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ボルジア家の毒薬
〜毒薬と短剣で神の国を築き上げた血塗られた一族〜
 中世と近世のはざまで揺れ動くルネッサンスの時代。その頃、イタリアはまだ統一国家の形ではなく、ベニス共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、ローマ(教皇領)、ナポリ王国などの5大勢力に分かれて、互いに牽制し合っていた時代だった。
 その中で、ローマのバチカン宮殿に君臨し、神の名の元に恐るべき策謀を繰り返して、数多くの人間を殺害した血塗られた法王一族があった。
 人々は、彼らのことを毒蛇の一族と呼んで忌み嫌った。彼らに邪魔と思われた人々は、短剣や毒殺による暗殺によって、次から次へと闇に葬られていったのである。
* 史上最悪の法王 *
 15世紀末、スペインのバレンシア地方にくすぶっていた一介の田舎貴族に過ぎなかったこのボルジア家に、ロドリゴという僧侶がいた。彼はあるゆる手を使ってでも、名誉欲を満足させたいような権勢欲に凝り固まった人物だった。
 1492年7月、インノケンティウス8世が死去して教皇の座が空位となると、次期の法王の後継者を巡って、過激な争いが始まった。この時、長年住んだスペイン、バレンシアから、ナポリに移住していたロドリゴ・ボルジアは、ローマ教皇を補佐し得る最高顧問でもある枢機卿(すうきけい)の地位にまで上り詰めていた。
 この時、彼の野心は最大のチャンスが来たとばかりに荒れ狂わんばかりだった。次期の教皇は3人の枢機卿から選出されるからだ。ロドリゴは、地上最高の栄誉を得るために、ありとあらゆる術策を用いようと考えていた。教会には多額の教会禄を約束し、公然と贈収賄を行ったのである。銀貨のいっぱい入った袋を満載したろばの引く荷車が人目をはばかることなく、他の枢機卿の屋敷に出入りした。自分の資産を惜しげもなく売り飛ばし、恥知らずの取り引きを何度も行った結果、一か月後には、彼は念願かなって新しい法王に選出されたのであった。
 こうして、晴れてローマ法王の地位に就いたロドリゴ・ボルジアは、自らをアレクサンドル6世と名を改めた。
 この名は、古代世界の偉大な征服者アレクサンダー大王にあやかるものでもあった。この時、人々は全世界を統治する偉大な新法王が地上にあらわれたとささやき、この新しい法王のもとで夢のような秩序ある王国が誕生するのを夢見ていた。
 しかし、それからまもなく、神の名の元に築き上げられた王国は、皮肉にも悪徳の限りをつくした悪魔の王国になった。やがて、法王となったアレクサンドル6世とその子供たちは、ボルジア家の一族をバチカンの地に呼び集め、次第に、一族間で婚姻関係を結んでは、権力を揺るぎないものとしてゆくのである。
アレクサンドル6世
(1431〜1503)
 陰湿な悪徳行為の限りをつくした彼らは、神の国バチカンに君臨し、過去の栄光に汚辱を与えていった。アレクサンドル6世は、歴史上最も悪名の高い法王となるのを誰が予想し得たであろうか。
* 暗殺を恐れる貴族たち *
 悪魔礼拝や迷信などが浸透し、不条理なものが公然と人間性を押さえつけた暗黒の中世は、恐ろしい暗殺が横行した恐怖の時代でもあった。そして、ルネッサンスのイタリアにおいて、毒殺による暗殺がこれほどまでに普及したのも、他ならぬボルジア家が原因だったとされている。毒殺という暗殺方法は、実に陰惨で、人間の心理の陰の部分が形となったものだと言えよう。それは力のない者でも簡単に相手を殺すことの出来る闇の殺人術なのであった。
 貴族の多くは、毒殺されるのを恐れ、あらゆる措置を考えた。貴族の食卓には、砒素に反応して変色する銀製の食器が多用されていた。ある政治家などは、猫をたくさん飼う愛猫家で知られていたが、その実体は、毒殺されるのを恐れて、まず猫に毒味をさせるのが目的だったという。
 ボルジア家の家紋は、かつて、一族が、牧人だったことから、赤い色の牡牛と定められていた。
 それは、彼らボルジア家の好戦的な性格を意味し、恐るべき勇猛さの象徴でもあった。
 しかし、まもなくその家紋は、冷酷な残忍さと暴力、近親相姦と陰惨な毒殺で彩られた気味の悪いシンボルとして、人々の心に永久に刻まれていくことになるのだ。
