ビルキス
 
〜知恵を求めて旅した砂漠の魅惑的な女王〜
* 永遠の都エルサレムへ! *
 見わたすかぎり砂の海がどこまでもつらなっていた。女王の一行は、もう幾日も幾日も死と渇きのみが支配する砂漠を旅していた。シバ王国を出発して89日目の朝、ついに遠くに城壁らしきものが見えた。
 あれこそ、うわさに聞く永遠のエルサレムなのか? 偉大なる世界の王ソロモンが治めるという黄金の都なのか? かすかに見えた城壁らしきシルエットは、次第に大きくなりはっきりしてきた。近づくにつれて、それはとてつもない石の城壁の姿となった。見上げるばかりの城壁だ。巨大な鐘楼が等間隔でならんでいる。
 女王として即位して早5年。知恵をもとめてやってきた私の長旅はようやく終わろうとしている。目前に迫った巨大な城壁に目をやりながら、彼女はこれまでの出来事を心の中で反すうしていた。
* シバの女王 *
 彼女は、まだ小さいうちから非凡な才能を示していた。そのうえすぐれた容姿は、子供ながらも宮廷で目立つ存在であった。アラバスタのごとき白い肌、青みがかった硬玉色の目、火龍のごときブロンドの豊かな髪、それらがしなやかな体躯とほっそりとした手足に見事に調和していた。かくのごとく彼女の美しい容姿は遠くからでも人目を引かぬことはなかった。
 しかし宮中では、権力を手中にしようという欲に目のくらんだ陰謀が渦巻いていた。誰もが豊かなシバ王国を支配したいと考えていたのだ。彼女の4人の異母兄弟たちは宮中の陰謀ですべて殺された。ある者は毒殺で、ある者は刺客によって。しかし彼女だけは、賢明な母親の計らいで、宮廷から離れた離宮で育てられたために、陰謀に巻き込まれなくてすんだのである。かくして唯一生き残りとなった彼女に王位継承者の道が開かれた。
 やがて、女王となった彼女は「ビルキス」という名前を命名されることになった。これはシバの言葉で「おてんば」という意味がある。シバでは誕生直後には名前はなく、幼年になってその性格に似あった名前が命名されるしきたりがあった。ビルキス、つまり「おてんば」とは王女としてふさわしくないかもしれないが、廷臣の誰もがそれ以上の適切な名前を思いつかなかったらしい。それほどまでに彼女の性格は、男勝りで明朗にして快活、そして利発で敏捷な性質を持っていたのである。
 わずか18才で女王として即位した彼女は、さまざまな分野に意欲的に取り組んだ。高さ20メートル、長さ200メートルを超す巨大ダムの建設をはじめ、17の宮殿や神殿を建てるなど、建設事業にも意欲的だった。その最大のものは王都の神殿で周囲300メートルの楕円形をしており、高さ9メートル、幅4メートルの城壁で囲まれた壮麗なものであった。彼女の建設したダムのおかげで治水が整備され農業が飛躍的に発展した。さまざまな香料の生木が植えられ、乳香、没薬(もつやく)、カシア、シナモン、レダンなどの香料が大量に採取されるようになった。彼女の統治下のもと、シバは「香料の国」の名声を欲しいままにするようになり、その名声はオリエント全域にもおよんだという。かくしてシバ王国は女王のすぐれた知恵にもうらづけされて、香料と神殿に代表される栄華の時代を進みつつあった。
* ソロモン王へのあこがれ *
 この頃、彼女の心をひきつけて止まないことがあった。それは砂漠のはるか北方にある黄金の都エルサレムの存在である。その都こそ世界中の富が集められたと言われるほど壮大にして華麗で世界の中心とまで言われた黄金の都である。そして、その都に君臨するソロモン王はなみはずれた知恵の持ち主であるという。エルサレムの輝ける壮麗さ、知者としてのソロモン王のうわさは王都に出入りする隊商たちからひっきりなしにもたらされていた。ソロモン王への特別な感情は彼女の競争心をかきたてた。それは同じく知者として知られ、栄華と繁栄の絶頂期にあるシバ王国に君臨する誇り高い女王としてのライバル意識からくるものであったろう。
 こうして彼女の胸の内でソロモン王へのあこがれや競争心が高まっていった結果、いつしか真実の知恵をもとめようとする衝動へと変化していったのである。かくして、エルサレムへの女王の旅は行われることになった。おびただしいラクダと馬が集められ、隊列はとてつもなく巨大なものになった。
