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王妃の微笑
〜古代周王朝を滅ぼした美女の笑い〜
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美女の価値というものは、一体どのくらい高くつくものなのだろうか? |
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* 吉原の花魁の場合 * |
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江戸時代、吉原(現代の日本橋人形町あたり)には、権力から切り離された自由な恋愛の取り引き場とも言うべき一大遊廓があった。そこでは、町人も武士も大名も皆同じ扱いで、いかなる権力も通用しない場所であった。遊廓内では、大名と言えども大小の帯刀は勿論のこと、駕篭に乗ることも禁じられていたのである。
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そのため、大名の中には、暴漢に襲われることもあり、仙台藩の伊達綱宗ごときは、豆腐屋に逃げ込んで難なきを得たと言う話もある。また、ある大名は、喧嘩を吹っ掛けられて、それがもとで領地召し上げになってしまったこともあるぐらいだ。 |
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そこでは、意気と金と恋と粋以外は通用しない世界なのであった。また、吉原は幕府が公認する一流花街でもあり、名実ともに江戸文化の発祥を自負する地でもあった。そこでは独特な風俗が生み出されていったのである。 |
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吉原には、3千人とも言われる遊女が存在していた。それらの中でも、吉原に君臨した花魁(おいらん)とか太夫(だゆう)とか呼ばれる遊女は、最高位にランクされる存在であり大変な存在であったと言われている。彼女らの気位の高さは、恐ろしいほどのものがあり、一般の客では並み大抵のことでは近づくことすら出来ないほどであった。
井原西鶴の「好色一大男」では、ある好き者の金持ち若旦那が1千両もの金を持って、意気揚々と吉原に乗り込んだ話がある。彼は、高尾という太夫に逢いにいったのである。しかし、向こう5か月は、約束があって逢えないとあっさり断られてしまい、しょんぼりと帰ることになったということである。
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実際、このようなトップクラスの遊女に逢おうとするだけでも大変なことで、かなりの労力と時間を必要としたことは確かだ。 |
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まず、約束をつけて日取りを決めるわけだが、いよいよその日が来ると、今日は都合が悪いと断られるのである。そして、そういうことが3、4回は続く。しかし、逢えなくとも贈り物や諸々の付き人や禿(かむろ)などの心付けとして、一回につき15両ほどの費用が必要であった。 |
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15両と言えば、現代の価値で言えば、180万円ほどに相当するのではなかろうか。つまり、180万ほどの費用が4回ほど当人に逢う以前に無意味に消えていくわけで、いよいよ逢うまでには5、6十両、つまり700万円ほどの金が消費されることになる。 |
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花魁とかむろを描いた江戸時代の浮世絵 |
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運良く、逢えたとしても、太夫が客を気に入らなかった場合は、話はそれっきりになることも往々にしてあった。いくら、客が大名であろうが、そんなことはまかり通らないのである。また、例え、気に入られても、初回は、そのまま帰り、その後、2回も3回も振られ続けて、最後に誠意を認められた者だけが目的を達成出来るのである。当然、その間も湯水のように金を消費しなくてはいけない。 |
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もし、意気投合して、身請けとなれば、それはまた大変な巨額が必要であった。元禄年間の記録では、瀬川という太夫を身請けした時など、1500両ほどの金が動いている。つまり1億8千万円ほどの金が必要だったということであろうか。とても、庶民の手の出せる金額などではない。 |
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* フランス革命の火つけになった超豪華なプレゼント * |
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美女や愛人の気を引こうとして、高価な贈り物をしたケースも少なくない。 |
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中でも、ルイ15世が、愛人デュ・バリー夫人に160万リーブル(約200億円)という超豪華な首飾りをプレゼントしようとした話は有名である。 |
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しかし、ルイ15世は急逝してしまい、この首飾りは、夫人のものになることはなかった。 |
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困り果てた宝石商が、マリー・アントワネットに売りつけようとしてスキャンダラスな事件に発展してしまったことは周知の通りである。 |
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結局、この豪華な首飾りは、災いを招き寄せる結果となり、恐怖政治を現出させた上、デュ・バリー夫人もマリー・アントワネットもギロチン台に送られるという皮肉な結末に終わってしまった。 |
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ルイ15世の愛人だったデュ・バリー夫人 |
