ハトシェプスト
〜美と建築と平和を愛した女王〜
* 創造と建設を好んだ女性ファラオ *
 クレオパトラが誕生する千五百年もの昔、広大なエジプト全土を治めた偉大な女王がいた。その女王の名はハトシェプストといい、その統治は約23年間におよんだが、この間、エジプトは武力による侵略などなく、もっぱら平和的外交に終始し、創造と建設にのみ費やされていた。それは彼女の信念が平和を愛し、建設を愛したのに他ならない。言い換えれば、平和と美と創造に統治の基本を見いだしたのである。ナイル川のほとりには現在も、彼女の残した多くの神殿や建築物を目にすることができる。
 ナイル川を南に800キロほどさかのぼった西岸の断崖には、ハトシェプスト女王が建設したデイル・エル・パハリの壮麗な大葬祭殿がある。
 三層に積み重ねられた広大なテラス、それをつなぐ大通路、各テラスに用いられている巨大な石柱、どれ一つとっても、壮大で美しい建造物だ。
デイル・エル・バハリの葬祭殿。ルクソールの西岸にある。建築家センムトとハトシェプスト女王の独創性が結集した。古代エジプト唯一のテラス式神殿。
 ここを訪れる人々は、これが3500年も前に人間の手でつくられたことに大いなる感動を覚えるにちがいない。
 18世紀、この地を旅したヨーロッパ人旅行者は「こんなところにギリシアの神殿が建っている」と思って感激したという。確かに大葬祭殿の外観を見れば、有名なパルテノン神殿のイメージに近いものがある。しかし、この偉大な建築物はパルテノン神殿よりもさらに千年以上も古い歴史をもつ。
 古代エジプト史からは何人かのすぐれた女性が登場するが、その中でもハトシェプストは最も傑出した女王であった。
 ハトシェプストという彼女の名前には「最も高貴なる女性」という意味があるらしい。
 残された彼女の石像を見ても、ややふっくらして、整った顔立ち、優しそうな目が印象的で唇にはかすかな微笑さえ浮かんでいる。
ハトシェプスト女王
(在位BC1479〜BC1458)古代世界最大の女王として知られる。
 そこからは従来のファラオのように威厳的で険しいムードはなく気品に満ちあふれている。一体ハトシェプストとはどんな女王だったのだろうか?
* 建築に興味を示す *
 紀元前2千年頃、小国に分裂して興亡をくり返していたエジプトは第12王朝によって再び統一された。しかし、この王朝も末期には衰えて、再び分裂と混乱の時期がはじまった。その最中、どさくさに紛れて、西アジアから怒濤のように侵攻して来たヒクソスという異民族に長らく支配されてしまうというエジプトの暗黒時代があった。
 第18王朝は異民族ヒクソスから独立した王朝で、アフメス1世によって始められた。新王国の始まりである。その3代目トトメス1世は、二人の王子と二人の王女をもうけた。ところが二人の王子は早世してしまい、トトメス3世は王位継承をスムースにするために、側室に生ませた息子トトメスに長女を王妃として縁組みさせることにした。その長女がハトシェプストであった。
 これは紀元前1511年のことであり、このとき王はまだ12才、王妃は15才であった。つまりハトシェプストは王より3才年上で異母姉弟の関係にあたる。トトメス1世がなくなると、夫はトトメス2世として王位についた。やがて彼女は夫とのあいだに二人の王女をもうけた。結局、王子は生まれず、側室から生まれた男児に王と同じトトメスという名前を与えることになる。
 彼女は王の陰にいるだけの存在ではなく、前面に出て共同統治という形をとりはじめた。理由は王であるトトメス2世が病弱で十分にその政務を果たすことが難しくなったからだ。しかし彼女はもともと政務に興味があったようで、特に建築などの分野には大変魅力を感じていた。この時期、彼女はトトメス2世の名のもとに各地で神殿の建設をおこなっている。