ボルジア家の家紋
* 血塗られた近親相姦 *
 法王となったアレクサンドル6世には、枢機卿時代に愛人や寡婦に生ませた子供たちがいたが、とりわけ二人の子供、娘のルクレチアと息子チェザーレには、惜しみない愛情を注いだ。ルクレチアとチェザーレは、5才違いの実の兄妹だった。
 ボルジア家は美貌の血統だったと言われている。ところが、兄チェザーレが妹のルクレチアに恋慕の情を抱いており、ルクレチアの夫や愛人になると、命が危なくなるというのが世間一般での噂だった。それを裏づけるような数々の逸話が残されている。
 ルクレチアには、腹違いのガンディア公という長兄がいたが、ローマ市内を流れるチベル川より水死体となって発見される事件が起きた。しかも、全身には、9か所もの刀傷があるという奇怪な死に方だった。財布には30ドカートという大金が手付かずで残されており、金銭目当ての犯行でないことを物語っていた。
チェザーレ・ボルジア
(1475〜1507)
 一説には、妹のルクレチアに恋情を抱いた長兄ガンディア公に次兄チェザーレが苛烈に嫉妬したための犯行だと言われている。
 その後、チェザーレは自分の兄ガンディア公の財産を5万ドカートで売り払ったという。
 チェザーレと彼の父アレクサンドル6世は、自分たちの財産を増やすということ以外に関心を払わない人種であった。
ルクレチア・ボルジア
(1480〜1519)
 ルクレチアの最初の結婚は、ミラノとローマの同盟をはかるための政略結婚で、夫はジョヴァンニという名家の御曹子であった。しかしこの夫は、病弱で性的不能者だと言われていた。数年後、ミラノとの同盟関係が必要なくなると、、チェーザレはルクチアに命じて、病弱の夫を毒殺しようとした。ルクレチアは命令に従うふりをして、密かに、夫ジョヴァンニに真相を告げ、急いでローマを脱出しないと命が危ないと耳打ちした。殺されると聞いて、顔色の変わったジョヴァンニは、ただちに馬に飛び乗って大急ぎで脱出し、かろうじて毒殺をまぬがれたと言われている。
 アレクサンドル六世の侍従で、ルクレチアとの連絡係だったペドロ・カルデスという若者もチェーザレに殺された。最初の夫がいなくなり、その寂しさゆえに、常に顔を見せるこの若い連絡係と親しくなったルクレチアは、情事の当然の結果として身重の身となってしまったのである。
 それを知った兄のチェザーレは、激情のあまり剣を抜くと、ペドロに襲い掛かっていったのである。
「誰か!助けてくれ!」この若い侍従は、数カ所に傷を負いながらも、ほうほうの体で法王が鎮座している王座まで逃げ込んでいった。
「うぉー! 待て、殺してやる!」その後を、チェザーレが、ものすごい形相で剣を振りかざしながら追って来た。
 結局、ペドロは法王の面前で止めを刺されて息絶えた。この時、血しぶきが法王の顔まで飛んでいったほどであった。
 次に、彼女の二度目の夫になったのは、ナポリのアラゴン家のアルフォンソという若者だった。彼はまだ十九歳の美男子で、ルクレチアは、この二度目の夫には、心底満足していたようであった。しかし一年ほどすると、ボルジア家にとっては、ナポリとの関係もうとましいものとなっていた。
 ある日、アルフォンソがヴァチカン宮殿から出て来た時、武器を持った数人の男が、彼を取り囲んで瀕死の重傷を負わせた。これは、チェザーレとアレクサンドル6世が、密かに無用の長物となったアルフォンソを殺害しようとしたものらしい。
 彼を愛していたルクレチアは、チェザーレに毒殺されるのを案じて、一ヶ月ほど、付きっきりで彼を看病したが、ある夕暮れ時に、少し目を離した隙に風のように入り込んだ刺客によって絞め殺されてしまった。
 こうして、殺人が起こるたびに、人々は、ボルジア家のいまわしい近親相姦を思い起こし、チェザーレの名を小声で噂した。しかし、誰もが堂々とその名を口にすることは出来なかった。
 このように、ルクレチアは、美貌ゆえに、求婚者が数多くあらわれたが、その度、欲に目の眩んだ父や兄のために政治の駆け引きに利用されたのである。そして、同盟関係が無用ともなると、毒などを使って巧妙に相手を始末したのである。彼女は、ボルジア家にまつわる近親相姦ゆえに、放蕩で淫奔な悪女というイメージで見る人々も多いが、その実体は、受動的で哀れな女性だったと言えるだろう。
