則天武后
〜恐怖政治をしいた冷酷非情な女皇帝
 古代史をさかのぼってみると、背筋の寒くなるような狂気の蛮行をいともやすやすとやってのけた恐ろしい独裁者が、少なからず存在した事実を知る事になるだろう。

 キリスト教徒を想像を絶する凄惨な方法で殺し続けた古代ローマの皇帝ネロやカリグラを始め、屍の山を累々と築き上げて尚、満足しなかった破壊者ジンギスカンとその息子たち、さらに日本では、老若男女を虫けらのごとく殺りくした狂気の独裁者、織田信長などが、その筆頭に挙げられる。

 その中にあって則天武后(そくてんぶこう)こそは、それら独裁者の列に加えてみても、何ら遜色がないどころか、むしろそれ以上と言ってもよい大独裁者であり、空前絶後の大犯罪者だと言ってもいいだろう。しかも彼女は、中国の歴史上始まって以来の女の皇帝であった。
 彼女は非常に頭がよく、その性格は、恐ろしく強靭で冷徹なものであった。彼女の計算づくめの正確なやり方は、特有の狂気じみた野望と結びつき、後世にも語り継がれることになる血も凍るような犯罪の数々を生み出していったのである。
* 権謀を駆使する女 *
 彼女は本名を武照(ぶしょう)と言い、624年、山西省のかなりの地位の官吏の娘として生まれた。彼女は14才の時、選ばれて後宮に入ることが許される身分となったが、その地位は「才人」と言って、宮女の中でも、7階級あるうちの6番目にあたる低い身分だった。

 唐時代の制度によると、後宮と呼ばれる皇帝のそばに仕える宮女の集団が存在していた。宮女には、身分がありトップの皇后を筆頭に最下位の侍女まで7段階に分けられていた。

 後宮には、かなりの数の宮女がいたらしい。選ばれて後宮に入ることが出来ると、皇帝の寵愛を受ける資格があり、寝所を同じにすることだって出来たのである。したがって、皇帝の目に止まり、運よく子供を宿したとなると、場合によっては、一介の侍女の存在から皇后にまで一気に大出世することも可能だったのである。
 彼女、武照が仕えた唐の2代目太宗(たいそう)の時代は、貞観の治(じょうがんのち)と呼ばれ、よくまとまった時代だった。唐の政治は、名臣が多く輩出したことも手伝って、唐は黄金時代を迎えたのである。その国力は絶頂期を迎え、漢民族は自らの勢力を遠く西域やインド、さらにはサラセン帝国にまで伸ばしていった。
 唐の都、長安は国際貿易都市として知られ、中央アジア、インド、ペルシア、アラビア、そして日本などの周辺国家から来た留学生や僧や多数の外国商人で大いに賑わっていた。来訪者たちは、珍しい食べ物、独特な衣装、新しい娯楽をもちこみ、それらは融合して華やかな唐の宮廷生活に彩りを添えていた。
太宗(李世民)

 649年、その太宗が崩御すると、3代目となる彼の息子が、父の太宗に代わり高宗と名乗って皇帝の地位についた。当時、後宮では、皇帝が亡くなった場合、仕えていた宮女たちは、全員出家して尼になり後宮を後にせねばならなかった。武照も決まりにより、剃髪して尼となり長安市内にある尼寺に居住する身となった。

 しかし、どういう理由によるものか、武照は尼の立場から、再び後宮に舞い戻って今度は高宗の宮女として仕えることになるのである。これは高宗が尼僧姿の武照を一目見て心を動かされたためだとか、武照が太宗の亡くなる前に、皇太子であった高宗になんらかのコネをつけていたためであるとかと言われているが、恐らく、後者の方ではないかと思われる。

 そしてこれが、事実であるならば、武照は、太宗が亡くなる前から、こうなるのを見越した上で、ふたまたをかけていたということになる。やはりこれも、武照の先を見通した冷静な計算というべきものであろうか。彼女には尼僧となって太宗の菩提を弔って一生を終えるよりも、後宮に再度入り込み権力を手中に入れて、思い通りに宮中をしきりたいという願望の方が強かったのである。

* 実子を手にかける *
 後宮に舞い戻った武照に与えられたのは、昭儀(しょうぎ)という地位であった。皇后、妃に続く3番目という高い位である。
 次に、彼女が仕えた高宗とは、病弱で気が短く自我が強く思い込みの激しい若者であった。高宗は、彼女よりも5歳ほど年下で、何かと依存心が強くコントロールされやすい面を持っていた。
3代目 高宗

