アンケセナーメン
〜矢車菊に秘められた悲運の王妃〜
* 3300年前の矢車菊 *
 ハワード・カーターがツタンカーメンの墓の発掘に成功し、劇的なニュースとなって世界中をかけめぐったことは誰もが知ることだろう。それは1922年11月26日の夕刻のことだった。
 封印された扉を開けると、3千年以上も前に密閉された古代の空気が押し寄せてきた。ひんやりした少し甘ったるくてカビくさい臭い。これが当時の空気なのだろうか? 暗闇に無造作に積み上げられた2千点にもおよぶ財宝の数々、そこかしこで黄金がきらめいている。
 この時、カーターはツタンカーメンの黄金色に輝く純金製の棺を前にして、しびれるような興奮が体中を何度も突き抜けていくのを放心状態で感じていたという。それは目がくらんで立っていることさえ難儀と思われるほどで、目の前で起きている出来事すべてが夢うつつの感覚なのだった。口の中はカラカラに乾き、鼓動は激しく脈打って耳の中で鳴り響き、息がつまって呼吸すら出来なくなるほどのすさまじい衝撃であった。
 ツタンカーメン王の棺は8重もの厨子で密閉されていた。それらを次々と開けていくうちに、石英をくり抜いた石棺があらわれた。さらに、その奥には3重になった人形棺が安置されていた。第一、第二の人形棺はいずれも木製金張りで各所に宝石を散りばめた豪華なものである。最後には輝くばかりの純金製の人形棺があらわれた。王のミイラは果たしてその中に横たわっていたのである。
 カーターはその際、興奮で震えながらそれらを開けていくうちに、石棺の上にひからびてほぼ炭化した草木らしきものが添えられてあるのを発見した。
 その黒ずんだ草木は、3つの人形棺の上にもそれぞれ置かれていた。
 は矢車菊だということであった。矢車菊とは薄紫をしたキク科の一年草で、花の形が矢車に似ていることからこの呼び名がつけられたらしい。花言葉には「信頼」「繊細な心」「幸運」などの意味が込められている。
 この矢車菊こそ、ツタンカーメンの王妃アンケセナーメンが、18才で早出した若き王の死後の幸せを祈って棺に捧げられたものであった。きっと3300年も前のある日、王の葬儀での別れ際に、二つ年上の王妃は悲しみに沈みながら、矢車菊に自らのメッセ−ジを託して、愛するツタンカーメン王の棺の上にそっと置いたものにちがいない・・・・
* 最初の結婚は実の父親 *
 紀元前14世紀、新王国の第18王朝時代、これまで3千年という長大な多神教の伝統を持つエジプトの歴史の中にあって、一時期、特異な宗教改革をうたった動乱期があった。それはファラオと神官の双方が、半世紀以上もいがみ合って権力闘争に明け暮れた異常な混乱の時代でもあった。
 そんな中にあって、揺れ動く政治と権力のはざまで、双方からふりまわされて、ひたすら波欄万丈な運命を余儀なくされた王妃がいた。ツタンカーメンの王妃で知られるアンケセナーメンである。彼女は醜い権力争いの渦中にあっても、いつも花を愛し、夫と子供をひたすら愛した心のやさしい王妃であったと言われている。彼女の数奇な運命とはいかなるものであったのだろう?
