クレオパトラ
〜世界を夢みた悲劇の女王の素顔〜
* 不可解なクレオパトラの実像 *
 歴史上、最も有名でありながら、クレオパトラの実像は、今なお、神秘の厚いベールで覆われている。
 クレオパトラは、日本の小野小町、中国の楊貴妃と並び称され、世界の三大美女の一人に上げられ、絶世の美人の代名詞のように語り継がれてきた。フランスの哲学者パスカルも、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていただろう」と記し、彼女のたぐい稀な美しさを絶賛している。
 ところが一方、クレオパトラはそれほど美しくなかったという説も記録されている。
「クレオパトラは小柄で、みすぼらしく、彼女の鼻は不釣り合いに大き過ぎ、わし鼻のような恰好をしていた・・・彼女は醜い女であった」 このような彼女の容姿を表現した一説も残されているのだ。
 確かに、彼女をデザインしたと見られるコインや彫像を見ても、そんなに美人とは思えないのである。彼女の死後、ローマで発行されたコインの中に、彼女クレオパトラを表わしたものがあるが、何とも年老いた魔女のように表現されている。
 だが、本当のところ、実在のクレオパトラについては、決め手になる資料がなく、彼女がどんな容姿をしていたのかは不明なのである。むしろ、前述のようなクレオパトラ像は、ローマ人が彼女のイメージを故意にわい曲して後世に伝えようとしたのかもしれない。
 つまり、ローマ人がかつての仇敵であった彼女に、ナイルの魔女とか娼婦女王といった冷たいイメージを植えつけようとした結果ではないかとも思われるのだ。
壁画に残るクレオパトラの像
* うずまく陰謀を逃れて *
 クレオパトラは紀元前69年1月に生まれた。彼女の母親は出産の直後に亡くなってしまっていた。また、彼女には二人の姉がいたが、それもどちらも夭折してしまっている。彼女のプトレマイオス一族は、土着のエジプト人ではなくマケドニアの血を引くギリシア人であった。したがって肌の色は西欧人のようであったと思われる。ちなみに、クレオパトラとはギリシア語で「父の栄光」を意味するものである。
 彼女の属するプトレマイオス家は、王家の血を純潔に保つために近親相姦を盛んに行ってきた。それはアレクサンダー大王がこの地を征服し、大王の後継者で将校だったプトレマイオス1世が統治して以来、250年間続けられてきた習慣だった。そうした近親相姦は、身体や性格にも悪影響を及ぼし、それが原因で一族の者の中には、てんかん質、異常性格、肥満体の者が少なくなかったらしい。
 例えば、彼女の父であったプトレマイオス12世は、柔弱な国王として、民より「笛吹き」と呼ばれ馬鹿にされていた。彼は酒好きで、酔うと何かと笛を吹き鳴らし場所を選ばず、得意になって踊りだす奇妙な性癖があった。そして晩年には、その傾向はますます激しくなり、女装したり、魔術師の出で立ちで民衆の前に平然と姿を見せたりした。王のそういった奇妙な性癖は、プトレマイオス一族に共通して見られるものであった。
 やがて、赤字つづきの国庫をおぎなうため、大増税を行い、キプロス島をローマ人に売り渡したが、そのことで民衆の怒りが爆発し、この無能の王はローマに命からがら亡命することになるのである。
 このような長年にわたる近親相姦が、彼女の身体にも何らかの悪影響を与えたという疑問は拭いきれないのも事実であろう。
 しかし教養面では、クレオパトラは文句なしに知性の高い女性だった。植民地内のさまざまな言語にも通じ、何か国語をも自由自在に話した。
 プトレマイオス家の内部でも、エジプト語を話せたのは彼女一人だったという。その上、彼女は、軍事・政治面にも非凡な指導力を発揮するマルチ才女でもあったのだ。   
 やがて、彼女の父「笛吹き王」は病気を患って死んでしまった。クレオパトラは父の遺言に従い、弟とともにエジプト全土を統治することとなった。この時、クレオパトラ18才、彼女の弟プトレマイオス13世にいたってはまだ10才であった。
 勝ち気で女王気質のクレオパトラは、王座についた時から、積極的に統治していくつもりだった。ところが、政治を補佐するはずの3人の摂政は、自分たちの野心と利益を優先して、右も左もわからぬ幼い弟を自分たちの思いのまま操ろうと考えていた。そこで、意志の強いクレオパトラが邪魔になり、彼女を暗殺してしまおうと考えたのである。クレオパトラは彼らの陰謀を察知するや否や、アレキサンドリアを脱出したが、追われる身となってしまった。
