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ゼノビア
〜ローマ帝国と覇を争った砂漠の女王〜
 砂漠の国シリアの中央にパルミラという小さな町がある。今では廃虚のみで見る影もないが、しかし今から1700年ほど前、つまり紀元3世紀頃、この地は小アジアからエジプト、シリア、バビロニア、ペルシアにいたる広大な一帯を配下に置いていた。
 そして、強大なローマ帝国を向こうに回し、地中海の覇をかけて雌雄を争った偉大な歴史を持っているのである。その当時この地は、莫大な富を築き栄光と尊敬に満ち溢れていたのだ。そして、この地に君臨していたのは、ゼノビアという気丈で美しく気高い女王であった。
* 砂漠の女王 *
 紀元3世紀頃、彼女はシリア東部のある砂漠に誕生した。ジプシーの首領だったアラブ人を父とし、母は美しいギリシア女性だった。彼女は父に似て褐色の肌をし、瞳は母親譲りの輝くばかりの黒い真珠のようであったという。
 ゼノビアは子供の頃から、才色ともにすぐれ、ジプシーの中でも「こんな美しい子は見たことがない」と評判になるほどであった。しかしゼノビアは美しさだけではなく、強健な身体と素晴らしい運動神経にも恵まれていた。12才になる頃には、ラクダを自由自在に乗りこなし、大人顔負けの技量を発揮した。そしてまもなく、父に代わってジプシー全体を指導できるほどにもなっていた。
 この当時、ここシリア砂漠の中央にあるパルミラは、東西貿易中継の要として繁栄の絶頂にあった。パルミラのオアシスは、タクラマカン砂漠を経て延々と続くシルク・ロードの終着点に位置しており、ラクダの背中いっぱいに積んで長旅を続けてきた隊商にとっては、疲れた心をいやす夢のような休息場でもあったのである。
 パルミラではたくさんのバザールが開かれ、金、銀、宝石、絹、塩などの商品や装飾美術品、様々な珍しい品々が取り引きされ、各国の商人で賑わう毎日であった。オアシスの周囲には穀物、絹織物、なつめやしなどを貯えておく大倉庫がたくさん建てられていた。
 さらに、市の中心には、壮麗な神殿、宮殿が建てられ、いたるところに見事な彫刻がほどこされた巨大な石造りの円柱が林立していた。その回りには、多くの立派な家々が立ち並び、町全体の周囲は、十数キロはあろう頑丈な城壁で守られていた。
 市の中心に続く門には、屋根つきの巨大な石のアーケードが造られており、そこにも、たくさんの円柱が使われ、すぐれた彫刻が贅沢にほどこされていた。
 きびしい荒涼としたシリア砂漠のまっただ中にあって、ここパルミラこそは、当時世界で最も栄え繁栄を約束されたオアシス都市であったのである。
巨大な石のアーケード
 しかし、この巨大な富が集まるオアシス都市を、虎視眈々と狙う二つの強力な帝国があった。一つは東のササン朝ペルシアであり、もう一つは西のローマ帝国であった。
 この頃、ローマ帝国は、衰退の一途をたどっていた。数百年間不敗を誇る軍隊を持ち、永遠に続くと思われたローマの平和にも終焉の兆しが迫っていたのである。長年侵略をつづけて獲得した広すぎる領土のどこかでは、絶えず反乱が起き、それを鎮圧するための軍隊が常に必要であった。また帝国の周辺では、蛮族が絶えず国境を脅かすようになっていた。
 一度、それを討伐するために軍団が派遣されたがことがあったが、ゲルマニアの森の中で大敗北を期し、3つの軍団が全滅する悲劇にも会っていた。
 さらに3世紀に入ると、、伝染病の蔓延で人口が激減し、こと農業労働力の不足も目立ってきた。そのうえ、帝国東部へのササン朝ペルシアの攻撃が活発となり満身創痍状態になってきた。このような危機的状態を乗り切るためにも、ローマは莫大な貢ぎ物が徴集できる豊かな属州を必要としていたのである。