 アンケセナーメンには3度の結婚を経験し、その都度、未亡人となったという非運な生い立ちがある。1度目はなんと実の父親アメンへテプ4世との結婚であった。アメンヘテプ4世には、ネフェルティティというれっきとした王妃と6人もの娘がいたのである。それにもかかわらず、15年間も仲むつまじく暮らしていたネフェルティティを追い出して自分の三女と結婚してしまったのである。それがいかなる理由によるものか不明だが、12才年下の異母弟、スメンクカラーを身近に置いて同性愛と思える異常な愛情を示すなど、この頃の彼の行動には奇怪な面が多い。
 これは、アメンヘテプ4世が脳水腫という病気に犯されていたためと思われ、その結果、神経面や精神面に異常をきたし始めたためではないかとも考えられている。この病気にかかると、精神面では知能が遅れ、情緒不安定となり、分けの分からぬ奇怪な行動が目につき始める傾向があるからだ。
 アメンヘテプ4世がアンケセナーメンをを選んだのは、6人の娘のうち、三女のアンケセナーメンがもっとも美しい容姿をしていたからだとも言われている。褐色の髪をして細みで小柄だったが、均整のとれた肢体、落ち着いて限りなく優雅な態度は、王妃となるための生まれ持った気品を物語っていた。しかし、まだ10才だったアンケセナーメンとしては、物事の善し悪しを判断できる年齢でもなく、盲目的にこれに従うしかなかったと言えよう。こうして彼女は実父と結婚したが、2年後にはアメンヘテプ4世は32才で死んでしまう。これが病気の悪化によるものかどうかは定かではない。
* ツタンカーメンとの二度目の結婚 *
 二度目の結婚はツタンカーメンであった。この結婚はアンケセナーメンの母ネフェルティティの思惑だとも言われている。この頃、ネフェルティティとしては権力維持のためにいろいろと裏で画策していたようだ。
 宮殿から追放されたネフェルティティは、3人の娘とともに宮殿のはずれで悲嘆に暮れる生活をつづけていたが、その中に幼いツタンカーメンもいた。
 ツタンカーメンは前王のアメンヘテプ3世の血を受け継ぐ王位継承に一番近い王子である。
 ネフェルティティとしては今後権力に帰り咲くことを夢みて、密かにツタンカーメンを引き取っていたと考えられる。
 つまり、夫のアメンヘテプ4世が病気で死んだ場合、後継者としてツタンカーメンを後釜にすえれば、再び権力の座に着けるわけで、そのためにも自分のふところに置いておきたかったのだろう。実際、彼女は冷静で計算高い女であった。
ネフェルティティ。頭脳明晰で美しい小アジア出身の王女。名前の由来は美しい人が来たという意味がある。
* 宗教改革と神官団との対立 *
 かくして、ネフェルティティは自分の三女アンケセナーメンにツタンカーメンを結婚させて王位に即けさせることに見事成功した。だが、再び権力の座に着こうとする矢先、ネフェルティティは37才で謎の死を遂げてしまう。理由は不明だが、これは暗殺されたという説が有力である。というのも、もともとエジプト人ではなく小アジアから来た彼女は、エジプト伝来の多神教(アメン神)になじめず、太陽神(アテン神)だけを崇拝する一神教の推進者でもあったからだ。このため、彼女は多神教(アメン神)を擁護する神官たちから憎悪の対象として見られていたのは確かである。
 元来、古代エジプトの多神教は多くの神々から成り立っている宗教であった。神々の総数は軽く数十体を越え、その姿は具象的で頭が動物で体は人間という恰好で表現されることが多かった。
 例えば、戦いの神セクメトは半分女で半分はライオン、学問の神トトはヒヒ、創造の神クヌムは牡羊、愛の女神バステットはネコ、墓の守護神アヌビスは山犬、豊作の神トゥエリスは河馬といったふうにである。
 しかもこれらの神々にはそれぞれに独自な神話があり、政治、経済などにも密接に関係していた。
 そのまつり事一切を取りしきるのが神官で、ファラオと言えども彼らの忠告にはすなおに従わねばならなかったのだ。ファラオにとってみると、権威を傘に着た口うるさい神官団はまことに疎ましい限りであったと思われる。
墓の守護神アヌビス。頭は山犬、体は男の恰好をしている。
 アメンヘテプ3世は、もともと神官たちのこうした横暴さを嫌っていたが、とうとう自分独自な宗教をあらたにつくりあげ、神官の権力に対抗しようとした異色のファラオである。彼の考えた宗教は、太陽を唯一の神とするもので、これまでのような半獣半身の姿をした神々とは違い、具体的な形のない抽象的な存在であった。この宗教はアメンヘテプ3世自身によってアテン神と命名され、従来の多神教(アメン神)と激しく対立することになる。