 彼女はシリア砂漠の秘密の場所に身をひそめてかろうじて難をまぬがれたが、3人の摂政どもは、クレオパトラを捕らえて亡き者にするために、この砂漠地帯にまでも軍隊を派遣してきた。彼女にとってはまさに危険きわまりない時期である。こうした最中、海の向こうのローマ帝国から独裁者カエサルが、アレキサンドリアに到着していた。カエサルは、ローマ帝国の権力闘争に明け暮れたあげく、ライバルであったポンペイウスを戦いで討ち負かし、戦いに破れてエジプトに逃げ込んで来たポンペイウスを追ってやってきたのであった。
* カエサルとの出会い *
 カエサルがアレキサンドリアにいるのを知ったクレオパトラは、何とかして彼の力を借りることができないものかと考えた。しかし、弟を意のままに操る摂政どもは、そうしたクレオパトラの考えを見抜いており、カエサルの元に近づけないように海上からも陸上からも軍隊によって厳重に封鎖している。どうすれば、怪しまれずに彼に近づくことが出来るだろう。クレオパトラはある考えを実行に移すことにした。そして死を覚悟で彼に会うことを決心した。
 紀元前48年10月中旬の夕刻、プトレマイオス家の王宮で、ローマ帝国の独裁者カエサルと女王クレオパトラは運命的な出会いをした。それは実に劇的な出会い方であった。
 カエサルの元に、女王からの伝言を献上したいと一人のギリシア人が王宮に訪れたのである。そのギリシア人の名は、アポロドロスと言い、じゅうたんのようなものを抱きかかえるように運んで来た。エジプト軍もカエサルの兵士たちも、一人のギリシア商人の携行品に気にもとめることはなかった。
 カエサルの呼び掛けにも無言で、やがて、アポロドロスは注意深く結んだ紐を解いていった。するとはたして、その中から一人の小柄な女性が転がり現れたのである。それはまるで、童話の中の1シーンのようであった。
 その時、クレオパトラ21才。今にも壊れるのではないかと思われるほど華奢で、巻き毛は丁寧に揃えられて、うなじのところで結ばれている。カエサルにとって、それは威厳に満ちた女王というよりは妖精のような存在に映ったことであろう。
「一体、どうしたことだ? そちは何者か?」この見たこともない若い女性にカエサルは驚いた。
「私はエジプトの女王クレオパトラです。どうかシーザー様のお力でエジプトを救っていただきたくお願いに参りました」はじめて聞くクレオパトラの声は、低くたどたどしかった。しかし、シーザーはこの瞬間、運命的なものを心に感じた。
 やがて、彼女のたくみな会話、深い知性ときらめくウィット、気持ちをそそるような恋のかけひきに、53才のローマ帝国の独裁者の心はすっかり魅了されてしまった。そして宵がふける頃には、クレオパトラとなら深遠な会話、官能的な快楽をも思いのままだと感じるようになっていた。
クレオパトラとカエサルとの出会い
 しかし、この衝撃的な出会いもクレオパトラにとっては、緻密な計算の上でのことだった。この時、彼女には道は一つしか残されていなかったのである。 シーザーに取り入り、彼の権力のもとで、自分を追放した弟とその手下どもを打ち負かすか、さもなくば、自分が死ぬかしかなかったのである。
 そのため、彼女は、水際だった方法で女の武器を効果的に使うことを決心したのである。そして、彼女は独裁者カエサルの心を見事つかむことに成功したのであった。二人はギリシア語で時が経つのも忘れて夜通し語り合い、出会ったその日のうちに結ばれたのである。
  一方、翌朝、カエサルに招かれた弟のプトレマイオス13世は、信じられない光景を目前にしていた。シリア砂漠のどこかに隠れていると思われていた憎い姉が、いつの間にか、宮殿に舞い戻り、こともあろうにローマの独裁者と深い仲になっているではないか。
カエサル
 13才の国王は、たちまち癇癪をおこして、部屋を飛び出すや否や、悪態をつきながら大通りまで駆け抜けて、そこにいた民衆の前で、王家の紋章を引きちぎって地面にたたきつけ、あらん限りの呪詛の言葉をぶちまけた。

 この取り乱した国王の姿は、やがてエジプトを愛する民衆の同情を誘い、暴徒と化して宮殿になだれ込んで来た。そこでカエサル本人が表に出てきて、民衆と国王をなだめ、何とか騒ぎをおさめることが出来たのであった。
