魔女狩りの時代
〜迷信が人々を残忍な殺人鬼へと駆り立てた恐怖の時代〜
* 恐怖と迷信の時代 *
 中世の世界ではいろいろな災厄が絶えず頻繁に起きていた。戦争は周期的に起こり、さまざまな自然災害、飢饉、疫病などが流行し、その度に途方もない人々がバタバタと死ぬ時代であった。人々の毎日の生活はいつ起きるかわからぬ災厄に不安定このうえないものであった。
 例えば、14世紀初めに起きた大飢饉は、全農村の3分の1が廃村となるほどの壮絶なものであった。すべての農民は栄養不良から死んだり、物乞いとなって各地をさまよったりした。農民の中には腐敗して麦角菌に毒されたライ麦のパンを食べて狂い死にしたり、飢えに耐えかねたあげく、墓をあばいて埋葬されたばかりの死者の肉をむさぼり食った者さえいた。市街には、孤児、老人、病人、不具者が大勢たむろして、毎日、野垂れ死にしていたが、誰も自分が生き延びることだけで精一杯で彼らに見向きもすることもなかった。
 ある農民は悲嘆に暮れてこう言っている。我々は毎日飲まず食わずで働かねばならない。しかもそこまでしても、報酬として受け取れるのは領主に足蹴リにされることと呪いの言葉だけだ。いかにこの言葉が当時のすさんだ農民の心境をあらわしているかわかるというものである。生きる希望をなくして自暴自棄になり、おいはぎや強盗に成り下がった農民も少なくなかった。しかし、人々の悲劇はそれだけでは終わらなかった。その50年ほど後には、中世最大の災厄と言われた黒死病の大流行が控えているからである。
 こういう環境下では、何が自分たちに災いと不幸を持たらすのか、その原因を考えるのも無理のないことであった。
 その結果、人々はこの世のあらゆる災い、すなわち、飢饉、疫病、天変地異は魔女の行う妖術のためだと信じるようになった。
 かくして、狂信と迷信によっていったん点火された炎は、恐怖という油を注がれて業火のごとく燃え上がっていった。
魔女が人々に様々な災厄を与えていることを示した中世の木版画。雹を降らせ、飢饉をもたらし、人々の心に邪(よこしま)な考えを抱かせている。
 こうなると、もう誰にもその炎を消すことは不可能であった。災いを持たらす魔女を探し出して、徹底的にきびしく罰を与えねばならない。人々は血走った目で魔女探しに躍起になっていく。こうした魔女狩りの炎は、伝染病のようにヨーロッパ中に広がっていくのである。やがて、魔女と疑われた者は自白を強要され、そのために拷問が課せられるようになっていくが、その苛酷さは、日ごとに胸がむかつくほど恐ろしいものになっていった。
* 魔女裁判の起源 *
 魔女裁判がいつ頃から始まったのかは誰も知らない。恐らく、異端審問裁判がその前身になったとされている。カトリック教会はカトリック以外の宗教を激しく禁止して迫害を始めたが、それは時間とともに質量ともにエスカレートの一途をたどっていった。魔女は異端者であり、しかもこの世に災いを持たらす存在であった。カトリック教会は、魔女を発見するために公然と密告を奨励した。百姓も貴族も商人も、例え聖職者であっても、あらゆる階層の人々に容赦なくその容疑が向けられるようになった。魔女狩りによる犠牲者は女性だけとは限らず老若男女が犠牲となった。
 どんな場所であろうと、日常のあらゆるところで密告と容疑の目が光っていた。変わった振る舞い、うっかり出た奇妙な言葉、ちょっとでもおかしな言動があれば、命取りになる恐れがあった。冗談のつもりで奇異をてらったような行動も慎まねばならなかった。いつなんどき、密告されるかわからなかったからだ。もし、誤解でもされて陰で密告でもされようものなら、それでおしまいなのであった。 
