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十字軍の実体
〜聖なる目的で行われた神の遠征軍の見たものは?〜
* クレルモンの神秘 *
 11世紀の末、エルサレムは、戦雲急を告げていた。東方貿易の独占をもくろむセルジューク・トルコは、聖地パレスチナをも占領し、キリスト教徒に迫害を加え、この地より閉め出そうと企てていた。つまり、これによって事実上、キリスト教徒による聖地巡礼が不可能になったのである。
 しかも、それにも飽き足らずと見えて、東ローマ帝国の領土深く侵攻を開始したセルジューク・トルコは、短期間の内に小アジアの大部分を征服していたのである。このイスラム教徒の執拗な攻撃に、もはや、一刻の猶予もないと判断した東ローマ帝国は、西側、すなわち、ローマ教会に援軍要請を伝えて来た。憂慮した教皇庁は、その対策として、ヨーロッパの諸候たちの有志を募り、イスラム教徒に占拠された聖地エルサレムを奪回しようと計画した。
「年代記」は言う。時の教皇ウルバヌス2世は、クレルモンで宗教会議を召集した。枢機卿、司教、貴族と言った最高幹部クラスの高位聖職者が集まった。その数、三百名ほど。教会の周囲には、数えきれないほどの一般の民衆が何十にも取り巻き、事の成りゆきを見守っていた。まもなく、教会の行事の後、ウルバヌス2世は、戸外に出ると一際高い壇上に立った。あらゆる階層の人々の視線が彼一人に集中する。彼は、大きく深呼吸すると声高らかに演説を始めた。
「最愛の兄弟たちよ! 私は本日、神の言葉を代弁し聖なる勧告をするためにここに来た。東方のトルコ人どもが、我が聖地エルサレムに侵入し悪徳の限りを尽くしている。多くの教会は焼かれ、人々は殺され、婦人は陵辱されている。神から疎まれ呪われた異教徒どもが、神の国を滅ぼそうとしているのだ」
 ウルバヌス2世は、ここまで一気にしゃべって、間合いをとると、壇上から静かに聴衆を見下ろした。
 彼は眼光鋭く、威風堂々として優雅な振る舞いで知れ渡っていた。おまけに、彼は大変な雄弁家で声は深みのある低音だった。それだけでも十分聞く者を魅了していた。
 ウルバヌス2世は、再び天に目を向けると声高らかに演説を再開した。
「私は、諸君に神の休戦をすすめる! 今すぐ、すべてのキリスト教徒同士の私的な闘争を中止せよ! 決断の時がついに来たのだ!」 そして、彼はここぞとばかり大きく叫んだ。
教皇ウルバヌス2世
1042〜1099
「今こそ、我が力を結集させ、十字架を取って立ち上がり、東方の我らの兄弟たちを救い、聖地奪回のため神とともに戦う時ぞ。獣のごとき悪者に復讐し、聖なる領土を奪還することこそ、我らの使命である。神の御心は我らとともにある!」
 会場は割れんばかりの拍手に変わった。聴衆の中には、いきり立って「それは、神の御心なり!」などと叫んで勇み足で壇上に駆け寄って来る者さえいた。全く興奮状態だった。やがて、どよめきは聖歌に変わっていった。その異常とも思える雰囲気の中で、第一回遠征軍が瞬時に承認され、続いて総司令官やその後の日程などが次々と発表されていった。すべての者は、外套を切り取ると、細長い布で十字の形にして身体に張り付けた。沸き起こった聖歌は嵐のように響き渡り、何度も繰り返されたが、熱狂的な興奮状態はしばらく収まりそうもなかった。1095年11月のあるどんより曇った日の出来事だった。
* 民衆十字軍の悲劇 *
 これは、史実で有名なクレルモン宗教会議の様子である。この日を境に、西欧世界とイスラム世界は、延々、2百年間に渡る全面宗教戦争に突入することになる。つまり、異なった二つの価値観が火花を散らしてぶつかり合うのである。この間、記録されているものだけでも、8回の大規模な遠征軍が組織されている。
 この当時、中世の人々の心は十字軍に奪われていた。野蛮極まりない異教徒から神聖なる領土を解放するというシナリオは、ロマンと情熱を煽る要素があった。人々は、この聖戦に心から魅了されてとことんのめり込んでゆくのである。だが、現実はどうであったろうか? この聖戦が持たらしたものは何だったのか? 実際の十字軍はどうであったのか?
