風狂者の建物
〜狂気と執念がもたらした創造物〜
 世の中には、実に驚くべきと言うか、異様で奇怪な建築物がある。それは、人間の妄想と狂気が、形になったとしか思えぬものである。それらをつくり出した圧倒的なエネルギーとは一体何なのだろうか?
 昭和の初期、一人の狂人が造ったという奇妙な屋敷があった。
この奇怪な屋敷は、二笑亭と呼ばれ、東京深川の繁華な商店街の一角に実在していた。さて、この奇妙な屋敷には、常軌を逸しているとしか思えない数々の特徴や奇怪な趣向が凝らされていた。
 まず、寺院か倉のような異様な正面玄関を入ると、2階まで吹き抜ける大きなホールがあった。 そこには照明も無く、高さ4mあたりの人が届くはずもない場所に、帽子や衣装を掛ける金具が、無秩序にしかも大量に打ちつけられていた。
 9畳の居間に入ると、そこには、奥行きがわずか30cmしかなく何も入れることの出来ない大きな押入があり、床の間には、意図のわからぬ急傾斜のついた違い棚の上に、ナイアガラの滝の写真が飾ってあったという。
 また、屋敷を取りまく厚いヒノキの板壁の所々には、節をくり抜いて、ガラスをはめ込んで作られたのぞき窓が無数にあった。ここから、孤独で陰気なこの屋敷の主が往来する人々をそっとのぞき見をしていたのだろうか?トイレは、どういうつもりなのか、中庭の離れにつくられ、その扉は下半分しかなく、薄いトタン製で、おまけにすべての部屋からまる見えの状態であった。
 土蔵には、垂直に天井まで伸びた鉄製のはしごが着いていたが、その先は行き止まりで、登り口も何も見当たらなかった。 その他にも、使えない部屋が無数にあったり、意味不明の仕掛けがあったりで、到底、常人にとっては、使いにくく理解できない気味の悪い屋敷であったという。
 この奇怪な屋敷をつくったのは、赤木城吉(仮名)という精神分裂者である。明治10年生まれの庶子であった彼は、若い頃に赤木家の婿となり、5人の子供がいたとされている。
 記録によると、城吉の父は変質者で、その血を引いたと思われる城吉も、自我が強く、無口で、かなりの性格的偏向が見られたという。家族に対しては実に厳格で、親類とは極力交際することを避けていたらしい。
表から見た二笑亭の様子、表玄関にあたる。
 彼は、足袋商、洋品雑貨商を営んで財を成し、44才の時からは、地主としてかなりの資産家になっていたという。
 また、彼の趣味は、長唄、謡曲、舞踏から生け花や茶の湯、さらには硯石の収集から書道に至るまで、実に幅広く多彩なものであった。
 城吉の症状が出始めたのは、49才の頃、関東大震災が起り、突如、家族を連れて世界一周の旅をすると言い出した頃であった。結局、行くことになったのは二人の息子だけということになったが、横浜を出帆してから間もなく彼の長男が発狂した。それでも、城吉は、家族の反対に耳を貸すこともなく、長男を残して旅行を続けた。
 世界一周の旅から帰ると、城吉は取り憑かれたように、二笑亭の建築にとりかかった。二笑亭を建てるにあたり、城吉は、自ら建築資材や木材を買い求めたという。設計も彼自身の独創だったが、設計図もつくらず口述で行われたために、思い通りに建築出来なかったり、突如変更があったりで、大工はかなり困惑したようである。
 結局、かなりの巨額を投じて、大正15年に始まり、十数年もかかって建てられたこの屋敷も、常人には到底住むことは出来ず、城吉を除いて家族全員が出て行ってしまったと記録されている。
 一方、アメリカのカリフォルニア州サンホゼには、大富豪ウインチェスター家のサラ夫人が建設したとされる怪奇な屋敷がある。
 現在は、ウインチェスター・ミステリーハウスとして知られ、このあたりの観光名所になっているが、この広大過ぎる屋敷には、さまざまな不思議な話がまつわりついている。
 ウインチェスター家は、かつて、発明したライフル銃で、たちまち巨万の富を築いて大富豪となった。
 しかし、最愛なる娘が生後まもなく死亡し、14年後には、夫が、原因不明の死を遂げてしまった。
ウインチェスターの怪奇屋敷(カリフォルニア州の観光スポットとなっている)
 未亡人となり、夫と娘が死んだのは、悪霊の仕業と病的に信じ込むようになったサラは、今度は自分にも悪霊の災いが降りかかるのではないかと恐れて、ある日、ボストンの霊媒師を訪ねたのである。
 すると、その霊媒師が彼女に言うには、娘と夫の死は、ウインチェスター社がつくったライフル銃で殺された何百万人の呪いが原因で、その呪いを解くには、この先ずっと朝から晩まで、金づちの音が絶えぬように増築することが必要である。そうすれば、悪霊から身を守り、長生き出来るであろうとのことだった。
