ドッペルゲンガー
〜死の予兆か?その心霊現象の考察〜
 私は、真夜中、手洗いに行く時は、決して鏡を見ないことにしている。それは、鏡に写った自分自身を見るのが怖いからである。早い話が、鏡を見て、そこに写っている自分が笑いかけて来るように思えてならないのだ。
 もう1人の自分に出くわしてしまうかもしれないという恐怖感は、孤独になった人なら誰でも感じる共通の心理ではないかと思う。 もし、不幸にして、もう一人の自分に出会ってしまったら、どうなるだろう? 
 * いるはずのないもう一人の自分 *    
 深夜、目覚めてみると、誰もいないはずの自分の書斎から灯りが漏れている。不用意に電気の消し忘れかと思うが、どうもそうでもない。それだけでも、十分気味が悪いが、まさか、泥棒かと思って、恐る恐る忍び足で忍んでいくと、ドアの隙間から何者かの背中が見えるような気がする。誰かが自分の椅子に座って調べものでもしているのであろうか。
 誰だろうと思った瞬間、何かが変だと頭をよぎる。その者の後ろ姿が自分のそれとあまりにも酷似しているのである。逃げ出したい思いで凝視していると、感づいたのか、その者がゆっくりとこちらに顔を向け始める。半分ほど向けられた横顔を見た時、心臓をわしづかみにされたように全身が総毛立った。隙間から垣間見えたその顔は自分自身だったからだ。恐怖で卒倒する寸前に見た光景は、視線が合ってうっすらと微笑みかける自分自身の姿だった・・・
 *  
 ある男が山で遭難して救助を待っていた。外は恐ろしいほどの猛吹雪で不気味な音が鳴り響いている。男は斜面の窪地に身を隠し、ひたすら天候の回復するのを待っていた。すでに食料は底を尽き、わずかな燃料で暖を採っていたが、それもまもなく尽きてしまうと思われた。このままの状態が、後しばらく続けば万事休すであった。
 うとうとして、白昼夢のような眠りから目覚めると、いつの間にか嵐は止んでいた。空には満天の星空が輝いている。周囲は少しの風もなく、それどころか全く音のない静寂だけが支配していた。あれほどの猛吹雪がいつ止んだんだろうといぶかしく思いながらも、男はこれで助かったと思った。
 男は窪地から這い出して斜面の下を見た。はるか下方に灯りらしきものが見えた。しばらく、見ているうちに、その光はゆっくりと近づいて来るようだった。ああ、ついに捜索隊が来てくれたのだ! これで助かった!
 男は嬉しさのあまりに、斜面をよろめく足取りでまろび出た。体は衰弱して限界に近づいていたが、気力を振りしぼってその光の方向に向かって行った。やがて、相手の顔が望めるほどの近さまで来た。相手が無言なのを不審に思いながらも、男は感謝の言葉を口にしようとして思わず息を飲んだ。ぼんやりとカンテラの光に映し出されたその顔は、死人のように真っ青な自分自身の顔だったからだ。
 男は、声にもならない悲鳴を上げて、恐怖に駆られ闇に向かって突進した。わずか十数メートルのところに、底なしのクレバスが不気味な口を開けているとも知らずに・・・
* ドッペルゲンガーは死のサイン! *
 真夜中に、もう1人の自分に会うというゾッとするこの話は、ドッペルゲンガーと呼ばれる心霊現象の一種だと言われている。ドッペルゲンガーとはドイツ語で、自分の分身を意味する言葉だそうである。しかし、その言葉のニュアンスには邪悪なる意味も含まれているらしい。
 思わぬ時とんでもない場所でもう一人の自分と出くわしてしまう。一見、信じられないことだが、こうした奇怪な体験をした人間は意外に多いそうだ。しかし、さらに恐ろしいことは、ドッペルゲンガーに遭遇した場合、その人間は、まもなく死ぬ運命にあるという。このことから、ドッペルゲンガーという言葉に不吉で忌まわしいニュアンスが含まれることになったのであろう。
 リンカーン大統領や芥川龍之介なども死の直前に、自分のドッペルゲンガーを目撃したと言われている。ビデオで記念撮影していた女子学生が、後で見るとその時いなかったはずの人物が映っていたという話もある。その人物は、女子学生の横にいてカメラに向かって笑いかけているようなのである。しかも、気味の悪いことに、その人物はどう見ても女子学生本人と瓜二つなのであった。これが、原因なのか、数日後にその女子学生は頭がおかしくなり自殺してしまったということである。
