死を欺いた人
〜人類の究極の願望、不老不死を求めて〜
 不死・・・永遠の命、いつまでも輝きを失わぬ美貌・・・現代の我々は、そうした願望が現実には絶対に適えられない代物であることを知っている。
 歴史をひも解くと、これまで権力を手中にした多くの独裁者がこの究極の願望を手に入れようと血眼になった事実が浮かび上がって来る。つまり、決して実現することのない幻想を追い求め、ひたすらはかない行為を繰り返したということであろうか。それは、まさしく人間の浅ましき行為、悲劇の積み重ねとも呼べる愚行の輪であった。現代の我々から見れば、これらの行為は珍奇で滑稽なものとしか見えないであろう。
 しかし、もしも何らかの方法で永遠とまでは行かなくとも若さと美貌をいつまでも保ち続けることが出来るとしたらどうであろうか? これから紹介する話は、永遠の命を願う人々からすれば、興味深い内容に映るかもしれない・・・
* 永遠の命をさがしもとめた人々 *
 古来、人は永遠なる命を求め続けて来た。まさに人間にとって永遠の命こそは究極の願望に他ならない。古代エジプトのファラオは、死後も生前と同じような世界が続くと信じていたために、絶大な権力と莫大な富をそっくり持って行こうとした。そこで、ファラオは生前中から何十年もかけて巨大なピラミッドを築き上げ、その中にやがて来る新しい世界のための身支度品や富と財宝のすべてを封印したのであった。
 今も王家の墓には何十もの墓がある。それらは、来世のために必要な物がたくさん詰められたファラオの富の結晶とも呼べるものであった。
 言わば、これらはファラオの願いを込めて建造され輝かしい来世での生活を保障するはずのものであった。
 しかし、現実はほとんどすべての墓は百年以内に暴かれて盗掘され尽くし、財宝はことごとく闇に売りさばかれてしまったのであった。
 中国の歴代の皇帝も、また、永遠の命を探し求めていた。その考えは神仙思想として語り継がれ不老不死の考えの基本ともなっていた。つまり、それによると、中国のはるか東方、たそがれの地には伝説の神山があるというのだ。その山の名は篷莱山(ほうらいさん)と言い、周囲を渤海という不思議な海に囲まれている。この山は遠方から望むと雲のように見える。ここには、仙人が住み不死の霊薬があると伝えられていた。仙人は空を自由自在に飛び、霞や霧を食って永久に生き続けることが出来るのである。
 しかし、この神山は俗世界に汚れていない純真無垢の心を持った人間にしか見えないのである。普通の人間がこの神山に近づこうとすれば、不意に風が巻き起こり、船はどんどん引き離され、山自体も朧げになり最後には海中にかき消されるように姿を隠してしまうのだそうである。
 中国史上初の独裁者となった秦の始皇帝は、金に糸目をつけずこの仙人の住むという神山を探し求めようとした。そして、この山にあるという不死の霊薬を見つけ出し、永遠の命を手に入れようと考えたのであった。
 絶大な富を独りじめにした始皇帝にとって、篷莱山にあるという不老不死の霊薬を手に入れることは最後にして最大の究極の願望とも言えるものであった。
 そのため、始皇帝は数千人の純真な少年少女を駆り集めて、広大な中国の山野を隈なく探させたのであった。
始皇帝、中国史上初の強力な独裁者
 しかし、いくら湯水のごとく資金を使おうが、多くの人間に無理難題を吹っかけて探させようが、始皇帝の無謀な夢はついに達成することはなかった。それどころか、巨額の費用を費やした無鉄砲な試みは人々の憎しみを買うこととなり、非肉にも帝国の寿命を縮めることになってしまったのである。まもなく、始皇帝は、癲癇の発作に襲われあえなく死なねばならなかった。それと同時に彼の独裁国家、秦もわずか11年で瓦礫のように滅び去ったのであった。
