淀殿と大坂の陣
〜巨城と運命を共にした悲劇の美女〜
 淀殿・・・幼名を茶茶(ちゃちゃ)と言い、信長の妹、お市の方の長女として生を受けるも、悲運の戦国大名のもと数奇な運命をたどる。皮肉にも、父と母を死に追いやり、幼い弟を串刺しにした仇敵、秀吉の愛妾となるが、逆に秀頼を生んだ後は寵愛を一心に受け、秀吉亡き後は大坂城に君臨した。老獪な家康を向こうに回し、頑として屈することなく、智力を尽くして戦うも能わず、ついに燃え盛る大坂城の中で愛児秀頼とともに自刃した。彼女の勝ち気で虚栄心の強い性格は、後世の戯曲家にいろいろ取沙汰されスキャンダルな風説を生むこととなった。

 16世紀の中頃、日本では、全国各地は群雄が割拠する戦国の時代であった。ちょうどその頃、天下を取るべく京に上ろうとしていた東海随一の雄といわれた今川義元が、尾張の辺鄙な地で非業の最後を遂げるという大事件が起こった。この東海の雄、義元を討ち取ったのは、若干27才の織田信長であった。周囲から、変人、うつけ者と馬鹿にされていた信長は、この事件でその名を天下に轟かすこととなった。この桶狭間の戦いは、言わば誰の目にも大番狂わせの戦であり、競馬で言えば、超大穴が当たったようなものであった。

 この事件を機に、信長は天下制覇の有力候補にのし上がっていくこととなる。元来、彼は、野心が強く気性の激しいことでも知られていた。天下制覇の準備が整ったと見た信長は、京に上る道筋を安全ならしめる必要上、琵琶湖北方の雄、浅井長政と同盟関係を強化しようと考えた。

 そこで、信長は妹のお市を長政に嫁がせたのである、時にお市16歳、長政は19歳であった。東国一の美人として誉れの高かったお市は、その後、小谷城で長政と10年間過ごし長政との間に三人の娘と二人の息子が生まれた。

 しかし、二人の平和で幸福に満ちた結婚生活は、兄、信長との間で起きた戦争で10年後には終止符を打たれる。

 こうして、長女茶茶と二人の幼い妹は母お市に連れられて、落城前の小谷城から脱出。再び兄信長に引き取られることになったのである。長男の万福丸は、事前に脱出したが、後になって信長の家来でもあった羽柴秀吉に捕らえられてしまう。
 そして、まだ10才だったにもかかわらず、万福丸は、串刺しという残酷な刑を受けて殺されてしまった。しかも遺体は、逆さに磔されて晒されるという惨さであった。
小谷城跡(滋賀県)
 その後おこった本能寺の変で信長は不慮の死をとげる。この出来事はお市の運命はさらに数奇なものに変える。織田家の血筋を引く彼女は、信長の親族から政略結婚に利用されるのだ。三人の娘を連れて信長の部下だった柴田勝家と再婚するのである。しかし、この結婚生活は一年も続かなかった。秀吉と勝家との間で覇権争いが起こったのである。秀吉は賎ヶ岳の戦いで勝家を打ち破ると、一挙に勝家の城を落とすべく猛烈な追撃戦を展開した。三人の娘は城を出る事を許されたが、お市は勝家とともに燃え盛る天守閣の中で自刃し炎の中に消えていく運命を選んだ。
 こうして、三人の姉妹は、再び生き延びることを許された。物心が着き始めた幼い茶茶にとって、父母、弟が次々と死んでいくのを目の当りにしてきた体験は、あまりにも惨過ぎるものであった。しかし数奇な運命は、この後も彼女を捕らえて離さなかったのである。皮肉にも三姉妹の内、茶茶だけに最も憎むべき男、秀吉の愛妾となる運命が待ち構えていたのである。そして、これも偶然なのか、数多い女性の中で、茶茶だけに秀吉の子が授かるのである。こうして側室であったにもかかわらず、茶茶は秀吉の寵愛を一心に受けて正室ねねを差し置き権力の座に着くことになる。この頃から人は、彼女のことを淀殿と呼ぶようになった。
 しかし、子供が出来なかった秀吉にどうして淀殿だけが2度も懐妊したのだろうか? 多くの女性に取り巻かれながら、彼の実子を生んだのは、側室の淀殿ただ一人だけだったのである。これは、大きな謎とされている。
 秀吉の女好きは、有名で、正妻ねねを始めとして16人もの側室を侍らせていた。その上、京都の聚楽第には、高貴な女性ばかりを400人も集め、あたかもハレムのような景観を呈していた。
 高貴な息女で、彼の毒牙にかからなかった者はいないと言われている。だが、これほどの精力家だったにもかかわらず、秀吉は子供には恵まれなかった。
 今では、秀吉は一説には、無精子病だったのではないかという説が根強く残されている。秀吉の弟秀長にも、甥の秀勝にも子供はなかったこともこの説を裏付けている。確かに数百人の女性と関係しながら、一人も子供が出来なかったというのは、どう考えてもおかしい。ニ番目の秀頼に至っては、なんと秀吉が60才を過ぎてから誕生した子供なのである。
豊臣秀吉1536〜1598
貧農から身を起こして天下人となる。立身出世のナンバー1である。
 当時、スペイン人宣教師ビスカイノが、大坂城で間近で見た秀頼の風貌が記録されている。それによると、秀頼は、身の丈は6尺5寸(195センチ)以上もあり、赤ら顔で、驚くべき肥満体で、自由に体を動かすことも出来ないほどだったという。当時の成人男子の平均身長が157センチほどだったことから考えると、これは、並外れた巨漢である。

