ジェーン・グレイ
〜わずか9日間で散った16歳の女王〜
* 残酷な絵 *
「姫様、お手をお取りくださいませ。どうかお見苦しなきよう」
司祭に手を取られながらゆっくりひざまずき、両手を広げて手探りで何かを探し出そうとする。細くて長い白い十本の指がびくびくうねってまるで何かを求めるかのように。
 何かを・・・それはこれからたたき斬られることになる自分の首をのせるための木製の断頭台をである。「おお、神様!」「なんてひどい!」目を押さえて号泣する侍女。その後ろ姿は悲しみでもだえ激しく波打っている。
「もうすぐ天国に行けるのね」「ええ、そうです。そうですとも。もうすぐです。ちっとも痛くも苦しくもございません。もうすぐ、ギルフォード様にお会いできるのです」
 ロンドンのトラファルガー広場には、「レディ・ジェーン・グレイの処刑」と題された大きな絵画が展示されている。強烈な印象を与えるこの絵は、ジェーン・グレイの処刑の様子を生々しく描き出している。
 二月の凍るような寒いその日、斬首しやすいように首筋の広がった純白のサテンのドレスに身を包み目隠しをされたジェーンが、華奢な手を伸ばし、これから自分の首を切り落とすために使われる断頭台を探している。床には血を吸うためのわらが一面に敷きつめられ、司祭が彼女の手をとって断頭台へ導こうとしている。すぐそばでは侍女たちが壁や柱にすがって泣き崩れている。右側には斧を持った死刑執行人が失敗せぬように一振りで終わらせようと自らを落ち着かせようと深呼吸している。
 ジェーンに着せられた罪名は国家に立てついた反逆罪だ。しかし事実は、権力闘争と宗教対立という時代の荒波に翻弄され、女王にまつりあげられただけのことであった。何も知らないジェーンは、大人たちに利用されただけに過ぎなかった。このとき彼女はわずか16歳と4か月。王位について、わずか9日後にその座から引きずり下ろされ、反逆者の汚名を着せられたのである。
* ジェーンの生きた時代 *
 1537年、ジェーンは、グレイ家の長女として生まれた。ジェーンには妹が二人いた。3歳下に次女キャサリン、8歳下に三女のメアリーである。
 折しもジェーンの生まれた1537年は、イギリス国教会(プロテスタント)が創立されて3年目にあたり、国内は新旧両派に分かれて権力闘争をくりかえしておりひじょうに不安定な状態にあった。
 というのも、もともとイギリス国教会が誕生するきっかけになったのも、国王だったヘンリー8世が女官のアン・ブーリンと恋仲となり、スペインの王女であったキャサリンと離婚ができないことを不満に思ったゆえでの苦肉の策であった。ヘンリー8世からすれば離婚が承諾されないのなら、ローマ教会(カソリック)と決裂し、自らトップとなって新しい教派を創立した方が、自分の言い分が通ることにもなり得策と考えたのである。
 このとき、聖職者の腐敗が深刻化し、ルターが95か条の論題を突きつけカソリック教会を糾弾したことに端を発し、ヨーロッパには宗教改革の嵐が吹き荒れていた。しかしイギリスでは、このようにもっぱら国王自身の都合だけから始まったものであったので、創立にあたり教義や思想にしっかりとした理念というものがあるわけでもなかった。こういうことであったので、両派の言い分がご都合主義的にころころと変化していくのも仕方がなかったといえよう。これ以後のイギリスは新旧のキリスト教が入り混じった醜い権力争いが展開されていくことになる。
 ジェーンの生まれたグレイ家はもともと王家にもっとも血縁の近い一族として知られていた。 母フランセスはヘンリー8世の妹メアリーの娘にあたり、父ヘンリー・グレイはヘンリー8世の異父兄にあたっていたのである。つまり両親とも王族に深い繋がりがあった。この意味からグレイ家は将来、権力争いに巻き込まれる要素を十二分にはらんでいたといえるだろう。
* ジェーンの育った環境 *
 長女のジェーンは幼いころから、両親の厳格な教育の下で育てられた。食事から日常会話の細々したことまで、両親のきびしい監視の目が向けられていた。四六時中、少しも心のうちとける瞬間などなかったのである。
 そんなジェーンにも密かな楽しみがあった。それは母や侍女たちの目を盗んでは塔にある狭い一室に閉じこもることである。その狭い部屋にはギリシア語やラテン語で書かれた古ぼけた書物がたくさんあった。そんな中から、面白そうな一冊を取り出して読むのである。まさに塔の小部屋は彼女にとって宝箱のようであった。
