昆虫の心をさぐる
〜神秘的で不思議な昆虫の世界〜
* 昆虫の季節 *
 また暖かくなり、夏が来ようとしている。夏は昆虫の季節だと言っていい。6月になると蛍が乱舞する幻想的な夜が到来する。

 梅雨があけるとぎらつく太陽の季節がはじまるが、それと同時にセミの大合唱もはじまる。アリは日がな一日せっせと巣穴に何がしかを運ぶ作業を延々とくりかえし、蝶はひらひらと野山を楽し気に舞う。夜になれば、明かりにつられていろんな種類の虫が飛んでくる。山に行けば、さまざまな昆虫の姿が見られる。甘酸っぱい匂いのする樹木の幹では、カブトムシやカナブンなどの昆虫が寄り集まって、押し合いへし合い、樹液を吸おうと渾身の力を傾けている。その中にはスズメバチなどのありがたくないのもいるし、蚊やブヨといった近寄って来て欲しくないのもいるが、ともかくそこら中、昆虫でいっぱいだ。
 秋風が吹く頃になると、樹液は枯れ、それと呼応するように昆虫たちの姿も消えてゆく。木々の根元には昆虫の死骸が転がっている。中には死にきれずに弱々しげに足を動かしているのもいる。その様子は痛々しくあまりにもはかない運命としか言いようがない。一体、昆虫は何を感じて毎日を生きているのだろう。
 こういうとき、私は昆虫と話ができる少女の話で「フェノミナ」という映画を思い出す。その映画では、テレパシーで昆虫と意思を通じ合える少女が出て来る。昆虫の方もそんな少女が大好きで、彼女の周囲をいつもあたたかく取り巻いている。少女が奇怪な事件にまき込まれ、命があぶなくなったとき、少女が助けを呼ぶと、空の一角から昆虫の大群が舞い降りて来る。そして、間一髪のところで少女を助けてくれるのである。
 私はこの映画のテーマ音楽を聞くたびに、自分が昆虫と意思の疎通や心を通わせることが出来るならどれほど面白いだろうかと考える。きっとそうなれば、すっかり物の見方が変わることにもなるだろうと思うのだ。
* 地球は昆虫の惑星 *
 昆虫ほど種類の多い生き物もいないだろう。この地球上に60万種以上あると言われ、アリだけでも6千種類ものアリが存在すると言われている。つまり、この地球の生物種の7割は昆虫なのである。しかも生物としての歴史も古く、今から3億年ほど前、シダやソテツの大原生林がこの地球をおおっていた頃、巨大なゴキブリ、翼長70センチはあろうかと思える巨大トンボが陽のあたらぬうっそうとしたジャングル内を飛び回っていたらしい。
 思えば、この時代の昆虫はずいぶんと大型だったようだ。

 節足動物にいたっては、3メートルにもおよぶ巨大なヤスデやムカデが倒木や朽木の間をはいまわっていたという。
 恐竜の時代になると、もうその頃には現在見られるほとんどの昆虫の種が出そろうことになる。その後、恐竜を絶滅に追い込んだ地球を襲った大異変にも昆虫は大きく種を減らすこともなく生き延びた。いや、むしろその適応力と多様性をさらに強化したと言えるだろう。日常、嫌われ者のゴキブリなど、その俊敏な動きと恐ろしい生命力でその姿をさほど変えることもなく現代にいたるまで生きながらえて来ているのである。昆虫は数億年を経て試行錯誤の結果つくられたもっとも完成度の高い生き物だと言ってもいいのである。
* 高度な昆虫の能力 *
 昆虫の脳にも味や匂いを感じたり、物を見たりする知覚の中枢や、飛んだり這ったり餌を捕えたりする運動の中枢がある。しかし人間の発達した脳に比べると、昆虫の脳などとるに足らないちっぽけなものでたいしたものではないと思うだろう。ところが、そのちっぽけな脳に彼らの恐るべき能力が秘められているのである。
 昆虫の記憶力を試すためにジバチである実験が行われたことがある。ジバチが巣の中にいるとき、巣の周囲を取り巻くように木の切り株をならべておいたのである。さて、ジバチが巣を出ていった後、切り株を巣からどけてすぐ隣の場所に移動させて同じようにならべて置いた。まもなくして餌をくわえた親ジバチがどこからか帰って来た。ジバチは自分の巣には帰らずに、切り株が取り囲んでいる真ん中に降り立ったということである。つまりジバチは自分の巣だと勘違いして別の場所に降り立ったのである。この実験によって、ジバチは周囲の景色を記憶して自分の巣の場所を覚えていたということがわかった。