 一方、彼女と言えば、背が高く女性とは思えぬほどがっしりとした体つきをしていた。エラの張った角ばった顔つきとくっきりとした眉は、彼女の恐ろしいほどの強靭な意志をあらわしていた。彼女は、決して美人とは言えなかったが、宮廷随一と言われたすぐれた頭脳と特有の強靭な意志の強さで、皇后、妃を尻目に若い高宗を巧みにたらしこみ、自分の思い通りに操っていったのである。

 そのかいあって、しばらくすると彼女には長男と長女が続いて生まれた。その時、皇后には子供がいなかったので、彼女の胸の内にはメラメラと野望が芽生えはじめた。そして、それは次第に恐ろしい陰謀としての形をとり始めた。

 長女が生まれてすぐの3月12日、高宗は避暑の目的で都、長安を出発して万年宮という風光明媚な離宮に向った。奇怪な事件は道中の保養地に泊まった3月19日に起きた。武照の部屋で一人寝かされていた赤ん坊が、何者かに首を絞められて殺されたのである。

「 娘が・・・冷たくなっている!」武照はこう叫ぶと冷たくなった赤ん坊を抱き上げ号泣した。やがて悲しみは怒りに変わってゆく。
「誰だ?留守中にこの部屋に入ったのは?」侍女の一人が言う。「皇后さまが先ほどお見えになられましたが・・・」これを聞くと武照は怒りにふるえながら口走った。
「皇后が私の娘を殺した?」「おのれ!よくも愛する私の娘を!」武照は大声で悪態をつくと、自分に子供がいなかった皇后がねたみから起こした私への復讐だなどと涙ながらに高宗に訴えたのであった。
 「新唐書」「資治通鑑」(しじつがん)などの記録書によると、えい児殺しの犯人は、武照本人であると断定している。
 子供に恵まれなかった皇后は生まれたての赤ん坊が愛しくてならず、出産祝いを兼ねて訪れたのであった。その時、部屋には誰もおらず、皇后は赤ん坊をながめたり、あやしたりして、揺りかごにもどしたのだが、皇后が部屋から出て行った後、隣りの部屋にいた武照がこっそり入って来て自ら赤ん坊の首を絞めて殺したというのである。そして、蒲団をかけて何食わぬ顔をしていたのであった。冷たくなった赤ん坊を発見して驚くや否や、彼女は号泣して我が子を失った母親の嘆きを、迫真に満ちた演技でふるまったのである。

 彼女は皇后を失脚させるために、生後10日余りの我が子を殺し、その罪を皇后に被せようと計ったと考えられている。

 彼女はここぞとばかり声を大にして泣きわめいて、高宗に皇后の罪を訴えたのだが、一方、高宗の方も武照の演技にころりとだまされて、皇后が我娘を殺したと激怒した。
 そうして、その事件をきっかけに皇后は、高宗より疎んぜられるようになった。皇后の親戚は、すべて長安から遠い地方にことごとく左遷されてしまったのである。
 そして、それに代わるように、武照が実質的に後宮の第一人者となっていったのは言うまでもない。
武照と高宗を描いた絵
* 血も凍る復讐 *
 武照が後宮の実権を握って、高宗をコントロールし始めると、彼女の横暴を嫌った皇后と妃は、何かと手を結んで武照の行動を非難することが多くなっていった。二人は、後宮内で、武照がいかにひどい人間であるかを吹聴して回ったのである。しかし、それに対して武照は徹底的で恐ろしい報復を行った。

 武照は、皇后とその一派が体の弱い高宗に対して厭勝(えんしょう)を行って彼を死に至らしめよういるという噂を巧妙に流したのである。厭勝とは呪術の一種で、人形や相手の肉体の一部を使って呪い殺すまじないである。病弱で、時折起こす発作に、自ら神経質になっていた高宗は、この噂を信じて直ちに自分の寝室を捜索させると、果たして、自分の寝台の下より木彫りの人形が発見されたのである。その人形には、高宗の名が彫られており、しかもその胸には鋭い一本の針が貫かれていたのであった。これは、皇后を陥れるための武照による陰謀だとされている。

 高宗は、えい児殺しの事件の後、何かと皇后を退けて、ないがしろにして来た故の逆恨みだと判断したようである。 皇后とその一派は、犯人として捕らえられ、ただちに身の潔白を証明しなければならなくなった。しかし、事実無根の彼女らにそれが出来るわけはなかった。しかし、高宗の怒りは頂点に達していた。皇后には、勅命が下りその位は剥奪された。そして、同じく捕らえられた妃とともに宮中に監禁されてしまったのである。