 その後、カエサルは、二人の間を取り持ち、とりあえず和解させ、再び二人によるエジプト統治を高らかに宣言することにした。しかしその舞台うらでは、密かに摂政たちが、カエサルとクレオパトラを討つために、軍隊を動かして戦いの準備を進めていたのである。カエサルはそれに気づくと直ちにプトレマイオス13世を王宮内に軟禁するとともに、シリアに駐屯しているローマ軍に援軍を要請した。

 そうはさせまいと摂政の一人である宦官ポティノスは、アレクサンドリア港に停泊しているエジプトの艦隊を出航させてローマ軍を迎え撃とうとした。カエサルはそれを阻止するため、艦隊に火を放つ作戦をたてた。その計略は功を奏し、艦隊は燃え上がり、一隻残らず港内に沈んでしまった。
 やがて、王宮から追放されたプトレマイオス13世は、反乱軍を率いてローマ軍に最後の戦いを挑んできたが、討ち負かされナイル川に追い詰められて、追い落とされ、そのほとんどが溺れ死ぬかワニの餌になってしまった。まだ少年だったプトレマイオス13世は、船で逃げようとしたが、後から群がって乗ってくる敗残兵の重みで、ついに船が沈み、溺れ死んでしまった。
 ここに至り、彼女に敵対する勢力は一掃され、クレオパトラは実質上エジプトの女王となったのである。無論、こうなるまでには常にカエサルの力が後ろ楯としてはたらいていたことは言うまでもない。
* カエサルの死 *
 カエサルはアレクサンドリアの権力抗争が終結すると、10週間の休暇を取り、彼の愛人でもあるクレオパトラとともに、100メートル余りある王室用の船でナイル川をさかのぼる雄大な旅に出た。その船は、記録によると、さながら浮かぶ宮殿のようで、船上には庭園から大食堂、神殿まで造られていたという。
 この旅は彼にとっては、始めてのエジプト観光の旅でもあり、二人にとっては、忘れることの出来ぬハネムーンになったにちがいない。ちょうどその時、クレオパトラは6か月の身重になっていたのである。しかし、皮肉にも、それが最後の船上でのロマンスになるとは、カエサルもクレオパトラも予想すら出来なかったろう。
 休暇が終わると、カエサルはローマ総統としての任務を果たすために、クレオパトラと別れ、エジプトの地を後にしなければならなかった。 小アジア、アフリカに巣食うポンペイウスの残党を討ち、ローマに凱旋するためである。 有名な「来たり、見たり、勝てり」の手紙はこの時、アルメニアのポントスで書かれたものである。
 ローマに帰ったカエサルの凱旋式は実に壮大なものになった。戦利品が何台もの車に積まれて、ローマに運び込まれた。黄金だけでも2万ポンド以上はあった。またカエサルは宴会を開いた。2万2千台の食事用の寝台を集めさせ、肉は車で運ばせるほどにあり、よく太ったウナギを6千匹とファレルノ産のワインを大量に用意させた。これは、カエサルにとっては、第三期目に任命された独裁官としての声望を高めるための演出でもあった。
 一方、クレオパトラは、カエサルとの間に生まれたカエサリオンを育てながら、再会の時を待ち望んでいた。そこへ、とうとうローマから彼女とカエサリオンを賓客として迎えるべく知らせが届いたのである。カエサルと別れて、3年後の出来事である。
 クレオパトラは高官らとともに、ローマに乗り込み、大歓迎を受けて、カエサルの邸に落ち着いた。今や、カエサルとクレオパトラにとっては、幸せの絶頂であると思われた。しかし、予想だにしない破局がまもなくやってきた。
 カエサルの独裁ぶりに、共和政崩壊の危惧の念を抱いた一部の元老院議員たちによって暗殺されてしまったのである。3月15日のことであった。
 クレオパトラの野望はカエサルの死とともに急速に去っていった。おまけにカエサルの遺言では、ローマ帝国の後継者は彼の養子であるオクタビィアヌスということになっていた。カエサリオンこそ後継者と考えていたクレオパトラには思いもよらぬ事実に、彼女は失意のうちにローマを逃げるように去らねばならなかったのである。
* アントニウスを魅了する *
 その後、カエサルの死後、ローマではオクタビィアヌスとアントニウスの派閥に別れて権力争いが生じていた。その一方、二人は協力しあってカエサルを暗殺した首謀者たちへの復讐戦も忘れなかった。