 ミツバチにしても、花蜜を採取するために数キロ離れた場所まで飛んでいくが巣に帰る道順を景色で覚えているらしい。しかもどこそこにどんな花が咲いていて、どの時刻にいけば開花してもっともいい条件で花密を得られるかも知っている。
 また飛行中、偶然見つけたいい花畑などがあったりすると、巣に帰るなり、尻を振りながら独特のパフォーマンスを行い、花畑までの距離と方向を仲間のミツバチに知らせるのである。
 その際、また持ち帰った花蜜は貯蔵係りのハチに渡されるが、貯蔵係りが吟味して品質の良いと思われたものは最優先にされ、糖度の低い品質の悪いものを持ち帰ったものは後回しにされるという。
 オニヤンマなども自分の縄張り内の景色をよく覚えていて、毎日、日課のよようにパトロール飛行する。その見回り飛行は恐ろしく正確で、この松の木から始まって小さな渓流を飛び越え、少し下がったところにある杉の木まで来るとくるりとUターンをすると言った具合で、一定の高度でコースも時間もきちんと決められている。それが繰り返されるのだが、その正確さはJRの運行表なみである。トンボたちは完全主義者なのであろうか?もし人間が彼らの飛行ルートの真ん中で立ん坊をしていようとも、ちゅうちょしたあげく強引にそばをすり抜けて突破して行こうとさえする。アゲハチョウの類にも蝶道というのがあって、おおむね定まったコースを飛んでいるらしい。
 こう考えれば、蝶やトンボなど出たとこ勝負でフラフラとでたらめに飛んでいるのではないことがわかって来る。彼らは目的があっていずこかに飛んでいこうとしているのである。
 嗅覚にしても、何キロもの彼方から昆虫たちはその匂いをかぎつけて確実にやってくる。アリなど台所にある砂糖ツボにいつのまにか集って来るのは誰もが知っていることだ。一体、どこからやってくるのかわからぬが、その行列はいろいろな障害物をものともせず迂回したり横切ったりしながら万里の長城のように延々と連なっている。また、カブトムシの好きな甘酸っぱい液を木に塗っておくと、何キロも彼方からその匂いを嗅ぎつけて夜のうちに飛んでくる。
 昆虫の聴覚もするどいセンサーだ。ツクツクホウシなどは敏感に相手の接近音をキャッチして逃げ去ってしまうし、鳴いているキリギリスに近寄ろうとしても、少しの音を立てただけでも警戒して鳴き止んでしまう。
 ムラサキシタバという美しい大型の蛾は特殊な聴覚をもっていることが知られている。この蛾は夜行性ゆえに夜になると樹液を求めて森をさまようが、その際、蛾が大好物のコウモリが放つ超音波をキャッチすると、反対方向に逃れようとするのだ。追い詰められて間に合わないときなど、飛ぶのを止め、コウモリの目前でストンと地面に落下して、姿を消す芸当すらやってのける。
* 昆虫からものはどう見える? *
 昆虫はかくのごとくすぐれた嗅覚を持っているが、視力はよくないとされる。カブトムシやクワガタムシなども視力はよくなく、棒で突つかれてから慌てふためいて逃げることもしばしばだ。したがって彼らは昼間のあいだは木のうろの間などに隠れていて夜になると活動を開始する。視力のいいとされるミツバチにしても人間の視力の1/100ほどで、花の種類などは嗅覚で分別しているらしい。蝶の一種モンシロチョウは白色は識別することが出来ず、自分たちの羽の色は黒っぽく見えるらしい。しかし、視力は弱くとも彼らは複眼という機能的な働きをする目をもっている。
 複眼は我々の目とちがって小さな目がいっぱい集まったもので、トンボで20000個、カブトムシで15000個、ハエで4000個ほどの複眼がある。よくデパートの電気製品コーナーに行けばモニターをたくさんならべて同じ番組を映している場所があるが、そんな感じで彼らはものが見えるのだろうか? いや、そんな見え方だと昆虫でもめまいをおこしてしまうにちがいない。
