聖バルテルミーの大虐殺
〜王妃の嫉妬がからむ聖なる夜の猟奇的大虐殺〜
 人々に魂の救済と至福を約束するはずの宗教が、逆に憎悪と復讐心の根源となり、見るも残忍な行為へと人々を煽っていった事件がある。殺す側はどう猛な殺人鬼の集団と変わり果て、聖なる夜は、殺された人々のおびただしい大量の血で汚されたという。
 この大虐殺はキリスト教内部の抗争と見るべきかもしれないが、嫉妬に狂った一人の王妃こそが、この残忍な火つけ役になったとされている。
* 宗教戦争の発端 *
 16世紀のフランスは宗教戦争のまっただ中にあった。それは、教皇を頂点とする従来の旧教徒に対する新教徒との対立であった。
 その対立は1500年頃、教会側が建築資金の不足をまかなうために、免罪符という証文を売りに出したことに端を発している。免罪符とは、その証文を購入しさえすれば、その人間の生前の罪が消えて、天国に行けるという全くむしのいい証文のことであった。
 その教会側のあまりの腐敗ぶりに、業を煮やしたドイツ人で神学者だったルターは、ある日、95か条の質問状を、当時人々に掲示板として利用されていた教会の扉に貼つけて、このことをきびしく非難した。その内容たるや、教皇は莫大な財産を持っているのに、それを使わず、なぜ貧しい民衆からお金を巻き上げるのか?・・・といった類の質問状であった。
 この急所を突いたルターの抗議文は、不満の溜まっていた人々の感情を揺り動かし、そのことがきっかけで、宗教改革の波はたちまちヨーロッパ全土に波及していったのである。
 ルターに影響を受けた宗教改革者たちは、各地でさまざまな自説を主張したが、とりわけ、カルヴァンの説は多くの人々に受け入れられた。
 カルヴァンの説とは、職業的に成功することが、自らの魂の救済の証になるという考え方で、いわば、お金を貯めるという行為は美徳であると主張するものであった。
 これは、お金を貯めることは卑しいとする本来の旧教(カトリック)の教えと真っ向から対立した。
免罪符を売っている様子。その値段は身分に応じてまちまちだった。
 言い換えれば、教会の立場からすれば、人々が質素な暮らしを美徳として甘んじてくれれば、貯金に回せるはずの余った資産はすべて寄付、お布施という形でふところに入る仕組みになっていたわけで、逆に、人々が貯蓄に励んでしまうと、教会側に資金が落ちなくなり、大変都合の悪い結果となってしまうからに他ならない。
 このカルヴァンの説は当然、利益を求める商工業者たちに快く受け入れられ、急速にヨーロッパ全土に広まっていったのである。

 16世紀の中頃になると、旧教の強いフランスにも浸透し始めたが、その数はまだ少なく、全体の4パーセント弱といったところであった。フランスでは、旧教徒は新教徒を侮辱を込めてユグノーと呼んで迫害を続けた。この両者に旧教の国スペインと新教の国イギリスが後押しして、この対立は、エスカレートして国際戦争の様相を見せ始めた。
* アンリ2世の不吉な死 *
 こういう世界情勢の最中、その王妃、カトリーヌは、フランス王アンリ2世の王妃として、イタリアの名門メディチ家から輿入れしてきた。いわゆる政略結婚である。メディチ家は銀行業で巨大な富を貯えた一族で、中世のフイレンツェ文化の一大パトロンとして知られていた。
 カトリーヌは、ひどく迷信深く病的かつ内向的な性格で、陰湿な黒ミサに凝り、魔術師や練金術師、占い師、香水製造業師など、いかがわしい人物を身近に置き、怪し気なアクセサリーを肌身離さず着けていたという。
かの有名な予言者ノストラダムスも、彼女にとってはお気に入りの一人だった。
 また、彼女は小肥りで鼻が大きく、唇は薄く締まりのない口元をしていた。要するに、醜い女で、誰が見ても魅力というものがおよそ見えない王妃であった。そのためであろうが、アンリ2世は20才も年上の情婦ディアーヌに熱をあげる毎日であった。
 ディアーヌは絶世の美人と言われ、王は彼女の気を引くために、いろいろな贈り物をしたり、熱烈な恋文を送ったりしていた。このようなアンリ2世の気ままな生活は、カトリーヌの目を盗んで23年間も続いたのであった。
王妃カトリ−ヌ
 ところが、アンリ2世は、ある日の結婚式の後で行われた余興の試合の最中、不慮の死を遂げてしまった。
それは、相手の若い近衛隊長の槍が、どうしたことか王の兜を貫いてしまい、片目を突き刺してしまうという信じられない事故で、傷は深く王の脳にまで達していたという。
この時、アンリ2世、41才の出来事だった。
情婦ディアーヌ アンリ2世
 ちなみに、このアンリ2世の不慮の死はノストラダムスが「百誌編、第一の書」の中で予言している。
 アンリ2世が死んで、カトリーヌは今まで、王に疎まれて溜まりたまった嫉妬や屈辱の情を晴す時が来た。実際、彼女カトリーヌは異常とも思える忍耐力で、夫であるアンリ2世の浮気をぎりぎりまで堪えていたのであった。
 彼女はまず、情婦であったディアーヌに対し、今までアンリ2世が与えた数々の宝石類を返すように命令を出した。次にカトリーヌは、王の死後、9才で後を継いだ息子のシャルル9世の摂政となり、政治にも乗り出していった。
予言者ノストラダムス
* カトリーヌの不満が爆発 *
 いったん堰を切って爆発したカトリーヌのうっぷんは、もう止めようがなかった。気に入らないことが少しでもあると、容赦なく側近の侍女、侍童を鞭でサディスティックに打ったり、邪魔と思われる人物には、毒殺、暗殺を平気でやってのけるような陰険な女になってゆくのである。