 彼はそれ以後も、神官たちのあらゆる反対を押し切り、アテン神を奉るための巨大な神殿の建設の着手に乗り出していった。後世に残るカルナック神殿やナクソール神殿などといった巨大神殿は、その名残りで今日でも目にすることが出来る。これらの建造物に費やされた工事費もまた莫大な額で、何百年間にもわたって祖先がため込んでいた富を惜し気もなく、それこそ湯水のごとく使っていった結果でもあった。
 自由気ままな性格で享楽的な生活を夢みていたアメンヘテプ3世としては、神官どもの日常の生活習慣の端々にまで口をはさんで来る小うるさい態度に、ついに我慢の緒が切れたのか、これまで積もり積もったうっぷんを晴すような勢いで、これらの事業を成し遂げていったと思われる。最後には駄目押しとばかり、豪華きわまる王宮を建てて、華麗な庭園の真ん中に途方もなくばかでかい人工の池をつくった。そして、たいそうな船を浮かべ、そこに多くの美女をはべらし、楽士らに音楽を奏でさせて贅沢ざんまいの暮らしを死ぬまで続けたという。彼の治世は38年間もの長きにわたった。
 後を引き継いだ息子アメンヘテプ4世も前の父王の路線を引きつぎ、強引とも思える宗教改革を押し進めることになる。都をテーべからアマルナに移しただけでなく、これまでの神殿や神々の記念碑を破壊し、名前を削り取ったりもした。挙句の果ては、自分と家族すべてを太陽神のように崇拝せよと国民に強制してくる始末であった。ここにいたり、ファラオと神官たちとの対立は決定的なものとなり、伝統的な多神教を崇拝する神官たちからすれば、自分たちのかつての権威を失墜させたファラオやその王妃ネフェルティティは憎悪の対象でしかなくなったと言えよう。
 ネフェルティティの原因不明の突然の死やツタンカーメンが王位に即く背景には、こうした半世紀にもわたるファラオと神官たちとのゴタゴタ、つまり宗教改革にからんだ権力争いという波乱に満ちた事情があったのである。
* ツタンカーメンとの楽しい結婚生活 *
 しかしネフェルティティの画策であったにしても、アンケセナーメンにとってみれば、この結婚は喜ばしいものであった。この時、アンケセナーメンは12才、ツタンカーメンにいたってはまだ10才である。ともかくアンケセナーメンにとっては、小さい時から姉弟のように仲良くしていた幼なじみで気心の知れたツタンカーメンは理想の相手にちがいなかったようだ。
 少年王ツタンカーメンは王位につくと、これまでの前王たちがとったのとは逆の立場を取り始めた。つまり治世3年後には首都を元のテーべに戻し、自らもこれまでの多神教アメン神の信奉者であることを宣言したのである。それと平行して、かつて打ち壊された神殿の修復にも力を注ぎ始めた。彼としては、これ以上神官たちとは対立したくなかったのである。ツタンカーメンは温厚な性格であった。こうして数十年というほんの短かい期間ではあったが、2代の王にわたる特異な宗教改革は終わりを告げることとなる。
 ツタンカーメンとアンケセナーメンはよく民衆の前に姿を見せたという。ともに戦車に乗って市中をまわるのだ。金と銀で装飾された華麗な戦車があらわれると、群衆の中からため息にも似たどよめきが湧きおこる。二頭の美しい白馬が足取りも軽やかに近づいて来ると、どよめきは大歓声となって響きわたる。ツタンカーメンは左手で手綱をにぎりしめ、もう片方の手を高くかざして民衆に合図を送る。その横では、明るい表情をした王妃アンケセナーメンが魅惑的な笑みを浮かべている。そんな若い王と王妃に民衆もあたたかい声援をいつまでも送りつづけるのである。
 宮殿での生活は大変家庭的で、2才年上のアンケセナーメンは、姉さん女房のように何かとツタンカーメンの世話をやくことが多かった。そんな時のツタンカーメンの表情は、照れくさそうに笑ったりするが、とても一国の王には見えず母親に甘えている子供のように見える。食後にはチェスをしたり音楽を楽しむことも多く、王が楽器を吹いて王妃がそれにじっと耳を傾けるというシーンも多く見られた。
 花が大好きだったアンケセナーメンは、よく花を摘んで花束をつくりツタンカーメンに捧げたという。中でも矢車菊は、彼女の大のお気に入りで、部屋の中を矢車菊で一杯にしたこともあった。王宮内の庭園で、二人一緒に花を摘みながら何がしかささやき合っているところなど見ると、威厳めいたところなど微塵もなく、王と王妃というよりはただの若い恋人同士のように見えるものだ。そして事実、二人は心から愛し合っていた。
 旅行もよくしたらしい。ナイル川をゆったりと船でさかのぼってみたり、近場の場合は二人そろって戦車に乗って旅するのである。ツタンカーメンは特に狩りが好きで、アンケセナーメンを連れて狩猟に行くこともしばしばであった。ある時など、「あの飛んでる大きな鴨が射落せるかしら?」とツタンカーメンにいたずらっぽい口調でたずねたこともある。その時、少年王はどういう返答をしたのだろう。きっと、困ったような顔をしたことだけは想像できる。かくして優しい光につつまれた永遠と思われた時間はゆっくりと過ぎ去ってゆく。