 我々の脳の中には、自分の体の形や大きさを無意識に認識する領域がある。視覚で捉えた物が頭の中で立体的にイメージ出来るのもこのせいなのである。この能力があるからこそ、目の前にある物をつかむことが出来たり、障害物が置かれていてもぶつからずに通り抜けることが出来るのである。ところが、この部位に障害が発生したり傷ついたりすると、正しく機能しなくなるのである。
 つまり、その結果、自分の肉体の感覚が、別のもののように感じられ、もう一人の自分が存在するかのような錯覚に陥るのである。言うなれば、しびれて完全に感覚のなくなってしまった手足が、まるで自分の体の一部でないように感じられるのと似ている。
 こうした奇怪な感覚は大きく大別して二つのパターンであらわれることが多い。
 まず、いつも自分がどこからか何者かに見られているというおかしな感覚に陥るケースだ。
 もう一つは、自分の分身として目前に見えたりすることもある。いずれの場合も、この現象に遭遇した人間は、かなりの偏頭痛を伴っているケースが多く、脳に何らかの障害を患っていることが多いという。
 実際、頻繁にドッペルゲンガーを目撃した人間が、検査で脳腫瘍を患っていることが判明し、そのままでは、後、数日間しか命が持たないと思われたため、急きょ手術によってその障害を取り除いたということがあった。手術は無事に成功し一命を取り留めたのであるが、その人間は、それっきりドッペルゲンガーを見ることはなくなったと言われている。
 これらの事実から次のようなことが考えられる。ドッペルゲンガーとは、ある種の脳障害のために自分の肉体と外環境の境界が不明確となってしまい、自らの感覚までもが外部の環境とごっちゃになってしまったために、自分のゴーストのような幻影を外部に投影してしまったのではないかということである。つまり、実際にはそこにないはずの物を、あたかも見たかのような錯覚に陥ったのではないだろうか?
 他に、幽体離脱による物質化現象という説も考えられる。つまり、意識自体が肉体と分離した状態と言ってもよく、自分自身を違った位置から眺めている状態と言ってよい。
 臨死体験をした人間の証言によれば、死んで横たわる自分の姿を部屋の片隅からぼんやりと眺めている感覚なのだという。
 どちらの場合も、こうした奇怪な感覚に陥った時、当の本人は夢と現実の区別のつかない、幻覚を見ているような感覚でいることが多く、生と死の境界線上にいる状態と言えよう。
 つまり、ドッペルゲンガーに遭遇するということは、かなり差し迫った死の危機に直面していると言い換えることが出来るのではなかろうか。
* さとるの化け物と共かつぎ *
 自分の意識であるはずのものが、自分から離れ意識そのものが一人歩きして、自分自身を他人のような感覚で眺めることがありうるのであろうか? こうしたテーマを考えた場合、私は、さとるの化け物という話を思い出す。それは次のような内容だ。
 ある夜、木こりがたき火をしてもの思いにふけっていた。あたりは恐ろしいほどの静寂で、山も森も黒々と暗闇の中に、ひと固まりになってうずくまっていた。
 周囲に人の気配はなく、ただ、たき火のパチパチと生木のはぜる音のみがこだましていた。
 と、どこからか、さとるの化け物が姿を現して彼の向かい側に座った。
 木こりは、相手がさとるの化け物だと知って大変なことになったと思った。その化け物は、人の心の中がすべて読めるのである。人の心を食いつぶして読むものがなくなると、最後には殺してしまうという恐ろしい化け物なのである。
 その化け物から逃れるためには、決して自分の心の中を読ませないようにしなければならない。しかし、そのようなことが出来るだろうか。何を考えても、そいつには心が読めるのである。
 さとるの化け物は言う。「お前は、今、大変なことになったと考えているだろう 」「心の中を読ませないためにはどうしたらいいか考えているな」
 木こりは、いっそのこと飛びかかろうかと考えた。その瞬間、そいつは彼に言う。「お前は、今飛びかかろうと考えているな 。止めたほうがいいぞ」
 次に、木こりは考えまいとした。化け物は言う。「お前は、考えまいと考えているな。無駄なことだ」
 木こりは、こわいこわいと思いながらも途方に暮れるしかなかった。その時、たき火の中から、焼けた木の実がはぜて化け物の顔に直撃した。化け物は木こりが考えてもいない行為に出たと思って驚き、人間とはこわいものだと言って、尻尾を巻いて山に逃げ帰ったということである。こうして、木こりは、突発的に起きた偶然の出来事によって、かろうじて命を救われることになった。