 まもなく、それに代わるように武照が皇后の地位につき、彼女は31才にしてついに宮中内でトップの位を手中におさめることとなった。
 新しく皇后についた武照は、復讐の手始めとして、監禁されているかつての皇后に大蛇、また妃には梟(フクロウ)と姓を変えさせて侮辱を与えた。中国では蛇と梟は民衆から忌み嫌われる生き物として知られているものである。その上、二人は牢から引き出され、百回のむち打ちの刑に処せられた。
「ええい、この恨み生まれ変わって必ずはらしてやる!」その際、妃が苦痛に顔をゆがめながら武照に呪いの言葉をかけた。「ならば、生まれ変わって復讐出来ぬようにしてやる。お前たちに手足は無用であろう」武照はそう言うと、ナタで二人の手足を切断するように命じたのであった。
「どすん!どすん!」鈍い音を立ててナタが振り下ろされ、そのたびに血しぶきをあげて手足が飛び散った。
「ぎゃぁー!」なんとも恐ろしい絶叫が幾度か響きわたった。
「骨の髄まで酒をしみ込ませてやる!」武照はこう言い放つと、二人の女の身体をエビのようにねじ曲げて、酒樽から首だけを残してどっぷりと漬けた。

 これは、毒蛇を酒につけこんでエキスを抽出した薬酒というのが中国にあるが、武照は、言葉を現実にして血も凍るような復讐方法を考えたのである。哀れな二人の女は、酒樽から首を突き出したまま薄暗い蔵の中に置かれた。

「悔しい!」「呪ってやる!」「永久に呪ってやる!」「おまえをネズミに生まれさせてやる」「猫となっておまえののど笛に食らいついてやる!」などと呪詛の言葉をまき散らし続けていたが、次第に呪詛の言葉もかぼそくなってゆき、数日後には死んでしまった。
 これ以後、子年生まれだった武照は、死ぬ直前に妃が言い放った呪いの言葉が忘れられず、宮中では猫を飼わなくなったと言われている。彼女は自ら言葉の現実化を実行する反面、言葉が逆に現実化することを非常に恐れていたと言えよう。
 このように、彼女は迷信とか縁起を病的に信じ込む一面も持っていた。ある時など、長安の宮殿に自分が惨殺した皇后や妃の亡霊が出ると言い出して、あわただしく洛陽に旅立ったこともあった。結局、彼女は長安に戻ることなく、洛陽に新しい宮殿をつくると早々と移り住んでしまったということだ。
* 親戚、肉親をも次々と殺害 *

 また、武照には、異常な嫉妬心があり、ちょっとした理由でも憎悪の対象となった。武照の親戚だった二人の母と娘は、そろって奇怪な死に方をした。まず、武照の姉だった夫人は、食事の最中に突然食べたものを吐き散らし、全身けいれんを起こして死んだ。続いてその娘にしても、同じく食事の席で、急に苦しみ出し、口から泡を吹いて死んでしまったのである。二人とも、彼女の夫、高宗の大のお気に入りであり、それを妬んだ武照に毒殺されたとみられている。

 彼女はわずかでも気に入らぬことがあれば、自分の親族であろうが、実子であろうが、情け容赦することはなかった。また、自分の方針に少しでも異を唱える大臣あれば、どんどん首にしたり左遷したりしている。
 高宗には、武照以外に生ませた息子が4人いたが、武照が皇后の地位についてまもなく、次々に反逆罪などの罪をきせられて死刑にされていった。武照の実子だった2人の皇太子も、些細なことから母である武照の怒りをかい、毒殺されたり反逆罪に処せられたりしている。

 まず、武照の長男であり皇太子だった李弘(りこう)は、先に酒樽につけて殺した妃が残した二人の娘に同情する発言をしたが、そのことで彼女の機嫌をそこねてしまった。武照はたちまち不快となり激情にまかせてただちに長男を毒殺したのである。

 こうして、長男が突然死すると、続いて次男の李賢(りけん)が、皇太子となったが、彼は学者タイプで、優柔不断な面があったことから、実母は武照ではなく以前に毒殺された姉であるという宮中での噂を信じ込むようになった。次男のこの優柔不断な態度も武照にとっては、我慢のならぬものであった。
 その後しばらくして、洛陽にある李賢の居所で、大量の武器が隠されているのが発見された。李賢は、ただちに反逆罪の汚名が着せられ、一般庶民の地位に落とされた上、遠く流刑地に流されたのである。この際、父であった高宗は、息子、李賢の廃位まで考えてはおらず、これを許そうとしたのであるが、武照が断固として、これを許さなかったのである。しかも、この事件を摘発したのは、他ならぬ武照本人であった。この事件を画策したのは彼女であると考えられている。
 李賢は、実の母による陰謀の犠牲となり、さいはての地に流されたのである。彼は自らの運命を呪いながら4年後自殺した。

 ある嫁などは、わけもなく彼女の恨みをかい、牢に幽閉されてしまった。水も食事も与えられず、何日かして扉が開けられると、その嫁はひからびて餓死していたという。これと同様に、数人の嫁が、意味なく牢に放り込まれて様々な方法で惨殺された。このように理由もなく憎悪の対象となり、彼女に殺された者は、親族だけでも70人以上、大臣級の高官にいたっては40人以上が殺されたとみられている。