 人々は疑心暗疑から絶えず密告される恐怖におびえるようになった。今日か明日かと自分の運命に不安を覚えぬ者など一人もいなかった。
 親しい人間にも心を打ち明けることすら出来ず、親、兄弟すら信頼できないのである。当然、家庭のきずなはばらばらとなり分裂していった。
 実際、膨大な数の人間がごく身近にいる友人や時には兄弟に密告されて処刑されていったのである。
 このおぞましい恐怖の嵐は、約500年もの間、中世ヨーロッパの国々に吹き荒れた。魔女裁判によって、8百万という無実な人々が凄惨な拷問の末、魔女と断定され、残酷な殺され方をしたのである。それは、まさに人類の歴史に打ち消すことの出来ぬ醜い汚点とも言うべきものであった。魔女狩りによる犠牲者がもっとも多かったのは、ドイツで、次いでスコットランド、フランスの順であったという。
* 残酷きわまる拷問の数々 *
 魔女と容疑をかけられた人間は、審問官の前に引き出されることから始まった。まず告発文の朗読が始まる。それは概ね、胎児を殺して食ったとか、死体をカエルや蛇と煮込み魔女の秘薬をつくり、町中に呪いを掛け災いを持たらしたとかいう内容である。たいていの容疑者は、私は魔女ではありませんとか、殺してはいないとか、それは違う、陰謀だとか絶叫するが、何を言っても無駄なのであった。中には、やけっぱちになって、悪魔はお前たちの方だなどと毒づく者もいたが、こうした場合、教会にはむかう悪魔の言葉だと片付けられ、即拷問台に送られるのが常であった。
 審問によって自白しなければ、次に拷問という恐ろしい段階に移行することになる。まず、被告は、衣服を剥がされて裸にされ、逆海老にきつく縛られて宙釣りにされた。その際、苦痛を高めるために、足には重りをぶら下げられる。そして、体中、くまなく点検され証拠探しが行われる。証拠とは悪魔のマークと呼ばれる刻印で、悪魔との性交時につけられ、悪魔に対する忠誠心をあらわすものとされていた。
 今日、誰の体にでも見られるごく普通のあざ、いぼ、ホクロなどが、この時代では悪魔のひずめ、指紋、唇の痕跡などと呼ばれて、魔女と断定する有力な決め手とされていたのである。それでも発見されない時は咽に棒を突っ込んで胃の中のものをすべて吐かせたり、大量の水を飲ませたうえ浣腸までして排便させ、大便と吐瀉物を探索するのである。
 「魔女を泳がす」という方法で有罪か無罪かを決めることもよく行われた。
 まず、被告の頭や手足を縛り池に放り込むのである。
 被告が浮けば有罪で魔女だと見なされる。沈んで溺死すれば無罪ということになる。
 これは魔女が水よりも軽い超自然的な存在と考えられていたからであったが、いずれにせよ、被告は生き延びることは出来なかった。
1603年、イギリスで行われた水もぐりと言われた試罪法。魔女裁判ではよく用いられた。
 自白を強要するための凄惨な拷問には次のようなものがあった。スペインブーツという拷問は、鉄製の長靴が履かされて、靴と足のわずかな隙間にくさびが打ち込まれるものである。第一撃で鮮血が噴出し、あまりの痛みに受刑者はこの世のものとは思えぬ絶叫をあたり一面に響かせる。たいていの場合、第三撃目で膝の骨は粉々に砕かれて骨の髄が飛び散ったという。
 魔女の椅子という拷問もあった。尻を乗せる部分が周囲の枠のみで真ん中がなにもない西洋式便器のような鉄製の椅子に座らされて、その下からロウソクであぶられるというものである。拷問が始まると、受刑者の尻はとろ火で照焼き状態にされるのである。そのうち、陰毛や肛門、尻の肉が焼けただれて恐ろしい苦痛を伴う。受刑者の中には、排便も満足に出来ぬような哀れな体と成り果てるのである。
