呂后
〜嫉妬に狂った凄まじい女の狂気〜
 今から2200年ほど昔、その頃、中国では長らく続いた戦国時代がようやく終わりを告げ、秦が中国全土を統一していた。しかし、その秦もわずか15年間で滅んでしまい、再び覇権をめぐって争いが起こった。天下を争ったのは項羽と劉邦という二大英雄であった。両雄は垓下(がいか)の地で激突し、この戦いで勝利をおさめた劉邦が中国の支配権を確保することになる。劉邦はまもなく国号を漢と定め、長安を都にすることを決めた。これ以後、200年間中国全土を支配する前漢の時代が始まるのである。
 劉邦は、今でこそ漢の初代皇帝として有名であるが、若い頃は地方の小役人であり、海の物とも山の物ともわからず、とにかくパッとするような人物ではなかった。しかし見掛けだけは、髭をはやして威風堂々としており、いかにも豪傑そうなので人目を引く存在であった。そういうことから、ある酒宴で劉邦の姿を見た高官の一人が、その男っぷりに目を止めてすっかり惚れ込んでしまったのである。そこで彼は自分の娘を劉邦に嫁がせたいと考えたのであった。こうして、劉邦の妻になったのが呂后(りょこう)であった。

 呂后は、今日では劉邦の天下統一を陰から支え、糟糠の妻として知られる一方、則天武后、西太后と並び中国の3大悪女の一人にも数えられている。一体、後世における彼女の忌わしい評価を決定づけた出来事とはいかなるものであったのだろうか?

             