 側近の大野治長が秀頼の袴を自分のものと比べたところ、腰に来る部分が胸あたりまであったそうである。もし、これが、事実であるならば、秀頼が本当に秀吉の血を受け継いだ子供なのかはなはだ疑わしい。秀吉は、かつての主君信長に禿げネズミとあだ名されているほど、小柄で貧相な小男だったからである。秀吉の子供としては、はなはだ容貌が違い過ぎる。確かに配偶者の淀殿が、大柄な偉丈夫で知られる浅井長政の血筋を引いていたことを考えても、秀頼の風貌は、秀吉のそれとはあまりにもかけ離れたものであった。しかし、DNA鑑定もない400年前の時代では、親子であるかどうか証明する方法はなく推測する以外にない。しかし、そのことで、さまざまな憶測がなされるようになったことは確かだ。淀殿の生んだ鶴松、秀頼の二児は、実は秀吉の子などではなく、淀殿が、側室の身分から権威を手にしたいばかりに、秀吉以外の間で密通して出来た子なのだという説が流布されることにもなり、淀殿の淫乱な悪女伝説を生むことになったのである。

*        *         *

 慶長3年(1598年)天下人秀吉は死の床にあった。死に行く秀吉に気がかりな事は、ただ一つ、それは、淀殿との間で生まれた6才の秀頼が、豊臣の後継者として存続していけるかということだった。秀頼は、秀吉が53才の時に生まれた2回目の子供だった。先の子供鶴松は、3才の時、病にかかって夭折してしまっていた。二度とも、淀殿が生んだ秀吉の子供だった。

 しかし、秀吉が死んでしまうと、遺言通りには事は進まなかった。秀吉亡き後、五大老の一人、徳川家康は、秀吉の遺言を守ろうとせず、着々と自らの勢力の拡充を図っていた。ここに、太閤の遺志を忠実に守ろうとする石田三成との間で衝突が起こることになる。
 この結果、五奉行の筆頭、石田三成側と家康側に大きく二つに分裂してしまい、この両者の間で覇を争う形となった。この事態の進展に、家康は、手を叩いて喜んだ。彼にしてみれば、かねてへの天下制覇の野望を実行に移せる絶好の機会が到来したのである。かくして関ヶ原の合戦の火ぶたは切られようとしていた。
徳川家康1542〜1616

 1600年、9月15日の早朝、両軍合わせて20万とも言われる大軍が、関ヶ原で対峙していた。西軍は、数こそ、東軍を上回っていたが、その実体は、武将同士の利害関係が絡み合って、統一性のない寄せ集めのような軍団だった。戦いが始まっても、全く動こうとせずに、日和見を決め込もうとする武将や、指揮通りに動かない部隊ばかりで、戦いにならず、挙句の果てに、小早川1万5千の騎馬隊が西軍の主力、大谷吉継の陣に背後から襲いかかってくる始末で、たちまち西軍の陣は算を乱して総崩れになってしまった。こうして、天下分け目とうたわれ、朝の8時から始まった一大決戦は、午後の4時にはあっけなく決着がついてしまった。わずか8時間足らずで西軍は、粉砕されみじめな敗走を余儀なくされた。多くの武将は、討ち取られてしまい、総大将の石田三成に至っては、百姓姿に変装して逃亡中、捕らえられ六条河原の刑場で斬首されてしまったのであった。

