コオロギ
 その日の夕方、とあるスーパーで鬱陶しそうな顔つきで買い物をすませた私が、レジに並ぼうとしたときのことだ。買い物かごや商品がつみ重なっているすき間をちょろちょろ動き回っている小さな黒いものが目に飛び込んできた。よく見ると2,3センチほどの小さなコオロギだった。客がきぜわしく往来する足元をピョンピョンと飛び跳ねている。
 おそらく、何かの拍子で偶然ドアのすき間から入り込んできたのだろうと思った。しかし自分に直面している運命をこの小さな生き物は察知していない。今は健気に飛び回っているが、数分後には誰かに踏みつぶされてしまうか、あるいは何かの下敷きになって押しつぶされて死んでしまうかのどちらかなのであろうと思った。
 偶然の死といずれ必然的に訪れる死というものが、このちっぽけな生き物にとってどれほどの差があるのであろうかとも思った。しかし私は、この絶望的な環境に置かれた幼気な生き物の運命が今の自分に急速に重なり合っていくのを感じていた。
 そう考えている間にも二、三人の客が間一髪でコオロギのそばを通り過ぎて行った。あと10センチ、いやほんの1センチずれていても、そのコオロギは踏みつぶされていたであろう。
 私は発作的に自分の買い物かごをその場に降ろすと、しゃがんで手のひらをおわん型にしてその小さな生き物を捕えようとした。
 しかしコオロギは私の一挙から身をかわすとどこかに飛んでいってしまった。
 数秒間、私は姿の見えなくなったコオロギを見つけようと躍起になって周囲を凝視していた。果たしてコオロギは私のズボンの裾にとまってじっと身を潜めている。私は息を止めて今度こそコオロギをつかまえようとした。するとコオロギは俊敏に私の手をすり抜けると、今度は買い物かごの中に飛び込んでしまった。
 一体私が何をしているのか不審に思った客がいたかもしれない。急にはじまった捕り物劇の真意を探ろうと立ち止まって数人の客が私を見下ろしている気配を感じた。しかし私は周囲の視線よりも、もしかしたら数分後には踏みつぶされて死んでしまうかもしれない小さな命を救うことの方が大事だった。四苦八苦した挙句に、私はついに小さな昆虫を捕らえることに成功した。手のひらに閉じ込めると、その中でコオロギが盛んに飛び跳ねている感触を感じる。
 私はコオロギを放す適当な場所を探すために外に出た。あたりはもうかなり暗くなっており、周囲を見回すと、少し離れたところに溝があり、草が生い茂っている場所があった。そこからもコオロギの鳴く声が聞こえて来る。ここならいいだろうと私は手のひらをゆっくり開いた。するといつ飛び出したのかもう手のひらには何の感触も感じることはなくコオロギの姿は消え失せてしまっていた。コオロギは自分にとってもっとふさわしい、仲間のいる心地の良い環境に旅立っていったのだろうと思われた。そのときになって、肌をなぜる微風にいつの間にか秋の気配が色濃く染まっていることにはじめて気が付いた。
 わずか数分ほどの出来事ではあったが、私は言いようのない疲労と倦怠にみちた人生の中で一瞬ではあったが安らかで清らかな心持が湧き上がってくるのを意識していた。そしてこうした心境にさせてくれた幼気な生き物に自分はもっと感謝をせねばならないと思った。
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