ネフェルティティ
〜太陽崇拝の中に咲いた美しい信仰の華〜
* 強大化する神官団 *
 トトメス大王の死後、エジプトは1世紀ほど久しく平和がつづいていた。しかし、最大の領土にまで広げられた帝国にも陰りがみえはじめていた。女性ファラオとして君臨したハトシェプスト女王の治世にはじまったファラオ対神官団という力の図式は、深刻なものになりつつあった。
 神官団は広大な土地と財産をもっていた。その他に、寄進という形で毎年、多額の黄金と家畜をも得ていた。そのうえ免税特権まであり、今や神官団は強力な政治集団としてファラオの権力をもおびやかす存在になりつつあったのだ。ファラオと言えど、何をするにも神官たちの考えや方針どおりに行動せねばならず、かつて絶対的な存在であったファラオの権力は、見かけだけのものとなりつつあった。
 こうした危機的状況に即位したのがわずか16才のアメンホテップ4世である。神官団に脅威をおぼえたアメンホテプ4世は、王権をクフ王時代のような強力なものに戻すため、神官団と真っ向対決の姿勢を見せはじめた。
 古代エジプト史上、異端的な教えを急進的におしすすめようとするアマルナ革命の火種が用意されようとしていたのである。 
* 異国からやって来た魅力的な王妃 *
 ある早朝のこと、アメンホテプ4世は地平線からゆらゆらと姿をあらわす太陽を王宮から拝んだ。陽が差すにつれ、王宮のすみずみまでが黄金色に輝いてゆく。木々は深い眠りから覚めて青々と生命の息吹を取り戻し、池の水面は無数の輝きを帯びキラキラと反射している。その光景を見た王の頭の中でなにかが火花を散らしたような感覚がわき起こった。次の瞬間、王は内面からほとばしる感動にうちふるえ、なにもかも世の中の仕組み一切が理解できたような気がした。
「すべての命をはぐくむ源は太陽(ラー)だ。太陽の前ではあらゆるものは取るに足らないちっぽけな存在だ。太陽こそ神にすべき存在なのだ」アメンホテプ4世は陽光のまぶしさに目を細め、思わずひとり言をつぶやいた。この時の彼の心境の変化はその後の行動力の源になってゆく。
 この頃、ネフェルティティは父王アメンホテプ3世の王妃としてエジプトにやってきた。その時、ネフェルティティは15才、アメンホテプ3世は40を過ぎていた。しかしこの結婚は形式的なもので、2年後、アメンホテプ3世は亡くなり、息子のアメンホテプ4世が王位につく。王位を引き継いだアメンホテプ4世は父の王妃であったネフェルティティを王妃として迎えた。
 ところで、ネフェルティティとは「やって来た美人」という意味があるらしい。彼女の生まれは定かでないが、この名前の由来からすれば、当時メソポタミア一帯を支配していたミタンニ王国から来た王女タドゥケパではないかという説が有力だ。当時のエジプトの宮廷には、周辺諸国から差し出された多くの王女がいた。たくさんの黄金や象牙との交換条件にミタンニ王がわが自慢の魅力あふれる美しい娘を差し出したという記述があるから、それがネフェルティティではないかと思われる。
 婚礼の日、八頭身のネフェルティティは透き通るリンネルの衣装に身をつつんで王の前にあらわれた。長い首のまわりには金色のトルクがまかれており、アーモンド型をした切れ長の目で彼女はまだ16才の若き王を見つめた。
 異国から来た美しい王妃にアメンホテプ4世の心臓ははげしく脈打ち、たちまち心は上の空になってしまった。
 手が心なしかふるえている。もっとゆったりしなければ、と思うのだが身体はスムースに動かない。王の威厳を出そうとしてあせればあせるほどうまくいかないのだ。
ネフェルティティ。古代エジプト3大美女の一人とされる伝説の王妃。
 ネフェルティティの気品ある美しさに反して、王の方はグロテスクであった。身体は病弱で、その姿は痩せていて、唇は厚く、手足は細長く、腹と胸は異常に突き出ていた。王妃の美しさに比較してあまりにもかけはなれていた容貌に気後れするのも無理のないことであったろう。
 儀式は一応なにごともなく済み、最後の方でようやくうわずった調子で声をかけることができた。
「大義であったぞ。今宵はゆっくり休むがよい」
「陛下のお心づかい、ありがたき幸せにございます。陛下とのこれからの日々はわたくしの喜びになることでありましょう」
 その日以来、アメンホテプ4世はネフェルティティを深く愛するようになる。というのも、神殿の壁画に王の名が300回ほど刻まれているだけなのに、彼女の名前はその2倍ちかく出てくるからである。
アメンホテプ4世。アマルナの革命を推進し、イクナートンに改名する。