 そして、まもなく、ローマ帝国はその軍隊を送り込み、パルミラを自らの支配下におき、重税を課すことに成功したのである。かくしてパルミラは自由都市としてローマの支配下に置かれることになった。しかしパルミラの人々は、いつの日か反乱を起こし、ローマの束縛から逃れるべく機会をうかがっていた。
 その頃、ローマ帝国支配の元でパルミラを統治していた若い貴族オーデナサスが、彼女を見初め、二人は結婚し、ゼノビアはパルミラの王妃として宮殿に移り住んだ。その時、ゼノビアは18才になっていた。 
 オーデナサスもゼノビアもローマの横暴を極度に憎んでいたので、その日から、二人はローマの支配から逃れるべく、密かに砂漠に野営しては兵の訓練に大半の時間を裂くようになっていった。
 彼女ゼノビアは、野営に参加しても士官たちと同じ条件で行動をともにし、決して弱音を吐くことはなかった。行軍中は、何日も馬上で過ごし、兵とともに談話や食事をしたという。
 彼女はまた教養の豊かな女性で、ギリシア語、アラビア語の他、何か国語も話せ、いろいろ出身の違う兵士たちにも、いろいろな言葉で語りかけたという。
 そして、彼女の行動力と勇気は男にまさっていたと言われ、気高くたぐいまれな美貌と、射るような黒い瞳のまなざしは、部下の兵士たちを魅了し、士官たちの心を完全に掌握するようになっていた。
* ローマとの決戦 *
 ゼノビアの兵士は、またたく間に練度を高めていった。士気は旺盛で精鋭の名にふさわしい存在になっていった。
 やがて、ゼノビアと夫オーデナサスの二人は、自ら育てあげた精兵を指揮して行動に移す時が来た。今や、ローマ帝国からの解放の時が到来したとばかり、彼女の軍は、満を持してパルミラの北に駐屯しているローマ軍に襲いかかったのである。
 不意を突かれたローマ軍は、たちまち大混乱を起こし、算を乱して敗走した。ゼノビアの軍は、敗走するローマ軍を徹底的に打ち破り、ここにパルミラ市民の悲願の独立は達成されたのである。
 この勝利に喜び、今までローマに反感を持っていた周辺の国々は、次々にゼノビアの軍団に寝返っていった。ゼノビアの軍団は、たちまちのうちに強大な力に膨れ上がっていった。しかしここで、思いがけぬ悲劇が起きた。夫であったオーデナサスが行軍中に暗殺されてしまったのだ。
 ゼノビアは、この悲劇にいたずらに悲嘆することなく、パルミラ全軍を統率してオーデナサスの意志を受け継ぐことに全力を傾けていった。
 自ら絶対専制君主となった彼女は、一息つく間もなくローマの属州の一つであるエジプトに7万の大軍を進めた。エジプトは文化の進んだ豊かな地で、ローマ帝国の財政の大黒柱になっていた。ここからあがる莫大な収穫物と収入によってローマのあらゆる事業は成り立っていたのである。しかし、彼女の軍団は一度の戦いで勝利をおさめ、エジプト全土を制覇してしまった。
 ここに至り、シリア、バビロニアから小アジアのすべてとエジプトを征服したゼノビアは、すべての民から慕われ、快く最高君主として受け入れられた。これまで、ローマの支配下に置かれた属州の人々は、それこそ地獄の思いをして、あらゆるものを絞り取られていたのである。人々はゼノビアの軍をローマからの解放者として歓迎した。
 彼女は白毛のラクダにまたがり、黄金に輝くかぶとをかぶり、腕もあらわに紫色の外套を風にはためかせて凱旋し、パルミラの住民は熱狂的にゼノビアの軍に声援を送った。 
 今や、すべての戦いにことごとく勝利をおさめ、短期間にこれほど広い領土を支配した女王は、歴史上存在しない。
* ローマの反撃 *
 一方、ローマ帝国はかつて領有していた属州の半分以上を失ってしまい、事態は深刻であった。やがて、ローマ帝国は、パルミラを一気にたたき潰さんと最精鋭とうたわれた最強の軍団を多数くり出してきた。指揮には帝国きっての名将オウレリアンをあたらせていた。
 戦いは地中海沿岸の都市で幾度となく繰り返された。戦いは凄惨を極めたが、さしもの勇猛で知られたゼノビアの軍団も多数の死者を出して、後退を余儀なくされていった。
 ついにゼノビアは生き残った将兵とともにパルミラ城内に退き、城を死守する道を選んだ。
