箱の中のカブトムシ
〜昆虫から教わる心〜
〜 カブトムシとの出会い 〜
 4年前、散歩に行った雑木林で偶然、私は一匹のメスのカブトムシを見つけた。連れ帰って飼うことにしたが、しかし考えてみると、彼らの生態は知らないことだらけであった。9月の初旬にそのメスのカブトムシは死んでしまったが、いつの間にかタマゴを産んでいて小さな幼虫が土中に無数に見られた。
 二年目の夏になると、二代目にあたるカブトムシたちが出て来た。私は半分は生まれ故郷の雑木林に返し、もう半分は育てることにした。やがて3年目の夏に三代目の子供たちが羽化した。そして今年の夏には4代目のカブトムシたちが羽化して来た。これまで思考錯誤をくり返して彼らを育てた結果、私は彼らカブトムシたちの知らないことがいろいろと分かって来た。
〜 カブトムシの意思伝達 〜
 幼虫時代も終わりになる3月ぐらいになると、そろそろ蛹になるための準備がはじまる。身体がうす茶色に変化していき、動作も緩慢となってゆく。いよいよ蛹になる前兆である。幼虫は蛹室と言って地中に楕円形の穴をつくり出す。自らの出す分泌物で穴の表面はつるつるになり、まるで蚕のまゆの中にいるような状態になる。
 蛹室の中で、今まで地虫のような形をしていた幼虫は一夜にして蛹の姿になり、カブトムシの姿に一変する。
 小さかった足は大きくなり、オスだと立派な角が目立つように突き出している。そして1か月間は置物のように動かずじっとしている。
 しかし、じっとしているようでも、感覚は鋭敏に研ぎすまされていて、もし他の幼虫が自分の蛹室に近づく気配を感じたなら、相手にそれを伝えるために警告を送って知らせる。つまり蛹になった身体を地球ゴマのように細かく震わせて微妙に振動させるのである。
 その振動はバイブレーションとなって地中に伝わり、他の幼虫たちもそれに気づいて、それ以上には近づかなくなる。つまり、「ああ、この先に誰か仲間がいるんだな。じゃあ、ここから先は遠慮しておこうか」という案配である。狭いケースの中に幼虫たちがひしめき合っていてもこのルールは決して破られることはない。幼虫たちは、他の幼虫たちの邪魔をすることなく、一定の距離を保ってそれぞれ蛹室をつくることになるのである。
〜 カブトムシの夢 〜
 カブトムシにとって一番満ち足りた瞬間とは何だろう。 カブトムシは喜びや怒りやイライラ感、満足感など身体全体をつかって表現し、感情を表面にあらわすことが多い昆虫だと思う。その点、カブトムシは人間の心に似ていると思う。
 私にはそうしたカブトムシの気持ちが分かる瞬間が往々にしてあった。
 グルメなカブトムシは、美味しいものを食べている時や嬉しい時にする仕草として、後ろ足をすり合わせて、キックするようにシャカシャカせわしなく動かす。この動作が激しければ激しいほど、そのカブトムシは今、最高にごきげん状態なのである。
 暗闇でバナナを抱え込んだ格好で、あるいは頭をゼリーのカップに突っ込み、逆立ちしたような格好で、後ろ足をシャカシャカすり合わせるのだが、そういうときのカブトムシの仕草は見ていてもいじらしく思えて来る。
 やがて満腹になると、暗闇の中の追いかけっこが始まる。木の枝から木の枝へ、それはものすごく早い。シャカシャカ、チョコチョコ、まるでおもちゃのチョロQのレースみたいだ。その素早さは想像を絶するほどだ。
 〜 カブトムシの気持ち 〜
 休んでいるカブトムシの背中に水をかけたり、指で突いたりして少しばかりからかってみたらどうだろう。するとカブトムシは怒りだす。クルクルと目覚ましく身体を動かせる。オスだったら角で威嚇してくる。そんなとき指にとまらせると、ぎゅいんぎゅいん鳴いて力まかせにしがみついてくる。指がしびれるほどの強い力だ。こんな小さい身体のどこからこんなパワーが湧き出てくるのだろうと思う。こうなったらもう引き離そうとしても不可能だ。きっと自分の機嫌が悪いのをアピールしているのだろう。小さくても決して物怖じしない、健気と言おうか、まことに元気で勇ましいの一言に尽きる。
