黒死病の大流行
〜ヨーロッパ全人口の1/2が死に絶えた!〜
 12世紀のヨーロッパ、この頃、中世の社会は変貌の真っただ中にあった。農業技術が発達し食料の生産が増加すると、必然的に人口が増え都市が生まれていくことになる。都市は商工業の要となりギルドやハンザ同盟を結成し活況を呈するようになった。
 都市では大学がつくられ、人々の知的水準もグングンと上昇し、華やかな騎士道文化が生まれた。家畜は野に溢れるほど放牧され、穀物生産量は400年ほど前に比べると10倍近くまで増えていた。あらゆる分野で中世社会は絶頂期を迎えつつあった。こうした中、世界にも眼が向けられ、幾度となく聖地奪回をくわだてては十字軍が編制され、慌ただしく送られるということも繰り返されていた。
 だが、この最盛期も長くは続かなかった。多くの矛盾が芽を吹き出していたのである。貴族同士の間で利害対立が起こり、まもなくフランスとイギリスとの間で長期にわたる血なまぐさい戦争となって勃発した。こうして繁栄と安定に陰りが見え始めた頃、さらに人々に恐るべき受難が準備されつつあることなど誰も知るはずはなかった。
* 悪魔の伝染病来る *
 1347年9月、十字軍の艦船のある一隻が地中海を横切りシチリアの港に帰還しようとしていた。その船には大勢の十字軍兵士が乗っていたが、同乗者は人間だけではなかった。身の毛もよだつ悪魔も同乗していたのである。すなわち恐ろしいペスト菌を宿したクマネズミも多数乗っていたのであった。
  入港して数日後、一人の船員が奇妙な病気にとりつかれた。それは最初、首の付け根やもものつけ根あたりに、小さな腫れ物という形であれわれた。まもなく、リンパ腺がはれてノドが渇く症状が続くようになる。翌日には、リンパ腺はりんごほどにも膨れ上がり、体のいたるところに伝播し広がって行った。それと同時に、体中に青黒い斑点が多数現われ、激しい高熱に苦しみ出した。船員はまもなく高熱で意識不明となり、肌がカサカサになり、発病からわずか3日後には、見るもおぞましい黒紫色に変色して死んでしまった。

 その症状は、それからしばらくして、船員の仲間や家族にも急速に現われていった。その伝染力はすさまじく人々はただ唖然とするだけだった。この悪魔の奇病は、上陸すると怒濤の勢いで東西に広がっていった。イタリアの沿岸部の都市を次々と巻き込み、エーゲ海の島々をなめ尽くすと、今度はフランスやスペイン、ドイツをも席巻していった。海を隔てたイギリスも恐るべき魔の手からは逃れることは出来なかった。時を移さず、ドーバー海峡を渡って瞬時に飛び火していくからである。こうして、わずか1、2年でヨーロッパ全土は、未曾有の伝染力を持つに黒死病の魔の手の前に蹂躙されてしまうことになる。 かくして、人々の大受難の幕は切って落とされた。

 人々は病気が伝染するのを恐れるあまり、患者との視線が合うだけでも伝染すると信じるようになっていった。
 人々は誰もお互いを信じなくなり、この症状が出た家では家族は患者を見捨てて逃げまわった。
 親は高熱で苦しんでいる子供を見捨て、子供も死にかけている親を容赦なく見捨てた。家族のきずなは崩壊しものすごい数の家族が全滅していった。
 教会の墓地という墓地には深い溝が掘られ、そのなかに新たに運ばれたてきた死体が何百となく投げ込まれていった。
死んだ人々は、誰も触れることもなく見向きもされることもなく、そのまま朽ち果てるにまかされた
 死体置き場には、あたかも船倉に貨物を積み上げるように、死体が層をなしてうずたかく重なり、その上にわずかな土が振りかけられたが、それでもたちまちに溢れて溝いっぱいになって溢れ返るしまつであった。
 そのうち、もはや遺体を埋葬しようとする者さえいなくなり、堪え難い苦痛に苛まれ孤独のうちに息を引き取った病人は、そのまま腐敗して朽ち果てるのにまかされた。普段なら丁重に葬られるべき高貴な身分の人も、もう何の関心も敬意も払われることなく野原に放リ出される始末であった。
 ボッカチオはデカメロンでこう記述している。「毎日毎日、棺桶と死体が運ばれてくる。5人、10人、15人と。聖ブリス区では20人、次の日は30人と。・・・すべての教会では朝に夕に、夜通し弔いの鐘が鳴り響いた。しかし、まもなく、棺桶につきそって泣く者はいなくなり、墓地は郊外に見捨てられ、弔いの鐘も鳴らす者もいなくなった・・・」