 人間の場合、目が二つあるからと言って被写体が二重に見えることはない。見える像は一つだけだ。ただ左右の目で角度をつけているわけだから、遠近感(被写体までの距離感覚)がつかめるのだ。
 トンボも20000個の複眼があるからと言って被写体が20000個も見えるわけではない。ただ、人間の目よりも広範囲、つまりほぼ360度の視覚で周囲が見渡せるので、パノラマ写真のような見え方をすると思われる。
 つまり、小さな目の一つ一つの精度は低くっても、たくさん集まっているので、一度に、前、横、後ろ、上下、と死角をつくることなく広範囲にものを見ることが出来ることになる。
 これは天敵がどこから襲って来てもいち早く察知してすみやかに逃げることができ、逆に捕食する場合は身体を少しも動かすことなく獲物を発見できるという利点がある。これも弱肉強食の世界で生き延びるために発達した昆虫たちのすぐれたメカニズムの一つなのである。
人間の目で見た景色(上)
トンボから見た景色(下)
 ホタルも視力は弱いものの、淡い光を何倍にも増幅できる複眼があるため、遠くのわずかな光をも識別できる能力がある。
 ホタルが発光するのは、異性を求めるための繁殖行動であると言われている。海上でよく船同士が光を点滅して合図をするように、ホタルは身体の一部を発光させることによって相手にラブコールを送るのである。
 雄がよく飛び回る反面、雌はあまり動かずに草木に止まってじっとしていることが多い。
 雌が雄の光に好意的に反応すれば婚約は成立するらしい。その際、雄はお尻を点滅させながらフラフラと飛んで雌の方に近寄っていく。
 ホタルは成虫になって2週間ほどしか生きられないが、限られた命を精一杯燃焼し、はかない光を点滅させて相手を求め合うというロマンティックな習性は、平安時代のもののあわれの美意識にも通じるものがあり、古来より日本人の心を魅了してきた。
 そういう意味では、ホタルは日本人にとっては特別な思いのある昆虫だと言えるかもしれない。
 ところで、昆虫採集に行くときは、帽子をかぶって、黒い服は着ていかない方がいいと言われる。
 なぜなら、スズメバチの視覚は黒い色に反応するからだそうである。彼らは人間が接近して来るとカチカチという威嚇音を発する。
 この警告を無視して近づくと、今度は本当に刺しに来る。このとき、帽子をかぶっていなければ、黒い髪のある頭部がその攻撃目標となる恐れがあるのだ。
こういうことなので、いくら大きなクワガタムシを発見しても、隣にスズメバチが頑張っている場合はパスした方が無難であろう。
* 究極の昆虫アリの社会  *
 アリの社会は高度に発達している完成された一大社会だ。最初の段階は一匹の女王アリからはじまる。石の裏とか木のうろなどに籠った女王アリは一年以上も何も食べもせず、ひたすら卵を産み続ける。やがて生まれて来た子供は働き蟻となって徐々に巣を広げ、一大社会を形成してゆく。たった一匹の女王アリから何万匹ものアリの巨大な社会がつくられてゆくのである。
 まったくアリの社会ほど、個々の能力に応じて徹底的な分業制がつらぬかれている社会もないだろう。ハキリアリは巣の中に葉っぱを持ち込み、それを発酵させて小さなキノコを栽培してそれを主食にしている。
 その際、葉っぱを切り取る専門のアリ、それを運搬するアリ、ルート上の障害物を取り除くアリ、それら一団を護衛するアリ、巣の中に持たらされた葉っぱをかみ砕くアリ、苗床をつくるアリ、キノコを育てて収穫するアリ、貯蔵室に運ぶアリ、といったふうに完全に分業がなされていて、その専門職に応じて身体的特徴もいちじるしく異なっている。
自分より数倍の葉っぱを抱えたアリの行列
 またオオクロアリは巣の中でアリマキを飼っている。まるで人間が牧場で牝牛から乳を搾り取るように、アリたちはアリマキの世話をしてアリマキが分泌する甘い蜜を収穫するのである。