 記録によれば、第一回十字軍が、出発する以前に民衆だけで飛び出していった一隊があった。つまり、正規の十字軍の先発隊とも言える民間人からなる民衆十字軍である。この民衆を扇動したのは、ペテロという狂信的な修道士で、伸び放題の髭、一見、古代の予言者風の異様な身なりをしており、口から出る言葉は、立て板に水と言った感じの人物である。このペテロこそ、タロットカードに登場する長いあご髭をはやし、頭巾をかぶって砂時計やカンテラを持った隠者の姿で描かれることになる男でもある。
 聴衆は、たちまち、このカリスマ的な男の狂言にすっかり乗せられ信じ込んでしまった。農民たちは、農具を放り出し、取るものも取らずに各地から集まって来た。その数、実に10万人、民衆の中には、幼い子供や婦人などの家族づれも多数混じっていた。ともかく、計画も準備も規律すらないこの寄せ集めの十字軍は、烏合の衆のようなものであった。
 最初は、情熱一筋で飛び出していった彼らも、たちまち疲弊し出し、可哀想な子供たちは、途中、立ち寄る小都市ごとに、ここがエルサレムなの? ここが聖地なの? と哀れな声で親に聞き返すばかりであった。小アジアまで来た頃には士気もすっかり萎えてしまい、飢えや病気、疲労などで惨たんたる状態になり、死ぬ者が続出した。その上、トルコ人の襲撃でほとんどの者はなすすべもなく殺され、女子供は奴隷として連れ去られた。ここに至り、民衆十字軍は、ほぼ全滅に近いあり様となった。それでも、一部の者たちは、後から出発した正規軍と合流を果たし、エルサレム攻撃にまで加わったが、あまりの凄惨な戦闘を見るにつけ、すべての者が恐怖に駆られて逃亡してしまった。
 彼らが見たもの、それは聖戦などとは程遠い凄惨な殺し合いだった。十字軍は、怪物的とも思える残虐行為を随所で発揮した。攻城戦では、討ち取った敵の首を砲弾代わりに相手側に打ち込んだ。捕虜を生きたまま砲弾に縛りつけカタパルトから投げ出すことさえあった。
 糧食が尽きると、殺した相手の肉を、細切れにして料理して食ったのだ。年代記は言う。
「大人の肉は薄くそいで鍋に入れ、子供の肉は串に刺してあぶって食べた。人肉は孔雀の肉に薬味を加えたような味で、たいそう美味であった」 
十字軍兵士の残虐さを示した絵、攻城戦では、敵の首を弾丸代わりにして打ち出したりした。
 このように、相手が異教徒ともなると、もはや人間とは見なさず、こう言った恐ろしい行為を平気で行うこともあった。
 戦争経験のない庶民が、実戦を知って恐怖に駆られるのも無理からぬところであろう。この逃亡集団の中に、いち早く先頭を切ってとん走する哀れな隠者こそ、この元をつくった張本人のペテロであったというから、いつの世でも、扇動者に率いられた集団は、最後には悲惨な運命になるらしい。
* 盗賊崩れの神の軍隊 *
 諸候たちから構成された正規の十字軍の足跡は、どうであったろう? 彼らは、4隊に別れて海路によりコンスタンチノープルに集結した。その軍勢は5万を数え、フランス人、ドイツ人、シチリア人、ノルマン人など様々な民族から成り立つ、言わば、多国籍軍のようなものであった。
 十字軍は、その後、約一年間をかけて小アジアを転戦し、エデッサ、アンティオキア、トリポリなどの主要都市を次々と陥落させていった。
 出発して3年後には、エルサレムにまで到達した彼らは、周到な準備の後、攻撃に移った。エルサレムは約5週間持ちこ耐えたがついに陥落、十字軍の兵士は、城壁を破って雪崩のように侵入し、8万人におよぶ異教徒たちを片端から皆殺しにしていくのである。
 こうして、第一回目の十字軍は、とりあえず、トルコ人たちからエルサレムを奪還するという当初の目標を達成したのであった。
十字軍によるエルサレム攻撃の様子
 この時以来、十字軍の兵士は、想像も加わって必要以上に美化されていった。輝く甲冑に身を固めて駿馬にまたがる騎士とか、きらめく槍の穂先きにたなびく十字の旗とかいう騎士道の見本のようなイメージである。しかし、現実はかけ離れていた。きらめく甲冑などつけている兵士の姿など一人もなく、当時の騎士は、鎖かたびらを縫い込んだ野暮ったい亜麻の上衣を着て、いかめしくて不細工な斧や歯こぼれした剣を携えているに過ぎなかった。また、乗っている馬も駿馬とは程遠く駄馬に近い代物だった。