 先頭をゆく護衛大隊、廷臣たちの乗ったきらびやかな一隊が無数の奴隷たちを従えて進む。それに500頭のラクダがつづく。それらには彼女の衣類、化粧道具、調度品からありとあらゆるものが積まれていた。
 大好きな10匹のアビシニアンもお供のうちだ。そして猫たちの食料となる黒金魚を生かしたままの水がめが20個、象牙の浴盤、そして毎夜、女王が入浴するさいの乳を供給するための20頭の牝馬もその列に含まれた。その後には300頭のラクダがつづくのだが、それらにはソロモン王への贈り物が満載されていた。その贈り物にしても空前絶後と呼ばれるほどの量があり、乳香をはじめ、ありとあらゆる香料、黄金120タラント(約2.5トン)、象牙、メノウ、琥珀、ダイヤモンド、エメラルド、ルビーなどのまばゆい宝石類の山がその内訳である。
 隊列はある夕刻、王宮を出発したが、三日三晩ひっきりなしに都を出発するほどの長いものであったという。
 シバからエルサレムまでのコースは、紅海のそばを北上する陸路が取られた。それは全長で2千5百キロにもおよんだ。隊列の一日に進む距離が30キロ程度として約2か月、その上、道中の友好都市の表敬訪問を受けなくてはならず、すべて含めていくと、エルサレムまで約3か月はかかることになる長旅であった。
* 息づまる謎かけのとき *
 やがて城門がゆっくりと開かれようとしていた。
「女王さま!いよいよでございます」衛兵隊長の言葉に女王は、現実にひきもどされた。いよいよ、シバの女王として世界のソロモン王に相まみえることになるのだ。全身から旅の疲れと、緊張感がどっと襲ってくる。
 エルサレム到着三日目の夜、いよいよ、女王はソロモン王と謁見の許される時が来た。水晶や琥珀のちりばめられた帳を開けると、そこは大広間になっていた。衛兵がずらりとならんでいる。
 中央に十数段の階段があり、その周囲には何百という王女、側室たちがとりまいていた。格段の両脇には、精悍なワシやライオン、サイなどの鳥や獣を形取った像が配されている。ソロモン王は、その最上段に象牙と黄金できた見事な王座に座っているのだった。王の背後には、まばゆいばかりの羽を広げた黄金の孔雀の像が置かれていた。
 初めて見るソロモン王は、精悍な髭をたくわえ、微笑みをたたえたような口元に世界の王としての威厳が感じられる。女王はお供の家来とともに檀上まで歩み出た。やがて家来たちはひざまずいた。ここからは女王のみが檀上に進むことを許されるのだ。恐ろしいまでの静寂の中をゆっくりと上りつめてゆく。女王の歩む衣ずれの音だけが響きわたる。階段の踊り場で女王は止まった。ここからソロモン王までの距離は10メートル足らず。女王はソロモン王に軽く会釈をした。
「遠路はるばる砂漠での長旅、大義であったぞ」
ソロモン王のよく通る低音の声がこだました。
「砂漠での長旅は馴れぬとは言え、私どもは不安と孤独の連続でございました。しかし今こうして、偉大な陛下のお言葉を頂戴してその疲れもたちまちとれてしまいました」女王はソロモンに顔を向けると美しい張りのある声で返答した。
「うむ、そうか・・・」
ソロモンはあごの髭に手をやると、目を細めて含み笑いをした。周囲の側室たちのクスクス笑いがかすかに聞こえて来る。
「して、そなたたちは我がエルサレムとの交易に何を望んでいるのかな?」
「シバは香料が豊富な国です。乳香、没薬、せんだん、あらゆる香料が産出されます。お持ちいたしましたそれらの品々はすべて陛下にお納めいたしましょう。私どもが希望するのはエルサレムとの自由交易です。そして・・・」
女王はそこで少し首をかしげるようなそぶりを見せた。
「実は・・・陛下は民衆の裁きから、文芸、思想、宗教にとどまらず、ありとあらゆる部門まで、その知恵をいかんなく発揮され、その驚くべき陛下の知恵にイスラエルの民人は、悟りの言葉の意味を知り、賢い行いと正義と公正さの大切さをあまねく享受しているという噂を耳にしております。私どもは、陛下の知恵をお慕い申し上げておりますところ、何卒、陛下の素晴らしい知力にあやかりたいと考えているのです」