 武照ほど、親族や肉親を軽んじ、憎悪して犯罪を犯し、これほど数多く殺害し続けた女帝は、歴史上例がない。彼女は政治の実権を握るや否や、自分の意向にそぐわぬ人間を、片っ端から排除していったのである。夫の高宗はと言えば、病弱で内向的、何でも彼女の言いなりであった。
* 容赦のない恐怖政治 *

 やがて、西暦683年、病弱で長らく病んでいた夫の高宗が死んだ。高宗の死とともに、20才の3男が皇帝につくことになったが、彼は、1か月余り帝位にいただけで、すぐに武照に追われ幽閉の身となった。続いて彼女の4男が後を継いだが、その4男もまた捕らえられて宮中に監禁されてしまった。こうして、二人の息子は、武照本人によって除かれ、彼女自ら帝位につき、ついに中国史上最初の女の皇帝となったのである。彼女は、最初から息子たちに帝位につかせる気など毛頭なく、自らが最高の玉座に座り、自分だけの国家をつくることを夢見ていたのである。

 武照はその時60才になっていたが、帝位につくと恐るべき体力と精力で徹底した恐怖政治を断行していった。彼女は、古代中国の周王朝にあこがれていたので、まず国号を唐から周に改名した。そして、自らは周王朝の末裔だとか称して、邪魔となる唐王朝一族の根絶に乗り出していった。その手段として、彼女は、酷吏(こくり)と呼ばれる残忍極まる組織を使って、敵対する勢力に情け容赦のない血の粛正を行った。それは、あたかもナチスのゲシュタポのような組織であった。

 その際、密告の制度を奨励したが、密告により逮捕された者は、酷吏によって恐ろしい拷問を受けたあげく虫けらのごとく殺されていったのである。民衆は、いつも密告に脅え、唐王朝の血筋に少しでも関係ある王族たちは、いつ逮捕されるかわからぬ運命に震えおののく毎日であった。残酷な拷問技術が格段に進歩したのもこの時代であった。

 やがて70才を過ぎ、権力のほとんどを手中にして、当初の目的を達成した武照は、政治を信頼できる者にまかせて、自分は政治の表舞台から退き、快楽の世界に身をおくようになっていた。そしてこの頃になると、恐怖政治時代は終わりを告げ、民衆にとっても和んだムードになっていた。
* 終わりなき欲望の果て *
 彼女は、依然精力絶倫で情事の相手として、20代の張兄弟を後宮に引っぱり込むようになっていた。記録によると、彼らはともに20代で、色が白く素晴らしく美貌の青年だったらしい。しかも、彼らは、媚薬や回春剤の専門家で、武照を悦ばせるのに特別な方法を知っていたと言われている。そして、彼らは巨根の持ち主でもあったという。

 こうした張兄弟とのスキャンダルは、まもなく知れわたることとなり、民衆に嘲笑されるネタを提供し始めたので、それをもみ消すために、彼女は彼らを宮殿内に囲って専用の機関をつくった。その機関は、宮殿の内部につくられ、華美を尽くした建物だったと言われている。まさに武照の派手好きの性格が反映したものであった。

 そこには広い庭園があり、見事な彫刻がいたるところに置かれ、極彩色に彩られた美しい橋や門があった。まさに桃源郷のような場所であった。しかし、浮き世離れした桃源郷のような場所にあったこの機関の仕事は、もっぱら酒宴と情事と賭博であった。かくして武照の晩年は退廃的生活を極めたものとなっていくのである。

 張兄弟はやがて民衆にとって憎悪の対象となり、ついに革命が起きてしまう。革命を起こしたのは、かつて高宗の後を継いだ3男の李顕(りけん)だった。彼は2か月余りで母の武照に廃位に追い込まれて幽閉されたあげく湖北に流されていた。
 張兄弟は、乱入してきた兵士に首を切られて死んだ。そして武照も、幽閉され、その半年後、孤独のうちに82年の生涯を終えた。彼女の死とともに国号も以前の唐に戻されたのであった。

 武照は、唐王朝の代表する陵墓でもあり、夫、高宗の眠る乾陵(けんりょう)に葬られた。そこは西安の西北75キロほどのところ、咸陽市にある。

 彼女が造らせた墓の記念碑には、何の文字も刻まれてはいない。
何も刻まれていない武照の墓碑銘
 これも、彼女が言葉による現実化を恐れたためであろうか?

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参考文献

「妖女抄」中国の美女と奇談  成瀬哲生 小学館
「世界悪女物語」 澁澤龍彦 河出文庫

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