 とりだされた本にはいろんなことが書かれていた。見たこともないような海外のエキゾチックなできごと、古代ギリシアの叙事詩、海の彼方の不思議な慣習。たちまちジェーンはそうした内容に魅了されていった。本の世界に没頭する瞬間こそ、ジェーンにとって好奇心と至福にみちた時間なのであった。
 ここレスターシャー地方はイギリス中部に位置し、チャーンウッドの森がどこまでもつづいている場所でもある。
 この広大な森林は王侯貴族が狩猟園とする場所として知られているが、ジェーン・グレイの生家であったブラッドゲートの邸宅はこのなだらかな斜面上にあった。
 赤レンガづくりのその建物は広大な敷地内にたたずんでおり、規模はヘンリー8世のハンプトン宮殿に次ぐほどであった。邸宅のひときわ高い塔からは、夏には新緑にみちあふれたチャーンウッドの森がどこまでも広がっているのが見渡せたろう。
 ジェーン9歳の頃のある夏の昼下がり。窓辺に腰掛け、小鳥のさえずりを聞きながら、ひたすら空想の世界にふける少女の姿がそこにあった。
 読書のあいまあいまに、遠くに目をやり、眼下に広がる緑の木立を眺めたりする。
 そんなとき、ときおり森の切れ目から鹿の群れが猛然とかけ出してきたり、野ウサギが一匹ものすごい勢いで転がるように飛び出して来たりする。
「ピー、ピー」かすかに鳥の鳴き声がする。身をのりだして目を細めて見上げると、かすかに青い空に溶け込むように鷹が一羽ゆっくりと円を描いて舞っているのが見えた。
「気持ちよさそう。元気でね!」
ジェーンはにっこり笑うと、思わず身を乗り出して手を振るのであった。
 いつも一人孤独の中に自分だけの楽しみを見出していたジェーン、天空高く飛ぶ一羽の鷹にそんな自分を重ね合わせたのかもしれない。
 そんな夏は生命あふれる深緑の風景も、冬になるとレスターシャー地方は一変した。どこまでも変哲のない灰色の空が切れ目なくつづき、粉雪が舞い、恐ろしく冷たい風が吹きすさぶだけの殺風景な景色に一変するのだ。
 窓ガラスなどない時代であったので、一日のほとんどは分厚い板戸で閉められており、昼間でも室内はうす暗い。
 わずかに開けられた部分から光が差し込んでくるだけで、ときおり音を立てて冷たいすきま風が吹き込んでくるのだが、その都度暖炉の炎がバタバタとなびくように揺れ動いている。
 そんな寒い日もジェーンは塔の小部屋に籠って読書をする。
 うす暗い一室でときおり手のひらに、息をハアハアと吐きかけて両手をこすり合わせたりしては読書に没頭するのである。それははた目で見ると、退屈な時間に思われたことだろう。
 ジェーンの家庭教師だったロジャー・アスカムが、彼女についてこんな記述を残している。両親は側近を従えて鹿狩りに出かけていたときのこと、ジェーンがひとりでプラトンの本をギリシャ語で読んでいた。
「本を読むより外に出て馬に乗って思いっきり駆け巡りたくないですか?」と尋ねたのだ。すると彼女はこう答えたという。
「私には読書がすべてなのです。読書しているときこそ心がはばたくときなのです。それ以外に私に自由などありません。両親の前では何でも上手にこなせないと怒られるし、ぶたれたり、残酷な言葉でののしられたりして心が傷つくのが怖いのです」
 このように、塔の一室に籠って読書にふけることは、ジェーンにとって真の自分を見出せる最高の時間であったのだ。空想の翼で自由にはばたける本の世界に、彼女は真の自由を見出したのかもしれなかった。
* 少年王エドワード6世の死 *
 1547年ヘンリー8世が死ぬと、たった1人の男児であったエドワード6世が王位を継ぐことになった。
 しかしこのときエドワード6世はわずか9才。しかも病弱で肺病持ちだった。
 自分の死後のことが気がかりだったヘンリー8世は、幼少の王が権臣たちにうまく操られてしまうことを怖れ、成人するまでの統治は枢密院が行い、すべての決定は枢密院の顧問官の過半数で決めねばならないなどの遺言を残していた。
エドワード6世(1537~1553)
 しかし枢密院はヘンリー8世の死後、この決まり事を守ろうとはしなかった。エドワード6世は顔色が悪く、常に微熱があり咳をし出すととまらぬことさえあった。一説によれば、先天性の梅毒だったともいわれている。