* ボルジア家秘伝の毒薬 *
 ところで、ボルジア家にまつわる毒はカンタリスがよく知られている。
カンタリスは、一見、砂糖のように純白でサラサラした粉状の形状をしており、少し甘味のする粉末だったと言われている。それは、ハンミョウ科の甲虫を乾燥してつくられたものだとか、撲殺して腫れ上がった豚の脾臓を乾燥させてすり潰してつくられたものだとか言われているが真相はよくわからない。おそらく、こうした動物性の毒薬にひ素やアンチモンなどの鉱物毒などを微妙に混ぜ合わせてつくられたものではないかと思われる。
 このカンタリスという毒は、少量では催淫剤(性欲を促すような効果)としての効能を持つが、量を少しずつ増やしていくと、人体の組織を徐々に麻痺させ確実に死をもたらすのである。
 それは、飲んでも最初のうちは何も感じないが、徐々に血管の中に入り込み、知らず知らずの間に内部を損傷して死に至らしめる恐ろしい毒なのである。
 それを指輪の中などに隠しておき、他愛のない会話の合間に、油断を見すまして相手のワインやスープなどの中に入れるのである。その際、それらの微妙な量加減によって、死に至るまでの時間を巧妙にずらすことも出来た。一日でも、一か月でも一年がかりでも、それは可能だったのである。ボルジア家の人間はそういった技に精通しており、毒を盛られた当の本人は、全く気づかずにいるのが常であった。全く、その技術は驚くほど素早いものだった。
 あなたが、もしこの時代の貴族だったら、いとも簡単に彼らの毒牙にかかってしまうにちがいない・・・
 優雅なボルジア家の舞踏会から、機嫌よく帰ったあなたは一眠りするが、妙な喉の乾きに目覚めてしまうことであろう。水を飲んで落ち着こうとするが、まもなく、心臓の鼓動が早鐘のように頭の中で響き渡り、眠ることは愚かしゃべることさえも出来なくなる。唾液がわけもわからず、次から次へと込み上げて来る。そのうち、手足がガタガタと震えだし、全身に悪寒が走り、力が入らなくなってゆく。視覚には青や赤やオレンジの火花のようなものが散らつき始め、やがて何も見えなくなってしまう。
 その時になって、あなたは、昨夜のボルジア家で出された変に甘ったるいワインに、一服盛られたのではないかという考えが一瞬、頭をよぎるかもしれない。しかしもうその頃には、あなたは呼吸することも出来なくなり、何度も襲ってくる胸の激痛に喉をかきむしってのたうち回るのである。まもなくして意識も途絶えた体は急速に死の硬直段階に入り始めていく。

 翌朝になって、冷たくなったあなたの体は、無惨な形相でベッドで発見されるが、原因不明の死因として片づけられてしまうのである。このようにして、アレクサンドル6世とその息子チェーザレに毒殺され、闇に葬られていった貴族や枢機卿は、実に数えきれぬほどいたはずだ。
* 闇に葬られた人々 *
 彼らに毒殺されたと思われる事件は数多く記録されている。オスマン帝国のバヤジット2世の弟ジェム王子も毒殺された一人だと見られている。
 ジェム王子は兄のバヤジット2世に憎まれていたが、トルコからヨーロッパまで転々として逃げまわり、ローマの宮廷にかくまわれていた。
 当時、十字軍によるコンスタンチノープル奪回を夢見ていたフランス王シャルル八世が、このオスマン帝国の王子に目をつけぬはずがなく、身代金を払って彼の身柄を引き取りたいとアレクサンドル6世に申し込んできたのである。フランスはこの王子を交渉のカードとして使うつもりだったのである。
シャルル8世
在位(1483〜1498)
 アレクサンドル6世は、フランスの要求を断るわけにもいかず、またオスマン側とも裏の協定があったので、バヤジット2世の手前上、生かして渡すこともしたくなかった。
 そこで、アレクサンドル6世は、身の代金だけ受け取ると、フランス軍に引き渡す前に、密かにカンタリス粉末を飲物に混ぜてジェム王子に飲ませたのである。
 こうしてジェム王子は、フランス軍の手に渡されたが、まもなく原因不明の死を遂げる運命にあった。
バヤジット2世
オスマン帝国の皇帝
在位(1481〜1512)
 その後もアレクサンドル6世は、息子のチェーザレと共謀して、邪魔と思われた枢機卿を何人も殺し、その度、彼らの財産をことごとく奪っていくのである。
