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ドラキュラ串刺し公
〜ウ゛ラド3世の血塗られた伝説〜
 ルーマニアの首都ブカレストから北西に80キロ行ったところに、トルゴビシテという小さな町がある。その中央に城跡があり、今では一面芝生に覆われているが、この古城こそ、19世紀に書かれた「吸血鬼ドラキュラ」のモデルにされ、血を見ることがなによりも好きだった猟奇的な君主の居城である。

 異常な性格を持った人間が君主となり、残虐の限りを尽くして綴られた呪われた過去とは一体どのようなものであったのだろうか?


* 超大国の前に立ちはだかった小国 *
 15世紀中頃の東ヨーロッパ・・・。まだルーマニアという国家が存在していなかった頃、この地方は、ワラキア、モルドバ、トランシルバニアという小国に分立してひたすら領土拡張闘争に明け暮れていた。
 その頃、小アジアには、オスマン帝国というイスラム教を信奉する超大国が誕生した。ペルシア帝国以来の強大なオリエントのこの国家は、大変、攻撃的な性格を有しており、第二のローマと言われたコンスタンチノープルを陥落させてビザンティン帝国を滅ぼすや、旺盛な食欲を満たさんばかりに、バルカン半島に侵入を開始した。そして、虎視眈々とヨーロッパ本土侵攻の機会を狙うまでになっていた。
 オスマン帝国の動向に脅威を感じたローマ教会は、傲慢な内容ながらもキリスト教との共存を急きょ、うったえかけたが、ジハード(聖戦)によってイスラム教を全世界に広めようとする狂信的なスルタンの考えを変えさせることは不可能だった。オスマン帝国7代目のスルタン、メフメト2世は、アラーの名の元にイスラム教によって全世界を解放するという使命感に病的に取り憑かれていたのである。
 そういうことで、当面のオスマン帝国の進路に立ちはだかる障害は、バルカン半島北部のハンガリー、トランシルバニア、モルドバ、ワラキアと言った国々であった。
 中でも、ワラキア公国は、ドナウ川を挟んでオスマン帝国の前線基地に対峙しており、ワラキア公国のブラド3世は、トルコ側から公位承認の代償でもある貢納金を支払おうとせず、メムメト2世のあらゆる要請にも応じる事もしなかった。
 それどころか、しばしば、トルコ軍の前線基地を襲撃しては略奪などの挑発行為を繰り返していたのである。
メフメト2世(1451〜1481)ビザンチン帝国の首都、コンスタンチノープルを攻略し征服者と呼ばれていた。
 メフメト2世率いるオスマン軍にとって、当面の目標は、このいまいましいワラキア公国をたたき潰すことにあった。
 時に、1462年6月、十数万という圧倒的な大軍を擁して、メフメト2世のオスマン軍は、ワラキアの首都目指して進撃を開始した。ビザンチン帝国が滅亡してすでに9年が経過していた。それに比べて、ワラキア公国では、緊急に徴集した農民兵まで入れても、3万に満たぬ兵力だった。ローマ教皇から巨額の軍資金を受領して、ワラキア公国に援軍を送る手はずになっていたハンガリー、モルドバ、トランシルバニアなどの国々は、再三の要請にもかかわらず、援軍を送ろうとはしなかった。どの国も、自分たちの利害と権力闘争ばかりに熱心で、ワラキアのことなど眼中になかったのである。孤立無援のワラキア公国は、単独でこのオスマンの大軍と戦わねばならなくなった。
 そこで、ワラキア公国のウ゛ラド3世は、少数の兵力で夜襲を決行し、一挙に戦局の逆転をはかろうとした。まともに戦って勝てる相手ではなかったのである。狙うのはムフメトただ1人に決め、全員一丸となって集中攻撃を敢行することにしたのである。そのため部下には、あらかじめスルタンの幕舎の見取り図を頭にたたき込ませ、闇の中でも自由に行動できるようにした。作戦は決行され、予想通り暗闇の中でのすさまじい白兵戦となった。しかし、ムフメト2世は、強力な親衛隊に何重にも取り囲まれており、なかなか近づくことすら出来ない。

 そうこうしているうちに、夜が明け始めた。少数の侵入軍が敵の大軍にその姿をさらすことにもなれば、もはや全滅は避けられない。そこで、ウ゛ラド3世は、やむなく全部隊に撤退命令を出した。素早く兵をまとめたブラド3世は、首都には戻らずそのままトランシルバニアの山岳地帯目指してとん走していった。
* 身の毛もよだつ光景 *
 数日後、ウ゛ラドの奇襲から立ち直ったオスマン軍は再び進撃を開始した。ワラキアの首都を目指して進撃してきたトルコ軍は、そこで、異様な森に出くわした。はるか彼方のうっすらと霞のかかる地平線上に姿をあらわしたそれは、森のようにもみえ、先端だけに枝葉がひっついているだけの枯れ木の集団のように思われたが、近づくにつれて、それは、兵士たちを恐怖のるつぼに叩き込んだ。