 ジョン・ダドリーは、エドワード6世に教育を行う担当だったのだが、王の亡き後の権力掌握を画策するようになる。
 このとき枢密院議長にもなり最高の地位にのぼり詰めていたダドリーは、病床に伏せりがちだったエドワード6世をすでに見限っていたのであろう。  
ジョン・ダドリー(ノーサンバランド公爵)(1502〜1553)
少年王の死期が間近いと見た彼は、自らが国家のかじ取りを思いのまま操りたいと望むようになったのだ。
  本来ならエドワードが死亡した場合、王位継承順位は腹違いの二人の姉メアリー、エリザベスの順番となり、ジェーン・グレイには回って来ない。しかしプロテスタントだったジョン・ダドリーは、長女のメアリーが王位を継承すると、イギリスはふたたび旧教国に戻ってしまい、自分たちに都合が悪くなる。それどころかこれまで新教徒よりの政策をしていただけに首を刎ねられかねない。それよりは、エドワードと同じプロテスタントのジェーンにどうにかして王位が引き継ぎができないものかと考えたのだ。
 プロテスタントであったエドワード王もカソリック教徒のメアリーに王位をゆずることを懸念していた。何度もメアリーにカソリックの信仰を放棄するよう促したらしいのだが、姉といっても20歳以上もちがうメアリーはおいそれと聞く耳を持たない。そんなメアリーに少年王が好意を持つはずもなく、一方メアリーのほうでも同じで、症状が一段と悪化したときですらエドワード王を見舞いに来ることはほとんどなかったという。
 こうした関係をダドリーはいち早く見抜いていたのであろう。次期の王位継承権はエドワードを説得させることで、どうにでもなると考えたのである。そして、それを見越してか数週間前には、自分の息子ギルフォードと、エドワード6世の従妹にあたるジェーン・グレイを結婚させていた。もしジェーン・グレイが王位を引く次ぐことになれば、ギルフォードの父親でもあるダドリーとしては裏で自在に権力を操ることができるのである。
 ダドリーは病床に伏せるエドワードになだめすかせるように迫った。
「陛下、御父上が創立なさった国教会はようやく歩み出したばかりでございます。今ここでメアリー様が国主になられれば、我が国はふたたび旧教国へ後もどりし、暗黒の道を歩み出しかねません。御父上様が没収された所領も修道院に返還され、新教徒には弾圧の手が加わるでしょう」ダドリーは身振り手振りをまじえて分かりやすく説明する。
「では、ブリテンをプロテスタントの国にとどめおくにはどうすればいいのか?」苦しい息のもと少年王は質問する。
「ジェーン様は御父上の先代ヘンリー7世のいとこにあたり、陛下とは従妹の関係でございます。新教徒のジェーン様が国主となられればブリテンの今後も安泰になるかと存じます」ダドリーの必死の説得に少年王のエドワードはうなづいた。
「分かった。以後の取り決めは枢密院の決定にまかせることにする」
 かくして、エドワード6世はダドリーの要求を了承し、その後、まもなく容態が悪化した少年王はそのまま15才で不帰の人になってしまった。1553年7月6日早朝のことである。ダドリーはエドワード6世の遺言書を作成すると、新女王の即位を知らせるために、枢密院の主だった貴族たちに通達を出し、ジェーンには使いの馬を走らせた。
* イギリス初の女王として *
 エドワード6世が死んで3日後の7月9日、ジェーンは急きょ呼び出されて、ダドリーの邸宅へ向かった。馬車から降りてみると、屋敷の周辺はシーンとして静まり返っており、それは嵐の前の静けさにも似ていた。
 果たして何があるのだろう? そう思ってジェーンは恐る恐る屋敷の中に入ってゆく。大広間にはダドリーの親戚一同、ジェーンの両親、それに枢密院の主要な地位にある貴族の顔ぶれなども見えた。なにがなんだかわからぬまま室内へ歩もうとすると、人々が一斉にジェーンの方に向き直り、深々とお辞儀をするのが見えた。ダドリーが数歩前に歩み出ると書簡のようなものを広げてうやうやしく読み上げた。
「エドワード国王陛下が崩御されました。陛下はご崩御前に、ジェーン様をチューダー王家4代目の王位継承者にご指名なさいました」
 あまりに突飛な内容にジェーンは、何のことかすぐには理解できなかった。自分が次期王位継承者? 偉大なるチューダー王朝ヘンリー叔父の後を継ぐのが自分だというのであろうか? どうして、後を継ぐのは私ではなくてメアリー叔母ではなかったの? 