 この言葉を心底信じた彼女は、それから、財産のすべてを家の増築に投げ打ったのであった。そうして、それはサラが1922年に80数歳でなくなるまで、38年もの間、一時も休まず行われたのである。
 その結果、出来上がった屋敷は実に、巨大で奇妙なものになった。
 それは、無計画の産物と言うべきなのか、あるいは霊に導かれて建てられたと言うべきなのか、ともかく、想像を絶する怪奇な館であった。
サラ・ウインチェスター
 屋敷には、なんと160室もの部屋があった。窓は、1万カ所もあり、ドアは950カ所、暖炉は47カ所、煙突は17本、キッチンは6カ所もあったと言う。
 中には、一度も使われなかった部屋も多数あったというから、どれほど巨大な屋敷であるか想像がつくだろう。部屋の狭さや住宅難であえぐ、我々からすると、羨ましい気持ちがしないでもないが。サラ本人でさえも、地図がないと目的の部屋にたどり着くことは、難しかったというからすごい。
 また、サラは、どういうわけか、欧米では不吉な数字として忌み嫌われるはずの13という数字に、逆に異常に執着していた面があった。そのためか、建物の中にある階段は13段で、流し台は13の穴が開けられており、バスルームも13室とすべて13で統一されているのだ。おまけに、屋敷内にあるすべての窓も13枚のガラスで出来ているのである。
 外に出てみても、この数字にこだわったと思われる特徴が数多く散在している。例えば、石畳は13あり、ヤシの木は13本である。これを見ても、屋敷の内外にも13の数字にこだわった異常とも思えるサラの執念を感じ取ることが出来る。
 さらに、この奇怪な屋敷には、不条理と思われることが満ち溢れていた。
 例えば、行き着くところは天井というおかしな階段、開けると壁になっているドア、上下がさかさまになっている柱、曲がりくねって全長3キロもある廊下などに言い表すことが出来るのかもしれない。
行き着くところは天井という意味不明の階段。
 ともかく、どれ一つ取っても意味不明なつくりがやたらと多いのである。
 サラは、誰も入れることなく、一人で交霊術をさかんに行ったと言われている。
 恐らく、こうした意味不明のつくりは、悪霊を惑わし追い払う仕掛けであり、こうしなければ、良い霊を呼び込めないと霊媒師に指示を受けた結果だったと思われる。
一度も使われたことのない舞踏室。シャンデリアの数も13だ。
 悪霊におびえ切っていたサラは、ひたすら忠告されるがままに盲目的に増築をくりかえしたと考えられるのだ。
 しかし、とにもかくにも、38年間の間、金づちの音を絶やさぬようにした結果、サラは無事に天寿を全うしたのである。
 南フランス、リヨン郊外にあるオートリブという村には、一人の郵便配達夫が、造ったといわれる驚くべき石造宮殿がある。その宮殿には、アラビア風のモスクあり、インド風の神殿あり、中世の城ありで様式はごちゃごちゃながら、奇妙な超現実主義と思える雰囲気が漂っているのである。
 その郵便配達人の名は、シュヴァルといい、子供の頃から空想が大好きな変わり者として村でも評判だった。
シュヴァルの宮殿にくつろぐ彼の家族たち
 彼が、建築に着手し始めたのは43才の頃で、毎日、自転車で郵便配達をするかたわら、気に入った石を集めては持ち帰り、それらで日課のように宮殿をコツコツと造っていったのである。彼は34年もの間、それこそ、雨の日も風の日も、欠かすことなくひたすら自分の城を築いていったのであった。
 やがて、それは、誰もが固唾を飲むほど巨大で奇妙な建造物となっていった。
 建築の知識も教育も受けたわけでもない彼が、このような建造物を造り上げたことは、実に驚くべきことである。
 しかし、彼は神殿内で暮らす気はなかったようだ。というのも、定年になって、郵便配達人をやめてからは、この宮殿の入口に小さな家を建てて、そこで暮らしたからである。
 彼にしてみれば、毎日、自分の造り上げた宮殿を眺めているだけで満足だったのである。
シュヴァル宮殿東側 3人の巨人の像が見える
 シュヴァルは、最後の仕事とばかり自分の墓までつくり上げ、1924に88歳で亡くなった。
 彼の宮殿は、人々からシュヴァルの理想郷と呼ばれ、1969年には文化財に指定され、1984年には切手のモデルにもなっている。つまり、彼の死後45年もたってから、ようやくその価値が認められたというわけであろうか。
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