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男装の麗人
〜東洋のマタハリ、川島芳子の数奇な人生〜
* 情報を売る高級娼婦 *
 くのいち・・・別名女忍者の代名詞のように用いられるこの言葉は、広い意味では女スパイ、女諜報部員を指すことでも知られている。くのいちの役割は、相手方に潜入し重要機密情報を探ったり、敵の後方を撹乱することが目的だと言われている。その際、女の武器を使うのは言うまでもない。くのいち戦法とは、敵が女だと思って警戒を緩め、油断した隙を突くことにある。こうした戦術は古来より忍びの術としても用いられて来た。
 20世紀の初めに起こった第一次大戦の際、連合軍の機密情報が一人の女性によって盗み出され、ドイツ側に売り渡されたために連合軍は手痛い損害を被ったとされている。その謎の女は、マタハリと呼ばれ、ドイツ側では、コードネームH21号で呼ばれていた。彼女はオランダ人の踊り子で、マタハリとは彼女のダンサー名である。パリのムーランルージュのダンサーとして、フランスの上流社会に入り込み、陰では高級娼婦となって、その妖艶さと熟練した演技で政府の高官や高級将校の心をたちまち手玉に取ったというのである。
 つまり、彼女は女の武器を最大限活用することで、部隊の配置、規模、攻撃の日程などと言った軍事機密をそれとなく聞き出し、ドイツ大使館に高額な値で売ったとされているのだ。
 人は彼女のことを史上最大の悪女と呼んだ。それ以来、マタハリは、女スパイの別名のように使われることになった。
 しかし、結局のところ、彼女のスパイ行為が具体的にどのようなものだったのか、そして、それによってどういう損害をフランス側に与えたのかは不明なのである。
マタハリことマルガレータ・ゼレ・マクラウド(1876〜1917)オランダ人のダンサーで、悪女、裏切り者、男を堕落させた女スパイとして知られている。  ただ、高額な金が彼女に手渡されたらしいという推測のみである。彼女は、ある証言がきっかけでスパイとして逮捕され大戦中に銃殺されている。
* 歴史をつくる陰での駆け引き *
 しかし、ここに東洋のマタハリと呼ばれた女性がいる。「男装の麗人」のモデルとして知られる川島芳子(かわしまよしこ)である。「男装の麗人」とは、昭和8年に発表された小説で、一世を風靡するほどのベストセラーとなった作品である。その頃の日本では、川島芳子と聞くと、少女たちのあこがれの的であったという。彼女は清王朝のれっきとした王女の一人だった。その王族の血を引く彼女が、どうして日本人の性を名乗り、日本軍の女スパイとして暗躍することになったのだろうか? 
 我々は、表向きの歴史の裏に隠されたもう一つの史実があることを知らない。そこには、様々な陰謀や虚々実々とした駆け引きがあった。むしろ、こうした現実が歴史を動かして来たのである。つまり、結果として史実が存在するのなら、それを演出した何かがあったはずである。そこに彼女、川島芳子が活躍出来る舞台があった。しかしそれは、決して人目に知れることのない世界であった。
 1911年の辛亥革命によって、事実上、清王朝は滅亡した。中国の次期政府を担ったのは、蒋介石の率いる国民政府であった。
 1928年頃の中国の力関係は微妙なバランスのもとに成り立っていた。南京に拠点を持つ蒋介石の国民党と、毛沢東の率いる共産党、華北の軍閥のドンとも言える張作霖(ちょうさくりん)の3つの勢力が競い合っていた。その上、これらを外国の勢力が後押しする形を取っていた。つまり、国民党を欧米が、生まれたばかりの共産党をソビエト政権が、張作霖を日本がというようにである。
 日本にとって、張作霖を援助することは、満州、華北の地盤固めに役立った。
 日本は、増大する人口のはけ口を満州に求めていた。しかも、満州には、豊かな資源と食料供給地としての可能性があった。日本にとって、満州は金の成る木のようなものだったのだ。