 こうして、関ヶ原の戦いは終わり、その責任は、石田三成一人に着せられたのであった。しかし、そのことが、豊臣家を手付かずに残すことにもなってしまった。天下は豊臣から徳川の方に動いていったが、依然、悩みの種は残ったままとなった。家康は、この機会に、豊臣家を滅亡させ、後顧の憂いを消してしまいたかったのである。
 月日は経ち、関ヶ原の戦いから、15年が過ぎようとしていた。幼少だった太閤の忘れ形見、秀頼もすでに22才となり、その立派な成人ぶりに、家康は新たな不安を覚え始めていた。うかうかしていると、年老いた自分の方が先に死んでしまうことにもなりかねない。自分の生存中に、是が非でも、豊臣家を滅亡させて、天下を手中にしたいと考える家康にとって焦りにも近い気持ちだった。
関ヶ原の古戦場跡
 そこで、家康は、豊臣家を潰すためのいい口実はないものかと日々躍起になっていた。そんな最中、願ったり叶ったりの事件が起きた。方広寺の鐘銘事件である。鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という部分に家康が目をつけたのである。儒学者の林羅山らが言うには、「国家安康」とは、家康の名前を2つに裂くもので、これは、徳川家に対する呪詛を意味している。次に、「君臣豊楽」とは豊臣だけを栄え楽しませるということだと主張するものであった。もちろん、これには、正統な理由などあるはずもなく、林羅山らの学者は、ただ徳川のために学問的な観点から意味のない理屈をでっち上げたものだった。しかし、言いがかりをつけて喧嘩を始めたい家康にとっては、これこそ待ち望んでいた事件であった。
 大仏殿造営の責任者、片桐且元(かたぎりかつもと)は、家康に釈明をしようと駿府におもむいていった。しかし、家康は且元に面会を許さなかった。家康が激情していると思った且元は、動揺してしまい、ひたすら家康の心の内を憶測し、大坂城を明け渡すか、淀殿を人質として江戸に送るかのいずれかを承諾しなければ、解決出来ないのではないかと自分なりの結論を出したのである。そして、帰るなり、そのことを豊臣の主だった面々に報告したのだった。
 淀殿は、且元の示した解決策を聞くなり、涙を流さんばかりに怒り狂った。栄光ある豊臣の血を引く妾(わらわ)が、家康のもとに人質となり江戸に送られるとは何事か! まさに、虚栄心の強い彼女にとって、且元が示した条件は、許しがたい侮辱であったのだ。
方広寺の問題になった鐘(京都市東山区)

 事態を穏便に収拾するために、遣わされた片桐且元であっが、このような報告をしてしまった以上、火に油を注ぎ込む結果になってしまった。事態の不穏な気配を感じ取った且元は、病気だと偽り、それ以後は私邸に閉じこもってしまった。且元は、豊臣の面々をあれほど怒らせてしまった以上、彼らに暗殺されるのではないかと恐れていたのである。彼は神経過敏で小心者の男でもあったのだ。

 一時の怒りも治まり、冷静さを取り戻した淀殿は、登城して一度ゆっくりと語り合いましょうという手紙を且元に送った。よく考えれば、且元は、秀吉子飼いの古くからの直臣であり、先の関ヶ原の戦いでも、多くの臣が徳川に寝返る中、豊臣に忠節を尽くしてくれた一人であったのだ。しかし、依然として、梨のつぶてを決め込む且元に、淀殿は、再三、心に一物がないことを誓詞にしたためて送ったが、且元が彼女の呼び出しに応じる気配はなかった。

 ついにしびれを切らした秀頼は、且元の禄を取り上げ、追放処分にすると言い出した。そして、それを実行に移してしまったのである。これこそ、狡猾な家康が、待ち望んでいた事態であった。家康の意志伝達係の且元を追放することは、すなわち家康への敵対行為にも等しいものである。謀反を起こそうとする豊臣家は、ただちに討伐せねばならない。こうして、家康は、大坂への武力行使の大義名分が出来、ここに大坂冬の陣が勃発したのであった。