 その復讐戦は、もっぱらアントニウスが率先して行っていた。そして、ついにマケドニアの地に彼らプルータスとカシウスを追い詰め、討ち負かしてしまったのである。カエサルを暗殺した首謀者たちは自害して果てた。 暗殺から2年半が経過していた。
 その時、クレオパトラにアントニウスから、呼び出しの声がかかった。以前にカエサル暗殺の首謀者の一人カシウスに財政援助を行った申し開きをせよというのである。
マーク・アントニウス
 だが、この時、クレオパトラはこれがほんの口実に過ぎないことを見抜いていた。まだ、彼女の父「笛吹き王」が生きていた頃、追放された父とともにアレキサンドリアにやってきた当時の騎兵隊長だったアントニウスの脳裏には、まだ少女だったクレオパトラの面影が忘れられなかったのである。


 クレオパトラは、たくさんの贈り物を持って、大勢のお供とともに約束の地、小アジアのタルソスに向かった。
 アントニウスは彼女を会食に招待したが、彼より役者が一枚上のクレオパトラは、逆に自分のところに来させるように話を運んでいった。その夜の宴会は、実に豪華で趣向の凝ったものであった。林立する灯火は、品よく配置され、床一面には、くるぶしが没するまでにバラの花が敷きつめられていた。
「アントニウス様、ようこそ私どもの船にいらっしゃいました。輝かしいご武勲の陰には少なからず辛労もおありであったこととお察し申し上げます。今宵は私どものささやかな心づくし、アレクサンドリアの宮殿のようには参りませんが、どうぞご堪能なさってくださいませ」
「これはまた見事な! まるで天国の花園のようだ・・・」

 招待されたローマの軍人たちは、一様に驚きを隠すことが出来なかった。兵隊あがりで、根が単純なアントニウスなどは、クレオパトラの洗練された話術と優雅な身のこなしの前に魅了され、たちまち彼女の魅力の虜となってしまった。そして、宴会も終わる頃には、彼女に誘われるままにローマに帰るかわりに、アレクサンドリアに出かけていく始末であった。
 当時、アレキサンドリアは、地中海世界の中で、最も富裕で優雅で豪華絢爛な都市であった。この都には、世界中のあらゆる富が集まって来た。港では、毎日世界中から、たくさんの船が出入りしては、巨大な富が陸揚げされていた。
 アフリカからは、象牙、金、香料、ギリシアからは、良品質のオリーブ油、ぶどう酒、小アジアからは、穀物、珍しい織物、インドからは、見事な装飾品、宝石類が、それらの積み荷の多くを占めていた。
 それら港に出入りする何百という世界中の商船を、古代の七不思議と言われたファロス島の大灯台がみちびいていたのである。
 アントニウスは、こうしてクレオパトラと水入らずの時間をアレキサンドリアで過ごした。41才の彼には、カエサルのように彼女に太刀打ちできる頭を持ち合わせていなかったらしい。田舎育ちで、気前が良いが、根が単純なアントニウスが、いとも簡単にクレオパトラの魅力に屈してしまうのは、至極当然な結果であったのだろう。
 こんなエピソードが残されている。二人がナイル川で魚釣りをしていた時のこと、いくら待っても魚がつれずにやきもきしていた彼は、自分の面子を保つために、漁師に潜らせて、自分の針に魚をかけさせたのである。
「おお、ついにやったぞ!こんなでかいのはめったいにないな」アントニウスは自慢げにつぶやいた。
 しかしよく見ると、釣り上げた魚に生気というものがまるでない。恐らくこれはアントニウスが仕組んだ芝居ではなかろうか・・・クレオパトラはすぐにこう勘づいたが、素知らぬ顔で彼を褒めそやす。
「さすが!アントニウス様、釣りがお上手ですこと」 
「うむ、おれの腕もまんざらではないな」単純なアントニウスは上機嫌であった。
水遊びを楽しむクレオパトラ
 翌日も釣りということになったが、アントニウスの最初の釣り上げた獲物は、黒海でしか取れない種類の魚であった。釣りのことにうとく、いまだ気がつかぬ彼が、その次釣り上げた魚は、何とワタもウロコも取られて調理されていた魚であった。ここにいたり、アントニウスにも、すべてはクレオパトラが漁師を買収させて行った仕業であるということを認めないわけにはいかなくなった。
 この時、クレオパトラは彼にこう言ったという。「アントニウス殿、そのような雑魚はそのへんの諸候にまかせておけばよいのです。あなた様の釣り上げる獲物は、もっと大きなもの、国家でなくてはならないはずですよ」
