悪霊に憑かれた人々
〜正気と狂気のはざまの領域〜
 今までごく普通だった人が、突如として物に憑かれたように狂人のようになってしまうことは古来よりよく記録されている。少し前の日本では狐に憑かれたとか、タヌキに化かされたと言う表現がよく使われ恐れられて来た。西洋では悪霊や悪魔に憑かれたとか言って悪魔払いの儀式がよく行われた記録が残されている。
* 江戸時代に起きた奇怪な話 *
 今から200年程前の江戸屋敷で起きた奇怪な事件が「耳袋」に記録されている。屋敷に奉公する女中が、ある日、行方不明になってしまった話である。屋敷には高い塀が巡らされており、屋敷の出入りには門番が監視しているから、密かに外に出るのは不可能だった。親元にも連絡したが、帰っていないということだった。そうして、何の手がかりもないまま3週間が過ぎていった。
 そんなある日、同じ女中の一人が手水を使おうとして、ふと下を見ると、縁の下から手水鉢に白い手がスルスルと伸びて貝殻で水を汲んでいるではないか。真っ暗な縁の下から人間の細い手が伸びている異様な光景を見てその女中は恐怖で失神してしまった。
 女中の悲鳴を聞きつけて駆け寄ってきた人々は薄汚れた女が縁の下に潜り込もうとしているのを目撃した。そうして、寸前で取り押さえてみると、痩せて汚れてはいたが、まさしく行方不明になった女中であった。
 人々はその女中を座敷にあげて、一体これはどうしたことか理由を問いただした。しかし、女中の答えは全く要領の得ないものであった。「私は良縁あって嫁ぎ、今では夫のある身です。いつも美味しいものをいただき何一つ不自由しておりません」というだけである。
 家来の者が、女中が嫁いだという場所に案内させてみると、そこは真っ暗な縁の下だった。そこにはむしろが敷かれ、欠けた茶碗が並べられていた。女中は、「ここが住まいです」と言い張るばかりである。夫の名を尋ねても要領を得ず、途方にくれた屋敷側ではその女中を親元に送り返してしまった。
 親たちは薬など与えて療養したがいっこうに良くならず、そのうち女は衰弱して死んでしまった。人々はこの奇怪な事件を狸に化かされたと言って気味悪がったということだ。
* 鬼女になった怖い話 *
 江戸中期に書かれた「諸国里人談」(しょこくりじんだん)にはこういう恐ろしい話もある。三河国に一人の女が住んでいた。彼女はすごく神経質で思い込みが強く、少しでも夫の帰りが遅い時などいらぬ勘ぐりをして茶碗など投げ散らしてよく暴れ回った。やがては毎日のように暴れまくったために、夫はいたたまれなくなり、辛抱が切れてしまい、本当に逃げ出してしまった。
 あてどもなく、女は逃げた夫を探し求めた。フラフラと歩き回るうちに、疲れ果て、喉も渇き空腹になってきたが、それでも女はさすらい続けた。やがて、本人も気づかぬうちに、少しずつ、女の頭の中には狂気が支配し始めていた。いつのまにか、歩いているうちに村の外れまで来てしまった女は、そこで村人が死人を火葬している場所に出くわしてしまった。
 女はメラメラと燃える火を見つめているうちに、ついに自分の精神も燃え尽きてしまった。口元は、うっすらと気味の悪い笑いを浮かべ、見つめる眼光は、狂気そのものであった。女は、何を考えたのか半焼けの死体にしゃがんで近づくと、火の中から死体を引きづり出したのである。そして、半焼けになった死体の腹を裂くと、臓物を取り出し、持っている鉢に入れたのである。そして、手づかみでうまそうに食べ出したのであった。
 そこへ、村人たちが火葬の様子を見に戻ってきたが、そこでのあまりの恐ろしい光景に全身総毛立ってしまった。そして、女を追い払おうとしたが、女は獣のようなうなり声を上げて首をすくめると、内臓の入った鉢を抱きかかえるようにして山の中に逃げ込んでしまったのである。