「次期女王はメアリー様ではなかったのですか?」質問しようとするが、声がうわずってうまくしゃべることが出来ない。ダドリーは淡々と続ける。
「陛下はメアリー様によってプロテスタントへの迫害が起き、国が混迷におちいるのを案じられておりました。また、ローマ教会との関係が破門となったので、枢密院としてはメアリー様とエリザベス様のお母上とヘンリー8世陛下のご婚姻は無効という判定が下されております。お二人は私生児として廃嫡されたお身の上でございます」
 よろよろと後ずさりするジェーン、思わず両手で目を押さえるが、呼吸が乱れ、フラフラで倒れそうになる。夫のギルフォードが駆け寄ってきた。
「気をしっかり持って。さあ、ジェーン、今こそ亡き陛下のご遺志を継ぐときですよ」彼はジェーンの手を取りながら優しく励ました。
「そうですとも。新しいイギリス女王、ジェーン陛下に栄光あれ!」ジェーンの父や他の貴族たちも口々にまくしたてる。
やがて「女王陛下、万歳! 女王陛下、万歳!」という歓呼の声が大広間に何度も響き渡った。
 しかしそうした大歓声の中にあっても、ジェーンには何の感激も起きなかった。ただ、わけのわからないプレッシャーに自分が押しつぶされてしまいそうになるのを必死で堪えることしかなかったのである。これから私はどうなるのだろう。漠然とした不安だけが次から次へと湧き上がってくる。
 ジェーンは狡猾な大人たちの権力争いのために、操り人形のごとく利用されただけのことだったが、この当時の王族の子女たるものの習わしとして、自らの意見を自由に述べることなど許されてはいなかった。彼女らは権力を増長させるたための政略結婚につかわれる駒に過ぎなかったのだ。ましてや両親への絶対服従を強いられ、新教徒としての献身を幼いうちからたたき込まれてきたジェーンが陰謀の波にどうして逆らうことができたであろうか。
* 反逆者の汚名を着せられて *
 ジェーン新女王即位の宣言がなされた翌日、さっそくこれに反発したメアリーを指示する貴族が同士を集めて挙兵した。数日後にはメアリー自身も即位を宣言する。ここにいたり、王位継承をめぐって二人の女王が名乗りを上げるという異常事態に発展した。
 当初、ダドリーとしては枢密院の指示のもと、ジェーンは女王として受け入れられすんなりと事が運ぶ予定であった。しかし予想に反して多くの貴族がメアリーのもとに集まっていく。とりわけプロテスタント色が強いはずの南東部でもメアリーを指示するという声が多かった。このことはダドリーにとってショック以外のなにものでもなく計算外であった。おそらく人々の間でも、王位継承順位では、メアリー、エリザベスという順になるが、それをいきなり二つも飛ばして王位継承はないだろうという後ろめたさがあったのであろうか。
 ダドリーはメアリーの軍隊を鎮圧すべくロンドンを出陣したが、兵士の士気は低く、脱走があいつぎ、伝令の兵士は行ったっきり帰ってこないありさまで、もはや命令系統も満足に伝わらない状態である。脱走兵が相次ぎ、戦闘できる状態ではなくこれでは烏合の衆である。何度かのこぜりあいはあったが、あっけなく惨敗してしまった。しかもこの間、ジェーン擁立を支持し様子見を決め込んでいた枢密顧問官たちも情勢が不利と見ると、続々とメアリー側に寝返ってしまった。ここにいたり戦況を絶望視したダドリーはメアリー女王の即位を認めざるを得なくなり、二週間後にはメアリー軍に投降することになった。
 投降後、ダドリーは大逆罪の容疑で裁判にかけられることになった。
 彼はカトリックに改宗する誓いを立てるなどして助命を嘆願したが認められず、一か月後にはロンドン塔の刑場において大逆罪により処刑されてしまった。
ダドリーの処刑の様子。ロンドン塔の外で公開処刑が行われた。
 メアリーは最初、若い国王夫妻ジェーンとギルフォードについては処刑する気はなかった。しかし彼らの幽閉中、メアリーとスペイン皇太子フェリペの結婚に反対する新教徒たちの乱が起こると、その首謀者の中にジェーンの父親も含まれていたことが判明した。このことから、このままジェーンとギルフォードを生かせておいたら、彼らを旗印にして、再びこのような乱が起こりかねないと危惧した枢密院はメアリーに二人を国家反逆罪として処刑することをうながしたのだ。父の浅はかな行為が、娘の運命まで決定づけてしまったということであろうか。