 共同統治がはじまって9年目、王のトトメス2世は亡くなり、ハトシェプストは23才の若さで未亡人となってしまった。そこで彼女は、王位継承を円滑にするため、父がしたことと同じことをした。つまり彼女は長女であるネフルラを側室から生まれたトトメス3世に嫁がせたのである。
* 古代エジプト初の女性ファラオの誕生 *
 トトメス3世はまだ幼かったので、彼女は自らが摂政となり政務を行おうと考えた。
 最初のうちは、トトメス3世の名で統治を行っていたハトシェプストであったが、摂政6年目、自らをファラオと名乗り、前面に出て本格的に統治を行うことを宣言した。古代エジプト史上はじめての女性ファラオの誕生である。
 それからというもの、彼女は自らを女ホルスであると宣言し、公的な場所にあらわれるときは男用の王の衣装をまとい、ファラオ伝統の付けひげをつけて公務に望むことになる。
ホルス。エジプトの神々の中で最も偉大な神。
 彼女の統治は一言で言えば、穏健で戦争を好まずに他国との交易ルートの開発にひたすら力を注ぎ、そのかたわら巨大な記念物と数々の神殿の建設を行うというものであった。
 建設にあたっては、彼女には有能なスタッフが何人かいたが、その中でもセンムトという大臣は、数十もある官職を兼ねるほどの有能な建築家で、女王は彼に絶大な信頼を置いていたらしい。
 おそらくセンムト抜きにしては、いかなる建設事業も成り立つことはなかったであろう。このセンムトはまだ若く美男でもあったので、女王と臣下という関係を越えて、男と女の関係にまで発展する。
センムトの像
* 壮大なテラスのある神殿 *
 王位についた彼女はファラオになったら必ず着手する一大イベント、つまり自分の王墓をつくることにとりかかった。彼女は適当な候補地を何カ所かあげ、それらをふるいにかけて絞った末、最後に残った候補地の視察に出かけることにした。
 彼女が注目した場所は王家の谷の裏側、デイル・エル・バハリの湾形になった地形であった。とりわけ湾形地を囲む断崖が彼女の心をとらえていた。その断崖は70メートル以上はありそうな断崖絶壁で、そこから先は砂漠になっている場所である。船で視察に行った女王は、横にいる建築家のセンムトに言った。
「壮麗な王墓をつくりたいのです。しかも優雅に美しく。今後千年万年、神々のつかさどる神殿にふさわしい聖域にできませんか」
「陛下のご希望をお聞かせくだされば」センムトは急勾配になった断崖の斜面から目をはなさずに聞いた。
「三層のテラスのある神殿がわたしの望み。前方に広い庭があって、その上にさらに広いテラス。そして神殿。一番上のテラスの奥は岩窟神殿にしたいのです」女王は目を輝かせて言う。
「御意にござります、陛下。この断崖を利用すればさぞかし壮大な王墓がつくれましよう」センムトは大きくうなずきながら言った。
「神殿の建設はいつからかかれますか?」女王はセンムトの目を見てこうたずねる。心なしか声がはずんでいるようだ。
「ハピの到来(ナイルの氾濫がはじまる時期のこと)後がいいでしょう。それ以前は切り出しや運搬作業に支障をきたすことになりますから」そう言うとセンムトはナイルの水面をじっと見つめた。こうして大葬祭殿の建設がはじまった。工事は彼女が死ぬまで一日も休まずつづけられるのである。
 葬祭殿は主に石灰岩でつくられ、背後の岩場から切り出された。花崗岩はナイル川のさらに上流にあるアスワンから取り寄せられた。このため、ナイルから水を引き、特別の船着き場がつくられた。船がそこにつくと水門を閉じて、中の水をくみ出して水位を下げるのだ。船の甲板が地面と同じになったら、石材を運び出すのである。
 巨大な花崗岩を運搬するため、長さ30メートル、幅25メートルほどの大きな船が何艘かつくられ、それを引っ張る小型の船も多数つくられた。それを運ぶだけでも大変な大仕事で、切り出し場にいくだけでも片道4日はかかる。こぎ手だけでも千人ほどが必要であった。
 葬祭殿は出来上がったところから壁画を彫らせ、石像などを配置してゆく。