 当時、コンスタンチノープルに集結した十字軍を見た東ローマ皇帝アレクシオスは、品格も何もなく流れ者か盗賊崩れのような身なりの彼らに気分を害したという。
 一方、田舎者の彼らにとって、コンスタンチノープルの大都市は、見るものすべて新鮮で、エキゾチックな豪奢な建物、モザイクと大理石、宝石で飾られた宮殿など、西側にはないような美しい建物に我を忘れるほどだった。
 礼節の手本からは程遠いと思われた彼ら十字軍は、実際、この後、大都市に入城するなり、各地で略奪や窃盗などのあらゆる狼藉を働き出すのである。
美しいドームが特徴の聖ソフィア大聖堂(ビザンチン建築の代表的建物)
 恐怖を感じたアレクシオスは、十字軍のすべての指揮官を呼び寄せて、改めて同盟の誓いなる文書を書かせたということだ。しかし、援軍を要請した東ローマ側も、到着した十字軍に感謝をするまでもなく、次第に彼らを利用するだけの行為が目につき出した。話によると、十字軍の攻撃で陥落寸前の城塞で、密かにトルコ側と話をつけて、早々に自分たちの軍を入れてしまい、十字軍には、ここはもういいから先に前進したらどうかなどと言い出す始末であった。つまり、手柄は自分たちで横取りし、敵は、敵で乱暴野卑な十字軍の軍門に下って蹂躙されるよりはと有利な条件で講和を考えたのであろう。
 とどの詰まり、東ローマ帝国としては、聖戦などという水際立った考えなど元々なかったのである。実は、東ローマ側の要請としては、少数の傭兵を援軍として送って欲しいという程度のものだった。
 ところが、いざ到着してみると、数万を数える大規模な遠征部隊だったのである。東ローマとしては困惑を隠せなかった。それも、民間人主流のものあり正規のものありで、その上、このたいそうな遠征軍は、その後、長期間に渡って、何度も派遣されることになるのである。
アレクシオス1世
(1048〜1118)
東ローマ帝国の初代皇帝
 まもなく、東ローマとしては、あからさまに迷惑な表情に変わっていくのである。西側から、大規模な派遣軍を送ってもらって感謝して当然のはずが、これは、一体、どうしたことか?
 実は、クレルモンで演説したウルバヌス2世が、自分の主観を交えてあることないこと、大袈裟に吹聴し民衆を煽り立て、危機感を募らせて聖戦ムードを演出した結果なのであった。この頃、西側世界は、絶対的に領地が不足し慢性的な食料危機にあえぎ、封建制崩壊の危機に直面していたのである。領主たちは、自分たちの領土を少しでも増やそうと戦いに明け暮れていた。人々の生活は、荒廃を極め、戦争や大飢饉、疫病によって多くの人間が死に絶え、教会へのお布施の額すら毎年減少を続けていたのである。領主も貴族も聖職者も、早急に、新しい土地と富が必要だった。
 こうした、時代背景が、有名なクレルモンの名演説につながったのであろう。嘘も方便というが、お陰で、封建領主同士の無意味な闘争を異教徒に向けさせることが出来るし、おまけに、正義のための解放戦争という大義名分にもなる。広大な土地と富が獲得出来れば、間違いなく聖職者は潤うのである。 そのため、十字軍の総司令官は、教皇の代理と定められ、遠征に参加するのも教会の許可が必要で、何をするにも教会の権威が優先されたのである。無論、征服した土地はローマ教会のものになる。全くもっていいこと尽くめではないか! ローマ教会としては、分派した東側のギリシア正教会の領域まで、自らの勢力を拡大出来るいい機会だと考えていたのだ。こうした、西側の意図が見え見えだっただけに、東ローマとしては、快く受け入れる気になれなかったのである。
 こうした、傾向はその後の十字軍の行動に端的に表れることになった。考えてみると、第一回十字軍が最もましで、エルサレム奪回という目的も果たしたし、士気も高いものがあった。しかし、これ以後、繰り出される十字軍は、お世辞にも神の遠征軍というには程遠く、その質は低下の一途をたどる。 結局、十字軍は、当初の目的すら果たすことが出来なかった。一時的に聖地を奪回しても、いつのまにか、すぐにまたイスラム教の支配下に置かれてしまうのである。そのために、幾度も十字軍を編成し派遣せねばならなかった。しかし、結局はいつも同じであった。