 しかも、張作霖を牽制役として国民党と戦わせている以上、張作霖は日本の力に頼らざるを得ないし、中国は分裂したままで強固になることはない。
 しかし、張作霖は次第に反日的な態度を取るようになり、1928年には、ついに国民党との戦いにも打ち負けて、満州に逃れて来る情勢になった。
張作霖(1875〜1928)
蒋介石に勝てないと判断され、関東軍に爆殺された。
 戦火を満州に飛び火させたくない関東軍(関東州を守っていた日本軍の名称)は、満州に入って来る直前に張作霖を列車ごと爆殺してしまおうと考えた。こうして、無用となった張作霖は日本軍の手で始末されたのであった。
 さらに、早急に目的を達成したい関東軍は、31年には、満州鉄道を自ら爆破して、それをすべて中国軍の仕業とし一方的に攻撃を開始した。そして、5か月も経たぬうちに黒龍江(こくりゅうこう)、吉林(きつりん)、遼寧(りょうねい)の三省を支配下に置き、満州国を建設したのである。所謂、日本の傀儡政権が樹立されたのである。
 満州国の初代皇帝は、日本の操り人形、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)が担ぎ上げられることになった。これは、軍部による独断行為だったが、意外なほどうまく事が運んだために政府は、何も口出し出来なかった。以後、こうした事実が軍部をますますつけあがらせることになるのである。
溥儀(宣統帝)、清朝最後の皇帝で清朝崩壊後、日本軍に支援され満州国の初代皇帝となる。
* 刹那主義と軍部の独走 *
 しかし、こうした強引とも言える侵略行為が世界の世論から認められるはずがない。国連から派遣されたリットン調査団は、現地を調査した結果、満鉄爆破は、関東軍の自演だと判断した。こうなっては、早急に、世界中の非難の視線をそらす必要があった。この時、おあつらえの事件が勃発した。1932年1月、上海で日本人僧侶が中国人に殺害されるという事件が起きたのである。この事件は、上海事変と呼ばれ、くすぶっていた日中間の緊張を一気に高めることとなった。上海周辺が騒然とする中、やがては、日中両軍の軍事的衝突に発展した。
 結局、この事件は、エスカレートの一途をたどり、4か月後には停戦協定が結ばれたが、日本側の損害に比べて、中国側の受けた被害は甚大であった。しかし、満州国の成立をうやむやにするには、まことに都合のいい事件だった。
 難攻不落の要塞攻撃の際、鉄条網を爆薬もろとも自爆した肉弾三勇士の話が美化され、軍神となってもてはやされたのもこの時である。これ以降、軍部はますます独断で暴走することになる。
肉弾三勇士、軍神とされ、映画、歌謡曲の題材となった。
 この当時、日本は不況で刹那主義がまん延していた。街では、カフェ、ダンスホールが流行り、銀座では、トップモードに身を包んだモダンガールが闊歩する一方、サラリーマンは、生活苦から生きる意欲をなくし、手近なマージャン、パチンコなどで憂さを晴らす毎日であった。こういう雰囲気の中、作家の宇野浩ニが発狂し、漠然とした憂鬱と訴えて作家の芥川龍之介が自殺した。やがて、自殺が全国的なブームとなった。
 一人の文学少女が大島の三原山の火口に飛び込み、マスコミが騒ぎ立てたことから、一年間に千人近い若者が、そこで自殺したほどであった。自殺ブームは、清純ムードとロマンチックな死と結びつき、その後も異常な高まりを見せ、自殺志願者が後を絶たなかった。これは、日本だけでなく世界中で見られる現象だった。地球上、いかに生きる気力に欠けていたのかわかるというものである。その頃、ヨーロッパでは、ナチス党が第一党となり、ヒトラーが政権を掌握しようとしていた。まさに、世界中が揺れ動いていたのである。
 1937年、満州だけに飽き足らずと見えた軍部は、ついに中国大陸に侵略を開始した。北京郊外の蘆溝橋(ろこうきょう)で数発の銃声をきかっけに日中戦争が始まったのである。軍部の考えでは、2週間で中国大陸を征服する自信があったという。全面戦争になれば、近代装備に分のある日本軍は、一気に中国軍を打ち破るはずであった。