 中世ハンガリーでは、血塗られた伯爵夫人として知られるエリザベータ・バートリが永遠の若さと美貌を保ちたいために恐怖の生き血による美容方法を思いつき実践したと言われている。
 彼女の城の地下には、ありとあらゆる拷問装置、殺人器具が所狭しと置かれていた。
 そこでは、数百人の乙女が、人体実験さながらに残酷極まりない方法で殺されていったのである。ある者は、鉄の処女と呼ばれた拷問器具で串刺しにされ、ある者は、鋭い鈎のついた檻の中で真っ赤に焼けた火鉢で体を押し当てられ、苦しみのたうち回って死んでいったのである。
エリザベータ・バートリ究極のエゴイストであり、数百人の乙女の血を搾り取ったと言われる。
 こうして、殺された娘たちの体からは、レモン搾り器にかけられるかのように生き血が抜かれていった。このようにして集められた血の風呂に、エリザベータはどっぷり浸かって永遠の美しさを手に入れようとしたのである。
 しかし、いくら血をすすろうが、大量の鮮血を浴びようが彼女の望みは適えられなかった。それどころか、彼女は自ら選んだ恐ろしい罪の代償として、光のない闇の世界に終身閉じ込められることになってしまうのである。2年後、彼女が死んだ時、光のもとに晒された屍は、どこもかしこも縮こまりカサカサにひからびて見るも恐ろしいほどの無惨な姿に変わり果てていたと言われている。
* 死ねない少女の悲劇 *
 しかし、逆に、不死を手に入れたことがいいとも思えない話もある。我国の古今著聞集には人魚の話が出て来る。ある日、漁師が網を引いたところ、魚に混じって中に奇妙な生き物が混じっていたのだ。それは胴体は魚で頭は人間のよう。それも歯が小さく猿のような面相だった。かなりの大きさで二人がかりで担がねばならなかった。その時、この生き物は人間のような声で世にも哀れな声で鳴きわめいたらしい。しかし、この捕らえられた人魚の肉は食べてみると意外に美味なのであった。しかし、いったん、この肉を食べると、今度は死にたくとも死ねない体になってしまうのである。そうした物語が八百比丘尼(やおびくに)伝説なのである。
 それは、平安時代に人魚の肉を食べて死ねなくなり、八百年以上を生き続けねばならなくなった少女の悲壮な話だ。数十年が経っても、彼女だけは、いつも18才の面影のままであったという。
 嫁入りして、長い年月の間に、自分の夫や子供たちが次から次へと死んでいき、少女の両親も親戚も兄弟も皆死んでしまっても、彼女だけは年を取らず少女のままだった。
 彼女は、自分の身分やおいたちを隠して、孤独のままに生きねばならなかった。それは、ゆっくりとであるが恐ろしい拷問のようなものであった。
 つまり、彼女は、ひたすら生き続けることだけを運命づけられた存在なのであった。時が無慈悲に過ぎて、周囲の人間がすべて死に絶え、時代がどんどんと変化しても、彼女はどうすることも出来ず、ただ見守るしかなかったのである。こうして、人生の非情さをいやというほど悟った彼女は尼となり、全国行脚の旅に出たというのだ。
 源平の世も、蒙古が来襲してきた時も、やがて戦国の乱世となり、目前で多くの人間が不条理な死を遂げねばならなかった時も、彼女はひたすら傍観者として生き延びるしかなかった。江戸時代になって、幾度かの大飢饉が起こった時も、一粒の米もなく、多くの子供たちがガリガリになって痩せ衰えて飢死していくのを何も出来ずにただ見守るしかなかったのである。彼女の脳裏には人間の恐ろしいまでの浅ましさや罪深い業の数々が刻み込まれてゆくだけなのである。