 アリマキだけではない。シジミ蝶の幼虫なども同様に巣の中で養われている。幼虫はアリたちに世話をされ天敵から保護してもらうのである。その見返りとして幼虫は甘い分泌液をアリたちに与える。
アリマキの群れ。園芸家にとっては害虫である。
 そうして初夏になると、羽化した蝶はこれまで育ててくれたアリたちに別れを告げてアリの巣穴から飛び出してゆく。小さくてかわいい蝶が地中のアリの穴から何匹も飛び出していくのを見て昔の人はどう思ったことだろう。
アリマキを天敵のいない安全な巣に運ぼうとするアリ
 しかし、こうした平和的なアリばかりではない。サムライアリという種類は、一団となって他のアリの巣に攻め込み、略奪を欲しいままにして他のアリのさなぎだの幼虫を自分の巣に持ち帰って来る。彼らを奴隷にして自分たちに奉仕させるのである。
 南米アマゾン地方に生息するこの種のアリなどは「黒い絨毯」と呼ばれて恐れられている。このアリは巨大で肉を引きちぎるためのマンモスのような牙を持っている。
 巣はつくらず放浪をくりかえす。餌がなくなれば大移動を開始するが、女王アリは奴隷にかつがれるようにして移動する。
 彼らが通った跡はいかなる生物も存在しない。猛獣であろうが、ワニであろうが、大蛇であろうが、彼らを見ればすっ飛んで逃げるのだ。
 かくしてアリは、良きにつけ悪しきにつけ、社会組織を営む昆虫の代表のように引き合いに出される。確かにアリはミツバチとともに最も進化した昆虫なのである。もし人類が滅んだ後は、アリが地球上を支配するだろうとさえ言われている。彼らは疲れを知らず、不平不満を言うこともない。ひたすら黙々と与えられた役割をこなしつづける。アリの社会は自分を犠牲にしても全体のためにつくす恐るべき社会である。人間の社会で言えば究極の全体主義、もしくは共産主義とでもいえばいいのだろうか。
*  昆虫の気持ちがわかるとき  *
 昆虫の世界は極端で中途半端などないという見方がある。人間はあれこれ試行錯誤をして苦労し人生を生きていくが、昆虫はすでに結論の世界に生きているというのである。したがって彼らに迷いなど生じることはない。「逃げる」「食べる」「繁殖する」「卵を産む」・・・これら生きるために必要な行動を彼らはためらわずに行う。つまり本能中心に生きているということであろうか。
 昆虫は何億年という長い進化の過程で、試行錯誤をくりかえした結果、必要不可欠な生きるすべを自らのDNA内部に記録してしまっているからなのであろう。つまり我々人間のように、他人から教えてもらったり、自ら経験して苦労して会得する必要もないということになる。
 しかし、極端な世界で生きる昆虫にも、迷いや不安と言った心が見える瞬間があった。かつて、私はハエトリグモで実験してみたことがある。
 ハエトリグモは1センチにも満たない小さな蜘蛛で、目が大きく短足で家の壁などにいてぴょんぴょん飛んで移動するユーモラスな昆虫だ。そのかわいい姿に魅了される人も多い。
 私は一匹のハエトリグモが床にいるを見つけると、蜘蛛の進行方向に鏡を立てたのだ。すると蜘蛛は進むのを急に停止してじっと考え込んでいるように見えた。
 鏡に写った自分の姿を見て、向こう側に別の蜘蛛がいると思ったのだろうか。いぶかし気に思った蜘蛛は方向転換をしてササッと別の方向に行こうとする。私は鏡を移動して再び蜘蛛の前に立てた。すると、蜘蛛はハタッと立ち止り、きょろきょろと周囲をうかがったあげく今度は後退しようとする。
 鏡を移動するたびに、これが繰り返されるのだが、その動き方に人間に近いものを感じた私は、そのときの蜘蛛の気持ちがわかったような気がしたのだ。立場が変わって、私がこういうふうにされても蜘蛛が取ったような反応を示すだろう。彼らの動きを見ていると、驚き、不安、疑問といったこれら一連の感情の動きが手に取るかのごとく伝わって来るようであった。

 