* 刹那的に生きる人々 *
 人々は、恐ろしい異変の原因を知ろうはずもなく、ある人は天体の影響だと言い、ある人は自分たちの悪業のために神の罰が下されたのだと言い、また、ある人は火山の噴火によって大気が腐敗したからだと言った。
 この災厄の中にあって、人々の取った態度はさまざまであった。徹底的に節制して禁欲に走った者がいた。彼らは鞭打ちの苦行を行ない大釘を打ち付けた皮の鞭で自分の身体を痛めつけさえした。こうすることで罪を浄め天罰から逃れられると考えたのである。逆に、本能のおもむくままに快楽に走った者もいた。彼らは信仰心をなくし夜な夜な悪魔崇拝の儀式を行った。おかげで不健全で病的な精神が蔓延し、死体愛好と言った胸の悪くなるような趣味にふけった者さえいる。前者の二つの中道を貫こうとした者もいた。彼らはすべてをあるがままに受け入れて普段通りの生活を続けようとしたのである。
 しかし、どの方法を取ろうが同じことで、一様に死者は出続けるのであった。人々は何が原因なのか皆目わからず、ただその災禍に恐れおののき、ひたすら祈って神の許しを乞い続けるだけであった。
 黒死病の影響で、これまで秩序だった社会は根底から揺り動かされていった。社会不安が増大し、苦しくない死に方なる本が広範囲に読まれるようになった。もうこうなっては、人々に生きる希望や勤労意欲などあるはずもなく、いつ死ぬか、自分の命が果てるのも今日か明日かと待っているようなもので、家畜の世話をしたり土地を耕したり収穫しようとする人もなく、ただ、これまで蓄積していた物を片端から消費していくだけであった。
 様々な根拠も何もない治療法が大っぴらにまかり通るようになった。
 腫物があらわれたら下剤を飲んで腸をきれいにするべきだとか、雄鹿の心臓を食べれば効果があるとか、雨の降る日に糖蜜をなめればよいとか・・・
 そのほとんどは、全くお笑い種になるような内容であったが、しかし、当時の人々は大まじめで、いかに黒死病に対しては、なすすべもなくお手上げ状態であったかがわかるというものである。
人々は黒死病(腺ペスト)の原因がわからず、やみくもにわけのわからぬ治療方法やデマに揺り動かされた。
 さらに、どこかに避難すれば、この恐ろしい病気から逃れられるといった根拠のないデマまでが飛び交った。都市の多くの人間は、人のまばらな郊外目指して逃げていった。昨日まで人々で満ち満ちていた町が、翌日には人っ子一人いない死の町となり、気味の悪い静寂に包まれるのであった。夜になると、主人に見捨てられた犬が虚しく遠ぼえの声を響かせる。一人も残らず全滅してしまった無数の村々は、時の経過とともに荒れほうだいに荒れ、そして朽ちていった。
 ユダヤ人がこの伝染病の張本人だと言って大虐殺につながったこともあった。スイスのある村では、些細な理由からユダヤ人狩りが行われた。無実なユダヤ人が多数処刑された。財産は取り上げられ、死体は樽に詰められるとライン川の水底に沈められた。こうした悲劇は黒死病の広まりとともに各地に広がっていった。生き延びることが許されたのは、同情を引くことの出来たわずかな子供と容貌の美しかった、これまたわずかばかりの娘だけだった。彼女らは劣情の犠牲者となったのであるが。
 黒死病大流行という異常な条件下で火がついた人々の精神は、日頃の憎悪と怨恨の高まりとともに狂気の心理へと駆り立てられていった。多くのユダヤ人居住区(ゲットー)が抹殺されていった。
 ユダヤ人の中には改宗の強要に反対して、自ら自殺した者も少なくない。
 中にはキリスト教に改宗して生き延びようとした者がいたが、そうしても殺されるのは時間の問題であった。
全く根拠のない理由で、黒死病をばらまいた犯人はユダヤ人だというデマが飛び交い、多くのユダヤ人が焼き殺されていった。
 黒死病の犠牲者が一向に減らぬことに憤慨した人々は、まもなく改宗者にその罪の原因を着せるからである。こうした大殺戮の仕組みは、第2次大戦下で起きたナチのユダヤ人迫害と基本的に同じであった。
* 黒死病が社会にもたらしたもの *
 こうして、わずか3、4年のうちにヨーロッパの全人口の約2分の1にあたる5千万近い人々が、この悪魔のなせる仕業により悲惨な死を遂げて行ったのである。黒死病がその後の人間社会に持たらしたものは何だったのだろう?