 枯れ木と見えたのは、立てられた杭であり、枝葉と思われたのは、その上に串刺しにされたトルコ軍の捕虜の死体だったのだ。死体は、かなりの日数が経過しているとみられ、半ば、白骨化して首や手足のもげた状態で腐乱して原形を留めているものは少なかった。頭上には、何千という禿鷲やカラスがバタバタと無気味な音をたてて群がっていた。初夏のむせかえるような湿気と混じり合って、吐き気を催すものすごい悪臭がそこら中に漂っていた。
 一段と高い小山には、将軍や総督らしき死体が串刺しにされ、目立つように立てられていた。この身の毛のよだつ串刺し死体の群れは、2万以上もあるとみられ、丘を越えて、はるか彼方にまで延々と切れ目なくつづいているのだった。
 このゾッとする地獄のような光景に、進撃してきた兵士の多くは、恐怖のあまり戦意を喪失してしまった。そして、ある者はうずくまって激しく嘔吐し、また、ある者はひざまずいて泣き叫んだ。実際、そのうちの何人かは、錯乱状態に陥って気が触れてしまった。

 これら串刺しにされたトルコ兵たちは、4か月前にウ゛ラドの率いるワラキアの奇襲に合って、捕虜になった2万4千名の成れの果てだった。

 ワラキアの首都トルゴビィシテに、たどりついたトルコ軍だったが、首都はすでに焦土戦術により、至る所から黒煙がたちこめていた。
 城門は開け放たれており、財宝らしきものはすでに運び去られていた。市内には、誰一人おらず、家畜の姿もなく、おまけに、井戸と言う井戸には毒物が投入されていたのである。
 先日のワラキア軍のすさまじい夜襲の恐怖も覚めやらない中、何万という捕虜をひとり残さず串刺しにしてしまうウ゛ラド3世の変質的とも言える凶悪で残忍な行いを見せつけられたオスマン軍の兵士たちは、すっかり戦意を失ってしまっていた。
ワラキア公国の首都にあったトルゴビシテ城の廃虚
メフメトでさえも、「こんな男と戦って何か意味があるのだろうか?」とブツブツと放心状態になって独り言のようにつぶやいていたという。その上、市内で黒死病が発生したというデマも手伝い、彼は、急きょ全軍をまとめて撤退することにした。彼としては、このような気味の悪い土地からは、一刻も早く立ち去りたい心境になったのかもしれない。これ以後、トルコ人たちは、ウ゛ラド3世のことを串刺し王と呼び極端に恐れるようになったという。

 しかし、わずかの兵力で、超大国と言われたオスマン帝国の大軍を撤退させたワラキア公国のウ゛ラド3世は、西ヨーロッパを救った君主として絶賛されることになった。もしも、ワラキア公国がオスマン帝国の侵入を許すことになれば、西ヨーロッパのローマ教会などキリスト教国全体が深刻な危機に陥っていたであろう。
* 想像を絶する恐ろしい伝説 *
 今日、ウ゛ラド3世の残虐な行為をつづった伝説が数多く伝わっている。
 そのほとんどが、想像を絶するほどの残酷な話で、日常の概念を根底から覆してしまうようなゾッとする話ばかりである。多少の誇張も含まれているだろうが、彼の持つ怪物的と言おうか、猟奇的な性格を物語る証拠と考えてよいだろう。
 彼は、周辺諸国の敵対する人々の移住地を攻撃しては、しばしば残虐な処刑を繰り返したことが記録されている。
ウ゛ラド3世 1431〜1476
 ベルツェラントに侵攻した時など、村民は、老若男女をすべて連行にして教会わきの丘のまわりで串刺しにした。また、ある貴族の一族は、幼児から老人までことごとく串刺しにされてしまった。そして、彼はその光景を見物しながら食事をしたというのだ。
 1460年、聖バルテルミーの早朝(8月24日)には、彼は、自分に敵対する異母弟の根拠地だった村を急襲した。その際、集まっていた男女すべては捕らえられ、剣で切り刻まれるか、ことごとく串刺しにされてしまった。村はすべて、焼き払われ、3万人以上が殺されたと言われている。
 それから、2年後、バルガライ地方に侵攻した時など、彼は、キリスト教徒を含むあらゆる人々2万5千人以上を虐殺した。その殺し方も実に惨たらしいもので、生きながら串刺しにしたり、焼き殺したり、ゆで殺したり、生皮を剥ぐなどして殺し尽くしたのであった。目撃者の一人は、串刺しにされた死者の列がまるで森のように林立するこの世の地獄絵図に全身総毛立つ思いだと感想を残している。