 こうしたとき、「ああ、ごめんごめん、悪かったね、ごめんね」とつぶやきながら、心をこめて背中を優しくなぜてやるのだ。
 するとまもなくカブトムシの方もそうした私の心が伝わるのか、次第に気を取り直してしがみつく力を弱めておとなしくなってゆく。
 最初、ぎゅーぎゅー鳴いていた声は、キュインキュインと大人しい感じに変化してゆく。そのまま、ゆっくり背中を優しくなで続けてやると、カブトムシの鳴き声はに子守歌のメロディのようになり、最後は押し黙って気持ちよくじっとしている。
 こうして落ち着いたカブトムシを再びケースの中の止まり木に移動させるのだが、カブトムシは大人しくじっとしたままだ。きっとそのときのカブトムシの心は安らぎの中にあるのだろう。
 一度、フラッシュを焚いて撮影したことがあった。目の悪いカブトムシからすれば、急に閃光がして恐ろしいものを感じたからであろう。目にも止まらぬ早さで1,2秒の間に、土中に潜ってしまった。そのときの素早さは驚異的であった。また驚いたり、びっくりしたときは、二本足で立ちあがって微動だにせず2分近くも静止していたりする。シンナーのようなものが角の先端につこうものなら、前足をバタバタさせて「ああ、苦しい。目にしみる!」と言わんばかりに息苦しい素振りを見せる。懐中電灯の光をまともに浴びた時もそうだ。「わぁ!まぶしい!」と言うように前足で顔を覆う仕草を見せる。そういうとき、人間の反応に近いものを感じたものだ。
〜 死期の近づいたカブトムシ 〜
 そうして、2,3か月生きたカブトムシは、やがて寿命を全うする日が来る。その日は突然やって来る。死の前日あたりから、カブトムシ特有のチョコレートのような匂いがしなくなったり、妙にケース内をせわしそうに動き回るようになったり、指に止まらせてもしがみつく力が弱かったりすると、死期が目前にせまっている兆候なのである。こんなとき飼い主は心準備をしなければならない。
 朝、元気で桃やバナナ、あるいはゼリーにしがみついていても夕方には動かなくなっている。あるいは止まり木から落ちて、仰向けにひっくり返って弱々しく脚を動かしている。そんなとき、そっと指で触れるとカブトムシはつかまって来る。もう足の符節(足先のかぎづめ部分)の2つばかりは取れ、あれほどすごい力でしがみついてきた面影はどこにもない。耳元に近づけると弱々しくかすかにキュインキュインと鳴くこともある。だがそれから数時間後にはあっけなく死んでしまうのだ。そのときになって、あのときの声が別れの言葉だったのかと思ったりする。このとき、「生と死」という重いテーマにいつの間にか真剣に向き合っている自分を感じてしまうのだ。
 そういう体験を何度かすると、カブトムシは力が強くて昆虫の王様だなどという勇ましいイメージではなくなってくる。カブトムシはいじらしくて健気ではかない生き物なのである。
〜 箱の中のカブトムシ 〜
「箱の中のカブトムシ」という一風変わった心理実験がある。ウィトゲンシュタインというオーストリアの哲学者によって考案されたこの実験の意図するものは何だろう? まずは次のようなイメージを思い浮かべて欲しい。
 数人の人々が輪の形になって、向き合った状態で腰を掛けているとしよう。各人はそれぞれ膝の上に箱を持っている。箱の中には何が入っているのだろう? 実はカブトムシが入っている。厳密に言えば、当人がカブトムシだと思い込んでいるものがはいっている。しかし、お互い箱の中は見えないので、隣の人間の持っている箱に自分と同じカブトムシが入っているのかは分からない。
「君の箱には何が入っているの?」「カブトムシ」
「君のは?」「え?僕もカブトムシ」
「君は?」「あら、私もカブトムシよ」
 こんな会話が交わされるかもしれない。しかし、誰も他人の箱の中身を見れないのである。
