エリザベス1世
 〜大英帝国の基礎を築いた栄光と繁栄の女王〜
 雲のあいまから薄日が射し込んでくる夕暮れどき。大通りを護衛のお供を引きつれて、天使の像が無数に彫られた凝ったつくりの馬車が走っていた。市民が女王を一目みようと総出で広場に集まって来る。周辺は昨日の雨であちこちに水たまりができていた。
 やがて馬車は停車し、両脇を従者が整列し、長いドレスのすそを持ち上げて気品高い女王が姿をあらわした。
 そのとき、お供の中から一人の紳士が歩み寄るとためらいもなく自分のマントを脱いで水たまりに置いた。
 彼は女王の前に丁重にひざまずくと声をかけた。
「足下が濡れるといけませんので、この上をお渡り下さいませ。陛下」女王は紳士の手を取るとすっくと降り立った。女王の誇り高くまばゆいばかりの姿に多くの市民から思わず賛美と賞賛のため息があがった。
 この映画のワンシーンのような話は華やかなエリザベス時代を象徴する有名な逸話として知られている。この紳士は冒険家のウォルター・ローリー卿で、この後、女王の寵臣となるのである。彼は終身、女王につかえ、その後、北アメリカに植民したとき、踏み入れた土地を独身の女王にちなんでヴァージニア(処女の大地)と命名したことでも知られている人物である。
 エリザベス時代のロンドンはまぎれもなく世界一の大都市で、世界中のどこをさがしてもこれに匹敵する都市はなかった。世界に冠たる大英帝国は彼女の治世の間にその基礎が出来上がったとされる。しかしその国づくりも決して安易なものではなかった。
* 独特な外交術 *
 15世紀のヨーロッパはスペイン、オランダ、フランスと列強がひしめき合い、植民地を求めて制海権を我がものにしようと虎視眈々とねらっていた時代であった。そういう難しい国際情勢の中にあって彼女はイギリスのかじ取りをせねばならなかった。
 女王の外交政策はひじょうに独特なもので、その特徴はどちらでもつかないような柔軟的な外交姿勢にあった。相手国からみれば、女王の態度によってその場の雰囲気で想像するしかないようなことも多くあった。例えば、旧敵であったスペインが和平を求めてきたことがあった。イギリスと同盟関係にあったフランスはこれを承諾し、イギリスに大使をつかわせて女王にも了承してもらい、ともに講和条約に応じようと考えた。
 そのとき、女王はフランスの大使を前にいろんな話題を次から次へとだしてきた。
「大使どの、そなたは我がイギリス人とフランス人の違いをどこで区別されますか?」
「どういうことでしょう?陛下」
「フランス人は啓蒙を重んじ、イギリス人は名誉を重んじるといいます。なにごとも理性的でそれは文学にもあらわれています。人の死は名誉あらんときにこそ価値あるもの。私の名誉は忠実かつ愛すべき民にふかく捧げられています。・・・いかがですか大使どの」
「・・・・」
 こういう調子で話はすすみ、次に女王はフランスとスペインの文化の違いとか、イギリス人の価値観の話だとか、それを表現するのにラテン語の詩の一部を引き合いに出し、ギリシア文学からも引用したりもした。最後の方は、スペイン王のはなった死客に自分は何度も命をねらわれたという具体的な話になった。結局、スペインとの講和には賛成なのか反対なのか、明確な回答はなく大使は分けのわからぬままに返されてしまった。
 本国に帰った大使は、フランス王アンリ4世にどう返答していいものかわからず、ただ女王は才能豊かな方で、ラテン語、フランス語、イタリア語など数種類の言語をお使いで、あらゆる文学にも精通されておりましたとか、衝撃的な深紅のドレスをお召しになって、それはたいそう美しいものでございましたなどと報告するしかなかった。ある大使などは、自分に任された使命のことより、その日の女王のドレスがよほど印象的であったのか、賞賛と驚きの言葉ばかりがしきりに日記に書き込まれていた。
 このように女王は、政治的な話などより、宗教や芸術の話のほうが多く、詩を引用したり、数種類の言語をつかい分けたりして、核心に触れることなく相手を煙に巻くことが多かったというが、これこそエリザベス流の外交戦術なのであった。
 相手側からすれば、一回の話では今一よくわからず、何度も謁見を申し出ることになる。そのうち、女王の人柄や雰囲気にほだされて、最後は都合よくまるめこまれてしまうことがよくあった。
