植物がささやく時
〜植物の不思議な世界、その感情と心の存在を探る〜
* あなたは植物に好かれているだろうか? *
 もしも植物にも人間と同じような感情があるとしたらどうだろう。彼らは日頃からどういうことを感じて生きているのだろう?
 私たちは、普段から、何気なく植物に接っしている。鉢に植えられたパンジーに水をやり、適当に日光に当ててやり、夜になれば部屋に入れてやる。そうした私たちの行為に植物たちは何か感謝をしているのだろうか?
 植物好きの人が草花を育てると、大抵色艶もよく生き生きとしていて香りも一際高いようである。確かに、まめに水をやり世話にも余念がないからとも言えるが、そうしたものを越えて、何かそれ以上のものを感じてしまう時がある。そんな時、植物にも心や感情があり、もしかしたら人間の気持ちが分かるのではないかとも思えて来るのである。
 朝起きて、鉢に植えられている花に近づく、すると、植物たちは、水をもらえるものと思って喜びの感情を露にする。日の光の当たる所に鉢を置いてやると、花たちはその可憐な花びらを一杯に広げて感謝の気持ちを表現する。逆に、水も与えられずろくに世話もされなければ、花は重そうにたれて、葉は艶がなくなってしおれて来る。その様子は、無視されたばっかりに、元気がなくなって意気消沈してしまったようにも見える。
 もし、そういうことになれば、植物はもはやあなたに好意を示さないだろう。
きっと、近づいても拒否のサインを示すはずだ。そんな時、自分が植物に好かれているのか嫌われているのかわかるというものである。
* 植物はクラシック好き? *
 インドの植物学者だったシン博士は、植物の細胞が一定の音量を流した時、目覚めたように生き生きと活性化するという事実を発見した。さらに、博士は、楽器による演奏での実験も試みたが、やはり結果は同じであった。こうして博士は、調和のとれた一定の高さの音を流すと、植物の成長を早め、果実や種子の出来にいい結果を持たらすということを確信したのである。実際、畑や田んぼでインドの民族音楽を流してみたところ、何もしない時よりも20〜60パーセントもの多くの果実を得ることが出来たのであった。
 この理論をさらに発展させたのが、アメリカのブローマン教授で、彼は音楽の種類と植物の成長との間に何らかの相関関係があるのではないかと考え、もう一歩踏み込んだ研究を行った。実験対象としてカボチャが選ばれ、クラシックからフォークソング、カントリーウエスタン、モダンジャズまで様々な音楽が試されることになった。  
 まず、ベートーベンやハイドンと言ったクラシックには、カボチャはつるをスピーカーにまで絡ませるほどの気に入りようだった。しかし、ロックとなると、植物は苦手と見えて正反対の方向に逃げていった。フォークソングやカントリーウエスタンなどの曲も好きではないのか完全に無視してしまった。しかし、モダンジャズは、好きと見えてたちまちつるを絡ませて来たという興味深い話がある。
 この実験の結果、音楽であればすべていいのではなく、植物はある種の音楽には見向きもしないばかりか、逃げ出そうとさえすることが判明したのである。
 現在では、果樹園などでスピーカーから音楽を流して、植物の成長を促し、より多くの収穫を期待するのが当然のことのようになっている。
 品質のよい果実をたくさん得るには、音楽は必要不可欠な存在なのである。
 おかげで、多くの果樹園では、誰も聞いていなくてもモーツァルトやベートーベンの名曲が繰り返し流されている。
* 植物の感情をさぐる *
 しかし、植物は音楽に対して、物理的反応をしているだけなのだろうか?それとも、人間のように嗜好があって好き嫌いと言った感情のもとで、こうした曲に反応しているのだろうか?