面目を失ったアントニウスは照れくさそうに黙ってナイルの水面を眺めていたという。
 まこと、才気あふれるクレオパトラのユーモアを伝えるにはふさわしいエピソードである。
この時、クレオパトラ28才、彼女の体にはアントニウスの双生児が宿っていた。
* オクタビアヌスの策略 *
 だが、こうした彼のもとへ、ローマから妻のフルビィアがオクタビアヌスに戦いを仕掛けたという不意の知らせがきた。アントニウスは、否応なく、戦争を止めるためアレクサンドリアを後にしなければならなかった。これは、フルビィアが自分をないがしろにして、クレオパトラにうつつを抜かすアントニウスの心を自分に向けたい一心で事を起こしたようである。
 結局フルビィアはオクタウィアヌスに敗れ、敗走してきたフルビィアをアントニウスは激しく責めたとある。その後、ローマに向かう途中、フルビィアは、今までの疲労がたたって病気となり、死んでしまった。
 オクタビィアヌスは、ライバルとはいえ、まだアントニウスと戦うつもりはなかったので、和解を申し出て来た。そして、アントニウスはオクタウィアヌスと和解をすることにした。その際、和解のしるしに、アントニウスは、オクタビィアヌスの姉を新たな妻に迎えたのである。
 アントニウスがオクタビアヌスの姉と結婚したという知らせが、ローマから持たらされた時のクレオパトラは、どういう心境だったであろう。きっと、腹わたが煮え繰り返る思いであったに違いない。
オクタビアヌス
 それから3年が過ぎた。アントニウスの忘れがたみの双生児を育てながら、彼女は恨み言一つもらさなかった。アントニウスはその心をいじらしく思い、シリアまで遠征してきた折に、彼女会いたさに急使を立てた。建て前は、シリア遠征で不足してきた糧食、物資の援助を乞うためとあった。
 やがて、勝ちを急ぎ過ぎたアントニウスは、パルチア遠征で大損害を出して窮地に陥ってしまった。このニュースを聞いたクレオパトラは、援軍を送って救助に駆けつけ、無事アントニウスを救い出したのである。
 こうして、アントニウスはクレオパトラに一切頭が上がらなくなり、彼女との結婚に承諾し、さらにはオクタビィアヌスの姉であった妻とも離婚することを渋々了解した。
アントニウスとクレオパトラの3年ぶりの出会い
 しかし、このことはオクタビアヌスが、アントニウスに宣戦するよい口実をつくってしまった。事実、二人の間の権力争いも頂点に達し、いつかは戦わねばならない以上、機は熟していたと言えよう。
 オクタビアヌスは、彼の姉が離縁させられた事実をうまく利用した。つまり、カエサルの後継者である自分への侮辱だと宣伝したのである。実際、この時まで元老院議員には、アントニウスを支持する者がかなりの数いたわけだが、この件で、ほとんどの者がオクタビアヌス側についてしまうことになった。おかげで、彼はローマ帝国すべてを敵に回さねばならなくなってしまったのだ。
 このことは、クレオパトラにとっても、大きな計算ちがいだったといえよう。しかし嘆いてばかりではいられない。オクタビアヌスと対抗するために出来うるかぎり軍隊を動員せねばならないのだ。
 かき集められた兵力は、それでもかなりのものになった。10万の歩兵、2万5千の騎兵、さらには800隻あまりの大艦隊がアントニウスの手の中にあった。クレオパトラ自身も自身の旗艦に乗り込み、さらには60隻の小艦隊を従えていた。
* アクチウムの海戦 *
 紀元前32年、アントニウスの軍はマケドニア西南部にあるアンブラキア湾に艦隊を入れ、自信満々でオクタビアヌスの軍の到来を待ち受けていた。この湾は、アクティウムを前に望む狭い海峡の奥の開けた場所で、大艦隊を収納するには絶好の地形であった。さらには、ギリシア南西部には前哨基地が設けられ、物資の補給ルートを確保していた。 
 しかし、アントニウスはローマ随一と言われる名将アグリッパの存在を軽く見過ぎていた。この優れた戦略家は、息もつかせぬ奇襲攻撃で、まずギリシア南西部を占領してしまったのである。さらに、アントニウスの補給ルートを断ち切った後は、ひたすらアクティウムに北上して、またたく間に、湾内のアントニウスの艦隊を包囲して、閉じ込めてしまったのだ。安全と思われた避難場所が、一転して二度と出られぬ袋小路となってしまったのである。