 こう考えると、死ねない運命を背負わされるということが、どんなに悲しくて孤独で残酷なものかわかるというものである。死ぬことが出来なくなった彼女は、各地を点々としてさすらい、人々に善を説いて巡業を続けたと伝えられている。
 やがて、明治になって黒船が来た時も、彼女は急速に近代化してゆく日本を目の当たりにしたことであろう。しかし、それから起きる幾度かの大きな戦争で、途方もない人々がバタバタ死んでいくのも歴史の生き証人として傍観せねばならなかったのだ。
 今も全国各地には、八百比丘尼が植えたという椿や修造した寺社が多く残されているという。恐らく、彼女はそうすることだけが、自分の唯一許された定めであることを悟ったのかもしれないが・・・
* 不死を手に入れた男 *
 ヨーロッパにも、永遠の命を手に入れたと伝えられている人間がいる。不死の人として名高いサン・ジェルマン伯爵だ。
 18世紀のヨーロッパは神秘主義の時代と言われ、山師のように法螺を吹き人を惑わす人種が大勢いた時代である。その中でも、錬金術師で名を馳せたカリオストロ伯爵や不死の人と言われたサンジェルマン伯爵は最も傑出した存在であった。
 サン・ジェルマン伯爵は、錬金術により賢者の石を手に入れたという数少ない人間の一人であったと言われている。つまり、ただの石ころや屑鉄をダイヤモンドや黄金に変えることが出来たのである。当然のことながら、伯爵は途方もない大金持ちであったらしい。
サン・ジェルマン伯爵、人々から不死の人と呼ばれた。
 その上、伯爵は永遠の若さを保つことが出来るという秘薬を手に入れて永遠の命を身につけていたとも言われているのだ。伯爵はとてつもない博学の持ち主で、英語、スペイン語を始め、10か国以上の言葉を自在に操り、よどみなく繰り出される知識はまるで泉のように果てしなく尽きることもなかったらしい。しかも物腰はソフトで上品、容姿も穏やかで気品に溢れていた。それに加えて、洗練された話術は、聞く者すべてを舌に巻いて魅了するほどであったというから、たちまち、伯爵が宮廷のサロンの人気者となり、貴婦人たちのあこがれの的になったのも当然のことと思われる。ルイ15世も彼が大のお気に入りで、伯爵は常に警戒厳重な宮殿内を自由自在に出入りすることが出来たのであった。
 しかし、伯爵には謎が多く厚い神秘のベールに包まれていた。伯爵のことを詳しく知る者は誰一人おらず、伯爵がいつ何処で生まれたのか知る者もいなかった。しかし、本人はことあるごとに自分は4千年以上も生き続けていると吹聴しまくっていた。
 例えば、シバの女王とソロモンの謎の掛け合いを見守った時は固唾を飲んだとか、バベルの塔に上って見下ろした時の眺めは最高だったが、あまり高いので目が眩んだとか、クレオパトラに謁見を許され、アレクサンドリアの大図書館を見学した時はあまり広いので迷子になりかけたとか、モーゼが奇跡を起こした時は、すごい風が吹き荒れて息が出来なかったとか、アレクサンダー大王は、好青年で気前がいいが、あの酒乱癖にはほとほと参ったとか、そういったことをついこの間体験してきたかのようになつかしそうにしゃべるのである。しかも、伯爵のしゃべり方は、実にリアルで詳細なのである。まさに、聞く者すべての人間を魅了してしまうほどの臨場感あふれるしゃべりっぷりであった。
 そのうえ、飛行機もない時代に、伯爵は、ヨーロッパの至る所に忽然とあらわれた。ある時、ベニスに姿をあらわしたと思うと、今度はロンドンやパリに突然とあらわれるのである。一度、フランス大使夫人が50年ぶりに伯爵と再会した時など、ほとんど変わることのない風貌の伯爵を見て腰を抜かさんばかりに驚いたという記録もあるほどだ。
* 伯爵はタイムトラベラーだった? *
 そうなると、伯爵は時を自由自在に旅出来るタイムトラベラーだったのだろうか?