 しかし、案に反して、中国軍の抵抗は頑強で、しかも、犬猿の仲と思われた共産党と国民党が仲の悪さを一時棚上げし、徒党を組んで日本に立ち向かって来たのである。ここに至り、早期で決着を着けるという日本のもくろみは潰え去った。たちまち、日本軍は苦戦に落ち入っていった。ついに、軍部が恐れていた泥沼の長期戦となったのである。
 やがて、しびれを切らした日本軍は狂暴化し、中国各地で殺戮、略奪の限りを尽くすようになる。
 軍部を制御出来なくなった近衛内閣は総辞職し、代わって陸軍大将だった東条英機が首相となった。こうして、日本は壊滅への道をまっしぐらに進んでいくのであった。
 泥沼状態に落ち入り、その上、連合軍に包囲され、資源の補給を断たれた日本は、枯渇して自滅するか、武力を使って南方の資源を手に入れるかの2者選択に追い込まれた。
東条英機(1884〜1948)陸軍大将、1941年首相に就任。
 それに追い討ちをかけるように、アメリカからハルノート(すべてを満州事変以前の状態にもどせという最後通牒)が出された。
 日本としては、とても承服出来る内容ではなかった。
 アメリカは、日本を挑発して先に攻撃させ、戦争への口実をつくろうとしていたと言われるが、日本は、まんまと、この誘いに乗ってしまったのであった。
1941年12月8日、日本はハワイ真珠湾を奇襲攻撃した。宣戦布告が遅れたために、アメリカ人の団結心をふるい起こすことになった。
* 清王朝の王女として生まれる *
 川島芳子の生きた時代は、かくも激動に満ちた時代だったのである。彼女は1906年に北京で生まれた。彼女の中国名は金壁輝と言い、清王朝のゆかりの名門皇族、粛親王(しゅくしんのう)の娘だった。粛親王には、5人の妻の他、21人の王子と17人の王女がいるが、彼女は第14番目の王女である。粛親王の財産は莫大なものだった。朝鮮半島にも匹敵するほどの広大な領地を所有し北京にも広い宮殿を持っていた。仕える奴僕は2百人以上。貧しい一般民衆から見れば、ため息が出るような、それこそ、想像も出来ない豪奢な生活ぶりだった。芳子は、この宮殿で王女様として、何不自由なく暮らすはずだった。
 ところが、清王朝が滅亡すると情勢ががらりと変わった。国民政府は、清王朝の財産をことごとく没収したうえ、歴代皇帝の墳墓まであばき財宝をあまねく略奪し尽くしたのである。恐怖を感じた粛親王は、川島浪速(かわしまなにわ)らの手引きによって日本の勢力下にあった旅順へ逃れる。そこで、日本の支援のもとに清朝の再興を図ることにしたのであった。
 しかし、大清帝国が滅び去ってしまい、財政事情が苦しくなった今となっては、もはや豪勢を誇った過去の生活は望むべくもなかった。奴僕の数も10分の1以下と大幅に減ってしまい、質素な生活ぶりになった。側妃たちは、掃除、洗濯、育児、衣服の修繕と何でもこなさねばならず、王女や王子たちも分担してこれを手助けする毎日であった。
 その頃、日本は、富国強兵策のもと、急速に世界に頭角をあらわしていた。日清、日露の二つの戦争で勝利し領土を拡大した日本は、さらなる大陸への進出を企てていた。粛親王は、この目覚ましい日本の力を利用して、王朝復活をもくろんでいたのである。一方、日本の方も、満州に傀儡政権を打ち立て大陸進出への野望を抱いていた。ここに、両者の利害関係が一致したことになる。
 粛親王は、通訳であり日本軍の窓口的存在であった川島浪速に自分の14番目の王女を養女として与えることにした。そうすることで、より緊密な関係を築こうとしたのである。まだ6才だった彼女は、日本に渡ることとなった。こうして、養子となった彼女は、川島芳子と日本名を名乗ることになる。
* 川島芳子の少女時代 *
 芳子は、好奇心がめっぽう強いうえ、大変頭の切れる才気に富んだ子供だった。小柄ではあったが、色は抜けるように白く、艶のある漆黒の髪、少し太めの眉に大きな切れ長の一重瞼の瞳が、彼女の意志の強さをあらわしていた。