 サン・アンドレの十字架という拷問は、手足を十字架上に鉄の輪で固定されるもので、その状態のまま周囲から鎖で身体をゆっくりと引き延ばしてゆくという恐ろしい拷問である。受刑者は次第に呼吸が出来なくなり、のたうち回ることも出来ず、想像を絶する苦痛を味わうことになる。それでも自白を拒み続けていると、最後にポキッと、棒でも折ったような乾いた音がするが、それは首の骨がずれた時の音で、受刑者はそこで息絶えたと言われている。
 その他にもいろいろな恐ろしい拷問があった。
 真っ赤に焼けただれた鉄製の串を足の裏やバストに押し当てたり、万力のような器具で指を一本づつ潰していったり、まぶたを閉じさせない状態にしておいて、ゆっくり針を目の中に突き立てたり、あるいは舌攻めと言ってヤットコを使って舌を力一杯引き抜くというものもあったという。
 こうした拷問は想像するだけでも身の毛がよだって来るほど恐ろしいものであった。
魔女裁判で用いられた様々な拷問器具。
 中でも水責めは残忍をきわめた拷問の一つであった。先ず革製のジョウゴを口に押し込んで水を流し込むのだ。胃袋が膨れ上がると、腹の上に人間が乗って揺すり、口から吐かせる。そしてまた水を飲ませるというものである。何回かくり返すと、血の混じった水が吐き出される。受刑者はあまりの苦しさにのたうち回るのである。
 しかし、いくら苦しみ抜いても、それはくり返される。死なないように注意されて行われ、自白するまで止められることはないのである。
 こうした拷問の結果、ほとんどの人間は一時的に苦痛を逃れたいがために、ありもしないことを自白していった。
 妖術を使って疫病をもたらしたのは自分だの、深夜の魔女集会に参加して生けにえとなった子供の臓物を食ったなどと絶叫したのである。
 いったん自白すると、そのでたらめな内容を役人が側で無表情に書き留めていった。 
凄惨きわまる水攻めの様子。
* 火あぶりは中世最大の娯楽イベント *
 自白すれば、受刑者は魔女ということになり、生きたまま火刑に処せられることになる。その際、種火を薪の下に差し込んで火をつける人間はたいそう名誉な役とされていた。
 薪に火がつけられると、たちまち火が燃え広がり恐ろしい業火となる。メラメラ、パチパチという薪のはぜる音とともに、受刑者の耳を覆いたくなるような恐ろしい絶叫があたり一面にこだまする。
 その時が火刑のクライマックスで見物人の多くは我を忘れて見入っている瞬間でもある。
 やがて、絶叫が止む頃には、髪の毛が燃え出して、皮膚が焼けただれ、受刑者はものすごい形相のまま息絶える。
火刑にはいろいろな方法があったが、どれも残酷きわまりない処刑の仕方であった。
 しばらくすると、肉の焼ける何ともいやな臭いが漂ってくる。縛り付けられている柱が焼けてしまっても、死体となった受刑者の体は燃え尽きておらず、半ば白骨化しながら、内臓だけはいつまでも燻り続けている状態が続くのである。
 中世の時代、邪悪な魔女の存在を信じていた人々は、この火刑の儀式を心地よい一つのショーとして見ていた。中には、3日間に十万人の見物人が集まったこともあった。そこに、狂信主義に煽られた人間の怪物性をまざまざと見る思いがする。
* 私腹を肥やしつづける教会 *
 魔女発見業者などというとんでもない商売も生まれたらしい。人々はこうした連中にいつ告発されないかという不安で、いつも疑心暗疑におびえビクビクする毎日を送っていたという。やがて、魔女の裁判を行う審問機関は、欲に目のくらんだ連中により、その権限を逸脱し、犠牲者の財産や金目当てに勝手気ままな言い掛かりをつけて人殺しを繰り返す恐怖の組織となる。なにしろ、魔女として処刑された人間の財産はすべて没収されて、そのまま裁判官や教会の財産となるのである。同時に、処刑で使用される薪や燃料、処刑台の材料などを調達する業者を斡旋することで結構なリベートも入ったということであるから、魔女裁判とは、とどのつまり、教会の資産をてっとり早く増やすための効率のいい収入源なのであった。事実、これを裏付けるように、無制限の人殺しを正当化したとしか思えない事件も多数記録されている。