 いよいよ、徳川と雌雄を決する時が来たと悟った秀頼は、全国の外様大名に手紙を送り、その力をあてにしようとしたが、誰一人として豊臣に味方する者はいなかった。彼らは、すべて家康に押さえ込まれており、その動向が逐一監視されている身分であったのだ。そこで、外様大名が頼りにならない以上、諸国に点在する浪人たちの力に頼るしかなかった。しかし、募集してみると、各地から、続々と浪人衆が集まって来た。その数は、往年の豊臣氏の家臣の数倍にも及び、10万人以上にもなったと推測されている。彼らの多くは、先の関ヶ原の戦いで、西軍に組したために封を失った者や断絶させられた大名の家臣が大半であったが、大部分が徳川に恨みを抱いていた。あるいは、これを機会に立身出世や一獲千金を夢見る野心家の大集団でもあった。

 その中の主な顔ぶれは、真田幸村、長宗我部盛親(もと土佐22万石)、毛利勝永(もと豊前4万8千石)、氏家行広(もと伊勢2万5千石)、大谷大学(大谷吉継の息子)、後藤基次(もと黒田長政の臣)、明石全登(もと宇喜多秀家の家老)などで、彼らはいずれも、かなり高額のスカウト料を受けて入城して来た。真田幸村などは、当座の手当てとして黄金2百枚、銀30貫を支給され、この他に勝利の報酬として50万石の約束まであったというから、破格の待遇というべきものであった。これを見ても幸村にかける大坂側の期待がいかに大きかったかが分かるというものである。当時、豊臣家の禄高は65万石に過ぎなかったが、故太閤秀吉の遺した巨額な資産とも言うべき金銀財宝が大坂城内に山積みされており、軍資金に事欠くことはなかったのである。この時、初めて出会った幸村の印象は、年の頃は46ほどに見え、額に5センチほどの傷跡があり、小柄で、とても、徳川が恐れるような男には見えなかったという記録が残されている。
 やがて、家康の指揮する巨大な軍団が大坂に向かいつつあるという情報に、城方でも、急きょ参謀を交えて、浪人衆との間で軍議(作戦会議)を行うことになった。ところが、軍議が、始まってみると、待つか、積極的に討って出るかで意見は二つに分かれ、真っ向から対立してしまった。真田幸村や後藤基次らの浪人組は、東軍が長時間の行軍で疲れ切っているうちに先制攻撃を仕掛けるべきだと主張した。それに対して、淀殿を始めとする豊臣家首脳部は、篭城戦を主張した。彼女は、太閤が巨万の富を惜し気もなく注ぎ込み、総力を尽くしてつくられた天下無双の巨城の堅固さに頼り切っていたのである。かくして、淀殿らが主張する消極案が浪人組の積極案を制し、かくして軍議は篭城策に決定した。
 確かに、背後に淀川、天満川を控え、西も、東も満々と水をたたえた水掘に守られ、前に広大な平野を望む大坂城は、天下随一の鉄壁の守りを誇る巨城と言ってよかった。言わば、自然の地の利を存分に生かした広大で堅固な大要塞だったのだ。
 かつて石山本願寺が難攻不落を誇った曲輪をそのまま使い、日夜3万人という人夫をフルに動員し、15年の歳月を費やしてつくられた大坂城は、その規模だけでも、現在のものよりも5倍以上もあったとされている。
 本丸だけで約1万5千平方メートルもあり、その巨大な本丸を囲む堀も二重に構築されていた。本丸御殿は、40メートルの高さにそびえ、金しゃち、金瓦がさんぜんと輝く五層ハ階の天守閣の雄姿は、はるか彼方の京都の高台からも仰ぎ見ることが出来たと記録されている。
現在の大坂城天守閣

 石垣用の巨石にいたっては、各地から取り寄せ、堺港は、運搬用の船だけで日に何百艘も迎えて溢れかえったという。まこと天下人秀吉の権勢を象徴するにふさわしい巨城だったのである。この大坂城は、大和(奈良)と山城(京都)に睨みを利かすかのようにそびえたっていた。この地は、軍事面でも重要な場所であると同時に西国を結ぶ政治経済の要でもあったのである。