 そうした男勝りで芯の強い性格は、もともと持っていた本来の性分だったと思われるが、成長するにつれて、ますます露になっていった。
 芳子は、東京赤羽の川島邸から、良家の子弟が多いと言われた豊島師範付属小学校に通うことになった。
 赤羽の川島邸は、まことに広大な屋敷で、庭には2百本以上の桜が植えられていた。みかげ石で出来た威風堂々とした門構えをくぐってから、玄関に到達するまで、かなりの距離があり、歩き疲れるほどだったというから驚きである。
川島芳子(1906〜1948)
清朝の王女でありながら、満蒙独立を志し、日本軍に協力した。男装の麗人スパイとして、少女のあこがれの的だった。
 小学校を卒業すると、跡見高女に進んだものの、まもなく信州の松本高女に転校することとなる。これは、浪速が支援していた満蒙独立運動がうまくいかなくなったためで、巨額の資金が回収出来ず、赤羽の邸宅を借金の肩代わりに取られてしまったためであった。
 浪速は、生まれ故郷の信州へと引っ越すことにしたのである。
 そこでの芳子は、よく人の話題に上ったようで、お姫さまのような姿で馬に乗って通学し注目を浴びていた。
女学生時代の芳子
 毎日、颯爽と愛馬を駆って学校にあらわれる芳子の姿に、胸をときめかせた女生徒も多かったはずだ。
 事実、彼女には、自分の体には清王朝の誇り高い王女の血が流れているという強い自負を持っていたようで、社会の授業中、教師が中国の悪口を少しでも口にしようものなら、教室をぷいと飛び出し、それっきり帰って来なかったというエピソードもあったという。
 ところがまもなく、旅順にいた芳子の実父、粛親王が死去するという出来事が起きた。彼女は、葬儀のために長期休学することとなった。だが何ら手続きもせずに、あわただしく出発したのが災いし、半年後に帰って待っていたのは、復学はならずという松本高女からの通知であった。それ以後、 芳子は学校には通わず、家庭で浪速の監督のもと、独自の教育方針で育てられることになる。
 17才になった時、芳子はどうしたことか、突然、拳銃による自殺未遂事件まで起こして、それまでの髪を切って男のように短くしてしまった。養父であった川島浪速に関係を迫られたためだとか、愛情のもつれによる板ばさみだとか言われるが詳細は定かではない。しかし、彼女の心に何らかの強烈な変化があったのは確かである。彼女自身、その理由については、あまり語りたがらない。ただ、「永遠に女を清算した」とだけ宣言するのみであった。そして、断髪し男装に踏み切ったその日、「これからは、お姉ちゃんじゃなくお兄ちゃんと呼ぶのだよ」と道行く子供に言ったそうである。
 髪を切って男装した芳子は、浪速とともに、亡き粛親王の財産管理のために、再び、大連におもむくことになった。この時、芳子は浪速の秘書代わりとなって傍に仕えていた。一方、浪速の方も、芳子の力を常に必要としたが、それ以上の関係にはなかったようだ。恐らく、髪を切ることで、毅然とした決意をあらわした芳子に、それ以上の関係を求めることを断念したと言うべきであろうか。
 しかし、もともと女として型にはめられて生きることにうんざりしていた芳子にとっては、この方がよかったのかもしれない。それからの彼女は、ますます、本来の個性のままに自由奔放に振る舞って行くからである。それ以後の芳子は、男言葉を用いて、背広姿で、まるで男のように振る舞った。それは、まるで宝塚の男役のようだったという。
 旅順の叔父の邸宅にいた時、女性たちが入浴していたところ、いきなり裸の芳子が入って来たので、きゃーと悲鳴を上げて大騒ぎになったという面白いエピソードもある。
 よく考えれば、女同士どういうこともないはずだが、日頃から、男の服装、言葉遣いをして来たので、彼女たちの心の中では、芳子はいつの間にか、男のように見られていたのであろう。