 例えば、1460年に北フランスのアラスの町で起きた魔女裁判は、頭のおかしな老婆、数人の人妻、老画家など数人に容疑がかけられた事件であった。彼らは魔女の集会に参加して無差別性交を繰り返し、神に対する冒涜を行ったという罪で裁かれることになった。正式な手続きもなく、いきなり拷問を受けた彼らは、苦痛を逃れたいがために次々とでたらめな内容を口走っていった。自供した彼らは魔女の烙印を押され、燃え盛る業火の中に生きたまま放り込まれて身悶えしながら無実を叫んで死んでいった。
 しかし、事件はそれだけでは終わらなかった。その後も多くの人々が摘発されて処刑されていったのである。
 処刑直前に、最後の1分間という自己弁護が行える瞬間が設けられていたが、その実体は、命と引き換えに合法的に多額な金を巻き上げようというものであった。
 わずかな金持ちだけが、全財産をはたいて自らの命を買い戻したが、それが出来たのはほんのわずかな人間だけであった。
燃え盛る業火の中で、人々は無実を叫びながら死んでいった。
* 次ぎに来る恐怖 *
 1637年にドイツで起きた魔女裁判は、一人の錯乱した老婆の供述で大勢の人間の命が失われた事件であった。凄まじい拷問による苦痛から気も狂わんばかりとなった老婆は、訊問されるがままに、次々と村人の名を共犯者として口走っていった。その数、実に45名。老婆が死んだ後も、これら村人たちに審問の魔の手は及び、彼らも拷問されると恐ろしい苦痛から逃れたいためにさらに別の共犯者を口にした。
 こうして犠牲者の数はネズミ算式に広がっていき、ついには数百人以上が壮絶な拷問の末処刑されることになったのである。これなど、効率良く財産を増やせることに味をしめた異端審問法廷が、本来の役割を忘れ、財産を没収するために罪なき人間を片っ端から処刑していった恐ろしい例だと言えよう。これ以後、人々は魔女裁判が行われる事に、絶対絶命になってやけを起こした容疑者がいつ自分の名前を上げないか、常にびくびくして生きた心地すらしなかったに違いない。
魔女の集団火刑は、中世では最大娯楽のショーのようなものであった。東京ドームの定員の2倍以上の人々が我先きにと見物に詰めかけたという。
 こうした事件は例を挙げていくと枚挙に暇ない。全く根拠も何もないでたらめの容疑をかけられ、法廷に引っぱり出されて拷問された挙句に、魔女の烙印を押されて殺されていった人間はそれこそ数知れない。無実無根の罪で裁かれて死んだ数百万の魂は、今も闇の世界にさまよい決して浮かばれることはないだろう。
 しかし、1755年のドイツのババリアで行われた魔女裁判を最後にして、人々を長年恐怖のるつぼに叩き込んだ一連の狂気じみた愚行にもようやく終止符が打たれる時が来た。科学と合理主義の時代が到来し、人々の心に合理的な考え方が芽生えた結果、無知蒙昧と迷信という土壌から派生したと狂信主義を払拭していったからである。500年間、中世ヨーロッパに吹き荒れた恐怖の時代は幕を閉じたかに思われた。
 しかし、人々は次に到来する恐怖の時代が何かを知らなかった。まもなく産業革命が起こり、帝国主義の時代になって持たらされるもの、それは、革命と近代兵器による大量殺戮の時代であった。魔女狩りに取って代わるもっと凄まじい恐怖の時代が今まさに幕を開けようとしていたのである。
トップページへ
アクセスカウンター

inserted by FC2 system