* 増え続ける教皇庁の資産 *
 1498年、アレクサンドル6世とその子供たちは、サンタンジェロ城に身を落ち着けた。
  美しい外形をしたこの城は、地下に陰惨な地下牢を備えていることで知られていた。ここでは、一日に3、4人の割で邪魔者が始末されていったと言われている。
 ある終身刑を言い渡された高僧などは、悪臭が漂い、ネズミがうようよいる地下牢に閉じ込められ、ほとんど食料も与えられず、野たれ死にするまでの8か月間、生ける屍のごとく生かされていた。
サンタンジェロ城、チベル川のほとりに位置し、おびただしい人間が殺された血塗られた歴史を持つ城である。
 枢機卿だったミキエル、モンレアレ、ゼノ、フェラーリ、バチスタなどといった主要な面々も、原因不明の病で倒れ、次々と病床に臥した末に謎の死を遂げた。医者はすべて自然死の診断をくだしたが、誰もこれを信じる者はいなかった。これらはすべて、アレクサンドル6世とチェザーレの毒殺によるものと信じられている。

 こうして、毒殺された者の中には教皇の秘書までも含まれていたという。その後、彼らの資産は教皇庁にすべて没収されてしまった。最後には、資産があると言うだけで、何がしかの罪によって告訴されるようになった。いったん告訴されると、投獄されて処刑される。そして、当人の資産が教皇庁に没収されるという図式が次第に出来上がっていった。それはまるで、魔女裁判のようでもあった。

 その際、彼らは後釜として、自分たちの息のかかったバレンシア出身の枢機卿を何人も擁立して、思い通りになるよう準備しておくことを忘れなかった。
 このようなボルジア家のあまりの悪徳ぶりに人々も憤慨を覚えていたが、ボルジア家の悪口を言おうものなら死を覚悟しなければならないほどになっていたという。
 そしてもうこの頃になると、ほとんどの高僧はこのような法王の元では、規律正しく勤行に励もうとする気など起こさなくなっていた。
サンタンジェロ城の陰惨な地下牢へと続く階段
* 奇怪な死 *
 しかし、ボルジア家の運勢もにわかに衰える時がやってきた。アレクサンドルとチェザーレが原因不明の熱病で倒れたのである。だが事実は、アレクサンドルとチェザーレが、カンタリスの入ったぶどう酒を毒殺する目的でコルネート枢機卿のもとに持っていったところ、給仕の手違いで自分たちの方に注がれてしまったというのが真相のようである。
 その日、コルネート枢機卿はぶどう畑に囲まれた豪勢な別荘で祝宴をあげるためアレクサンドルとチェザーレを招いた。もと法王書記官で今や大富豪のコルネート枢機卿の財産に彼らは以前より目をつけていたのだ。彼らは毒殺するには絶好の機会だと思ったに違いない。
「お宅は実に見事ですな。大変居心地がよい。しかも立派な教会区もお持ちだ。何ヘクタールになるかな?」アレクサンドルはワインを一口飲むとこう口にした。もうすぐ、これらの広大な庭園と財産が自分のものになるのだと思うと笑みも自然とこぼれてくるというものである。
「それにしても実においしいぶどう酒だ。口あたりがいい」アレクサンドルは上機嫌で何杯も口にした。
「父上、今日はたいそうなご機嫌ですな」横にいたチェザーレが言う。しかし、そのうちアレクサンドルの手がふるえ出すと、顔をゆがめて脇腹を押さえた。「うう、い、痛い!・・・」
 その声を聞いたチェザーレは飲んでいたワインを置くと、真っ青になって立ち上がった。給仕の手から引ったくるようにワインの瓶を手にすると、底のしるしをもどかしそうに調べる。
「間違えたな! なんてことだ!」チェザーレはこうがなりたてると、大声で医者を呼べと何度もわめき散らした。こうして、二人はバチカンの邸宅に運び込まれることになった。
 チェザーレは3日間、高熱や胃痛に苦しみ、熱を下げるために冷水の張った壷に身を浸したりした。そのかいあって、数日後には幾分容態が回復したが、全身の皮膚が剥げ落ちてしまった。

 一方、父のアレクサンドル6世の方は深刻な状態に陥っていた。そして発病から2週間後、法王の容態は絶望となった。この時、アレクサンドル6世は子供たちに合おうともせず、カリノーラの大司教を呼び、苦しい息のもとで告解をしたという。それはキリスト教界の利益よりも自分たち一族の利益を優先したことに対する罪の懺悔のようなものではなかったろうか。恐らく、死の床にあって、神の永遠の裁きへの恐れが、この行動を取らせたものと思われる。この後まもなく、アレクサンドル6世は、欺瞞に満ちた72才の生涯を終えるのだ。