* 神の遠征軍の実体 *
 第一回十字軍によって、エルサレムは、しばらくキリスト教徒の手にあった。しかし、50年ほどすると、その時つくったキリスト教の前進基地の一つ、エデッサがトルコ人の攻撃を受け陥落してしまった。これは、この地方のイスラム教の藩主ゼンジが、分裂して元気のないイスラム教徒たちに腹を立て、士気を鼓舞しようというあらわれに過ぎなかったが、キリスト教徒からすると、近々、イスラム教徒による侵攻があるのではないかという疑問に発展し深刻な脅威に映ることになった。そこで、聖職者ベルナールは、再びイスラム教徒討伐を訴え、ここに第二回目の十字軍が編成されることになったのである。しかし、この十字軍は、人数こそ集まったものの、複数の指揮官に率いられた軍隊は、統一行動がとれず小アジアまで行ったものの、陥落したエデッサを奪回することすら出来ず、逆にダマスカス攻略では敗北して惨めな敗走を余儀なくされるのである。結局、この十字軍は何の成果も納めることなく二年足らずで解散する運命にあった。
 第3回目の十字軍は、イスラムの英雄サラディンが聖戦をとなえ、エルサレムを攻め落としたのがきっかけに行われた。3人の有力な指導者が立ち上がって、この十字軍を指揮することとなった。
 ドイツの赤髭王フリードリヒ1世、尊厳王と呼ばれたフランスのフィリップ2世、そして、騎士道の典型とうたわれた獅子心王ことイングランドのリチャードある。
 そうそうたる3人の王に率いられた十字軍と思われたが、いざ蓋を開けてみると、見かけ倒しとでも言おうか、結局はたいした成果を収めることもなく終わってしまった。
 総司令官だったフリードリヒ1世は、こともあろうに、小アジアの山間部の川で沐浴中に溺死してしまい、フィリップはと言うと、リチャードと折り合いが悪く病気を理由にさっさとフランスに帰ってしまう始末であった。
 結局、残されたリチャードは、サラディンと話し合いによって取り引きをするのであるが、その結果、キリスト教徒の領土は、海岸沿いの細長い地帯だけとなり大幅に縮小してしまうのである。イスラムの英雄サラディンの前に、なすすべなくうまい具合にあしらわれたというべきであろうか。
リチャード(1189〜1199)生涯の大部分を戦闘に明け暮れ、獅子心王と呼ばれた。
 第4回目の十字軍は、これはもう、ひどいの一言で聖地奪回におもむくどころか、教皇からは破門されるわ、東ローマの首都は陥落させるわで聖なる遠征軍にあるまじき悪事を働いた。
 それは、東ローマ側が、傭兵としての約束の報酬を支払わなかったことに腹を立てたという理由によるもので、十字軍兵士は、怒りにまかせて、コンスタンチノープルに乱入し、人々を虐殺し、そこら中のものを破壊し略奪の限りを尽くしたのである。

 これでは、聖なる十字軍というより、山賊か悪党の集団と言った方がふさわしい。この十字軍派遣を強引に説得した教皇インノケンティウス3世は、この暴走を制御出来ずに完全に面目を失ってしまった。
 ここに至り、西側ローマ教会と東側ギリシア正教会のなけなしの信頼も完全に切れてしまうのである。
第4回十字軍によるコンスタンチノープル破壊を描いた中世の絵
 この十字軍が起こした破廉恥な騒ぎも収まらぬ頃、今度は、子供十字軍と呼ばれる少年少女だけの十字軍が起こった。大人たちの度重なる醜態に失望した少年たちの心が、こうした素朴で純粋な形になったのであろう。呼び掛けたのは、12才の牧童で、少年は、ある日、羊の世話をしていた時に神の啓示を受けたということであった。彼の呼び掛けで、フランス全土から、大勢の少年少女が集まって来た。その数3万人あまり。彼らの多くは、信仰心ゆえに家を飛び出して来た者が多かった。二か月かけて、彼らは海岸部の都市を目指して旅をした。道中の宿と食事は、人々の施しだった。