 しかし、この巨城にもアキレス腱があった。平野に接する南側には、大きな空堀があったが、この部分だけが比較的防備が手薄な部分だと考えられていたのである。そこで、この弱点を補強するために、柵と空堀を周囲に巡らした半月形の出城が構築されることとなった。そこには、真田幸村率いる手勢3千の兵が陣取り、押し寄せる敵を迎え撃つ手はずがなされていた。後世で、真田の出丸と言われることになるこの出城は、地下道によって内部と連絡されていた。また、この背後には、大野治長、長宗我部盛親などの遊撃部隊が控えており、明石全登(あかしてるずみ)の部隊にいたっては、ゲリラとなって、敵を撹乱する任務を負わされていた。彼らの士気は、否が応にも盛り上がった。しかし、淀殿が女だてらに武具を身に着け、武装した3.4人ほどの女性を従えて、城内を視察して、あろうことか、作戦にまで口を挟んでくるので、いささかうんざりしたという記録も残されている。

 その頃、家康は196大名からなる大部隊を大坂に向けて出陣させていた。その数、実に20万以上の大軍勢である。これらの大部隊は、続々と大坂に到着するなり布陣していった。
 11月の下旬頃になると、城はほぼ完全に包囲された。各地で小規模な戦いはあったが、秀吉が知恵の総力を尽くしてつくられた巨城だけに、この程度ではびくともしなかった。さすがは、金城鉄壁をうたわれた太閤の巨城だけのことはあった。
 12月に入ると、案の定、徳川軍は、この城のもっとも手薄と見られた箇所、つまり、城の南側を中心に攻撃をかけてきた。しかし、ここは、真田幸村が、出城を築き、徳川の一兵なりとも中には入れぬと背水の陣を引いている場所でもあった。六連銭の家紋がひるがえるこの出丸は、敵にとっては、まことに恐るべき関所でもあった。
 幸村は、出丸の先にあった篠山という小山にも鉄砲隊を置き、眼下に見える徳川の兵をねらい撃ちしていたのだ。
大坂冬の陣布陣図(クリックで大きくなります)
 12月4日には、この真田丸の攻防を巡って凄まじい戦いが展開した。まず、業を煮やした前田利常の先鋒が夜襲をかけて、篠山に攻め上って来た。すると、驚いたことに、一人の兵もおらず、いささか、拍子抜けしてしまった。さては、恐れをなして逃げたのではと暗闇の中、真田丸の空堀まで前進したが、人の気配がない。一気に占領出来ると見た前田隊の兵は、勇んでかけ登ろうとした。その瞬間、幸村の鉄砲隊は猛然と火を吹いたのである。彼らは、最初から、敵の心理を見通していて、手ぐすね引いて待ち構えていたのであった。空堀の兵たちは、大混乱に陥り、たちまち大量の戦死者を出してしまった。しかも、雨あられと撃ち込まれる銃弾に堀を上がることも出来なかった。結局、前田隊は、ほうほうの体で逃げ帰ることになった。
 この真田丸の攻防で見せた幸村の活躍は、人々の間でも噂に上り、大坂方有利と見ていたことが記されている。そのうち、家康は、力攻めから心理戦に切り替えて来た。300門以上という大量の大砲を随所の陣地に配備して、大坂城目がけて一斉射撃を開始したのである。当時の大砲は、約4キロの鉛玉を1.5キロほど飛ばすだけのものだったが、城内にいる者に与える心理効果は絶大なものがあった。そのうちの一発が、淀殿の居間を直撃したことがあった。ものすごい大音響が鳴り響き、彼女の側にいた侍女8人が即死してしまったのだ。女童は狂ったように泣き叫び、あたりは阿鼻叫喚の修羅場に早変わりしてしまった。これがきっかけに、あれほど強硬姿勢を貫いていた淀殿も、恐怖にかられて和議を受け入れる気持ちになってしまった。

 和議はいろいろと難航したが、秀頼と淀殿の身上は、元のままとするが、大坂城の総構えの堀を埋めるということで決着した。そして、秀頼は、家康に対して、以後いかなる野心、謀反を起こさぬという主旨の宣誓書をも差し出した。家康は、堀埋めに関する条件だけは、口約という形にし、いい加減にとどめたのだが、実はこれこそ、家康の老獪さと狡猾さを物語るところであったのだ。

