布袋像のもたらすサイン
〜次空間を超えて伝えられる未知のエネルギー〜
 1920年代の出来事である。英国からの一組の旅行客が、神戸の古物屋で小さな像を見つけた。それは、七福神の一つ、布袋像をかたどったもので、象牙を彫ってつくられた精巧な掘出し物といえる像だった。夫妻はその像を一目見て、大変気に入ったので、すぐに購入してしまった。

 そうして、船に戻った夫妻は次の目的地に向かって旅立っていった。しかし、その夜から婦人の歯が猛烈に痛み出した。同時に、体中の関節もズキズキ疼きはじめたのである。痛みはひどくなる一方で、医者から鎮痛剤をもらったがあまり利き目はなかった。

 翌朝、婦人の痛みが嘘のように直ってしまうのと入れ替えに、今度は、夫の歯が激しく痛み出した。そうして夫はあまりの痛みに堪え切れずに、船が港に着くや否や、医者のもとに行き、歯を抜いてくれと頼んだ。
 歯が抜き終えると、痛みは治まった。しかし、船に戻るとまた、別な歯が痛み出した。そういう感じで船がアメリカに着くまで、夫妻の旅はとんでもない憂鬱なものとなってしまった。

 アメリカには夫の母親が住んでいたが、夫妻はおみやげとして神戸で手に入れた掘り出し物の布袋像をプレゼントした。まもなく、夫の母親の歯がひどく痛み出した。母親は気分が悪くなると言って、その像を夫妻に返してしまった。

 しかし、夫妻はこの時、まだ歯や関節の痛みと布袋像との関係を疑ってはいなかったので、そのまま荷物につめて、自分たちの故郷であるイギリスに向かった。その旅の途中で一人の客が夫妻の布袋像を気に入り、一晩だけ貸してくれと申し出た。
 そして、その客は布袋像を自分の部屋に持ち帰ったのだが、急に起った恐ろしい歯痛に悩まされることになった。

 翌朝、その客は夫妻の部屋に訪れて、布袋像を返し、昨日は歯と関節が急に痛み出して、一睡も出来ず、布袋像を鑑賞するどころではなかったと伝えた。
 ここに至り、夫妻はいままでの自分たちを襲った不可解な歯や関節の痛みがこの布袋の像となんらかの関係があると確信したのである。

 夫妻はイギリスに着くや否や、ロンドンの古物商を訪れて、これまでのいきさつを説明した上でこの像を売ってしまった。夫妻としては一刻も早く、このいまわしい像から逃げたい一心だったのだろう。そして、二度とその古物商を訪れることはなかった。


 以上の事実は何を意味しているのだろう?この布袋像には何か呪いでもかけられていたのであろうか? 今となってはよくわからない。
 
 しかし、こう考えてみればどうだろうか? まだこの布袋像が加工もされない、生きている象から生えている牙だった頃・・・何十年も前のある日、不幸にして、その象は象牙を取る目的で、密猟者たちに撃たれたのである。瀕死の状態でありながら、その象は生きていた。密猟者たちは象牙欲しさに、瀕死状態の象から無理やり牙を引き抜こうとしたのではないだろうか? 
 生きていながら、ものすごい力で神経の束ごと引き抜かれる地獄のような苦しみと恐怖を象はその時感じたのにちがいない。

 その堪えがたい苦痛と恐怖は、マイナスのエネルギーとして周囲にまき散らされ、その象が息絶えた後も、象牙の中に記録されたのではないだろうか?
 そうして、そのパワーがかなり強烈であったがゆえに、多くの人間がそれと同様の感覚に近いものを感受したのではないだろうか? 

 超心理学では精神感応力という言葉があるが、その能力にたけた人間であればあるほど、物質に込められた未知のエネルギーからさまざまな情報を知りうるという。

 最近も、ニュースで、一人の精神感応力者が、残された凶器から、死体の埋められている場所、はては、犯人の居所まで言い当て、迷宮入りの事件が解決したとアメリカの公式メディアが伝えている。



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丑の刻参り
〜呪いと人形のシステム〜
 北海道の万年寺という寺には、今も髪の毛が伸び続けている人形があるという。その人形は陶製で、3才で幼くして死んだ女の子が生前、大変大事にしていたものだった。人形は女の子の遺骨とともに、箱に入れられて寺に保管されていたが、10年後、箱を開けてみると、人形の髪の毛が肩まで伸びていたということである。

 検査の結果、それは人間の髪の毛であることがわかった。人形は祭壇に移されて祭られることになったが、髪の毛は今現在も伸び続けているということである。
 寺の住職は少女の魂が人形の中で生き続けているという。

 昔から、人々は何か特別な力が人形には秘められていると信じている。 恐らくは、持ち主がその人形に対して、特別な感情を移入することにより、人形がただの物体という存在を通り越して、人形それ自体、意志を持った生き物であるかのように思われているようだ。

 人形供養という儀式が全国のいたる寺社で行われている。それは、いわれのある人形、死んだ子供が大事にしていた人形など生前の持ち主の怨念、情念を供養することで円満に無に戻し、生きている人間との因縁を断ち切って解放されたいという思いがあるように思える。

 人形は持ち主にとっては、大切なものかもしれないが、第三者から見ると処理するのにやっかいな存在かもしれない。やたらリアルな人形など、夜電気を消して眺めると不気味な存在としか思えない。今でも動きだすんではないかと思うとゾッとしてしまう。

 人形は呪術と密接な関係があり、呪う相手をわら人形にたとえ、それに五寸釘を打ち込むという丑の刻参りはよく知られるところである。

 丑の刻参りの歴史は古く、文書では平家物語に登場する。自分を捨てた男に復讐するためにお参りしたところ、神のおつげを聞いたということから始まる。おつげによると、何日かある場所で祈願すれば鬼になれるということであった。女は喜んでおつげ通りに指定された期日を祈願したところ、自分の体が鬼に変身するのを感じた。そして、鬼と化した女はさっそく男のもとに行き、男とその妻を食い殺したというものである。
 
 昔は、家に不幸が続いたり、わけのわからない病気になったり、不吉な夢にうなされたりすると、誰かが自分を呪っていると信じることが多かった。そして、そんな時、陰陽師に呪いを解くための祈祷を頼んだのである。

 歴史を経て、丑の刻参りというと、白装束の恰好で毎夜丑の刻に、わら人形を据え、寺社の御神木などに五寸釘を打ち込むというスタイルに定着した。これを一週間続けて通い、誰にも見られずに行えれば祈願が成就するのである。ちなみに、丑の刻は午前1時より3時までの時間帯を指し、またこの方角より鬼が来ると言われたらしい。この呪いの儀式は江戸時代に頻繁に行われたようだが、今でも、全国の神社にその呪術の跡がよく見られるようである。

 わら人形を相手とみなし、呪うという行為に精神集中するということは、言い換えるなら、マイナスのパワーを生み出しているということでもある。その結果、願望成就と言えば体裁は良いが、当事者にも同質の結果が訪れるのは否めないと言える。

 あくなき憎悪、苦痛、悲しみは否定的エネルギーとして、場所や物体に記録されるが、逆にそういう波動を生み出している状態の人間は、いろいろな点で、他のマイナスのエネルギーに反応しやすくなっているとも言える。つまり、その結果とんでもない病気になったり、偶発と思える事故に遭遇したりしてしまうと考える。

 「人を呪わば穴二つ」ということわざがあるが、それは長い歴史の中で性懲りもなく繰り返されてきた、人間の業とも言えるこうした行いに対する戒めなのではなかろうか?



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