「うむ、なるほど・・・わかった。では、何なりと申してみるがよい」ソロモンは真剣なまなざしで言う。それは女王がこれから何をしようと考えているのか、すべて見抜いているような口調であった。
 この瞬間、女王はソロモン王に謎かけをゆるされたのである。周囲は固唾を飲んで恐ろしいほどの静寂を守っている。彼女は大きく深呼吸をすると、これまで考えていた謎をソロモン王にかけた。宮廷内に女王の張りのある声がひびきわたった。
「この地上に小さいけれど賢いものが4つあると言います。それは・・・」

「まず、蟻があげられる。蟻は力こそないが夏のうちに食料をたくわえる。次に岩だぬきがあげられる。彼らは小さくて弱い生き物だが、頑強な岩の中に巣をつくるそうだ。そしてイナゴだ。イナゴは先導する者がいなくとも、大群をなして自由自在に移動する。次にヤモリがあげられよう。ヤモリは非力ですぐに捕まえられるが、王宮のどこにも生息しているではないか」
 女王の問いにソロモン王はたちどころにこう答える。女王はにっこり微笑むと次にこう問いかけた。

「人の道義に耐えられない4つのことがらがあると言います。それは・・・」
「奴隷たる者が王となることだ。また愚かなる者が毎夜飽食をくりかえすこと。忌み嫌われた女が嫁に行くこともそうだ。下女が女主人の後釜にすわることもそうであろう」
女王はなるほどと言うふうにうなずきながら、最後の謎としてもう一度挑むことにした。
「ある女が息子にこう言います。お前の父は、私の父、お前の祖父は私の父です。お前は私の息子で、私はお前の姉です・・・」
「それは、ロトと二人の娘であろう」
最後の質問など、ソロモンは彼女がまだ言い終えるか終えないうちに答えてしまったのであった。
「なかなかの面白い謎かけであった。今宵はそなたたちを歓迎して山海の珍味を用意させておる。宮殿で厚いもてなしを受けるがよい」こうして、すべての質問にことごとく、淀みなく答えたソロモンは何事もなかったように、微笑みながら王座を下りて来ると、女王のもとに近づき、彼女の手を取ってねぎらいの言葉をかけたのであった。
 その瞬間、ドッと安堵のようなざわめきが起こり、あれほど張り詰めていた静けさはたちまち馴染みのある雰囲気に一変してしまった。そうして、差し出されたソロモンの手を取って女王が心なしか頬を赤らめると、何百人もの王妃や側室たちからクスクスと押し殺したような含み笑いが漏れたのであった。
* 知恵をもとめた女王 *
 かくして、シバの女王は、あらためてソロモンの持つ知恵の偉大な力に圧倒され、その名声がただの噂でなく真実であったことを思い知ったのであった。同時に、張り詰めていた気負いも無くなった女王は、ソロモン王のすぐれた知力と聡明さを賛辞して、イスラエル王国の前途を祝福する言葉とともに、持参して来た山のような財宝を献上したという。
 一方、ソロモンの方もシバの女王に、受け取ったものと等しい品々を贈り、女王の願い事のすべてを叶えてやった。こうして2週間の滞在の後、女王とその一行は、再び祖国に向って長い帰路に着いたのであった。今から3千年も前に、世界の偉大な王ソロモンと砂漠から来た魅惑的な女王が相見え、行き詰まる雰囲気の中で、神秘に満ちた謎かけが行われたのである。それはほんの数分程度のみじかい出来事であったかもしれないが、長い歴史の中でも、永遠に色あせることのない、きらめく一瞬の出来事であったことだろう。
 その後もビルキス女王のもとシバの王国は繁栄した。アラビア半島の他の国々が栄枯盛衰を繰り返す中、ビルキス亡き後もシバだけは繁栄をつづけたという。ビルキスの最期はわかっていない。しかし、知恵をもとめて延々二千五百キロを旅し、ソロモン王に相まみえた出来事は人々の感動を呼び、その話は一千年後の旧約聖書にも記されている。

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参考文献 「古代女王ものがたり」酒井傳六 文藝春秋
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