 謁見の際、女王は真珠の散りばめられた赤のかつらをかぶり、豪華で印象的なドレスに身を包んでジェスチャー豊かにしゃべりまくるが、こった衣装や宝石類も女王の外交戦術の必須アイテムのうちで、衣装室には3千着ものドレスがところ狭しとぶら下がっていたという。
謁見のとき、奇抜なデザインの衣装を身にまとった女王の姿に半ば見とれて話を上の空で聞いていた大使も多くいたことだろう。
 フランスの大使メッスなどは、女王が胸のところが大きく切り込みの入った黒のタフタのドレスを着ていたので、終始目のやり場に困ったという。しかもその日の女王は機嫌よくやたらに愛想をふりまくので、女王が自分を誘惑しようとしているのではないかとさえ思ったという。
 このように、女王の話はどこといってとりとめがなく抽象的な内容が多かった。女王の外交方針は決してどことも仲良くせず、どことも喧嘩せずといった風で、これがエリザベス外交の基本をなすものであった。
 つまりフランスとスペインが敵対関係であるなら、フランスとは表向きは仲良くするが、スペインの手前上、決してそれ以上の援助は与えない。同盟国に支援する際にも、精神的な援助は惜しまなかったが、肝心の財政面での援助は最小限にとどめたという。しかし顧問団の中には、こうした中途半端な彼女のやり方にいら立ちを覚える者も多く、優柔不断だと陰口をたたく者も少なくなかった。
* 慎重のうえにも慎重に *
 また彼女は側近たちに、「おのおの方、戦争だけは絶対にしてはなりませぬぞ!」と常々よく言っていたそうだ。つまりいったん戦争になれば、膨大な出費と多くの犠牲がついて回る。それらは国庫を圧迫するのは確実であった。こうした手堅く慎重で、常に石橋を叩いてわたるような外交戦術を展開したおかげで、イギリスは列強の中でもとりわけ強国となり、大英帝国の基盤がこのころゆっくり出来上がってゆくことになる。
 しかし海外との戦争を望まぬエリザベス女王にも、どうしても許せぬことがあった。それは世界貿易を独占してあらゆる利益を独り占めしようとするスペインの横暴であった。スペインに反感を持つ冒険者たちも多く、女王自身もスペインから独立しようとするオランダに公然と援助の手をさしのべていた。
 巨額な重税に苦しめられていたオランダの念願の目標は、スペインからの独立であった。しかしスペインが自分たちのドル箱でもあるオランダを手放すはずがなく、オランダの独立を後押しする女王にも不快感をあらわにしていた。こうした利害をめぐってイギリスとスペインは幾度か衝突し、急を告げる不穏な空気もただよい始めていた。
 そして1588年、エリザベス女王が55才のとき、ついにスペインとの間でアルマダの海戦として名高い海戦がおこなわれることになる。これはフランシス・ドレイクが世界の各地でスペイン船を襲い、スペインから厳重な抗議が再三来たことから始まった。
「そなたはあるまじき海賊行為でスペイン王フェリペ2世をさんざん怒らせました。そなたに対する罪状と非難決議が出ています」そう言って、女王は声高らかに罪状文を読み上げた。
ドレイクは女王の前で頭をたれたままひざまづいて聞いていた。次になにを言われるのか見当もつかない。悪くすると、ロンドン塔送りになるかもしれないという考えが脳裏をかすめた。何しろ国家間をかなりこじらせたのである。
「そなたのしでかした行為は国際上、好ましいことではありませんが、わたしはそなたにナイトの称号を与えましょう。この意味がわかりますね」
エリザベス女王に謁見をゆるされるドレイク 。スペインから奪った30万ポンドという膨大な額の財宝を王室に差しだした。
 ドレイクは最初、どういうことなのかわからなかった。女王が自分を処罰することなく、逆にナイトの称号を与えたのだと知って興奮状態になるまで少し時間が必要だった。
 感激して顔をあげたドレイクに女王はさらに言った。
「さあ、お立ちなさい。サー・ドレイク! そなたを今から大英帝国艦隊の司令官に任命します」
 エリザベスのこの処置に、怒ったスペインは報復として艦隊をつかってイギリス沿岸部を荒らしはじめた。ここにいたり、スペインとの間で雌雄を決する海戦が行われた。このときスペインの艦隊は無敵艦隊と呼ばれており、数でも大きさでもイギリスを上回っていたが、イギリス船は小型ながらその快速性を生かしてスペイン艦隊に対抗した。
 海戦は一週間つづいた。スペイン艦隊は三日月型になってイギリス艦隊を包囲しようとしたが、イギリスはその手には乗らず、逆に狭い海域に誘い込み、火をつけた船をスペイン艦隊に放った。