 壁画には女王の偉業の数々や生誕記録が絵巻物語風に描かれていった。
 これまでの歴代のファラオであれば、長い戦争捕虜の列やいくさのシーン、戦争での手柄話などを誇らしげに描くはずなのだが、平和を愛した女王らしく、こうした戦争絵巻はまったくどこにも見られない。
神殿の壁にはヒエログリフと呼ばれる象形文字が刻まれた。ヒエログリフは表音文字である。
 第二層の神殿の壁画には、国外への通商遠征にかんする記録が描き込まれた。そして実物として、紅海からもたらされたミルラ(樹液を焚くと香ばしい香りがする)の木がテラスに植えられたという。
 彼女は大葬祭殿のほかにも、カルナクの神殿ではエジプト最大のオベリスクを建てている。
 このオベリスクは二本が一対になっており、花崗岩製で高さ30メートル、重さは330トンもある。つまり二本合わせると660トンものとてつもない重さになる。
 この二本の花崗岩を上流のアスワンから切り出して運んでくるだけでも大変なことであったろう。一本のオベリスクを切り出すだけで7ヶ月間も要する大仕事なのである。
オベリスク。記念碑として神殿などに建てられた。表面には王の業績などが刻まれる。
 このオベリスクにはハトシェプストの治世15年を記念して、その表面には女王の業績、名前などが彫られたという。
* 平和的外交に力を注ぐ *
 ハトシェプストの偉大なもう一つの業績、それは平和的通商遠征であった。女王は地中海や紅海に大艦隊を派遣してさまざまな国との交易に力を入れた。エジプトからはパン、ビール、ぶどう酒、果物のたぐいが用意され、航海の帰りにはエジプトにない貴重な珍品が大量にもたらされたのである。
 特に力をいれたのはプント(紅海を出てインド洋に出た地域でアラビアおよびソマリア地方をさす)の国への通商で、そこからは黒檀、シナモン、象牙、乳香、ミルラ、琥珀、豹の毛皮といった珍品が大量にもたらされた。
 北方のクレタからは美しい土器類がもたらされ、シリアからはレバノンの大杉材が主としてもたらされたようだ。
 この交易の様子は大葬祭殿の第二神殿の壁画のレリーフに描かれた。
ミルラ。インド、南アラビア、東アフリカなどで産出される。
「プントの国の珍品が満載されて船荷は大変重い。ミルラの樹脂、乳香、シナモン、ソンテルの香、目の化粧品、生きたヒヒ。世がはじまって以来、このような珍品がこれほど大量に運ばれたことはどの王の時代にもなかったことだ」レリーフ像はかくのごとく生き生きと語っている。
 別なレリーフ像を見ると、プントの指導者がハトシェプスト女王の前で頭を下げて従順の意をあらわし、服従を誓い、両国の間の平和と祈りをのべているシーンがある。
ミルラの樹脂。焚くと香ばしい。日没などに聖所を清めるために焚いた。
 これを見ても彼女の偉業がいかに偉大であったかがわかるであろう。これまで歴代のファラオが武力で侵略して、他国から奪い取ってきたことを、女王は平和的に富みを得て、民を喜ばせたのである。
* 神官たちとの亀裂 *
 かくして通商遠征隊の任務は大成功のもとに終わった。しかし治世も19年目をむかえるころ、彼女にも終焉の危機がせまっていた。最初、公私ともに厚い信頼を得、時には女王自身、愛情すら受け入れたはずの寵臣センムトが彼女の逆鱗にふれたのだ。センムトは彼女の放った死客に暗殺されたのである。センムトは女王とともに、デイル・エル・バハリの葬祭殿に葬られることを許されていたはずなのに、女王はそれを禁じて他の場所に埋葬させた。それどころか、壁画に描かれたセンムトの像をすべて剥ぎ取らせたのだ。
 一体、センムトとハトシェプストとのあいだに何が起こったのだろうか? 少し前に彫らせた壁画には、女王とセンムト、彼女の娘ネフルラの三人が仲良くならんでいるレリーフすらあったのにだ。愛情のもつれなのだろうか、それとも増長したセンムトが彼女の怒りに触れる何かをしでかしたのだろうか?