 ひょっとすると、カブトムシではないのかもしれない。当人がカブトムシだと信じ込んでいるだけで、他人から見れば、クワガタムシだったり、コガネムシだったり、はたまたカミキリムシなのかもしれないのである。要するに当人だけの概念でカブトムシだと思い込んでいるだけなのである。
 ここでいうカブトムシとは、自分がいだく自分だけの概念であり、それを象徴したものに過ぎない。つまり、カブトムシは自我(自分独自の純粋な観念)のシンボライズされたものだ。箱は社会常識など自分を取り巻く環境を示していて、それらが融合して人の性格を形成している。
 この実験によれば、自分がいだいたイメージが他人が考えたイメージと寸分合致することなどあり得ないという事実を示しているという。つまり他人の心など誰にも分からず、当人にしか知り得ず、他人は何を考えているか予測できないということを示しているのである。自分だけの決めつけ基準などあいまいで、実に頼りない存在だということである。つまり、視点が変われば物事の良しあしなんて、どうにでも変化するということなのである。
 人は往々にして、うわべは上品そうに見えても、実は過激でグロテスクな趣味を持ち合わせていたりする場合がある。おっとりして優しそうに見えた人が、実は残酷な性格であったり、逆に人相のひじょうに悪い人が心根の優しい人間だったりする。
 道徳観で言えば、自分が正義だと信じて行った行為も、視点を変えるだけでそれは悪にもなりうるのである。悪が正義に、正義が悪に簡単にひっくり返る。物事の価値観が視点を変えるだけで根底からくつがえされてしまうということをこの実験は教えている。
 この実験でカブトムシを持って来たのも、カブトムシは人間の感情や心の部分を象徴する存在としてふさわしい昆虫と考えられたからではないだろうか。おそらく心の哲学という一見、分かりずらい概念に具体性をもたせるためにカブトムシが引き合いに出されたのであろう。
 この実験は一つの戒めを私たちに与えている。決して自分だけの価値観で物事をとらえてはいけないということを。自分がこう考えているからと言って、相手も同じ気持ちでいるなどと安易に考えてはいけないということなのである。ましてや他人の心の痛みを理解することなど並大抵ではないということなのだ。
 〜 心の中のカブトムシ 〜
 今年で4代目にあたるカブトムシたち。元気で毎日を過ごしているが、後1か月ほどには全員が死んでしまうだろう。来年は、この子供たちの5代目にあたるカブトムシが羽化してくるのだろうか。
 時間は無慈悲に過ぎて行き、決してとどまることはない。今というこの瞬間も、たちまち過去の産物になってゆき、コマ切れのような短い枠の中で、私たち人間は数えきれない過ちを起こしては、その都度ため息をつきながらむなしく後悔し、徒労に満ちた時間の中に身を置きつづける。
 カブトムシは羽化してからわずか1,2か月という短い時間の中で、自分たちの生命の灯が消えてしまうその間際まで、健気に精いっぱい生き続ける。
 羽化したばかりのころは、食欲も旺盛で気が荒く、狭いケース内を好奇心いっぱいチョコチョコ走り回っていた彼らも、1か月もたつと妙に大人しくなる。
 仲間同士で仲良くゼリーのカップに頭を突っ込んでいる様子は、平和と安らぎの心境にいるようだ。死の間際になって悟りの境地を得たのだろうか?
 そうした彼らも、足先が麻痺したり、足の一部が取れたりして、やがて歩けなくなり最期を迎えてゆく。ゆっくりと、その死はいつの間にか魂がぬけていくような静かな最期である。まるで私たち人間の一生をそのまま縮小して見ているようだ。
 カブトムシは「無常観」と「心の戒め」を私たちに教えてくれる存在だ。これからも私たちが彼らに教えられることはまだまだたくさんあるにちがいない。かくして、自分の心の中をのぞく心境で私は今日もカブトムシの箱を開ける。
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