* 宗教改革に乗り出す *
 王位についたアメンホテプ4世は、かねてからの考えを実行に移す日が来たと考えていた。これは後世でアマルナ革命と呼ばれ、古代エジプト史上、衝撃的で特異な宗教改革として記録されることになる出来事なのだ。彼は前述の体験から、太陽を神とする宗教をたちあげることで、これまでの多神教を信奉する神官団に対抗し、脆弱になってしまった王権の立て直しをはかろうと考えていた。つまり世界最古の宗教改革をはじめようとしていたのである。
 古代エジプトは古来、神が22体もいる多神教の国である。これはアメン神と呼ばれていたが、アメンホテプ4世はそれを否定し、神は太陽(ラー)で唯一の神はこれしかないと宣言したのだ。これはアテン神と呼ばれ、人類はじまっていらいの一神教であった。古代ギリシアでもゼウスを主神とする12神だし、メソポタミアでも21体の神々がいる。その他、ケルトでもインドでもアンデスでもたった一つの神というのはありえないのである。
 アメンホテプ4世のこのような考えを押し進めたのは、陰でのネフェルティティの存在が大きかったと思われる。エジプトの多神教に染まっていない外国生まれの彼女は、彼の説くアテン神をなんなく理解し、そのうち熱心な崇拝者となり、彼の精神的支えになってゆくからだ。
 アメンホテプ4世のこうした発言に当然、多神教を擁護する神官団の強烈な反発が来た。しかしアメンホテプ4世の決意は固く、真っ向から神官団と対決する姿勢をみせた。彼は着々と革命を実行に移しはじめた。自らの名をイクナートン(アテンの光輝)に改名し、さらに従来の首都をテーベから神官団の勢力のおよばぬ200キロも離れたアマルナの地に移転しようとしたのだ。
 新しい都は周到な設計のもとに建設された。設計にもとづいて建設される都市は古代エジプト史上最初のことである。
 アマルナの都は南北10キロ、東西5キロの長方形で、中央に城壁に囲まれた大神殿が建設された。イクナートンはこの新都をアケトアトン(アテン神の地平線)と名づけることにした。
アテン神を崇拝するイクナートンと王妃
 これまで従来の神殿は奥に行けば行くほど暗くなっており、その暗がりの中で神秘性をあおった神官たちが、意味ありげに呪術を行うものとされてきた。しかし新しい都のアテン神の神殿では天からさえぎるものは何もなく、太陽の光は至る所に降りそそぐのである。
 それだけにとどまらず、彼はあらゆる壁画に刻まれていた「神々」という言葉自体、徹底的に削り取らせた。彼にとって「神」はアテン神ひとつでなければならなかったのである。
* 宗教改革への決意が揺らぎ始めた王 *
 しかし、最初はあれほど強気で神官団に強硬姿勢をつらぬいていていたイクナートンであったが、統治も10年越しになると、次第に気弱になりつつあった。信仰心にも揺らぎが出て来て、このままテーベにいる神官団と対立をつづけていていいものか迷いが出始めていた。政治的な妥協も考え始めていた矢先、治世12年目に第二王女が病死するという事件が起き、イクナトンはますます気弱になってしまった。
 ネフェルティティは第二王女マケトアトンの葬儀の場で、最近、とみに気弱になっていく夫のイクナートンの後ろ姿を見て悲しくなった。我が娘を失った悲しみもさることながら、夫の気弱さに心がしめつけられそうになる。
「最初はこんな気弱な王ではなかったのに」彼女はそう思いつつも、生まれる子供たちがすべて王女であったという事実に夫が気弱になる原因がそこに隠されているのを知っていた。ネフェルティティは王との間に6人の子供を生んだが、生まれて来た子供は王女ばかりで王子は一人もいなかったのである。
 しかし皮肉なことに、6人の娘を生んだという自負だろうか、ネフェルティティはますます気丈な面を見せ始めていた。熱心にアテン神を信奉しており、テーベとの和解には烈しく反対する態度をとった。テーベとの政治的和解を考えた王は、仕方なくアテン神の熱烈な推進者であったネフェルティティを公の席上からはずことに決める。イクナートンは神官団との妥協を優先させたために、形の上で離別することにしたのである。こうして、ネフェルティティは記録には一切登場しなくなるが、彼女に変化はなかった。北の王宮の一角で住みつづけ、信仰に制限はあったものの、実生活はこれまでと何ら変わることはなかったのである。
* 神官団との関係を修復するツタンカーメン *
 ネフェルティティを遠ざけたイクナートンは20才の末弟セメンクカラを共同統治者にすることにした。そのため、第一王女のメリトアトンをセメンクカラの王妃とした。