 しかし、その後も不幸の連鎖は容赦なくつづく。それからまもなくして、娘の王妃ネフルラが病気で死んでしまったのである。それより先、ハトシェプストは娘のネフルラと共同統治をし、行く末には次の女性ファラオにしようと考えていたようである。その計画が進まないうちにネルフラは病死してしまったのであった。最初、トトメス3世の摂政からはじまった彼女の統治は、いつのまにかトトメス3世を陰に押しやり、娘との共同統治を画策していたことになる。このとき、幼少だったトトメス3世は20才になろうとしていた。
 ここにいたり、トトメス3世を擁護する神官たちの怒りを買ってしまったハトシェプストは表面上、トトメス3世との共同統治の宣言を出すことにした。だが、いったん入った亀裂は手の施しようがなかった。これをエジプトの内部分裂と受け取ったのか、属領では独立のチャンスとばかり、謀反や反乱があいついだ。シリアでもアジアでもヌビアでも大規模な反乱がたて続きに起こった。しかしあくまで平和主義をつらぬく彼女は大規模な軍隊の出動をひかえていた。
 こうした内憂外患に悩まされる最中、彼女は病死した。統治がはじまって23年後のことである。おそらく、愛する娘ネフルラの死が彼女の活力をも急速に奪い去ったのであろう。
* 壁画から名前を削り取られる *
 その死後、彼女に関する事跡はトトメス3世によってことごとく抹消された。ちょうど彼女がセンムトの名前を壁画や肖像から消していったように、今度は彼女が記念物に刻んだ自分の「ハトシェプスト」の名前が消されていくのである。トトメス3世からしてみれば、継母であり叔母である大変意思の強固な女王に、ずっと日陰に追いやられ、尻に敷かれ続けてきたのである。無視されて怒りを覚えるのも当然であったろう。
 いや、それとも彼女の記録を抹消したのは、ハトシェプストが女性でファラオとして君臨したことを快く思わない神官一派であったのだろうか? 今となっては詳細はわからない。
 いずれにせよ、偉大な女王の死後、ファラオとなったトトメス3世は、歴代のファラオと同様、再び強大な軍事力をつかって隣国への侵略という行為をはじめた。つまりエジプトの平和外交は23年しか続かなかったことになる。
 ハトシェプスト女王が平和主義を貫いたのに対し、トトメス3世のとった政策はまったく逆の軍国主義で180度方向転換したのである。
トトメス3世
(BC1479〜BC1425)
 彼女が摂政したときにはまだ幼かったはずのトトメス3世は、皮肉なことに、エジプトのアレクサンダー大王と称されるほど、各地に遠征に遠征を重ね、やがて北はユーフラテス、南はナパタ砂漠にまでおよぶ、総面積64万平方キロという途方もない領土まで帝国を拡張したのであった。それはハトシェプスト女王の平和主義の反動であったのだろうか?
 彼女のひきおこした影響はそれだけでは済まなかった。神官たちとのあいだに入った亀裂は、1世紀後にアマルナ革命という形になって爆発することになるからだ。
* 生前の女王の特徴を示す痕跡 *
 その後、長らくハトシェプスト女王の墓も彼女のミイラもどこにあるのかわからなかった。
 ところが2007年6月、1903年にハワード・カーターにより王家の谷の小さな墓で発見された身元不明のミイラが、実はハトシェプスト女王のミイラであったことがわかり話題騒然となった。
 別の場所で発見されたハトシェプストの名が刻まれたカノプス壺に入っていた臼歯とミイラの歯茎の穴が一致したことから、さらに詳細な調査がなされたところ、ハトシェプストの親族だけに見られる共通のDNAが認められたのである。
カノプス壷。ミイラの内臓など人体のパーツを入れるための壷。
 彼女は大柄で生前の身長は170センチほどあったと思われる。
 晩年には、さまざまな生活習慣病に悩まされていたようで、歯周炎、関節炎、糖尿病なども患っていたらしい。
 しかし直接の死因は、歯周炎による抜歯のため感染した菌が全身を蝕ばみ、敗血症を引き起こしたという見方が有力のようである。
ハトシェプスト女王の顎のレントゲン写真。歯周病で歯が抜けた跡がよく写っている。

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参考文献
「古代エジプト」ライフ人間世界史 タイムライフ「古代女王ものがたり」 酒井伝六 文藝春秋
「教養人の世界史」上  社会思想社
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