 いざ、堀埋め作業が始まってみると、外堀は愚か内堀をも強引な手法で埋め出したのである。城方が約束が違うと言い出しても、手伝っているだけだとか、一刻も早く仕事を終えて帰国したいからという人を食った態度であしらうだけであった。当の家康などは、病気ということで面会もしなかった。埋め立て作業は、昼夜兼行でぶっ通しで行われ、始まって4日も経つと、矢倉は、すべて撤去され、二の丸、三の丸の内堀もすべて埋められてしまい、本丸のみを残して真っ平らになってしまったのである。 

 まもなく、家康は、たたみ掛けるように無理難題を大坂方に吹っかけて来た。秀頼を大和か伊勢に移すか、浪人衆を追放せよというのである。大坂方からすると、これは、先の宣約書にことごとく違反する内容であった。まさに不当極まる悪質な言い掛かりであった。大坂城を去ることも、豊臣に尽くしてくれた浪人衆を追放することも到底出来ぬと見た秀頼は、とりあえず、家康のもとに使者を送ったが、家康は、出来ぬなら再び討伐するまでだと言い出して、諸大名に出陣の命を下したのであった。こうして、数カ月も経たないうちに夏の陣が始まったのである。
 大坂では、大急ぎで、埋められた堀を元通りにしようとしたが、到底その時間もなく、もはや、本丸だけの裸同然となってしまった今、篭城戦に持ち込むことは不可能だった。やむなく討って出る方法しか残されていなかったが、野戦は、家康の最も得意とするところで大坂方には不利であった。家康は、大坂を3日で片付けると豪語して出陣したという。それに対し、大阪方では、名誉ある死を求める気運が強かった。
 徳川軍は、大和(奈良)と河内(大坂の南)の二方向から侵入を開始した。徳川の総数は20万以上と見られ、大坂方の3倍以上の大軍であった。斥候からの情報によると、彼らは、大坂城南東20キロ地点の道明寺付近で合流を果たし、城方を広大な大阪平野に誘い出し、優勢な兵力で一気に包囲殲滅する作戦を取るものと考えられた。
 従って、大坂方は、敵が合流して大兵力になる前に奇襲をかけ、各個撃破する作戦を取ることにした。大和路は、敵にとって非常に狭く、迎撃するには持ってこいの地形だったのである。こうして、全軍が出撃した大坂城本丸には、秀頼と一握りの近習のみが残されるだけとなった。
 その前夜、後藤、真田、毛利の三人は、明日の一番鳥を合図に道明寺付近で集合し、敵に奇襲を行うことを取り決めていた。ところが、約束の時間に到着したのは後藤隊だけで、真田、毛利の二隊は、濃霧のために行く手を阻まれて時間通りに到着出来なかった。
 待てども、友軍は到着せず、そのうち徳川軍の先鋒は2キロほどまで接近してきた。うかうかしていると、戦機を逃してしまうと考えた後藤隊は、単独で攻撃することを決意した。
 戦闘は、高台という地の利を生かして、最初の数時間は優勢だったが、昼頃になって、次々にあらわれる新手の部隊の前に、ついに力尽き後藤隊は壊滅状態となった。十倍以上という余りにも多勢に無勢に、死を覚悟した基次は先頭におどり出て駈け下り、何人もの敵兵を斬り殺した挙句、鉄砲隊によって胸を撃ち抜かれて壮烈な最後を遂げた。ちょうどその頃、八尾方面では、木村重成と長宗我部盛親の部隊が交戦中であった。木村重成は、激戦の末、低湿地帯に追い込まれ戦死してしまった。藤堂隊と激戦中だった長宗我部隊は、隣の木村隊が壊滅したのを知ると、退路を絶たれて孤立するのを恐れて撤退を余儀なくされた。
 こうして、夏の陣の第一日目が終わった。二日目早朝、徳川軍は、天王子方面にまで進撃してきた。もはや、敵の進軍を食い止める地形は、この場所しかないと考えた大坂方は、茶臼山と天王寺付近に全主力を集結させていた。双方とも、ここが最後の決戦場になることを知っていたのだ。徳川軍は譜代大名ばかりを置き油断のない配置をしていた。特に、先鋒には、松平忠直の率いる優秀な越前兵1万5千を配備していた。北陸出身の越前兵は、粘りと勇猛さにすぐれ命知らずと恐れられている兵であった。しかし、その越前兵が相手にするのは、徳川が大の苦手とする真田幸村の部隊だった。
 決戦は、天王寺に布陣する毛利隊と本多忠朝の部隊の衝突から始まった。戦いは、まもなく、全面的な戦いに発展し、敵味方あい乱れての壮烈な白兵戦になっていった。
 茶臼山に布陣していた真田幸村は、戦況を視認して、はるか向こうに家康の馬印が翻っているのを確認するや否や、全軍に突撃の命令を発した。戦史に残ることになる真田隊の猛攻撃がついに開始されたのである。
 真田幸村率いる三千の将兵は、全員が赤に染め抜いた鎧兜に身を固め、全軍が矢のようになって突撃していった。この時の真田隊の斬り込みは、まことに凄まじく、それは、赤い矢が、ただ真一文字に家康の本陣目がけて突き進んでいくように見えたという。
 猛烈な突撃は3度敢行された。真田隊の猛攻撃の前に、さすがの越前兵もパニック状態に陥った。まもなく、家康の旗本陣も突破された。中には、慌てふためいて馬印(軍旗)を放り出し、何里も逃げ去った旗本もいたという。
大坂夏の陣布陣図(クリックで大きくなります)