 彼は、また身の毛のよだつ恐ろしい処刑方法を考案した。それは、ネロやヘロデなどの残酷で知られる迫害者ですら思いつかぬような残虐で猟奇的なものだった。例えば、母親と幼児をともに串刺しにしてみたり、母親の乳房の片方をえぐり落とし、幼児の頭をそこに押し込んだ上で串刺しにしたこともある。大きな鍋をつくらせその上に穴を開けた板をわたして、捕虜の頭を突き出した形で釜ゆでにしたこともあった。
 釜ゆでにされた捕虜は、次第に熱せられるにつれ、あまりの熱さに顔は醜くボールのように赤く膨れ上がっていった。やがて、ごぽごぽと沸き返る熱湯の中で悶え苦しみ、絶叫を上げて、のたうち回り、最後には、悶絶死するのである。彼は、その過程をまるで喜劇でも観るように、愉快そうに食事をしながら、時には杯を傾けながら楽しんだということだ。
 彼の最も好んだことは、串刺しにされた犠牲者が林立する中に食卓を置いて祝宴を開くことだった。彼にとってみれば、遺体の放つ死臭を嗅ぐ時ほど、快適な気持ちにさせられることはなかったのである。異様な景観を眺めているうちに、自然と食欲がこみ上げて来るのであった。
 召し使いの一人が、腐った死体の放つあまりの悪臭にがまん出来ずに、顔をそむけて鼻をつまんだことがあった。彼がどうしてそのようなことをするのかと質問すると、その召し使いは「臭いがひどくて我慢出来ないのです」と言ったそうである。
 ウ゛ラドは、その言葉を聞くと大変腹を立てて怒りをあらわにして部下に命令した。「こやつをただちに串刺しにせよ!」そして不気味な笑いとともにこう付け加えたそうだ。
「お前は特別に悪臭の届かぬ一番高い所にかかげてやろう」
15世紀のドイツの木版画
 また、彼は、カ二バリズム(食人)をさかんに行った。ある地主貴族を処刑した時には、その死体を煮込んで料理をつくった。そして、殺した貴族の友人を多数招待して、その料理をふるまったのである。何も知らない彼らは、その料理を食べさせられた挙句に、串刺しにされて殺された。また、盗みをはたらいた犯人を捕らえたことがあったが、彼は、犯人を釜ゆでの刑にして殺し、それをジプシーたちに食べさせたのである。また幼児を火あぶりにして、その母親に食べさせたこともある。それが終わると、女の乳房を切り落として、今度はそれを夫に食べさせ、その後で、夫を串刺しにしたというのである。
* 異常な人質体験 *
 このように、吐気を催す拷問、むごたらしい虐殺、猟奇的カニバリズムなどありとあらゆる残虐行為を繰り返して行ったウ゛ラド公とはいかなる人物であったのだろうか? 
 通称串刺し公として知られるウ゛ラド3世は、1431年2月、トランシルバニアの古い城塞都市に生まれた。
 彼の父ウ゛ラド2世は、ハンガリー王国からイスラムと戦うという意味の「ドラクルの騎士」の称号を送られた上に、所領を与えられた。
 ハンガリーは、彼に必要な援助を約束して、ワラキア公として承認をすることで、押し寄せるイスラムの脅威からの防波堤という役割を彼に荷なわせたのであった。
ウ゛ラド3世の生まれたトランシルバニアに残る家
 しかし、ワラキア公として、トルゴビシテに首都を構えたウ゛ラド2世は、たちまち、隣接するオスマン帝国の重圧に直面することになった。

 オスマン帝国のスルタンは、彼にワラキアの公位を認める見返りとして、多額の貢納金を要求してきた。断れば、圧倒的な軍事力で一気に粉砕されることは明らかであった。こうして、ワラキアはトルコとの間に屈辱的とも言える隷属関係に組み入れられてしまった。

 この結果、ワラキア公国に与えられた役割は、イスラムの防波堤になるどころか、皮肉にも、バルカン侵攻をはかるオスマン軍の先鋒をつとめることになってしまうのである。しかも、ワラキア公国のウ゛ラド2世の忠誠に疑問を抱くスルタンは、彼の息子を人質にとることを要求してきた。当時13才だったウ゛ラド3世は、人質としてトルコの首都に留め置かれることになった。以後、5年間、ウ゛ラド3世は不安な人質の日々を過ごすことになるのである。