 鈍重なスペイン船は密集したまま次々と燃え上がった。ドレイクの海賊の経験を生かした見事な奇襲攻撃である。
無敵艦隊破れる!(1588)
 結局、海戦はイギリス圧勝のもとに終わり、スペインを倒したイギリスは名実ともに世界帝国への道のりを確かなものにしてゆく。
 かくして16世紀後半になるとイギリス経済はますます活気づき、イギリスは史上空前の繁栄をむかえる。東インド会社は莫大な富を本国にもたらし、アフリカ西海岸には奴隷貿易のための港がいくつもできた。今や世界の七つの海は大英帝国のためにあり、香辛料を積載した数えきれないほど多数のイギリス船が行き交っていた。
* 恵まれぬ少女時代 *
 エリザベス女王と聞けば、イギリスの空前の繁栄をきずいた輝かしいイメージとしてとらえがちだが、その彼女の生い立ちは決して恵まれたものではなかった。
 父はヘンリー8世で相当な淫蕩くせのある王で、彼は生涯のあいだに6人もの王妃を持った。
最初の王妃はカトリックの擁護国スペインのアラゴン家出身のキャサリンであった。
キャサリンは6人の子供を生んだが5人までもが死産で、唯一生き残った女の子はメアリといった。後のメアリ女王になる子である。
ヘンリー8世。(1491〜1547)
 ヘンリーは男の子の産めぬキャサリンに嫌気がさし、そのうち王妃の侍女の一人にうつつを抜かしはじめた。
その侍女がアン・ボレインである。しかしキャサリンは旧教徒の国スペインのアラゴン家の出身であったので、離婚するにはローマ教皇の承諾が必要で簡単には認められそうもなかった。
 事実、離婚申請するもローマ教皇に再三、拒否されてしまった。
 そこでヘンリーはキャサリンと離婚するためにわざわざイギリス国教会という宗派をつくり、英国王がその最高位でいっさいを決定する権利を持つと宣言した。これだとローマ教皇の承諾なしに離婚ができるわけである。怒ったローマ教皇はヘンリーを破門にしてしまったが、ヘンリーとしてみればやっかいな離婚問題に終止符が打てて満足であった。こうしてキャサリンと離婚したヘンリーは侍女のアン・ボレインと結婚する。
 やがて生まれたのがエリザベスであった。しかし男の子を欲しがっていたヘンリーとしてはがっかりである。
 その後、アンは懐妊したが二度とも流産してしまう。
 もともとヘンリーは浮気っぽい淫蕩な性格が本質的にあるようで、そのうちアン・ボレインにも飽きてしまい、今度は侍女のジェーン・シーモアに夢中になり出した。
アン・ボレイン。
(1507〜1536)キャサリンの侍女だったがヘンリーに見初められ、第二の王妃になった。
 ヘンリーは不用になったアンの方には不義の疑いをかけて、ロンドン塔に送って処刑してしまう。このとき、エリザベスはまだ2才半で、成長するとともに、母を死に追いやった非道な父ヘンリーを憎むことになる。
 侍女のジェーン・シーモアと結婚したヘンリーだが、ついに念願の男の子ができた。この男児はエドワードと名付けられて将来を期待されたが、身体が弱くたいへん病気がちな子で15才で死んでしまう運命にあった。またジェーンの方もエドワードを出産した直後、産後の肥立ちが悪かったのかまもなく死んでしまった。
 それ以降も、ヘンリーは、クレーブス・アン、キャサリン・ハワード、キャサリン・パーと次々と3人も王妃を変えていく。このうち、アンは半年も経たぬ間に離婚され、キャサリン・ハワードは愛人問題の容疑をかけられてロンドン塔で処刑された。6人目の王妃キャサリン・パーだけが、離婚も処刑もされずに無事に一生を終えたが、これはヘンリーの方が早く世を去ったからである。
* メアリの暗黒時代 *
 ヘンリーは自分の王妃を二人もロンドン塔に送って不義の容疑で処刑しているが、王妃だけでなく自分に反対する都合の悪い人物も数多くロンドン塔に送って処刑している。トマス・モア、司教ジョン・フィッシャーは王の離婚問題に非難したため処刑されたし、トマス・クロムウェルなどはヘンリーの忠実な宰相であったにもかかわらず、4番目の王妃アンを紹介した際の不手際でヘンリーを怒らせてしまった。

「なんだこれは!お前の目は節穴か!肖像画とは全然、似ても似つかぬ顔ではないか!」ヘンリーはクロムウェルを呼びつけると大声でわめいた。
「ですが陛下、この絵は一流の宮庭画家デューラーの描いた絵ですので」クロムウェルはあまりの大声にびっくりしておろおろしている。ヘンリーの怒りは収まるどころか、そのへんのものを投げたり壊したり、ますます興奮してエスカレートしている。