 徳川の馬印はことごとく蹂躙され、真田隊は、家康ただ一人を討ち取ろうと血死の追撃を敢行して来た。それは、何か常識という概念を超越した恐るべき存在でしかなかった。

 家康は、この様相に腰を抜かさんばかりに驚いた。自分の方向目指して、赤い鎧武者の集団が阿修羅のように真一文字に斬り込んで来るではないか! しかも、彼らは、みるみるうちに接近して来た。たちまち、心臓が早鐘のように破れんばかりに脈打ち始めた。満足に鎧も着けてなかった家康は、取るものも取らず、馬にすがりつくように飛び乗ると、ただやみくもに鞭打って走らせた。そして、息を切らせてただひたすら懸命に逃げまくり、からくも一命を取り留めることが出来たのであった。

 後になって、真田隊の鬼気迫る追撃に生きた心地がせず、何度も切腹を覚悟したほどだったとその時の心境を述べている。しかし、三度の猛烈な突撃によって真田隊のほとんどの兵は玉砕してしまい、ついに幸村自身も壮烈な戦死を遂げたのであった。彼の活躍ぶりは、敵方からも絶賛の言葉を受けている。島津家久などは、その手紙の中で次のように激賞している。「・・・真田日本一の兵、いにしえよりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申す事に候」

 凄まじい激戦は、その後も数時間以上続いた。しかし、数倍の兵力を持つ徳川勢との彼我の差は、如何ともし難く、やがて、大坂勢は、各所で撃ち破られ多くの将兵が戦死していった。戦線は総崩れとなり、城方の生き残った兵が、必死の形相で雪崩のように城内に逃げ込んで来る。徳川の大軍は、敗残兵を追撃して、四方から大坂城に迫って来た。しかし、外堀、内堀を失った裸同然の大坂城に、怒濤のような徳川軍を食い止めるすべはなかった。

 まもなく、城内に火の手が上がった。これは、徳川に内通していた台所頭による放火であった。火は、たちまち業火と化し三の丸、二の丸をもなめ始めた。これに勢いを得た徳川軍は、三の丸に突入を開始、たちまち城内に乱入して来た。もはやこれまでと最後の時が来たと悟った秀頼の親衛隊の将士たちは、次々と自決を始めた。

 夕方近くになって、火は、本丸に燃え移ろうとしていた。秀頼と淀殿は、天守閣から山里の郭に避難した。秀頼の側近、大野治長は、ここで一計を案じた。それは、千姫を脱出させ、家康のもとに送り届けて、秀頼と淀殿の助命を託そうというものだった。千姫は、秀忠の娘だった。徳川の血を引く千姫をこの猛火から助け出し、無事に、家康のもとに送り届ければ、いくら老獪な家康と言えども、かわいい自分の孫娘の命を救って脱出させた豊臣のこの処置に大喜びし寛大な気持ちになると考えたのであろう。