 ローマ軍の包囲攻撃は、熾烈をきわめ、必死のがんばりも空しく次第に絶望の淵へと追い込まれていった。士気も一日一日と衰えていき、糧食も欠乏してくるのを見て、誰もが落城の近いことを感じていた。
オウレリアン将軍
 そこで、ゼノビアは包囲された城を密かに脱出して、かつての旧敵ペルシアに援軍を求める策をとった。暗い夜を選びゼノビアは、ローマ軍の包囲網を見事突破した。彼女には腕利きの従者が数名つき従った。一行は、ラクダに乗ってローマ軍の目を逃れながら、東に東に、夜通し砂漠を走らせた。
 五日目の朝になって、東の空が白み始める頃、前方にユーフラテス川が見え始めた。この川の向こう側さえ渡ればペルシアなのである。しかし、その時、後方にローマの追手が迫りつつあった。女王の一行を認め、事態を察知した一そうの小舟が、大急ぎで近寄ってきたがローマ軍の追手の方が早かった。
 ローマ軍の追手は、たちまち従者数人を殺して、ゼノビアを捕らえてしまった。 西暦 272年の晩秋早朝の出来事であった。
 もしも、この時、ゼノビアがペルシアの地に逃れることが出来ていたら、その後の歴史は、どういう経過をたどっていたのかわからない。
ユーフラテス川の夜明け
 一方、城に立てこもり、飢餓に苦しみながら援軍を待ち望んでいた人々は、女王が捕らえられたことを知るや最後の賭けにも破れたことを悟り、開城してローマの軍門に下るしかなかった。
 女王を捕らえたローマ軍は、パルミラにわずかの守備兵を残して、ゼノビアを連れてローマに凱旋すべく帰途についたが、まもなくパルミラの住民が守備兵を皆殺しにして反乱を起こしてしまった。
 この知らせを聞いたローマ軍は、ただちに引き返すや否や、パルミラの住民に情け容赦なく襲いかかり一人残らず虐殺してしまった。それでも、ローマ軍の怒りは収まらず、あらゆる建物、神殿、寺院などを完膚なきまでにたたき潰していったのである。
 街の主要道路に並んでいた1500本もの巨大な石柱もそのほとんどが倒されて破壊され、ゼノビアの造り上げた壮大で豪華きわまる大神殿も灰燼に帰してしまった。パルミラは、まさしく光り輝く絶頂期に滅亡し、歴史上から姿を消したのである。
* 真相は伝説のなかに *
 一方、ローマに連れていかれたゼノビアは、その後どうなったのだろうか? ここで記録は途絶えたままである。彼女の運命については、いくつかの伝説に基づき推測する以外にない。
 パルミラがローマ軍によって完全に破壊されたのを知ると、彼女は何日も食を絶って自殺したという説。
 また、ローマに連れていかれる旅の途中で、ゼノビアは病死したともいう説。
 また、別の話では、彼女はローマに連れていかれ、黄金の鎖で戦車の後ろにつながれて、市内を引き回されたという説もある。
ローマ軍によって完膚なきまでに破壊され廃墟と化したパルミラの都
 その際、彼女の美貌を損なわないように、凱旋式の日まで、食事、美容、健康面など細心の注意が払われたということである。
 その後は、首を切られて処刑されたとか、逆に引き回しの際、ローマ市民の同情を誘い、特赦の恩典に浴することとなり、裕福な余生を過ごしたとか・・・恐らく、真実は永遠にわかるまい。
 歴史家ギボンは言う。
「褐色の肌、異常な輝きを持つ大きな黒い目、力強く響きのある声、男勝りの理解力と学識をもち、女性の中ではもっとも愛らしく、もっとも英傑的・・・彼女は、オリエントで最も気高く最も美しい女王であった 」
かつて連戦連勝のゼノビアの軍団が、この下を何度も凱旋した勝利の門
 そして、こうも記している。美においてはクレオパトラに勝るとも劣らず、貞潔と勇気においてはるかにクレオパトラを凌駕した・・・と。
 まことゼノビアこそ、麗しき古代オリエント世界を彩るにふさわしい女王だと言えよう。

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