 また、羽化したカブトムシを森に返そうとしたことがあった。それは昨年、見つけたカブトムシのメスが産んだ子供たちで、羽化したのが早かったので、私は樹液の出る頃まで育てていた。6月になり、もう大丈夫だろうと思って、私はオスとメスの数匹を連れ出し、夕方近くに樹液の出ているクヌギの木に止まらせることにした。少し樹液の量が少ないのが気がかりではあったが、夜のうちにもっといい条件の場所を求めて飛んで行くだろうと考えた。
 夕闇のせまる中、よちよちと木の上の方によじ上って行く彼らの後ろ姿を見ていると、なにか心にぐっとこみ上げるものがあった。
 ほんの1ミリほどのタマゴから誕生し、何度かの土替えをするたびに大きくなり、姿は見ることはなかったけれども、時おり、土の中から朽ち木をかじる音を響かせていた幼虫時代。そんな彼らが立派な成虫になって今、私の手を離れて厳しい自然の中で自らの力で生きていこうとしているのだ。
「これからも無事に生きていくんだぞ!」私は彼らの安否を願うと同時にエールを送る意味で、思わずこう叫ばざるを得なかった。
 二日後の夕方、私は再びその場所をおとずれてみた。果たして、木の枝にも幹にも彼らの姿はない。カブトムシたちは甘酸っぱい樹液がもっと出ているクヌギを目指して夜のあいだに飛んで行ったのだろう。私は内心ホッとした。そして、立ち去ろうとしたその時だ。「ガサガサ・・・ゴソゴソ・・・」背後で音がする。
 暗闇で目を凝らして見ていると、木の根元付近でなにやらモソモソ動くものがある。やがて枯れ葉を押しのけて一匹のメスのカブトムシがあらわれた。それは二日前に放したうちの一匹にちがいなかった。そのメスのカブトムシは私の方に転がるようにして近づいて来た。私はそっと手を差し伸ばした。すると、そのカブトムシはなんのためらいもなく私の手のひらにしがみついて来たのである。
 耳をそばだてると、「キュィン、キュィン・・・」と鳴いている。
 あたかも、私に連れて帰って欲しいとでもいうように。「お腹へった。おうちに帰りたい!」そんなふうにも聞こえて来るようだった。かくして、私はこのカブトムシだけは再び連れて帰ることにした。
 家に帰ると、彼女はお腹がすいているのか、黒砂糖と焼酎をミックスした自家製の樹液のカップに頭を深々と突っ込んでひたすらなめている。
 私はその様子を見ているうちに、せめてこのメスのカブトムシだけは寿命が来るまで手元に置いて大切に育てようと心に決めた。
 今回、カブトムシを幼虫から育ててみていろいろわかったことがある。まず、彼らにもいろいろな性格があるということである。冒険心が強く気の荒いタイプがいれば、おっとりして臆病なタイプもいる。内向的なタイプから積極的なタイプまで、かなり幅広く個性的である。このメスはどちらかと言えば、おっとり型で少し依存心の強い子なのだろう。あるいは甘えん坊なのかもしれないが、なんとなく出戻り娘をもった親の気持ちがわかったような気がしたものだ。

 また羽化したての頃は、元気いっぱいでよく角をぶつけあって激しく喧嘩をしていたカブトムシも、3ヶ月もすると、妙におとなしくなり、喧嘩もせず、広いケース内の片隅に不思議に数匹が寄り添うように集まっているシーンを何度も目にした。
 餌のゼリーも取り合うことなく、仲良く頭を突っ込んでなめている。もうその頃になると、触覚や足の一部が取れてしまっているのもいる。一生の終わり間近になって、互いにいたわり合うことの大切さと尊さを本能的に悟ったのであろうか。
 まるで死期が近づいたことを感じ取った者だけが見せる清らかさを見るようでいじらしく思えたものだ。こうした光景は、私が今まで頭に抱いていたカブトムシのイメージを一新するものであった。
 かくして彼らは、私の心の中にひと夏の贈り物として、美しくてすがすがしいものを残してさわやかに去って行った。
 * 一匹のカマキリとの出会い  *
 去年のある日、秋も深まり、木枯らしが吹く夕暮れどきのこと、私は雑木林で一匹のお腹の大きくなった雌のカマキリに出会ったことがあった。周囲は殺伐としており、ほんの2か月ほど前には、太陽の陽ざしも強く、カナブンやカブトムシがたくさんいたのが信じられないくらいだ。