 こうしたことを実験しようとした人がいる。ウソ発見機を扱う専門官養成所の所長だったバクスターという人物である。彼は、ある日、植物にも人間と同じような感情が果たしてあるのだろうかと疑問に思ったのである。
 今日、人間の体には微弱な電流が流れていることが知られている。そして、弱電流を流せば細胞の活性化を促すこともわかっている。そうした原理を応用してエステなどでは皮膚の若返りの美容術が行われているようだ。ところで、この生体電流は、ある条件下では微妙に変化するのだ。例えば、事実と違うことを故意にしゃべろうとしたり、無意識のうちに心の抵抗があったりすると、心の乱れが細胞内の電流の乱れとなってあらわれるのである。こうした生体内に流れる電流の変化を応用したものがポリグラフ(ウソ発見機)なのである。
 バクスターは、このウソ発見機を人間ではなく、植物に対して行えばどうなるだろうと考えたのであった。それは彼のほんの気まぐれから起こったことで、ちょうとした好奇心からであった。
 しかし、この気まぐれが後になってとんでもない結果を持たらすことになるとは彼は知る由もなかった。
 彼は、何気なくドラセナという観葉植物の葉にポリグラフのクリップを取りつけると、なみなみと水を汲んできて、勢いよくドラセナの根本にやり始めたのである。
ドラセナ、リュウゼツラン科、別名幸福の木とも呼ばれる。育てやすく開運や金運を呼ぶ植物とされ、観葉植物として人気がある。
 すると、針は小刻みに動き始めた。それは人間で言う興奮状態にあるのと似ているように見えた。
 まるでドラセナが水を与えられて喜んでいるようにも思えたが、ただの反射作用によるものなのか見当がつかなかった。次に葉を熱いコーヒーの中につけてみたが何の異常も見られなかった。そこで、今度は何かもっと強い刺激を与えたらどうだろうと考えた彼は、半分投げやりになって、いっそのことドラセナに火をつけたらどうなるだろうと考えたのである。まさにその瞬間だった。針は彼がまだ実際に行動を起こしていないにもかかわらず大きく上下に波打ったのである。それは、まるでドラセナが彼の心を見抜いて悲鳴を上げたかのようだった。
 この発見は衝撃的なものだった。一見、無機質に見える植物にも人間と同じような感情が備わっていることを示すものであったからだ。彼はその後もさまざまな実験を試みた。
 ミジンコや小エビのような小動物を熱湯に入れた時や傷口を消毒するためにヨードチンキなどをつけた時なども、激しい揺れを記録することもわかった。植物を焼いて乾燥させ、その成分を分析をしているという専門の植物学者が近づいた時などまるで気を失ったように針は一斉に沈黙してしまったりした。また、植物に興味のない人間がいやいや世話をしたり、不公平な扱いをされると、メーターの針は全く反応しなくなってしまうこともわかった。
 こうして得た結論は、植物にも人間のように喜び、怒り、恐怖、嫉妬と言った多彩な感情を持っているということであった。また、植物は他の生物が死ぬ時や自らの身に危険がおよぶ時などにも激しく反応することがわかった。つまり、植物は自分の近くに起こる死や殺意といったマイナスのエネルギーを敏感に察知するのである。例えば、ある邪悪な心を持った人間が、表面上、善人ぶって近づいてきても、植物にはその人間の持つ本質を鋭敏に見抜いてしまうということである。そして、手荒に不公平な扱いを受けたりするとすねたり嫉妬したりするのである。逆に、自分を保護して優しくいたわってくれる人間には、一段といい香りを漂わせて葉や茎全体を使って率直に喜びの表現をあらわすのであった。
* 植物が私たちに与えるメッセージ *
 本来、植物の感覚は、動物のそれと比べて本質的にちがうとされる。動物が鳴いたり、動きをすることで自らの喜怒哀楽を伝えるのに体して、植物の場合は受動的である。
 つまり、特殊な感覚によって相手の心を読み取りそれに応じて反応するのである。それが、生物から発せられるオーラ(生体から発せられるエネルギーの場)を読み取れるためなのか、それともテレパシーのような読心術に近いものなのかはわからない。
 生命力に満ち溢れ精神性の高い人物からは一際強いオーラが発散されるというが、そうした強いエネルギーに植物は一段と強く反応するのである。
オーラは、その人の健康状態から性格、考え方までを反映する霊的な炎と言われている。
 今日では、植物は、天変地異を予知できる特殊な能力を秘めていることが知られている。オジギ草は光や音に敏感に反応することが知られているマメ科の一年草だが、その感触は実にデリケートで指で少し触れただけでも即座に閉じてしまう。その動きは植物というよりも動物的に思えるほどだ。そして、日の出から葉を開き始め、日没30分前から徐々に閉じてゆく。その規則正しさは時計なみである。
 ところでこのオジギ草、地震や雷、火山の爆発など、なにか突発的な異常が自然界に起こる際には、2日ほど前から不規則な反応をすることが知られているのだ。つまり、昼間なのに葉が閉じたり、夜でも葉が開いたりして規則正しいはずのオジギ草のリズムが狂い出すのである。こうした時、何か突発的な恐ろしいことが起こる前ぶれと考えられる。つまり、オジギ草は、そうした形で我々に緊急のメッセージを送っているのである。