 しかし、この純粋な少年少女たちには、このうえなく悲惨な運命が待ち構えていた。マルセイユに集まった彼らには、モーゼの十戒の時のように、今にも海が左右に割れて奇跡が起き、自分たちはその上を渡って地中海を横断出来るものと確信していた。しかし、風も吹かねば、海も荒れることもなく何の奇跡も起きなかった。大部分が途方に暮れて解散したが、その時、少年たちを運んでやろうという親切な船主があらわれた。しかし、この船主は、よこしまな心を持つ奴隷商人であった。彼らは、だまして少年たちを船に乗せると、狭くて暗い船倉に閉じ込めてしまったのだ。そして、エジプトに着くなり、ことごとく奴隷として売り飛ばしてしまったのである。この年、ドイツにも、2万人ほどの少年少女だけの十字軍があらわれたが、こちらの方はイタリアまで行ったはいいが、そこからは二進も三進もいかなくなってしまった。結局、彼らは物笑いの種となり、散り散りになって解散するしかなかった。そして、もう誰も少年たちに施しをすることもなかったという。
 これ以降も、何回か十字軍が組織されているが、もはや、内容を伴うものでもなく、詳細を語るに忍びない。これらは、名前こそ十字軍と着けられてはいるが、その実体は利益に目のくらんだ盗賊集団のようなものであった。
 最後の十字軍が終わった時、もう人々の心にロマンなど微塵もなく、中世の封建制度自体も終焉の時を迎えていた。十字軍の持たらしたものは、とどのつまり、封建制度の崩壊を早め、人々の心に幻滅と混乱、疲労感だけを植え付けただけだったのである。結局のところ、十字軍が中世の社会に持たらしたものは何だったのか? 十字軍遠征で資産をすり減らした諸候たちは、自由を与えるという交換条件で農民から金を得るしかなかった。自由を得た農民たちは、都市に流入し都市の巨大化につながっていくのである。こうして、労働と物々交換を主流とする荘園は成り立たなくなり、貨幣中心の経済へと変化していった。それは、ルネサンスに移行するための準備段階と言えるものであった。
* 集団ヒステリーの恐怖 *
 ウルバヌス2世の名演説で、民衆の感情に火がついたことから起こった十字軍は、人々の信仰心と集団ヒステリィーが結合したような出来事であった。このような現象は、世界史の中でも、度々、起こっている。清朝末期に起きた義和団事件もそうだし、最近では、ヒトラーの煽動によるナチズム台頭も同質のものだと言っていいのかもしれない。関東大震災の折、煽動された民衆が多数の朝鮮人を殺害したことなどもそうだが、デマや扇動者によって、煽られて人間の弱さと相互不信に根ざした感情に火が着いた事件ほど恐ろしいものはない。
 過去の歴史は、こうした人間の陰の部分が誘発されて引き起こされた出来事があまりにも多いのである。この意味で、世界史とは、忌わしい出来事の積み重ねのようにも思えてくる。
 今日の世界情勢も、基本的には、当時のそれと何ら変わるところがない。2002年に起こったニューヨーク同時テロを皮切りに、イラク戦争が勃発したが、それは、イスラム世界とキリスト世界の二つの異なった文化の衝突が絶えることなく続いていることを意味している。
 十字架は、キリスト教徒にとっては、聖なるシンボルであっても、イスラム教徒から見ると、略奪と虐殺の血塗られたシンボルにしか映らないのである。
2002年9月11日に起きたニューヨーク同時テロ
 しかし、イスラム教徒もキリスト教徒も、知らぬところだったが、こうして、当時、全世界がいたずらに十字軍に気をとられている間に、彼らの遥か背後、辺境の地では歴史の突然変異ともいうべき現象が起こり始めていた。世界史を塗り替えることになる空前絶後の民族大殺戮のシナリオが着々と書き進められていたのである。この時、世界中の人々が、まもなく自分たちに降りかかって来る身の毛のよだつ運命を知ろうはずもなかった。チンギスハン率いる恐怖の軍団が、無事にその揺籃期を終え、彼らの背後から忍び寄り、やがて雪崩のように襲いかかって来ることを。
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参考文献 十字軍の実体・・・「ライフ人間世界史」信仰の時代 タイムライフブックス
教養人の世界史(中)橋口倫介、金澤誠著 教養文庫 
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