 もうどこを見渡しても、昆虫たちの姿は一匹も見えず、樹液はすっかり枯れ果てている。カマキリは朽ち果てた木の幹に止まってじっと私を見ていた。
 私は寂しげな風景の中にたった一匹でたたずむこのちっぽけな生き物が急にいとおしくなった。カマキリの目を見つめながら私はこうたずねてみた。
「こんなに寒いのにここで何をしているの?」すると、私の頭の中に彼女の思考のようなものが飛び込んできた。「卵を産む場所を探してるの」
「じゃあ、これから卵を産むの?」
「そうよ、卵を産んだら私の一生は終わる。春になったら子供たちは生まれてくるでしょう。私には子供たちを見ることは出来ないけれど、私は誕生を望んで死んでいくの。子供たちは自分の力で獲物を狩って生きていくことでしょう。何をどうすればいいのか、生まれたときから私たちは知っているの」
「君たちは空腹になると仲間でも食べてしまうと聞いたけど?」
「私たちカマキリは交尾中のオスを食べてしまうことがあります。残酷だと思われるかもしれないけれど、身体がそう命じるのです。食べられるオスにしても決して哀しんだりはしません。メスはそのおかげで産卵活動ができて安心して死ねるのです。これは私たちカマキリの宿命なのです」
* 小さな命の中に流れるもの *
 私はこの瞬間、何かわかったような気がした。そうなのだ。彼女の言うように、新しい命は彼女の命が尽きた後も次々と生まれて来るだろう。その連鎖は決して絶えることはない。昆虫たちは「生死輪廻」の哲学を本能的に悟っているみたいだ。死期の近づいたカブトムシたちの見せる何とも言えぬ清らかさにしてもそうだ。彼らは自らの運命に抗ったりはしない。それがどんなにはかないものであっても、昆虫たちは与えられた運命をありのままに受け入れ、限られた短い時間の中で自らの命の炎を精一杯燃焼して生きている。
 彼らの行動は実にシンプルで物事の真理にもとづいている。考えて見れば、私たち人間が苦労して真理に理由づけなどする必要もなかったのだ。人間の価値観など彼らの世界では通用しない。
 巣を守るためには、襲ってきたスズメバチに勇敢に立ち向かい自らの命さえ惜しげもなく投げ出すミツバチ。あるいは生まれたばかりの子供たちに自らの身体を餌として食べさせるハサミムシ。またあるいは彼女が言うように、自らの身体をタンパク源としてメスに差し出すオスのカマキリ。これらは世界は違っても自己犠牲の精神、言い換えるなら究極の愛の形に他ならない。これが遺伝暗号となって、彼らの身体に組み込まれ、はるかなる過去より脈々と伝えられて来たのだ。人間が深く考え、悩み抜き、思い詰め、それが善悪であるのか決めかねる行為を、彼らはいとも簡単に何のちゅうちょもなくやってのけられるのだ。私たちが日頃から、虫けらと称している生き物に教えられることはあまりにも多いのではないだろうか?
 私は頭の中でそんなことを考えながらその場を後にした。周囲は薄暗くなって木枯らしが吹き、かなり肌寒くなっている。振り返ると、カマキリは朽ち木の上にそのままの姿勢でじっとしており、モスグリーンの目をまだ私の方に向けている。秋の夕日がまさに地平線に沈もうとしているそんな間際の出来事だった。
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参考文献
「どくとるマンボウ昆虫記」 北杜夫 角川文庫

参考にさせていただいたサイト

昆虫の脳の不思議
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/1566/zuisou_32.html

にじのえほん 
http://nijino-ehon.blog.so-net.ne.jp/2014-09-21

英考塾
http://eikojuku.seesaa.net/article/218720834.html       
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