 包囲はかなりの長期におよんだ。やがて糧食が底を尽き出し、疫病がはやり、アントニウスの陣営は、悲惨さを増していった。軍隊の士気は落ち、脱走する者が後を絶たなかった。当初、800隻の陣容を誇った大艦隊も人員、物資の不足から、かなりの数の船を処分せねばならず、装備の良い230隻を除き、他の船には火がかけられた。もう戦をするどころではなくなっていたのである。
 翌年、紀元前31年9月2日、アントニウスは再び艦隊を再編成し、アグリッパの大艦隊と雌雄を決するべくアクティウム目指して進んでいた。
 計画では、先頭のアントニウスの艦隊がアグリッパの主力とぶつかりあっているすきに、クレオパトラの艦隊が安全地帯に非難する手はずになっていた。彼女の船には、軍資金ともいえる財宝が山と積まれていたからである。
 しかし、戦闘がはじまるとまもなく、クレオパトラの艦隊は反転して逃走しはじめた。
アクチウムの海戦
「どうしてだ? なぜ、おれを見捨てる?」それを見たアントニウスの頭は混乱状態になった。茫然自失におちいったアントニウスは、艦隊の指揮を放棄していち早くクレオパトラの後を追った。このクレオパトラの逃走劇は、今なお理由がよくわからないが、一説にはオクタビアヌスと通じようとしたためであろうとも言われている。つまり、アントニウスを見限った結果ではないかということだが、真相は謎のままだ。
 結果的にアントニウスは命からがらその場を脱したが、指揮官を失った艦隊はあっさり全滅してしまった。後世によると、卑怯者のクレオパトラはアントニウスを見捨てて、命欲しさにとん走し、アントニウス自身も腰抜けになり下がって、部下を見捨てて女の後を追ったという話になっているが、それはローマ側の一方的過ぎる歪曲であろう。
 アントニウスはほうほうの体で宮殿に逃げ帰ったが、そこで、クレオパトラが自殺したと聞かされたアントニウスも自決を決意した。そして自分の剣を抜くと、自らの腹を突いたのであった。
 実際はクレオパトラは自分の霊廟に入っただけだったのだが、侍女が「もう女王様はこの世の方ではございません」と言われたのを、アントニウスが自殺と解釈してしまったのであった。アントニウスは虫の息であったが、クレオパトラのもとへ連れていかれ、彼女の腕の中で息を引き取った。
 こうして戦いは終わった。すべてを打ち負かしたオクタビアヌスの軍勢が、やがてアレクサンドリアに入城して来た。宮廷内に軟禁されたクレオパトラには、ローマに連れられていかれる悲しい運命だけが待っていた。オクタビアヌスがローマに凱旋する際、民衆の前で、戦車で鎖につながれた彼女をさらし、自らの力を見せつけようとしていたのである。
* 毒蛇に胸をかませる *
 その日は8月12日だった。ローマへ出発を3日後に控えたその日に、彼女は入浴を済ませて、最後の食事をした。その際、イチジクの籠をたずさえた一人の百姓が、彼女の部屋に通された。
 それは、彼女への贈り物だったが、甘そうなイチジクの下には、アスピスという小さな毒蛇がひそんでいたのである。アスピスの毒は、穏やかに死ねる毒であり、その効果は奴隷を使って実証済みであった。蛇はエジプト人にとっては、聖なる生き物であった。クレオパトラは、この小さな聖蛇の毒で、夢と波乱に満ちた39年の生涯に終止符を打とうとしていた。
 番兵が、これに気づき駆けつけた時、彼女は黄金のベッドに、女王の衣装と宝石を身につけ死んで横たわっていた。瀕死の侍女が、黄金の頭飾りを死んだ女王の額にまさにつけようとしているところだった....
クレオパトラの死
 クレオパトラが死んで、2千年たった今も彼女の魅力は神秘のベールに包まれている。
  一体、彼女の魅力とは何だったのだろう?
 ここにかなり信ぴょう性の高い歴史家プルタルコスの記録がある。

「彼女の美しさはそれほどのものではなかった。しかし、魂からにじみ出て来る魅力には抗えないものがあった。彼女の会話の巧みさ、優雅な身のこなしにあらわれる知性には独特の魔力があった。彼女の声は、弦が何本もある楽器のように、多くの言語を自在に操り、聞く者をうっとりさせた」
2千年経った今も、私には彼女の果てしなき夢は、滅びることもなく、永遠に生き続けているように思える・・・・
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