 翌日、彼の遺体は人前で安置されたが、死んだ直後より、遺体は膨張し始め、口からは大量の泡を吹き始めた。二日後、遺体は縦と横の長さがほとんど同じくらいにまで膨れ上がり、もはや、人間の形をとどめていなかったと記録されている。このような奇怪な死体の様相は、毒殺されたしるしであるとして町中、噂を広めることになった。

 父法王の死後、支援を失ったチェザーレに容赦なく不運は襲って来た。ウルビーノ、ペルージア、ペーザロといった教皇領内の各都市で反乱が起き、フランス、スペインなどの列強が介入して来たのである。これまで、教皇の名のもとに、資産を奪われたり、弾圧を受けていた人々の積もり積もった恨みがドッと出た格好になった。ローマの人々は、これまでボルジア家が行った悪徳行為に対する侮蔑的な中傷文を市内にばらまいていた。
 しかし、病床にあったチェザーレは、それに対して何ら有効な対策を講ずることも出来ず、イタリア統一という彼の夢が空しく崩壊してゆくのを肌で感じていた。
 その後、新法王となったジュリアーノ枢機卿は、ユリウス2世と名を改め、チェザーレを逮捕する命令を出した。彼はアレクサンドル6世が教皇だった頃、フランスに長年亡命を余儀なくされていた人物で、ボルジア家には恨みを持っていた。
 また、ユリウス2世という名も、ローマ帝国のユリウス・カエサルからとったものであった。
 チェザーレは逮捕され、サンタンジェロ城の独房に監禁される身となった。
 ユリウス2世は、過去10年間におけるローマでの神に背いて犯された残虐行為や殺人を暴き、彼を裁きにかけようとしていたのである。
ユリウス2世
* 裏切りと逃亡の果て *
 しかし、悪運強いチェザーレは、そこを脱出するが、それからは、牢獄と苦しい逃避行の繰り返しだった。かつての彼の美貌は、病床以来、見るも無惨に変わり果てていた。逃走中に住民に目撃された報告書が今でも残されている。それによると、ずんぐりして肩幅が広く、顔ははなはだ醜く、鼻が大きく、肌が赤銅色に日焼けしていた。怪我をしたらしい手には、包帯が巻かれ、いつも黙ってうなだれていたという。

 その後、知人だったスペイン総督を頼ってナポリに行くが、そこにも、法王の息がかかっていた。結局、彼は、知人の裏切りで捕らえられてしまうのである。反スペイン派の貴族の援助で、からくもそこも脱走したチェザーレは、スペインに対して反旗を翻している義兄ナヴァーラ王のもとでスペイン軍と戦うことになる。
 1507年、チェザーレは、敵の城を包囲攻撃中に戦死した。その最後は、敵めがけて突進して、3人を斬り殺すも、後続を絶たれて、入り組んだ土地に追い詰められ、多数の敵に囲まれて体の数カ所をメッタ刺しにされて死んだと言う。ボルジア家の悪名高い貴公子は、こうして30年余りの波乱に満ちた生涯を閉じたのである。
 この時、チェザーレの死を知ったルクレチアは、狂乱して嘆き哀しんだという。その後、彼女は信心に没頭し莫大な慈善を行うのである。彼女によって設立された修道院や病院は数知れない。
 ルクレチアの寝室の衣装戸棚には、高価な衣装やガウン、帽子、靴、マントなどがたくさんひしめいていたが、それらはことごとく売り払われて行った。最後には、宝石類までもを質入れする始末であったという。
 こうした残りの生涯を神に捧げたルクレチアの善行によって、ボルジア一族の悪行は多少なりとも償われたと言えるだろう。
ローマ郊外にあったルクレチアの部屋
 ルネッサンスは享楽的な気風がみなぎっていた時代でもあった。当時の人々のモラル、法律、慣習や性の価値基準を現代に当てはめた場合、恐らく、不道徳で退廃的なものとしか受け取れないに違いない。こういう意味では、ボルジア家はその行為によって悪徳と美徳を強烈にアピールして、当時の人々が偽善的に包み隠そうとするものを、むしろ強調して見せただけだったのかもしれない。
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