 1927年、芳子に縁談が舞い込んで来た。蒙古の幼なじみ王族 カンジュルジャップと結婚である。大連に長期滞在しているうちに、カンジュルジャップの方から言い寄って来たらしい。結婚はしないと決めていた芳子であったが、相手が美男のカンジュルジャップだけに、つい芳子もその気になったらしい。だが、所詮、芳子は家庭に収まるタイプではなかった。彼女の夫は、いい男であったが、小姑の意地の悪い面当てや蒙古の封建的なしきたりの板ばさみに合ってうんざりする毎日であったのだ。
 そんな最中、満州事変が勃発し満州国の建国宣言がなされた。満蒙独立という大きな志を持つ芳子の心境が揺り動かぬわけはなかった。当然、こうしちゃおられないという気持ちになったのだろう。芳子は、家を飛び出して、再び、男に戻ろうと考え始めていた。そんな矢先、カンジュルジャップが任務で大連に行くという話が持ち上がったが、芳子は渡りに船とばかり、お供すると言い出したのだ。そうして、途中で夫の目を盗んで日本行きの船に飛び乗ると、東京の兄のもとに転がり込んだのであった。こうして、芳子の結婚生活は3年ばかりで終わってしまった。
* 女諜報部員として *
 この頃、芳子の運命を変えることになる出来事が起こった。関東軍の陸軍少佐、田中隆吉との出会いである。田中とは、とあるパーティーでの席上でのほんの紹介だったが、翌日、芳子が田中のもとに資金援助の依頼で訪れたことから本格的なつきあいに発展した。これは、芳子が意図的に接近して来たと言えなくもないが、ともかく関東軍との深い関係になる始まりだった。田中は、情報部門所属の将校で、芳子とは、その後、公的にも私的にもねんごろの関係になってゆくのである。
 こうして芳子は、田中を上司として、関東軍の女諜報員として活動することになる。彼女は、拳銃の扱い方から変装術、暗号や機密書類の入手方法まで、様々なスパイ技術を教え込まれていった。情報部としては、清朝の王女でありながら、日本語、中国語を使い分け、英語もしゃべれる芳子は利用価値の高い存在であった。一方、芳子の方も、満州人のためになることなら何でも協力するつもりであったようだ。かくして、水を得た魚のような彼女の活躍が始まるのである。
 まもなく、彼女に任務が与えられた。それは、満州事変から世界の視線をそらせること、つまり上海事変を起こすことである。
 潜入した芳子は、軍部から手渡された1万円(現代の1千万円に相当)で中国人の殺し屋を雇い、日本人僧侶を殺傷させ、見事、軍事衝突の火付け役を果たしたのである。さらに単身、敵の砲台に潜入すると、中国軍の砲門の数や戦力も偵察し報告することもした。
上海事変、満州事変の直後に起きたこの事件の火付け役が芳子の任務であった。列強の同情を誘うのが目的であった。
 続いて、行われた熱河(ねっか)作戦でも彼女は多いに活躍した。熱河省は、アヘンの生産地でもあり経済基盤の要であった。満州国にとって、ここを併合することは重大な意味を持っていた。彼女は、軍隊を指揮し熱河省に進軍したのである。関東軍がそれを後押しする形になった。もと満州人の王女が先導するのであるから、否が応にも、満州人の血が騒ぎ立てたというのは言うまでもない。乗馬用のブーツを履きカーキ色の将校姿に身を固めた芳子が、馬に乗ってサーベルを片手に軍隊を率いる様は、まさしく東洋のジャンヌ・ダルクを彷佛とさせるようであった。
 ホロンバイル作戦では、関東軍支援のもと、芳子は単身パラシュート降下して敵地に乗り込む計画であったようだ。事実、芳子は何度もパラシュート降下の訓練をして、その時のために備えていたらしい。まさにハードボイルドのスパイ小説さながらのストーリーである。残念ながらこの計画は決行されなかったが、ここまで来ると、まるでジェームス・ボンドの女性判のようである。
* 派手で乱れる私生活 *
 この頃の芳子の生活は、かなり派手で乱れていたようである。昼過ぎに起きてきて、午後の3時頃が朝食。次いでパーティーやら付き合いに出かけるという毎日であった。夜の10時頃に彼女の昼食となるが、取り巻きは京劇の俳優や若いお嬢さんばかりで、その中心に男装し軍服姿の芳子が得意満面の笑みを浮かべて座っているのである。何とも不思議な光景だが、そんな時間が延々と続き、明け方近くになってようやく夕食の時間が来るという案配であった。