 まず、短期間の人口の激減は荘園制度の崩壊を早めることになった。多くの村々が消滅し、農業に従事する者が不足すると、農民の存在価値が高まり、領主は金を支払ってでも彼らを確保せねばならなくなったからだ。
 生き残った農民は、次第に大胆になってもっと賃金を上げろと叫び、拒絶されると、他の雇い主のもとに逃げていけばよかった。こうした傾向は強まり、これまで農奴だった者は、独立して自営農の身分となったばかりか賃金を蓄えてにわか成金となった者さえいた。しかし、すべてがそうなったわけではなく、まもなく地主たちによる反動も始まっていた。彼らは、黒死病以前の自分たちに有利な状態に戻そうと、農民の要求を押さえるために賃金の凍結を法令化しようとしていたのである。その結果、ヨーロッパ各地で農民による暴動が頻発するようになる。
 こうした流れは宗教の世界にも波及していた。黒死病によって聖職者の半数以上が死亡した結果、どの修道院や教会も組織を維持するには難しい状況に追い込まれていたのである。そのため、聖職者を増やすために年齢や試験などの条件を大幅に緩和して人員の修復に努めねばならなかった。喜んだのは大学でくすぶっていた若者であった。それまでは、大学を出ても仕事にありつくのが非常に難しい状態だったのに、黒死病のおかげで聖職者の需要が跳ね上がったからである。
 大学を卒業した若者は、誰も彼も特権と高給に魅入られて殺到するようになった。しかし、こうした手続きで誕生したのは、若くてろくに知識も持たぬ、にわか仕込みの経験未熟な聖職者の群れであった。
 彼らの多くは、聖職者でありながら無知で貪欲で利己的な人間でもあった。
数年間でヨーロッパの人口の半数近くが消滅してしまった結果、中世の封建制は崩壊し、ルネサンス、宗教改革運動を生み出す下地となっていった。
 こうした聖職者の世俗的な姿勢とモラルのなさは槍玉にあげられ、無数の異端思想と異なる宗派を生み出す結果となった。
 かくして、キリスト教の価値観は揺れ動き亀裂が生じ始めることになる。まもなく宗派間の対立は血なまぐさい宗教戦争へと発展してゆくことになるのだ。
 治安は最悪の状態になっていった。農民暴動や宗教戦争が絶えず各地で勃発し、田畑は荒れ放題となり多くの農民が殺された。神の名のもとに多くの人間が火あぶりの刑にされた。どこに旅をするにも剣は一時も身から放すことは出来なかった。街道沿いには、盗賊やおいはぎや人殺しが横行していたからだ。祭りでバカ騒ぎをする時でさえ他人は信用できず武器は手放せなかった。まさに、暴力のはびこる恐ろしい時代が到来したのである。
 人々はやみくもに信仰の中に精神の安らぎを追い求めようとした。だが、当然のことながら、多くの矛盾をはらみながらも、無秩序で暴力に支配されたこの時代が、資本主義の黎明期であったことに気づいた人間は誰一人いるはずもなかった。
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