ある夏の記憶
 ある夏の昼下がり。セミが鳴いていた。けたたましいセミの鳴き声が響いている。私はそれがまじかに聞こえてくるのを感じていた。一体、セミはどこで鳴いているのだろう。そう思って外を見た。私のアパートの窓から約3メートルほど離れたところに一本の木があり、セミの声はそのあたりから聞こえてくるようであった。
 目を凝らすと、その木の幹あたりに一匹のアブラゼミが止まっていた。ひくひく腹を動かしてあたり一面に大きな鳴き声を響かせている。よくもこのような小さな身体からこれほどびっくりするような音を発することができるものか私は感心してながめていた。

 私はこのときちょっとした悪戯心を起こしてみた。木の幹で鳴いている一匹のアブラゼミをガスガンで狙ってみようと思ったのだ。ガスガンは圧縮ガスの力でプラスチック製の弾を発射する玩具だ。そのころ、十数メートル離れた場所から10センチ正方の紙に書かれた十字の的に当てる競技も流行していた。
 もともと私は命中させる気などまったくなく、そこらへんにでも当たって、その衝撃に驚いたセミがどこかに飛び去って行く光景だけを想像していた。そう思って私はいい加減に狙いをつけた。セミは相変わらず大きな声でじーじーと鳴いている。
 軽い気持ちで引き金を引くと「バスッ」という鈍い音がした。バタバタとあわただしい羽音がして、セミは「ギッ」というセミ特有の声を残してそのまま落下していった。それは演奏途中の弦楽器の弦が急にプツンと切れたような感触であった。そしてそれっきり何の音もしなくなった。自分は何がどうなったのか一瞬分からなかった。あまつさえ、自分が撃った弾が命中してセミが木からもんどり落ちていったということがしばらく信じられなかった。
 今までやかましく鳴いていた木に静寂がおとずれた。聞こえて来るのは風に揺らぐ木の葉の音だけだった。私にはその静寂が耐えられなかった。それは死の静けさであった。今まで勢いよく鳴いていたセミはもういない。自分の浅はかな行為によって無邪気ではかない命が無造作につみとられたのだと思った。自分はとんでもないことをしでかしたと思った。ただひたすら時間を戻したいと思った。せめて5分前に戻せればと願った。
 そのうち夕方になり、あたりは暗くなって茫然と時間が過ぎていった。私はセミが鳴いていた昼下がりの光景を何度も脳裏で反すうしていた。セミは長い間ひたすら土の中で過ごし、ようやくこの地上にあらわれて7日間という短い時間をこれから謳歌しようとする最中に死んでしまったのだ。セミにとってはまったく偶然におとずれた不意の死であった。
 私は可哀そうにと思う気持ちと同時に、生き物への慈しみと生きることの業を感じた。そしていつか自分にもふりかかるであろういろいろな運命を予想した。私は自分の軽卒で愚かな行為を二度とくりかえすまいと心に誓った。
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