* ツタンカーメンの死と三度目の結婚 *

 しかし、この楽しい甘美な生活も長くは続かなかった。8年後、ツタンカーメンは原因不明の死を遂げるからである。今日、 ツタンカーメンのミイラの左則頭部にへこんだ箇所があることから、死因は鈍器か何かでなぐられたからではないかと推測されたこともあった。このことから、狩りの際に落馬もしくは猛獣などの逆襲によって死を招いたのだとする事故死説、権力をねらうアメン神官団の差し金によって暗殺されたのだとする謀殺説が考えられている。また、ツタンカーメンの体は非常に華奢であったことも確かで、異母兄たちはいずれも病弱で健康体ではなかった。したがって、この体質を受け継いでいたツタンカーメンも若くして病死したのだという説も有力である。

 ともかくアンケセナーメンは再び未亡人となったのである。三度目となる結婚相手は、なんと45才も年上の宰相アイであった。当時のエジプトの法律によると、王家の血統を継ぐ女性は、王の死後、すみやかに然るべく男と結婚して王位を継承させる義務があった。当然、最高実力者の何人かが名乗りをあげることになる。アイは彼女からすれば40才以上も年が離れた祖父という血縁関係になる。確かにアイは数ある候補者の中でも、もっとも実力のある男にはちがいなかったが、20才のアンケセナーメンにとって、この組み合わせはいささか酷すぎた。ツタンカーメンの面影を忘れられないアンケセナーメンとしては若い王子を欲していたのである。
 そこで彼女は、葬儀までの70日間のうちに他の男を王位継承者にしようと考えた。結局、考えぬいた末に、隣国のヒッタイト王国の王子に目を向けたのであった。適当な王子を結婚相手に迎え入れたいという手紙を携えた密使が急きょ送られた。一方、ヒッタイト王国からすれば、長年、領土をめぐって争っていた敵国でもあるエジプトの王に労せずしてなれるわけでこんなうまい話はない。さっそく、ザナンザという王子を向わせることにした。王子は多くの従者と護衛の兵士を引き連れると、たくさんの土産物とともにエジプトに旅立っていった。
 ところが、ザナンザ王子の一行はエジプトに到着することはなかった。砂漠の旅の途中で消息不明になってしまったのである。一人の生存者もいないために推測の域を出ないが、恐らく、事の真相を知ったアイが軍隊を送って一行を待ちぶせて一人残らず殺してしまったのではないかと考えられている。かくして、アンケセナーメンはアイとの結婚をしぶしぶ承諾することになる。ところがそのアイも、5年後にはあっさり死去してしまうのである。
 このように彼女は実父、年下の叔父、祖父と全て近親結婚したが、いずれも結婚して数年で死に別れると言う悲しい運命がつきまとった。アイの死後、将軍のホレンヘブが王家の血族者ネフェルティティの妹と結婚して王位を継承したので、彼女は歴史の表舞台から永遠に消え去る運命にあった。王位継承権が消滅した今となっては、彼女はもう必要なかったのである。その後、彼女がどういう生涯を送ったのかは誰も知らない。今なお彼女の墓はおろかミイラさえ発見されてもいないのだ。
* 矢車菊に込められたメッセージ *
 権力欲もなく花を摘むことが何よりも好きだったという王妃アンケセナーメン。一番愛した夫は、なんといってもツタンカーメンであったろう。
 黄金製の王座に刻まれたレリーフを見る時、甘く切ないわずか8年間の結婚生活がしのばれるようだ。
 若きツタンカーメンの右肩にそっと触れる彼女の仕種、優しく何かを語りかかけているようにも見える。
 それはいたわりの言葉なのであろうか? それとも公務に着こうとする王に香油をふりかけ、身仕度を手伝ってあげているのであろうか?
王妃アンケセナーメンがよく摘んだとされる矢車菊。咲き乱れる矢車菊は美しい。その情景は花言葉のように優雅で気品が漂っている。
 その絵には、彼女の夫によせる細やかな愛情が感じられてならない。
 彼女がツタンカーメン王の棺に捧げたという矢車菊は、カイロ博物館のかたすみにそっと展示されているという。それはかつて庭園で摘まれ、愛する王によく手渡されたのと同じものだ。3300年以上たった今でも矢車菊に込められた彼女の願いは色あせることはない。これからも決して永遠に・・・
さようなら、ツタンカーメン王! 私のもっとも愛した人。
これからも、二人の幼い娘たちの魂とともに、
永久に私を守って下さいますように。

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