* 軟弱な我が子を嫌う劉邦 *
 中国全土を統一して一段落つくと、劉邦は次第に本来の性分を発揮し始めた。つまり元来、酒好きで女に目のない性格が頭を持たげて来たのである。劉邦は大掛かりな酒宴をたびたび開き、大勢の妾を囲い始めた。その多くの愛人の中に側室の戚(せき)夫人もいた。戚夫人は呂后よりも若く、おまけに大変な美人であった。その上、野心家だった戚夫人は、劉邦との間に子供が生まれると、次期後継者にすべくいろいろと手を回し始めたのである。その子供の名は如意(にょい)と言った。
 劉邦には、皇后となった呂后との間に、すでに孝恵(こうけい)という皇太子がおり、本来なら孝恵が劉邦の後継ぎになるはずであったが、劉邦はいつの間にか心静かで軟弱な性格の我が子を嫌うようになっていた。孝恵は劉邦のような豪傑の父親にはふさわしくなく、あまりにも繊細すぎる少年だったのである。そんな風であったので、劉邦は何をするにもグズグズして決断力のない孝恵に腹を立てることが多かった。いざ戦が始まると、ともに戦車に同乗していようが、邪魔だと言わんばかりに一喝して戦車から突き飛ばして落としてしまうこともあったほどだ。
 そうした劉邦の心を見透かしてか、戚夫人は我が子を漢の次期後継者とすべく劉邦にいろいろと話を持ちかけ、連日のように熱心にくどき始めたのであった。
 そのかいあってか、劉邦は如意を自分の後継者にしようかと心が揺らぐようになっていた。
当時の戦車を描いた絵。
 こうした戚夫人の行動を、呂后は知っていたが、劉邦の手前上、表だった行動も出来ないので、唇を噛み締めて我慢に我慢を重ねていた。表面上は、つとめて冷静に振る舞ってはいたが、心の底でははらわたが煮えくり返っていたのである。
 だが結局、皇太子を入れ替えるという問題は重臣たちの猛烈な反対に合って、劉邦も思いとどまざるを得なかった。この時、呂后も内心ほっと胸をなで下ろしたに違いない。だが、いつかこの仕返しはしてやるぞという憎悪の気持ちだけは強烈に心の中に刻み込まれることとなった。
* 血も凍る復讐のはじまり *
 天下を取って6年後、劉邦は反乱を鎮圧するために地方に出陣中、敵の流れ矢にあたりあっけなくこの世を去ってしまう。こうして劉邦が死ぬと、皇太子の孝恵が即位し、呂后は皇太后として事実上政権を握ることとなった。呂后政権の始まりである。当時の中国社会では、母子関係は絶対であり、いくら皇帝であろうとも、おいそれと自分の母親には口出しが出来なかった。こうした時代背景を武器に、呂后は実権を握ると独占的な専制政治を開始した。つまり一族をことごとく高官に配置し要職をすべて牛耳って、宮中を思い通りに動かし始めたのである。
 呂后は戚夫人のかつての行為に復讐することも忘れてはいなかった。まず、戚夫人を牢獄に幽閉すると、さしあたって、戚夫人の子供、如意を暗殺しようと都に呼び寄せたのである。ところが自分の母親の魂胆を見抜いていた孝恵は、如意の身を案じて片時も側を離れることはなかった。17才の孝恵は3つ年下の異母弟、如意が不憫で仕方がなかったのであろう。とにかく寝る時も食べる時もいつも一緒に行動し隙を見せないのである。このため呂后から差し出された死客たちもなかなか近づくことすら出来ない。ところが、とうとう孝恵がほんの少し目を離した隙に、ついに如意は猛毒を飲まされて殺されてしまったのであった。如意の始末に成功すると、呂后は、いよいよその母親、戚夫人にも復讐の手を差し伸べる。
 まず、戚夫人を慰めものとして、凶悪な犯罪人に与えたのである。戚夫人は裸にされると何人もの罪人に体をもてあそばれ、気も狂わんばかりの屈辱を味わった。しかし復讐はこれだけでは済まなかった。
 次にぐったりした戚夫人の両手を力まかせにナタで切り落したのである。続いて両足も。凄まじい絶叫が響きわたる。続いて眼球が刀で順々にえぐられていった。さらに口がこじ開けられ、のどに液体が流し込まれる。声帯を溶かしてしまうという恐ろしい薬である。最後に両耳に劇薬が流し込まれた。たちまち鼓膜が溶け去り、耳がジュージューと音を立てて焼けただれていった。
 こうして両手両足を切断され、盲目となり、声も出せず、音も聞こえぬ哀れな体になり果てた戚夫人は、乱暴に厠に投げ込まれた。当時の厠は、人間の排泄物を始末させるために豚が飼われていた。ウジがうごめき蠅がぶんぶん飛び回る排泄物と悪臭ただよう汚物の中で、戚夫人は数頭の豚に混じって苦しみのたうち回った。死に切れずにうごめいている戚夫人を「人豚」と名づけ、呂后は残酷なうすら笑いを浮かべて厠の上から見下ろしていたという。死のうとしても、死ぬことすら出来ない苦しみとはどのようなものであったろう。
* 孝恵の見た母親呂后の凄まじい狂気 *
 それから、呂后は面白いものが厠にいるからと孝恵を呼んで見せた。孝恵が薄暗い厠から身を乗り出して恐る恐る下を見ると、なるほど汚物まみれになって奇妙な生き物が暗闇で蠢いているのが見えた。ボロをまとった芋虫のような姿にも見える。最初は死にかけている子豚かと思ったが、豚ではない。何か犬か猿のような生き物のようにも見える、果たしてなんだろうと考えているうちに、急に孝恵は全身総毛立った。顔からみるみる血の気が引いてゆき、吐き気がグッと込み上げて来た。孝恵は口に手をあててその場にうずくまると、よつばいになって胃の中の物をすべて吐いてしまった。その奇怪な生き物とは手足を切断されて、瀕死の状態で蠢いていた戚夫人であったからだ。
 身の毛もよだつ光景を目の当たりにした孝恵は、あまりのショックに狂乱状態になり、わけの分からない声を張り上げてその場を立ち去った。しかし、あの時の恐ろしい場面は一時も脳裡を離れず、孝恵はそれから猛烈な熱を出し1年近くも寝込んでしまったという。その後も、孝恵は精神不安定となり、夜な夜な悪夢に襲われては悲鳴をあげる毎日であった。こうして心身ともに虚脱状態に落ち入った孝恵は、政治に全く関心をなくしてしまい酒びたりの生活を送ったのである。そして不節制がたたって数年後には病死してしまった。恐らく、信じられない自分の母親の狂気に絶望し、自暴自棄になった結果、死期を早めてしまったのであろう。
 孝恵の死後も、呂后の政治は8年間も続いた。かくも横暴をきわめた呂后の政治だったが、史記によると、世の中は至って平和で暮らし向きはいい方であったという。それは呂后の関心は宮中内部にとどまり、対外遠征や大規模な工事などには興味がなく、民衆に重税を課したり、過酷な労働を強制することがなかったということであろうか。宮中内部は血なまぐさい権力闘争の嵐が吹き荒れていても、天下は平穏でおだやかな雰囲気に包まれていたのである。

 しかし、幸か不幸か呂后が死んでしまうと、劉邦に疎遠にされていた一族が反乱を起こし、たちまち呂氏一族は殲滅されてしまう運命にあった。そして、再び激動の時代がぶり返したということである。

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