 メアリーはジェーンに対し、カソリックへ改宗するならば助命しようと通達を出した。しかしジェーンは改宗することを頑なに拒んだ。幼いころからプロテスタントの教義になれ親したしんできたジェーンにとって改宗は自分自身の存在をも否定することにつながりかねないからだ。仕方なくメアリーはジェーンとギルフォードの処刑執行に同意することになる。
* わずか9日間の悲劇の女王 *
 1554年2月12日、その日はときおり切り裂くような風が吹き込み、灰色の空からはたえまなく粉雪が舞う寒い日で、若い国王夫妻の処刑がおこなわれる日でもあった。
 まだ19歳だったギルフォードは、その前夜、妻ジェーンの面会を申し出たのだが、ジェーンは悲しみが増すだけだと言って会うことを拒んだという。ギルフォードの処刑は処刑執行人の一振りで絶命し無事にとどこおりなく終わっていた。
 外の群衆のざわめきにジェーンは思わず塔の窓の側に歩み寄った。
「コトコトコト」・・・一台の荷車が音をたてながら何かを運んでいく。荷台に血まみれで首のない亡骸が乗せられているのが目に飛び込んできた。荷車は礼拝堂の方に運ばれていくようだ。
「ギルフォード!ギルフォード!」夫の変わり果てた遺体を見たジェーンは思わず声をあげた。涙ながらに叫ぶその声は、心の底からふりしぼるような響きであった。ジェーンの声を聞いた侍女たちは目頭を抑えてその場に崩れるようにうずくまった。それから1時間後、今度は衛兵がジェーンの部屋に祭祀をともなっておとづれた。いよいよジェーンの処刑の瞬間が近づいてくる。身支度をしてうつむきかげんに部屋を出るジェーンに二人の侍女がつきしたがったという。
 チューダー王朝ゆかりの名門グレイ家の長女として毅然とした最期をむかえるために、ジェーンは処刑台の階段を粛々とのぼっていく。司祭から手渡された布で目を覆おうとするが、手が震えて思うようにならない。侍女たちのすすり泣く声が聞こえてくる。暗闇の中、断頭台をさがすがその台が見つからない。必死に手を伸ばすがどこにあるのかわからない。「台は?どこにあるの?」すると、司祭の手が優しくジェーンに触れ、導いてくれるのを感じた。ようやく台を見つけたジェーンは静かに台の上に自らの首を横たえると最期の祈りの言葉を唱えた。「主よ、わたくしの御魂をあなたの手にゆだねます」
 耳元でなにかがうなり声を上げて勢いよく迫ってきた。意識が途絶えるほんのわずかな間に、ジェーンの脳裏をよぎったものは何であったのだろう? 昔、窓際にすわって見上げた天高く舞う鷹の姿であったのだろうか?
 数時間後、ジェーンの遺体は荷車で運ばれ、夫ギルフォードの遺体とともに礼拝堂へ葬られたという。16歳と4ヵ月。それはあまりにも短すぎる生涯であった。
 宗教学者ジョン・ノックスはこう語る。
「彼らは全くの潔白であった。逆心を抱いていた証拠はなにもなかった。法にも触れず証人など一人もいなかったのに」。
 同じくリチャード・グラフトンも自らの手記でこう記している。
「私は彼らの死を思うとまったく悲しみでやりきれなくなる。思わず涙が流れてくる」
 若い二人の死は、ロンドン中の多くの人々の涙をさそうことになった。理不尽な処刑を命じることになったメアリーは、これ以後、人々の評判を大きく落とし、イギリスを暗黒時代に逆行させた張本人として「ブラッディ・メアリー(血みどろメアリー)」などと人々にさげすまれることになっていくのである。

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参考にさせていただいたサイト
https://www.japanjournals.com/feature/survivor/4350-lady-jane-grey.html?limit=1
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