 その夜、近くの山寺で、鉢を抱えた女がしゃにむに何かを食っているのを見たと言う者がいた。村人は、その夜、松明を手に山狩りをしたが、ついに捕らえることは出来なかった。その後、人々は、女が生きながら鬼女になってしまったと言って夜な夜な恐れ、決して山に近づくこともしなかったという。
* 鬼婆の人食い伝説 *
 普通の人間が鬼や鬼女になるという話は全国各地に記録されている。その筆頭として安達ヶ原の鬼婆があげられる。安達ヶ原には世にも恐ろしい鬼婆が住み、道行く人々に一夜の宿を貸しては、その人肉を食らうというこの話は「大和物語」の中でも紹介されているから、平安中期には都でも語り伝えられているようだ。
 この話の発端は、都に乳母をしていた女がいたということから始まる。自分の奉公する館の幼い姫が理由のわからぬ難病に患り、ついに街中の医者は見放してしまった。弱り果てた主人は最後の頼みとしてさる高名な陰陽師に占ってもらったところが、その答えたるものは、「姫の命を救うには孕み女の中の赤子の生肝を飲ませるしかない」というものであった。
 その非情な答えに主人夫妻は嘆き悲しみ、日ごとに心身ともに弱っていった。健気で忠実であった乳母の女は、憔悴しきった主人夫妻のために、心を鬼にしてこの恐ろしい行為を実行することを決心した。しかし京の街では人目につき過ぎてまずい。どこか見知らぬ土地で身の毛のよだつ殺人を犯さねばならなかった。そうこうするうちに、乳母は、流れ流れて陸奥の安達ヶ原までやってきたのである。
 あれから、幾十年もたち乳母だった女の歯はすべて抜け落ち、野草、木の芽をしゃぶって露命をつないで生きる毎日だった。女の頭の中では、京の主人や姫のことなどいつの間にか忘れ去られ、赤子の生肝を手に入れることだけが、妄執のように取り付いていた。
 やがて、立ち寄る旅人を泊めては、殺してその人肉をむさぼり食うということを繰り返すようになっていった。
 神亀三年(726年)秋、一人の高僧が鬼婆の噂を耳にして、ここ安達ヶ原に立ち寄った。僧が粗末な掘ったて小屋を見つけて立ち寄ると、中には人間とは思えぬ老婆が一人、糸車を回していた。
 最初、一夜の宿を願い出たが、老婆は僧の頼みを断った。しかし、断られたにもかかわらず、僧はかまわずに上がり込んでいった。老婆は、諦めたように、勝手にされるがよいと一言言うと、また黙って糸車を回し出した。やがて、老婆は狂気の色をはらんだ目で、薪を取ってくるが奥の部屋には絶対立ち入るなと言って出て行った。
 僧が奥の部屋を覗くと、そこには累々とした白骨の山があった。中にはまだ肉のついた新しい死体もあった。気がついて戻ってきた老婆は、たちまち見るも恐ろしい鬼に変わり果てていった。しかし、僧はひるむ事なく、一心に祈り、一刀両断のもと鬼婆の首を切り落とした。
 思えば、これが数十年前、忠実にして健気な覚悟で京から落ちてきた乳母のなれの果てだったのである。僧は切り落とした首を塚に埋めると、鬼に成り果てた乳母の魂を供養したという。その首塚が今の黒塚と呼ばれるようになったというのである。
 以上が安達ヶ原の伝説である。正気と狂気の境目には、人間の悲しい定めのような領域があるような気がする。
 一心に物事を思いつめる宿命ほど、悲しくもはかない運命の糸に操られていると言っていいのかもしれない。そうした思いで鬼女伝説を考えると常軌を逸した人間特有の悲しい業にたどりつくのかもしれない。
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