 これは王女と結婚した者は王になる資格をもつというエジプトの法律に準じたものだ。
 セメンクカラの役割は神官団との和解である。そのため、セメンクカラはテーベの王宮に住んでアメン神のための神殿を建てたり、これまでいがみ合って壊れた神官団との感情の修復に努めることとなった。
第一王女メリトアトン
 イクナートン自らも3女の娘アンケセンパートンを王妃にすることにした。アンケセンパートンはこのときまだ10才であった。これも夫婦関係などなく形式的なものであった。しかし、一年も経たないうちにセメンクカラは死んだ。神官団の陰謀の犠牲にされ暗殺されたのである。王妃メリトアトンはそのままテーベで暮らし、ふたたびアマルナの地には戻って来ることはなかった。彼女はこのまま歴史の表舞台から消えることになる。そしてまもなくイクナートンも病気になり32才の生涯を終えるのだ。BC1353年のことだ。
 イクナートンが死ぬと、神官団の力は急速に息を吹き返していった。王位継承問題が起こったが、未亡人になったアンケセンパートンが夫を迎えることにより、この問題に片がついた。その夫とはツタンカートンである。王位についたツタンカートンに、これ以上の宗教改革を押し進める熱意も勇気もなかった。
 彼はもとの多神教にもどすことを決意し、王妃と自らの名前もそれに準じた名前に変えることにした。つまり、ツタンカーメンとアンケセナーメンにである。都はもとのテーベにもどされた。アマルナの都アケンテンは朽ち果てるにまかせ、記録は歴史の闇に葬り去られた。こうしてアマルナ革命はほんのわずか20年ほどの短い期間でその幕を閉じてしまったのである。
 都がテーベにもどっても、ネフェルティティはアマルナの地にとどまりつづけたらしい。数年後、ネフェルティティは死んだ。暗殺されたとも考えられるが、詳細はわからない。恐らく37才前後であったろう。ネフェルティティの墓とミイラは今なお発見されてはいない。
* ネフェルティティの胸像にまつわる逸話 *

 ここで有名なネフェルティティの彫像に関する逸話をひとつ。1912年12月6日のこと、ドイツの考古学チームは発掘中、ナイル河畔のアマルナの廃墟跡で目の覚めるような美しい胸像を掘り当てた。掘り出されたときは、誰もがこれが現実とは思えぬような感覚を覚えたらしい。しかし次の瞬間、これをどうにかして祖国に持ち帰ることができないものかと考えた。
 エジプトの法律では、出土した価値ある美術品は許可なしに国外に持ち出せない決まりになっていた。そこで許可を得るために、ぼろ布にくるんで、箱の一番底に寝かし、その回りを土器のかけらやくさび形文字が彫られた粘度板を詰め込むことにした。どう見てもそれらは一見、気にもとめるような代物には見えなかった。まさか奥に価値ある美術品が入っているとは思っていない役人は、中まで検閲することなく簡単にパスさせてしまった。事実その胸像はツタンカーメンの黄金マスクと比べても見劣りしないほどの価値をもつ最高の美術品なのであった。
 第一次大戦も終わって数年後、ネフェルティティの肖像はベルリン美術館に展示された。
 それを知ったエジプト政府は不法持ち出しだと猛烈に非難し、その後たびたび返還要求が出したが、ドイツは応じなかった。
 そこでエジプト政府は、しぶしぶファラオの頭部像2体との交換を申し出て来た。しかしその願いも聞き入れられなかった。
ネフェルティティの胸像。アマルナ芸術の最高傑作。高さ47cm、重さ約20kgほどで、石灰岩を芯として彩色されている。
「一人の王妃は二人の王よりも価値がある」そのとき当時の新聞はトップ記事でこう書きたてた。
 今もこのネフェルティティの肖像はベルリン美術館にとって最高の集客力をもつ至宝的存在である。今なお、エジプトとドイツのあいだで所有権をめぐって苛烈な裁判がつづいているが未だに決着はつかないでいる。2つの国の政府をここまで振り回すネフェルティティの魅力は、死後3500年経ってもいささかも色あせないということだろうか。

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参考文献
「古代エジプト」ライフ人間世界史 タイムライフ「古代女王ものがたり」 酒井伝六 文藝春秋
「世界史の中の女性たち」三浦一郎 社会思想社「教養人の世界史」上  社会思想社
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