 千姫は、こうして燃え盛る大坂城内から脱出したのであった。時に19才であった。家康と対面した千姫は、涙ながらに二人の助命を懇願した。しかし、家康は、助命を許さなかった。それどころか、父親の秀忠などは、この時、千姫に、どうして、お前も一緒に自害しないのかと言ったらしい。現代と価値観が違うとは言え、あまりにも惨い言葉である。

 一方、秀頼、淀殿と生き残りの20人ほどの近臣たちは、千姫に託した助命嘆願にすべての希望を賭けて煙りにむせびながら、山里の郭の片隅にあった薄暗い庫(くら)で生き長らえていた。その時、城内の勝手を知る片桐且元が、淀殿らが潜んでいるこの場所を敵方に通報し、彼に案内された伊井直孝の鉄砲隊が、庫を取り囲もうとしていた。何度もねぎらいの手紙を書き、あれほど且元を頼りにしていた淀殿は、最後に煮え湯を飲まされたのである。卑劣な裏切り行為が行われ、とうに運にも見放されてしまった事実を知らぬ淀殿らは、この瞬間にも、わずかな希望を心の片隅に残していた。しかし、まもなく始まった徳川の一斉射撃がついにその望みも打ち砕いてしまった。銃弾は容赦なく雨あられのごとく撃ちかけられて来た。この銃声こそ、家康の非情なる答えそのものだった。
 最後の時が来たと悟った秀頼と淀殿は、互いに手を取り合い、短い別れの言葉を交わした。そして、ほんのわずかな時をも惜しむかのようにしばし抱擁した。悔し涙は、すでに枯れ果てていた。淀殿は、ぎこちない手で小刀を取り出すと、目を閉じ静かに自らの喉元に押しあてた。この時の淀殿の心境はいかばかりであったのだろうか? 今なお続く、狂ったような銃声の中、二人は次々と自害していった。時に秀頼23才、淀殿49才であった。大野治長以下の近臣たちは、秀頼と淀殿の最後を静かに見取った後、爆薬に火を放ちこれに殉じた。ものすごい大音響が鳴り響き、郭は木端微塵になり、跡形もなくなった。硝煙が薄らいでも、ほとんど形を留めているものはなく、焼けただれた残骸に混じって、人間の黒焦げになった屍らしきものが二三散乱しているだけだった。その後の、執拗な捜索にも関わらず、秀頼と淀殿の遺体は、ついにその一部すら発見されることはなかったという。時に、5月8日の午の刻(正午)頃の出来事であった。大阪夏の陣は、開始以来、わずか3日間で幕を閉じたのであった。
 豊臣家を滅ぼした家康は、部下に命じて、豊臣色の一掃に取りかかった。徹底的な残党狩りが行われ、かつて秀吉を祀った寺社は、ことごとく取り壊されていった。秀吉の痕跡を示すものは、すべて消されていった。
 かつて豊臣を象徴した巨大な大坂城は、石垣を残すだけとなり、徳川は、この上に、新たな石垣を組み10年の歳月を費やして再建した。これは、徳川の威信を示すことになる城であった。
 かくして、豊臣家の栄華は、ことごとく消え去っていった。しかし、人々の心に刻まれた痕跡までも、消すことは出来なかった。
秀吉の巨城は、今も地下深く眠っている。
 判官贔屓の庶民は、それ以降も悲運の中で滅亡していった豊臣家と大阪の陣に散った英雄たちに限り無い愛着を抱き続けたのである。そして、時代が徳川の泰平となっても、猿飛佐助、霧隠才蔵などの真田十勇士が活躍する講談や真田の抜け穴伝説がつくられ、庶民の心を魅了したという。

  花のようなる秀頼様を  鬼のようなる真田が連れて  退きものいたよ加護島へ 

 つまり、秀頼は大坂では死なず、幸村とともに薩摩に逃れたという歌が、京わらべたちの間で流行ったのもこの頃であった。

 豊臣家を忍ぶ庶民の心は、江戸から現代まで途切れることなく語り伝えられ、やがて大阪人の中央権力への対抗意識を育み、自由都市、堺の町をつくった不屈で自由な発想の根源ともなっていくのである。しかし、近年に見る大阪の東京化は、もはや人々の心からその実体を奪いつつあるようにも見える。
これも、都市計画と文明化の持たらす弊害なのだろうか? 
実に残念という他ない・・・

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画像資料参照
フリー百科事典「ウィキペディア」
日本の名城100選 京の住人たより様
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/index.html
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