百鬼夜行の世界
〜鬼・妖怪・怨霊のばっこする時代〜
 平安時代は雅びやかな宮廷文学という表向きのイメージとは程遠く、鬼や妖怪がたむろする陰惨で恐ろしい時代だった。夜ともなると平安京の広すぎる大通りには人気もなく真っ暗になってしまう。その真っ暗な中を異常に大柄で奇怪な人々の集団に出会ったという話がよく記されている。

 その奇怪な集団とは鬼、妖怪が列をなして出歩いているもので、当時の人々は百鬼夜行といって非常に恐れていた。

 平安時代の文書「大鏡」では、夜、牛車で人目を忍んで通っていたある貴族が出くわした様子が描かれている。前方から近づいてくる異様な集団のシルエットを見つけた貴族は、牛車を急いで止めさせ、御簾の隙間より息を殺して、その一団が通り過ぎるのを見守ったが、それらは確かに馬のような顔をした色とりどりの恐ろしい鬼どもの列であった。貴族は、恐怖におののきながら、ひたすら経文を唱えてやり過ごしたという。

 また、深夜、御所の正殿の前を異常に大きな人間がうろついているのを見て、宿直の者があまりの恐怖で失神してしまったともある。


 今昔物語では鬼が人を食った話が出てくる。一人の婦人が松の木々に隠れたまま出て来ないので、不審に思ったお供の家来が探しにいったところ、木の根元に婦人の食いちぎられた手と足が転がっていたと言う。首と胴体はどこに消えたのかわからなかった。

 宇治拾遺物語では、旅の僧がたまたま荒れたお堂に泊まったところ、夜も更けて何やら大勢が近づいてくる気配がするので、破れ戸からのぞいてみると、何とも恐ろしい鬼、妖怪たちの群れであった。やがて、それらは本堂の中に上がり込んできた。よく見ると、角が二つだの目が一つしかない者だの色も大きさも様々で、口々に「人を食いたい」と背筋の凍るようなゾッとする声をあげている。
 
 僧は観念して一心にお経を唱え続けた。本堂は狭く、妖怪どもで目一杯となり、ついに鬼の一人が自分の所に近づいてくるので、危うく悲鳴をあげそうになったが、鬼は「こんなところに不動尊が一体ある。ここはワシが寝るので外に出てもらおう」と言って、その僧は摘まみ上げられてお堂の外に出されてしまった。どうやら、鬼には僧の姿が不動尊にしか見えず、そのために僧は命拾いしたのだった。

 この時代、平安末期は大寒冷期にあたり、飢饉、疫病によく見舞われた時代でもあった。餓えが続き疫病ともなると、たちどころにばたばたと人は倒れ、死人が出る。京都の寺は死体の捨て場に変わりはて、川にも流され、累々と屍が積み重なっていくのである。
 夏で水かさの少ない時など、川底に溜まった膨らんだ水死体が水を塞き止め、大雨にでもなれば、汚れた川の泥水が町に流れ込み、街路を半分腐った死体がプカプカ流れて行くという凄惨な光景だったと藤原定家は「明月記」で述べている。
 
 当然、平安京の町は治安が悪くなる。町といっても中心より少し外れると、朽ち果てた邸や荒廃した建物が散在するだけの荒れ地のような所である。このような廃屋に乞食や盗みで一日を送る人々が入り込んで勝手に住みついているのである。月のない夜など真っ暗で一寸先も見えないありさまだった。


 そのような晩に、顔を布や恐ろしげな面をつけた盗賊、人殺しの集団が横行するのである。検非遺使などいても何の役にもたたず、人々は恐れおののき、夜の危険で恐ろしい平安京に百鬼夜行のイメージを重ねていったのかもしれない。



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