* 興味深い進化の原理 *
 植物は危険を察知した時、どうするだろうかという実験がなされたことがある。植物に何千という害虫をけしかけてみたのである。動くことがなく受け身一方の植物は、大量の害虫にたかられて、何もせず手をこまねいて死を待つだけなのか、それとも何らかの防衛処置を取るのか、それは興味深い実験であった。
 最初のうち、植物は一方的に害虫にたかられて葉を食い尽くされていくだけであった。しかし、そのうち、どうしたことか、害虫は食欲をなくしたかのように食べなくなり、元気をなくして動かなくなってしまった。
 中にはボロボロと落ちて死ぬものも続出した。調べてみると、植物は昆虫が嫌がる特殊なエキスを自らの葉の中に合成していたことが判明した。つまり、昆虫にとっては、最初はおいしいと感じた葉っぱが、次第にまずくて食えない代物に変化していったということである。
 昆虫は次第に元気がなくなって餓死に追い込まれたのである。こうして、植物は自らの体内に昆虫の嫌う生分をつくり出すことでまんまとを危機を乗り越えたのであった。
 しかし、この話にはまだ先がある。時間が経つにつれて、昆虫の方も植物の合成した毒に平気な免疫体質のものが出現するからである。すると、また植物は新手な手段に出ることになる。こういう形で植物と昆虫との永遠の知恵比べが繰り返されるのである。これは相手が昆虫ではなく鳥や小動物の場合でも原理は同じである。
 こうして、お互いに争ったり利用し合ったりして植物と動物はしのぎを削り合ってゆく。
 植物は、長い年月をかけて必要に応じて葉のデザインをギザギザにしたりトゲトゲにしたり、堅い殻をつけたり逆にネバネバにしたりする。
 一方、昆虫の方も植物の変化に対応して形が変わったり、嗜好や習性が変化したりするのだ。
 こうして考えると、進化とは何億年もの間、ひたすら繰り返されるシーソーゲームのようなもので、果てしなく続けられる化かし合いの応酬合戦のようなものだという気がする。
 ハエジゴクという食虫植物も、こうした知恵比べの果てに出現したタイプなのであろう。
 ハエジゴクは、葉の付け根から甘い蜜を出す。ハエなどがこの匂いに吊られてやって来ると、待ってましたとばかりに素早い動きで、長いとげのある葉が左右から閉じて、まるで牢屋にでも入れられたようにハエを中に閉じ込めてしまう。
 その動きはまるで動物のようである。一旦、閉じ込められたら、もはやいくら暴れようが逃げることは出来ない。やがて、消化液が滲みでて昆虫はゆっくりと溶かされてしまうのだ。確かに、その名の通り、ハエにとっては地獄以外の何物でもない。
ハエジゴク、ウツボカズラと並ぶ有名な食虫植物。北アメリカ原産で温帯性で乾燥に弱い。昆虫が触覚毛に触れると、0.5秒で閉じる早業である。
 土壌の貧困な土地で生きていくために、昆虫の養分を吸収していく必要に迫られたのだろうが、実に理に適った自然の摂理としか言いようがない。ちなみに、このハエジゴクという植物、別名ヴィーナス(絶世の美女)というらしい。女はよく花に例えられるが、甘い香りを漂わせて獲物を誘惑するという行為から、この名がつけられたのであろうが、妖艶な魅力の中に危険が潜んでいるというのは万事に共通するらしい。
* 植物の心を感じてみよう *
 もしも、植物の心を読むことが出来るなら、それはどういうものなのだろう。こうしたことを究明するために、もう少し突っ込んだ試みがなされたこともある。
 バクスター研究所にデビー・サップという少女が訪問してきた時の話がそれである。彼女によれば、自分はとても感受性が強く、植物とさえ交信ができて、しかも植物と一体化することだって可能だと言うことであった。そこで、彼女に植物の中に入り込んでもらって、植物の心とはいかなるものかを調べようという実験が行われることになった。
 少女はまず瞑想すると、自分のイメージを部屋の隅の観葉植物に集中した。まもなく、彼女の意識は、実体を離れて吸い込まれるように根から入っていった。
 視覚が一瞬途絶え真っ暗になったと思うと、次の瞬間には、黄昏れの中にいるような不思議な感覚になった。回りには橙色や緑色をしたフワフワしたイメージがゆっくりと漂っている。
 やがて、彼女の意識は、根から茎の部分に入り込んでいった。周囲には、ぶわぶわした気球のような浮遊物が渦を巻くように一定方向に流れている。それは半透明で乳白色をしていた。
 時々キラッキラッと強く光り輝いているのは水の分子なのであろうか。その側で、螺旋系で小さな球のようなものをたくさんひっつけた細胞らしきものが、膨張したり収縮したりして無数に漂っていたが、実に幻想的な景観であった。
 彼女はそれらとともにゆっくりと上昇していった。流れは少しずつ早くなり、次第に明るくなってきた。
 時おり、透き通ってピンクに光り輝いている球体やコロイド状の白っぽいモヤのようなものが、すごいスピードで彼女を追い抜いていく。