 一方、トルコ側に寝返ったと思い込んだハンガリー王国は激怒した。ワラキアにトルコ戦への参加を強要を迫って来たのである。ウ゛ラド2世は、トルコで人質になっている我が息子を気づかいながらも、義務を遂行したが、ウ゛ラドに反感を持つ貴族たちによって長男もろとも捕らえられた。そして、沼地のほとりにある修道院で惨殺されてしまった。一方、兄の方は、鎖につながれて連行され、自分の墓穴を掘らされた上に生きたまま埋葬されたのである。

 そこで、オスマン帝国のスルタンは、空位となったワラキアの君主の座に、人質として捕らえられていたウ゛ラド3世を推すことになった。トルコ側としては、人質期間の5年にわたるトルコの教育により、ウ゛ラド3世がトルコにとって好都合で従順な君主になることを期待していたのである。言わば、トルコの傀儡政権の切り札としての任務を与えられていた。

 しかし、ワラキアの新君主についたウ゛ラド3世は、結果的には、トルコを裏切りハンガリー側に走ってしまう。彼は心の底ではトルコを憎んでいたのであった。彼が5年間の人質期間に最も影響を受けたのは、皮肉にも、政治面ではなくトルコの伝統でもあった串刺しの刑であった。ワラキアの君主に返り咲いたウ゛ラド3世は、この串刺しの刑をあたかも自分の専売特許のように行い、おびただしい数の人間を殺し、残虐の限りを尽くして恐怖の絶対君主となっていくのである。
* 容赦なき残酷な復讐 *
 このように、ワラキアの歴史は、ハンガリー王国とオスマン帝国という2大国間に翻弄された小国の悲哀の歴史でもあった。言い換えれば、ドナウ側を挟んで、イスラム教とキリスト教という異教どうしの緩衝地帯でもあり、そのため、両サイドから、あらゆる政治的干渉や軍事的衝突がひっきりなしに行こなわれたのである。ワラキアは、その都度、ハンガリーに傾き、あるいはトルコの脅迫に屈しなければならなかった。

 確かに、全く異なる世界が四つに組んだ15世紀のルーマニアは、まともなことでは、切り抜けることの出来ぬ狂気と残虐さが正当化される矛盾に満ちた時代でもあったと言えるだろう。ウ゛ラド3世はこういう異常とも言える時代に生きたのである。その上、少年時代の人質体験、生きながら葬られた兄や修道院で惨殺された父、日常茶飯時に行われた裏切りの数々・・・もはや、どこからどこまでが正常であるか区別がつかぬ情況下では、普通の生き方は無理だったのかもしれない。

 1456年、首都トルゴビィシテに乗り込み、ワラキアの権力を掌握したウ゛ラド3世は、9年前に殺された父と兄の供養をした。
 彼は、まず、兄が葬られたという共同墓地を発掘した。掘り起こされた遺体は、苦悶の形相すさまじく、首を背中にねじまげた姿勢になっていた。
 これは、兄が生きたまま埋められ、のたうちまわった挙句に窒息死したことを物語っていた。彼、ウ゛ラド3世は、兄の遺体を改葬して盛大に葬儀を行ったが、すでに頭の中には復讐心に満ちていた。
ウ゛ラド1世(祖父)の居城だったトランシルバニアにあるブラン城、吸血鬼のイメージにふさわしい城だが、当のウ゛ラド3世は、一度も行ったことはない。
 まもなく、彼は、ワラキア中の貴族を城に召集した。会食が終わって、ウ゛ラドは彼らに、これまでに何人もの君主に仕えて来たかと質問した。ある者は、5人と答え、ある者は、12人と答えた。30人、50人と答えた者もいた。貴族たちは25才の新しい君主がどういう意味でこんなことを質問するのか意図がわからず、戸惑いの表情を見せた。

 しかし、ウ゛ラドの方は知っていた。この中に、父と兄を惨殺した裏切り者がいるということを。まもなく、彼の目配せのもと、一定数以上の君主に仕えたと言った貴族が部下によって捕らえられた。この中には、父と兄を殺した者もいるはずだった。その数は5百人ほどだったが、彼らは、ただちに生きたまま串刺しにされた。先をとがらせた杭は、すでに何百本も用意されていたのだ。