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このように考えると、美女の価値というものは、その魅力に深入りすればするほど、果てしなく破滅をともなうという相間関係があるように思われて来る。そればかりか、一人の美女の微笑が一国の運命を左右させた例だってあるのである。 |
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* 滅亡をもたらした古代中国の王妃の話 * |
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紀元前8世紀頃、中国古代王朝の一つ、周の12代目幽王は、一人の絶世の美女の気を引こうとしたために、国を滅ぼし一切合切を失う羽目になってしまった。その絶世の美女は襃似(ほうじ)という王妃だった。「その唇は珊瑚のごとく、その歯は真珠のごとく、その指は、のみで彫られた硬玉のごとし」とうたわれているように、彼女は、さまざまな文献、言い伝えにその美しさが表現されるほどの美女であった。 |
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幽王は、この絶世の美女に溺愛するあまり、正妃と正妃の産んだ子を廃して、褒似を妃として、その子を皇太子にしてしまうほどであった。しかしどうしたことか、これほどの寵愛を受けているにもかかわらず、彼女は幽王のもとに来てからは、ただの一度として笑ったことはなかった。何とかして彼女の機嫌を取りたい幽王は、いろいろな手の込んだ面白いアトラクションを披露したが彼女の冷たい表情をなごませることは出来なかった。そこで、幽王は、我王妃、襃似を笑わせた者には褒美を遣わすというお触れを全国に通達したのである。 |
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ある側近の一人があるアイデアを進言した。つまり、侵入してくる敵もいないのに、のろしを上げ、各地から慌てて馳せ参じてくる諸候の狼狽ぶった表情を見たらさぞかし愉快だろうというものだった。当時、黄河の北原には、どう猛で好戦的な遊牧民族が多数おり、中国歴代の王朝は、彼らを野獣と同等な存在と考え軽蔑するとともに非常に恐れていた。万里の長城もなかったこの時代は、首都に危機が迫ると、ひたすら、のろしを上げて各地の諸候を緊急召集したのであった。 |
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幽王は、この突拍子もないアイデアは行けると考え、のろしを上げることにした。 |
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のろしにも、幾つかの段階があったが最も重大なレベルを意味するのろしが上げられた。 |
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まもなく、それを見た諸候たちは、祖国に危急存亡の危機が迫っていると考え、一大事とばかり我先に目の色変えてすっ飛んで来たのであった。 |
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息せき切って駆けつけた彼らが、首都洛陽に到着したところが、何事もなく平穏そのものなので、彼らは、互いの顔を見つめ合い当惑し切った表情となった。 |
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そして、間の抜けた表情で平然としている幽王と襃似をぼんやり見つめたのであった。この瞬間、そんな彼らの姿を見て、彼女は始めて微笑を浮かべたのであった。 |
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陽関(ようかん)に残るのろし台跡(当時はこのようにのろしが上げられていた) |
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これに味をしめた幽王は、度々、用もないのにのろしを上げ、各地から諸候を召集しては襃似の気を引こうとした。しかし、何度か繰り返すうちに、信用がなくなり、諸候は真面目にのろしのことを考えなくなった。
それから、まもなく、西北方から犬戎(けんじゅう)と呼ばれるどう猛な遊牧民族の大軍が首都洛陽に迫って来る事件が起こった。幽王は、のろしを上げ各地から諸候を召集したが、もうさすがに駆けつけて来る者は誰一人いなかった。まもなく、首都洛陽は、恐ろしい遊牧民族に蹂躙され人々は皆殺しにされた。幽王も捕らえられ首を斬られて惨殺された。襃似は異民族の奴隷にされる前に自ら命を断ったという。
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* 破滅をもたらす美女の論理 * |
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「史記」に書かれたこの話が、果たして真実なのかどうかは定かではないが、いくら美女だとは言っても、その笑顔見たさに愚行を繰り返した挙句に国を滅ぼしてしまうというのは現実的とは思われない。しかも、王のブレインたる側近が、のろしという国家の緊急手段をそのような行為のために使うことを進言したとも考えられない。
とすれば、何かの戒めのためであろうか? 一説によれば、皇太子になるはずの子を廃された正妃の父が激怒のあまり北方遊牧民族と内通して反乱を起こしたのだともいう。また、幽王は、政治的には無能の王だったようで、のろしを意味なく何度も上げる愚かさに例えられたとも言えなくはない。
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襃似がどうして、笑うことがなかったのかは、周の隣国の褒の国君が罪を犯したために死罪になるところを、彼女はその男の命の代償として絹布3百反とともに献上された身上だからだとも言われている。
いずれにせよ、幽王が襃似の妖しい魅力に心惑わされ、政治を顧みず民衆の反発を招き国を滅ぼしたことは十分想像出来る。玄宗皇帝と楊貴妃の場合もそうだが、古いことわざには、美女への警戒の言葉が限りなくのせられている。
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「はなはだ美なれば必ずはなはだ悪なり」つまり、美女はイコール悪女であるという意味になる。これは美女への警戒を込めた言葉だが、現代にも通じるところがあるようだ。 |
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