 彼女はこの時自分が天高く飛翔しているような躍動感を覚えていた。
 ひたすら上り詰めていくうちに、今度は軽やかで解放された心地よさがみなぎってきた。もうその頃には、彼女の意識は植物の一部に同化してしまっており、もう意識という感覚すら消えてなくなり、何もないという漠然とした感覚だけが感じられるだけであった。
 そして、葉の近くまで来たと思われた頃、そこにはめくるめく光のイメージがあった。
 水晶のようにキラキラ輝いている光、黄金色に変化したり半透明になったりして光沢を放っている光、虹色に輝く光、まさに何千何万の美しい光が乱舞している光の洪水というべき景観であった。
 この時、彼女はなぜか永遠の安らぎにも似た満ち足りた気持ちであった。それは何か広々とした中で、自分が優しく暖かく抱き抱えられているような浄福に充ちた感覚なのであった。
* 人間のオーラに反応する植物の心 *
 以上は、彼女が後年になって語った内容である。きらめく光の中で、穏やかで安らぎにも似た感覚、つまり、これこそが植物の心と思われるものであった。植物の感覚は宇宙感覚とも呼べるもので、この世に存在するあらゆる元素の響きを敏感に感じ取れる触覚のようなものと言ってよい。あたかもそれは魂の鏡のように、どんなに巧妙に偽っても心の底に隠された知られざる姿を如実に映し出してしまうのである。これを裏づけるような面白い実験が行われたことがある。
 つまり、植物を二つに分けて、異なった条件で育てるという実験が行われたのである。水や栄養など環境面では差をつけないが、一方は、絶えず植物に向かってどなり散らしたりけなしたりして育てる。もう一方は、愛情を感じさせる優しい言葉をかけて育てるのである。すると、どうだろう。穏やかで優しい言葉をかけて育てられた方は、色艶もよく、すべてに生き生きとしているのに対して、どなり散らして育てられた方は、次第に元気がなくなり、やがてしおれ始め、ついには枯れてしまったということであった。
 これは、植物が人間の発するオーラに正直に反応したためではないかと思われる。人間がきつい言葉、他人の心を傷つけるような言葉、すなわち言葉の暴力を用いる時の心理状態では、正常なオーラは放射されないということである。それどころか、生命力を削ぎ取ってしまうような逆の効果しかない。病は気から来るというが、健全で前向き、愛情深い人の周囲にはいつも生命力が満ち溢れている。逆に、精神的に不安定で悲観的、常にイライラして金切り声をあげ続けているような人にはマイナスのパワーしか漂っていない。そうした人間が、病気になりやすくよくないことしか起こらないのもそのためなのである。このようなエネルギーの場に、植物は良かろうと悪かろうと目ざとく反応するのである。
* 心を純粋にすれば聞こえる生命の詩 *
 植物の心は正直で受動的である。彼らの方からは何一つ隠そうとはしていない。ただ、我々の偏見が彼らの誘いを拒んでいるだけなのである。植物と交信するためには、偏見にとらわれていない純粋な心が必要とされる。つまり、疑いの心が半分あったり、他のことに気を取られ集中力が妨げられた状態で行うと決して成功しない。精神を集中し心を疑いのない純粋な境地に持っていかねばならないのだ。この意味で、植物と交信するには、純真な子供が向いているのだそうだ。
 女性も、感覚的に右の脳で思考すると言われているので男性よりも向いているらしい。すべてを受け入れることの出来るオープンマインドの心の持ち主だけが、植物の心と交信することが可能なのだ。そして、植物たちは、常にそうした汚れなき心が来るのを待っている。森の中でそうした植物たちの心を感じた時こそ、森の精霊の存在を実感できる時ではないかとも思える。誰でもイメージトレーニングの仕方次第によっては、前述の少女のように植物の中に入り込み一体化することだって出来るはずだ。その時、植物は私たちの呼び掛けに素直に応えてくれる。
 あなたが植物と一体化して、自然界の伝導となる時、植物と地上のあらゆる生き物たちのささやき合う声が聞こえてくることだろう。
 自然のあらゆるものは生きている。小さなコケからちっぽけなトカゲにいたるまで。耳を澄ませば、そのささやきは甘いメロディーとなって響いて来るにちがいない。それは生命の詩と呼べるものだ。
 そんな瞬間、私たちの意識は自分の身体を離れ大いなるものの一部となる。その時こそ穏やかで至福に充ちた瞬間、つまり、森羅万象をつかさどる神々と心が通じあっている時ではないかと思う。

 古来より、預言者たちはそうして培われた不思議な感覚で、これらの声を耳ではなく心で聞いて来た。そして、天からの安らぎと浄福を与えてくれる存在と見なして来たのである。

 もし、その存在を私たちが「神」だと信じているのだとしたら、宇宙を貫く大いなる意志とは、常に身近で私たちを見守ってくれていた暖かい存在、つまりこの世に生きるすべての生き物たちの汚れなき心だと言ってもよさそうだ・・・
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