 事実、さまざまな記録書には、彼の特徴と酷似した人物がさまざまな時代に出没していると伝えている。記録されている伯爵は、いつも45才ほどでいつも変わらぬ若さに満ち溢れていたという。
 そのサン・ジェルマン伯爵も、フランス革命の勃発する数年前に死んだと言われている。しかし、伯爵の死を具体的に伝えている書はなく、その死が釈然としないことから、伯爵はどこかに生きているという噂が飛び交うこととなった。
 事実、ナポレオンは、独裁者になると、伯爵の居所を求めてヨーロッパ中を探させたという。恐らく、ナポレオンもこれまでの独裁者がそうしたように、不老不死となり永遠の権力者になりたかったに違いない。そのためには、不老不死の秘薬を持つ伯爵からその秘密を是が非でも教えてもらわなければならなかったのだ。
 しかし、いくら探せども伯爵の行方を知ることは出来なかった。しかし、それから40年近く時が流れ、19世紀になって、伯爵をウィーンやイタリーで目撃したと言う人が少なからずあらわれ出した。その証言をまとめると、一様に、何か国語もの言葉を流暢にしゃべり、気品のある紳士で風貌、身なりなど、伯爵その人と思われる特徴を合わせ持っているのである。
 こうなると、伯爵は、時を自在に越えて、勝手気ままにどこにでも出現出来るということであろうか。すると、今度、姿をあらわすとしたら、伯爵はどこにあらわれるのだろう? しかし、伯爵がいつどこにあらわれるか予測することなど不可能に近いことかもしれない。
* ある夜の晩餐会で *
 だが、私は知っている。貴方がまもなく招待されるであろう夕食会の席上にその男はいるはずだ。中肉中背でクリッとした目をして、栗色の髪を後ろになぜつけるようにしている。その外人は、優雅な身のこなしで流暢な日本語を巧みに使って上品に語りかけて来るはずだ。きっと貴方の方も彼に好意を抱くことだろう。しかし、気をつけた方がいい。なぜならば、その外人こそ、サン・ジェルマン伯爵だからだ。
 晩さんの食卓には、どれもこれもおいしそうな料理がズラリと並ぶ。その中に、レモンの輪切りが添えられ、スライスされた珍しい肉料理も出されるはずだ。そう、色は少し透き通って白い色をしている。伯爵は、きっと温和な表情で身ぶり手ぶりでそれを貴方に進めようとするだろう。
「本日はご多忙の中、よくお越し下さいました。今夜はゲストのみなさんのために、特別に山海の珍味を用意させました」
「これはブルゴーニュ産のシャブリです。本日届いたものですが、こちらのシャトー産の生牡蠣と実によく合います。この半透明のは黒海でとれたスタージェントの珍しいヒレ肉です。珍味ですよ。さあどうぞ、一口やってみて下さい!」
 おっと!・・・だが決して食べてはいけない。なぜならば、それは人魚の肉だからだ。食べたが最後、貴方は不死の体となって永遠に生き続けねばならなくなるのだ。それとも、貴方が不死の体を願うのであればそれでもいい。
 しかし、死ぬことが出来なくなるということは、孤独感と寂寥感にさいなまれて、この先、何百年もひたすら生きるだけの存在となる。
 友人も愛人もなく自分の身元を偽わり、永遠に世捨て人のような存在となり果てるのだ。
 それは、八百比丘尼のような悲惨極まる運命になることを想像するとよくわかる。つまり、それは、自然の摂理に反する運命とでも言えばいいのか。
 夏の暑い日中に、うるさいほどに鳴き続ける蝉は、一週間ほどで死んでしまうが、彼らは限られた命を精一杯生き、子孫に自らの願いを託して死んでゆく。花は限りあるからこそ美しいのだ。そう考えるなら、今を精一杯、有意義に生き抜くことが我々に与えられた本来の宿命なのかもしれない。
 でも、貴方が永遠に歴史の生き証人として、この国の末路まで見届ける勇気と覚悟があるのなら、それもあながち悪いとは思えない。
さて、どちらを選ぶのも貴方の自由だが・・・
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