「満足な王妃も見つけられぬそちにもう用はないわ!」最後にヘンリーは吐き捨てるように口走ると乱暴にドアを開けて部屋を出て行った。
 クロムウェルが反逆罪の容疑でロンドン塔に送られたのはそれからしばらくたってからのことであった。
 写真もなかった当時、悪気もなく外国の王妃を紹介して逆鱗にふれて処刑された宰相も気の毒というしかないが、これ一つとっても、ヘンリーがいかに女性の趣味にうるさかったかを物語っているともいえよう。
 そのヘンリーが死ぬと、3番目の王妃ジェーン・シーモアとのあいだで生まれた皇太子エドワードが王位につくのだが、このときエドワードはまだ10才であった。エドワード6世と改名して王位についたものの、元来の病弱さゆえに統治する能力などなく6年後には死んでしまった。
 次に王位についたのは、最初の王妃キャサリンとのあいだで生まれたメアリであった。
 メアリはチューダー王朝としては4代目の国王になるのだが、カトリックの国の王妃の娘だけあって熱烈なカトリック信者で、即位するなり熱心なカトリック教徒であるスペインのフェリペ2世と結婚までしてしまった。
メアリ1世(1516〜1558)プロテスタントに対する苛烈な迫害をおこなった。
 女王の地位につくや、メアリはイギリスを再び旧教徒の国に変えようとして、新教徒を弾圧し迫害を加えては処刑をくり返した。
 この行為はイギリス国民の神経を逆なでにした。その陰湿で残酷なやりかたは、民衆から「ブラッディ(血まみれ)メアリー」と呼ばれたほどで、民衆の人気は急降下した。今や、メアリが女王の座について以来、イギリスに暗黒時代がおとずれようとしていた。このころから民衆は次の王位継承権のあるエリザベスに期待しはじめる。
* 一時はロンドン塔送りに *
 エリザベスは熱烈な旧教徒メアリ女王の下で、何かと疑惑をもたれ生命の危機すら覚える受難時代を過ごしたが、このことが後年、彼女の統治の姿勢にいい教訓を与えることになった。
 まずエドワード6世が王位についていた時、トーマス・シーモアの陰謀に加担しているのではないかと疑がわれたことがあった。
 トーマス・シーモアは三番目の王妃ジェーン・シーモアの兄で、エリザベスと結婚することで王室にかかわりあって実権を握ろうとしていたらしい。
 結局、この時は政府が陰謀であるとみなし、シーモアは処刑されたが、エリザベスにも疑惑の目はおよび、いろいろ調べられたが、幸いにも何の証拠もあがらずにすんだ。
トーマス・シーモア
(1508〜1549)野心家で王室における実権を持とうと画策していた。
 新教徒によるワイアットの陰謀事件が起きたときも、陰謀に関与したのではないかと容疑がかけられた。捕らえられたワイアットはロンドン塔に送られたが、拷問されるとエリザベスの関与をほのめかす供述をしたのである。こうして15才のエリザベスにも容疑がかけられ、彼女は反逆者の門をくぐってロンドン塔に幽閉されることになった。いったんこの門をくぐったら最後、二度とは生きて戻った者がないといういわくつきの門だけに、このときはエリザベスも死を覚悟したに違いない。
 ところが、ワイアットは処刑される寸前、この前の自白は拷問による苦痛から逃れたいためであり、エリザベスは何の関係がないと叫んだためエリザベスの容疑は晴れ、からくも一命をとりとめることができた。
 もしもこのとき、ワイアットが前言を撤回しなければ、エリザベスは濡れ衣を着せられて陰謀に加担したとみなされ、首を斬られていたであろう。このときロンドン塔に幽閉され、処刑されるかもしれないという恐怖をあじわったことは、その後のエリザベスの人生観に大きな影響を与えたとされる。
 この当時、王族や貴族であっても、容疑をかけられて処刑されたりすることは珍しくもなく、恐ろしい罠がいたるところに仕掛けられていた。エリザベスは梨下に冠をただすような行為は、絶対避けねばならないと思ったにちがいない。何事も用心深くなくては生き残っていけないのである。
 1558年、メアリ女王が死ぬと、25才のエリザベスが次の国王として女王の座についた。若さといい、気品あふれる挙止といい、申し分がなかった。イギリス国民はこの新しく誕生した女王に期待を託した。そして彼女はそれに応えるムードを持っていた。王位につくまで経験した不幸な生い立ちを教訓にしてエリザベスは、慎重で用心深く、バランス感覚に富んだ外交をそれから40年以上続けることになる。