 王位についたシャルル9世は、まだ子供で純真だった。そして、彼女の血を受け継いでいるせいか虚弱で内向的、優柔不断、おまけに顔色はいつも憂鬱で決して話相手をまともに見れない子供だったという。
 そんなシャルル9世の心を捕らえたのは新教徒だったコリニー提督だった。年少のシャルル9世は、コリニーの重々しい大人のムードに魅了されて、親密になり、母カトリーヌに内緒で密会を続けていたのである。そうして、コリニーの話に乗せられて、旧教国スペインの遠征計画にふけるようになっていた。
 このことは、カトリーヌを大変苛立たせることになった。自分の愛児を盗み、あまつさえ、無益な戦争の計画を、年少の王に吹聴しているとあっては、この男を断じて許しておけないと憤慨したのである。そうして、旧教徒であったギ−ズ家と共謀してコリニーを暗殺してしまおうと企てた。
 ルーブル王宮を出たコリニーは火縄銃で狙撃されたが、腕に負傷するも、からくも一命はとりとめた。その知らせを聞くと、シャルル9世は興奮して、ただちに犯人を探すように命令を下した。もしも、犯人が捕らえられれば、嫌疑は当然彼女カトリーヌにまで及ぶだろう。そう考えたカトリーヌは、コリニー負傷にいきり立つ新教徒を根こそぎ抹殺して、自分の罪を消し去ってしまおうと画策したのである。

 折しも、娘マルグリットが新教徒の王アンリと結婚した直後であり、フランス中から、多くの新教徒がパリに集まって来ていた。カトリーヌが、この機会を利用しないはずはなかった。

 こうした背景の中、1592年8月24日の深夜に、それは実行に移された。旧教側が企てた一方的なだまし討ちとでも言える卑怯な出来事であった。サン・ジェルマン寺院の鐘の音を合図に、いっせいに残酷な殺りくが開始されたのである。
* 鐘の音を合図に大虐殺 *
 新教徒の家は、あらかじめリストアップされており、そのリストを携えた旧教徒の軍隊は、鐘が鳴るや否や、槍や火縄銃を持って、家々に乗り込み、子供であれ、女であれ、老人であれ、片っ端から皆殺しにしていったのである。それはあたかも、今世紀に行われたナチによるユダヤ人狩りをイメージさせる組織的で残忍な行為だった。
 ベッドの中で寝ていた男女は裸にされ、窓から突き落とされた。路上では、髪を振り乱した男女の死体が積み重なり、女や子供までが、槍で刺し殺され、首に縄をつけて引きずられ、血まみれのまま、セーヌ川に投げ込まれていった。
  後世に伝えるために、生き残った新教徒の画家が描いた聖バルテルミーの大虐殺の様子
 記録によると、「セーヌ川は犠牲者の血で真っ赤になって四方から流れ来り、往来を通る者は、絶えず、窓から放り出される死骸の下敷きになって押しつぶされる危険があった」とされている。実にパリでは、4千人が、フランス全土では10万人が一夜のうちに屠殺されたのである。
 この残忍な出来事は、聖バルテルミーの大虐殺として、後世の歴史に名を残すことになった。けだし、世界最大級の虐殺事件であろう。
 人間の、もっとも深遠とされるはずの宗教の教義がもたらした隠しようのない真実として、我々は、この破廉恥きわまりない出来事を過去の事実として、真摯に記憶にとどめておくべきであろう。
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