 考えたことをすべて化け物に読まれてしまうというこの話は、何かの例え話のような気がしないでもない。1人でいると、やみくもに不安や恐怖などを感じ、自らつくり出した幻影におびえ疑心暗鬼になることがある。つまり、深い山中で、こわいこわいと思う気持ちが幻覚や幻聴を引き起し、存在しない架空の化け物をつくり出して、いたずらに恐怖を感じて怯えていたとも受け取れるのだ。
 実際、登山家の多くは、幻影や幻聴を体験しているという。登山中、一人っきりのはずなのに、すぐ横に誰かがいるという確信にも似た意識が芽生え始めるというのである。ある登山家はいつの間にか、仲間と一緒に行動していると思い込んでしまい、ザックから食料を出して、語りかけながらその仲間に与えようとした。その時になって、始めて気づいたのである。自分はもともと一人っきりで山に来ていたことを。
 こうした事実は何を意味するのであろう? 孤独感から自己の内面と対峙するあまり、寂しくなって架空の友をつくり出したということなのか? それとも、心の中に存在するもう一人の自分が一人歩きし始めたのであろうか? いずれにせよ、孤独感にさいなまれると、もう一人の自分が出現し、それに勇気づけられたり、場合によっては、恐怖心を植え付けられたりするということである。
 そういう意味では、共かつぎも心理的恐怖の産物と言なくはないだろうか。共かつぎとは、海女に恐れられている妖怪の一種で、青黒い海の底からどこからともなくあらわれ、アワビなどをくれたりするのである。
 そのうち、手を引いて深い海底に連れて行こうとする。いい場所を教えてくれるのかと思って、ついて行くと息が切れそうになる。手を振りほどこうとするが、離してくれない。そのときになって気づくのである。その海女が自分とそっくりの顔をしているということを。
 海は、一度、海中に潜ってしまえば、沈黙と暗闇が支配する不気味で孤独な世界。あらゆる危険がどこ知れず潜んでいる。誰に頼ることも出来ずに、心細くなった自分自身の心理と向き合わねばならないのだ。こうした時、人間の心の隙間に恐怖が入り込む余地がある。
 さとるの化け物も共かつぎも、こうした心理状態になった人間の心の弱さがつくり上げたメタモルフォーゼとも捕らえられる気がする。
  知らず知らずの間に、心の中にもう一人の別の自分をつくり出し、その自分に対峙して怯えていたということにはなるまいか。人間とは、自己のつくり出した恐怖によって、自滅してしまうという心の弱さがある生き物なのである。
 人間にとって、音が全くなく小さな闇だけの小部屋に閉じ込められるほど恐ろしい拷問はないという。大抵の人間は、短期間に錯乱して気が狂ってしまう。つまり、様々な幻覚と幻聴に襲われて、最後には、自分自身が押し潰されて自己崩壊してしまうのである。
* 悲しみを乗り越えて *

 人の心の中には、複数の異なった性格が同居しているという。それらは、普段はうまくまとまり合って、一つの人格を形成しているが、何かの拍子に、調和を崩してしまうこともありうるのだ。この場合、深い悲しみ、怒り、恐怖、嫉妬、絶望と言った要因が引き金となるケースが多い。
 うつ病や統合失調症と呼ばれる精神疾患の類も、こうしたことが原因となって発病に至るのだそうである。
 恐らく、マイナスの感情が瞬間的に洪水のように満ち溢れ、もはやその負荷に持ちこたえられなくなった精神が崩壊してしまうのであろうか。
 こうなってしまうと、意識が混沌として夢と現実の区別がなくなって正常ではなくなり、常軌を逸した狂気が目につくようになるのである。
 今日、こうしたプレッシャーに押し潰されて心の病に陥り、自殺する人は絶えることがない。日常には、健全な精神が病みやすい条件があまりにも揃っている。考えれば考えるほど泥沼に入り込むのである。そこでは、人間同士の隠された欲望や妬み、さまざまなエゴ、相手への嫌悪感から来るいじめやリストラなどが渦を巻いているのだ。
 まさに、人間の大きな武器であったはずの思考力が、逆に自滅の誘因になってしまうことにもなりかねない。しかし、心の導き方次第によっては、別のもう一人の自分自身に出会うことだって出来るはずだ。もっとタフでもっと力強い自分自身に・・・
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