* 独身をつらぬく *
 独身女王としてのイメージが強いエリザベス女王だが、彼女が結婚に関心がなかったわけではない。若い頃にはフランス、スペイン、スウェーデンなどの王朝から何度も結婚の話が舞い込んできている。たが、意味ありげな返答をしたり、じらせたりしたものの一つも成立することはなかった。
 女王ともなると、結婚は彼女の意思だけで片付く問題ではなく、イギリスの運命を他国にゆだねることにもなりかねない問題なのだ。しかも相手国の宗教が違ってくるとなおさらのことである。そういうことで彼女は自分の欲望を犠牲にして、すべて破談にしてしまったのであろう。
「私は国家と結婚したのです」と口癖のように言っていた彼女の言葉がそれを物語っている。
 奔放さゆえに自在に結婚をくりかえし、最後は臣下の貴族たちに王位を剥奪され、イギリスに逃げて来たまではいいが、18年余りの監禁の末、北イングランドのフォザリンゲイ城で処刑されてしまったスコットランドの女王メアリ・スチュアートと比較すれば、彼女のとった行動がいかに懸命であったことかがわかる。
 こうしたエリザベスにも恋愛ごとでわきかえった時期があった。彼女がまだ26才の頃、ロバート・ダドリーという愛人がいたことはよく知られている事実だ。
 ダドリーは彼女と同じ年で、背が高く堂々としていて教養もあった。
 女王はよほどダドリーが気に入ったと見えて、このときは何度も忍びで部屋を訪問しているといううわさまで流れた。
 ダドリーとの交際は、国内外で話題になったほどである。しかし問題なのは、彼は独身ではなく病弱の妻がいたということだ。 ロバート・ダドリー(1533〜1588)ジェーン・グレイ事件に関与した家系だが、処刑はまぬがれ、女王の寵臣となる。
 夫婦仲はかんばしくなく子供もいないことから、もし彼女が死ねば女王はダドリーと結婚するだろうと言われていた。
 ところが、まもなくして本当にダドリーの妻が階段から転落して死ぬというハプニングが起こった。多くの人は、ダドリーが女王と結婚するために妻を事故にみせかけて殺したのだと疑った。審問の結果、妻の死因は事故であると断定されたが、もしも結婚が実行されたら反対派の貴族たちが反乱を起こしかねない状態であった。
 結局、女王はダドリーよりも国民の信頼を得る方に動いた。つまり彼との結婚は取りやめにしたのである。しかし、それ以後も彼女の関心はダドリーであったらしく、彼の恋愛に関するちょっとしたうわさ話でも聞こうものなら、たちまち嫉妬に狂ったという。このように、彼女は女王であるがゆえに、毅然としていなければならず、時としては女である自分を捨てねばならなかったのである。
* 蝋燭の炎が消え去るように *
 当初、無敵艦隊を破ったころは、勝利と繁栄のシンボルのように讃えられた彼女も、その晩年には経済的な問題にいきづまり、人気はおとろえていく一方であった。1600年前後には彼女のかつての爆発的な栄光のイメージもすっかり影をひそめ、気まぐれとわがままが目につき始め、得意の外交戦術にも切れがなくなりつつあった。
 しかもこの前後、彼女のブレーンというべき取り巻き連中が年老いて次々と死んでいったので、彼女にとっては心細いかぎりであった。しかし何と言っても、彼女の親しい友人が亡くなっていくのが一番沈痛な思いに拍車をかけたと思われる。彼女は次第にうつ的になり無口になって考え込む時間が多くなった。もっとも親しくしていた友人キャサリン・ハワード伯爵夫人の死は、彼女にとって致命的な痛手となり、その1ヶ月後、あとを追うように亡くなったという。
 エリザベスの棺は夜のうちに船に乗せられてホワイトホール宮殿に運ばれた。1603年4月28日、小雨のぱらつく中、弔いの鐘が打ち鳴らされる中、4頭立ての馬車にひかれてウェストミンスター寺院に向かった。ロンドン市民は1ヶ月のあいだ喪に服して、古き良き時代が去ったとして女王の死を心から悼んだという。そしてエリザベスの死とともに120年間つづいたチューダー王朝もそのとき幕を下ろしたのである。

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参考文献
「世界史の中の女性たち」三浦一郎 社会思想社「歴史をさわがせた女たち」永井路子 文藝春秋「教養人の世界史」中  社会思想社
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