気に帰ったときには、いつのまにか第二時間目が開始されているではないか。
 慌ててカバンから教科書を取り出す。数Bだった。先生は衣笠先生だ。
 先生は何やらギッシリ分けの分からぬ数学の記号のような文字で黒板を埋めていた。
ΘβαθRβ÷3=γαβπ5スΘ≒α?Rβテαβ45√Θ□ΘπαθRβγαβQ≒α√R√√√βθαβ×3=・・・
 一体全体、何のことなのかさっぱり分けがわからない。たまに出てくるアラビア数字ぐらいしか龍太には理解できなかった。
 やがて、衣笠先生は音もなく名簿を持ち上げると言った。「・・・と、これで、地球を正確に三等分に破壊することのできるエネルギー公式の与式は終わったんですが、最後に何を放り込んでやると答えが出るでしょうか?有吉」
 よくあるいつものセリフだった。だが、地球を三等分に破壊できる公式なんて。当然、いつもなら「分かりません」と間髪なしに答える有吉なのだが、やはりこれもいつもと違う。「キュイリー、ale6のδ乗です」あっさり答えると有吉は着席した。すべてが信じられぬことだった。
「そうですね。では今度はこいつに何をかけると太陽系を三等分に出来るでしょうか? 亀井」
 ついに自分が指名されてしまった。来るべき時が来てしまったようだ。龍太はわなわなとふるえる口調で口答した。「き、貴様ら、何をたくらんでいる? 何者だ、お前たちは?」シーンと静まり返った教室内に龍太の声が響き渡った。だが誰も返事すらしない。「何とか言え、何とか。何とか言ってくれー!」
 その瞬間だった。クラスのやつらが始めて龍太の方に気味の悪い視線を向けたのは。
 やがて、恐ろしい静けさの中を衣笠先生が暗示を受けているかのように機械的にしゃべった。
当時、私が描いたイラストです
「どうしたんですか?どこか故障でもしたんですか? QZX0033号、あ、忘れてました。君は昨日は欠席してたんでしたね」そう言い終わるなり、龍太の頭上から何やら・・・
 * * * *
解説。 この作品はもうずいぶん昔、私がまだ高校生の頃につくった作品です。当時の私は、作家の星新一氏の世界に完全にはまりこんでいて、休み時間であろうと授業中であろうとショートショートなるものをつくることに夢中になっていました。結局、鉄筆でひっかいたようなガリ版刷りのお粗末な小冊子でしたが、作品集なるものをつくりあげるまでに至りました。そして、それをあろうことか、星新一氏のもとに送ったのでした。(当時は怖いもの知らずの少年だったんですね)
 しかし心の優しい星氏は、面倒がりもせずに、当時高校生の私に返事を送ってきてくれました。最近、部屋の整理などをしていて当時のものが偶然出てきましたので、何ともなつかしい思いがして、アップしてみようと思い立った次第です。
 当時の私は、自転車で通学しており、途中に急な上り坂が何か所かあり、そのため力を入れてペダルを踏むあまり、自転車のチェーンがはずれたりして遅刻することが多かったようです。ちょっとの遅刻ならまだしも、すでに授業が始っている中、教室に入っていくのは大変勇気のいる行為で、自分の席が教壇の近くにあるときなど、底知れぬ恐怖さえ感じたものです。今、こうして読み返してみても当時の感覚がよみがえってきます。衣笠、山崎といった当時の名物先生は今はどうしておられるでしょう? 思い出しても懐かしい気持ちがしますが、皆さんにも私と同じような経験がきっとあるのではないでしょうか?
 今は亡き星新一氏に感謝と敬意の気持ちを込めて当時の作品の一つをアップしました。ご冥福をお祈りいたします。(管理人)
星新一氏からの返事
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