 そして、貴族たちは、ある者は胸から、ある者は肛門から、脇腹からと生きたまま、内臓を貫かれて突き刺さされ、絶叫し、のたうち回って死んでいくのである。
 何百本の杭は、城の外に立てられ、死体は野鳥がついばむままにされ、何か月も死体の原形がわからなくなっても放置され続けた。
裏切り者は、すべて串刺しにされた。
映画 「Dark prince」より
 ここにいたり、ワラキア中の貴族は、この新しい君主ウ゛ラド3世が、どれほど残虐で、戦慄すべき人間かがわかり、恐怖一色に染まっていくのである。もはや、彼らは、この新しい君主に絶対服従を誓うか、さもなければ、土地を捨ててどこかに逃げ去るかのいずれかを選択しなければならなくなった。

 敵対する貴族を、一掃して彼の本格的な治世が始まった。それは、恐怖を根底とする絶対的なものであった。彼は、人々が常に勤勉に働き、盗みや不正を行わず、妻は夫に常に貞淑であることを求めた。そして、それに少しでも違反した場合には、厳格で情け容赦のない処罰が用意されていたのである。
15世紀の木版画から
* 恐怖に支配された治安体制 *
 ある時など、勤勉な夫にみすぼらしい衣類を着せていた妻は、両手を切り落とされて、串刺しとなった。不義をはたらいたり、貞操を守らなかった女は、性器を切り取られたり、乳房を切り取られたうえ、全身の皮を剥がれて、棒杭にくくりつけられ町の中央にさらされた。彼女らは、全裸のまま骨と肉がばらばらになるまで、何日もくくりつけられたままだった。ある女は、性器から、焼けただれた火掻き棒を突っ込まれたが、その先端が口から飛び出してしまった。
 ある商人が、宮殿前の広場に馬車を留めておいたところ、160枚の金貨が何者かによって盗まれてしまった。商人がそのことをウ゛ラドにうったえると、彼は今夜のうちに犯人は逮捕され、お前の金貨は戻るであろうとのことだった。すると、ウ゛ラドの言った通り、一晩たつと翌朝には、金貨がそっくり戻っていた。彼は、喜んだものの、金貨が一枚多いことに気がついた。そこで、ウ゛ラドのもとに参上してそのことを告げると、「もし、お前が正直にそのことを言わぬ場合は、捕らえた犯人とともに串刺しにしてしまうつもりだった」と言ったということである。それを聞いた商人は、血の気を失って卒倒しそうになったと言うことだ。

 またある泉に、黄金製の見事な金杯が置かれていた。水が欲しい者は、誰でもそれで自由に飲むことが出来るようになっていた。その場所は、人通りの少ない場所であったにもかかわらず、その金杯は、いつも同じところにあり、盗まれることはなかったという。こうして、この時期、ワラキア領内ではいかなる犯罪を犯す者もいなかったと言われている。

 このように、彼の異常ともいえる正義感は、領内に恐ろしいほどの厳粛な治安をつくりだすことになった。あらゆる窃盗、虚言、不義などが露見した場合、その犯人には身の毛のよだつ恐ろしい刑罰が加えられたのである。
 このような恐怖の支配する治安が善政と言えるものかどうかはわからぬが、彼に対する評価は今日では二分されている。
* 真相は歴史の闇に *
 こうして、オスマン帝国の侵攻を食い止めたウ゛ラドだったが、首都のトルゴビシテは、焦土戦術により廃虚同然になってしまい、トランシルバニアに落ち延びた後、再び、ワラキアに戻ってこられるのは12年もたってからであった。そして、ハンガリーの協力のもとに、ワラキアの君主になるが、一か月も経たないうちに暗殺されてしまう運命にあった。

 ウ゛ラドの最期は、暗殺によるものか戦闘によるものかはっきりしないが、あっけない最期であったようだ。伝承によると、彼はトルコ軍との戦闘中に、護衛兵と離れてしまい、一人きりになってしまう。身の安全を考えた彼は、死体から剥ぎ取った服でトルコ兵に変装したが、追いついて来た護衛兵がウ゛ラドとは気づかずに後ろから槍で突き殺したというものである。また、ある説では、馬を走らせていた時、すれ違いざまに使用人の一人に首を切られたとかいう説もある。
 現在も、彼の居城だったトルゴビシテ城の塔に登ると、小高い丘を一望することが出来る。
 今から540年ほど前には、2万4千人ものトルコ兵が串刺しにされた身の毛もよだつ光景がこの丘一杯に展開されていたはずである。
 城跡には、かつて5百人の貴族を捕らえた大きな広間のある館や、地下の血塗られた拷問室などもあったにちがいない。
 虐殺によってたっぷりと血を吸ったこの場所も、今では、それを伺い知る証拠は何一つ残されていない。
廃虚に残る当時の塔の一部
 彼は、その生涯で実に十万人以上の人間を串刺しにして殺したと言われている。
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