 しかし、この頃から、軍部は、芳子を持て余すようになる。なにしろ、軍部の高級将校や参謀連中にコネがあるものだから、そうした名前を餌に詐欺まがいのことをして、中国人資産家から大金をくすねるようなこともしたらしいのである。
 彼女としては、満蒙独立運動のための軍資金が欲しかったのがその理由のようであるが、こうした芳子の行き過ぎた行動は軍部の逆鱗に触れることになった。
 一時は、芳子を処分(暗殺)しようとさえ考えた軍部だが、それには忍びず、当時、国粋大衆党の総裁だった笹川良一に相談を持ちかけたということである。話を聞いた笹川が、芳子に直接会って、ことのあらましを告げたところ、彼女は、急にしおらしくなって涙を流しながら、笹川に自分の身柄を預けると誓ったという。結局、彼女はかつて生活していた大連の家に引き込んで謹慎するということで事態は落ち着いたのであった。
* 売国奴として裁判に *
 そんなことがあって、彼女の活躍する機会はそれっきり回って来なかった。そうこうするうちに、日本は敗れ大東亜戦争は終わってしまうのである。
 日本の敗戦 とともに、彼女は売国奴として国民政府に捕えられてしまった 。そして、日本軍の手先となり、同胞を裏切ったという罪で、芳子は、裁判にかけられることになる。だが、厳密に言えば、彼女は満州族の貴族で、王朝の復活と満州人の独立を勝ち得るために行動しただけである。当時、国民政府は、日本の敵だったが、それは満州人にとっても同じだったはずである。共通の敵だということで、あるいは利害関係だけで、離合集散を繰り返し敵味方の関係になるのは、当時の国際情勢では当たり前のことではなかったか?
 しかし、こうした言い分けが通用するはずもなく、彼女は、2年以上の獄中生活を余儀なくされ、数多くの諮問を受けることになった。「周囲3畳足らずの空間がオレの部屋だ。いつも、時間が来れば働かなくとも水や食事をもらえる。賄つきのありがたい身分だ。お陰で精神的に悟りさえ開けて来たよ」・・・芳子は、手紙文は、男言葉で書くのが多かったようだが、負けん気の強い彼女らしく獄中での生活をこう述べている。
 裁判では、芳子を人目見ようと人々が殺到した。そのためか、傍聴席は溢れんばかりとなり、止むなく裁判を中止することすらあった。それは、まるで、有名芸能人のスキャンダラスな記事に飛びつく群集のようでもあった。
 裁判長との駆け引きや応酬には、笑いを誘うことすらあった。彼女は、万事においても強気で例えば、質疑応答の最中にも、それを答えたらご褒美に煙草一本いただけるかしら?とか、貴方よくしゃべるわね。私、喉が渇いたからお茶いただきたいわという具合に皮肉るのである。それを茶目っ気たっぷりに言うものだから、裁判長すら失笑することすらあった。恐らく、聴衆のドッと笑うどよめきを聞きながら、芳子は、私の方が役者が一枚上手よと言わんばかりの気持ちになったことであろう。まさに、観衆を前にした大女優のワンマンショーのようでもあった。
 しかし、そうしたやり取りの間にも、死刑から逃れようと、芳子は方々に手紙を書き送っていた。年を10才近く偽ったり、中国人でなく日本国籍の自分がどうして売国奴になるのかと言ったことをしきりに訴えたのである。
 日本にいる浪速に証明してもらおうと手紙を送ったりもした。検閲があるので、含みを持たせた表現で書くしかなかったが、逆に、日本から来た返事は、自分自身の首を締める結果になってしまった。高齢でもうろくしていた浪速は、芳子の微妙な言い回しが理解出来なかったのだ。結局、芳子の年を暴露することになり、日本国籍も有していないという事実が明らかになっただけであった。まさに、万事休すであった。判決の日は、もう目前に迫っていたのである。
 その日、死刑判決が言い渡された時、芳子は、薄ら笑いを浮かべていた。それは、すべてに裏切られたこと、自分の運命をゆだねた時代への嘲笑でもあった。ここにおいて、彼女は、死以外に道は閉ざされたという事実を悟ったのである。
 死を覚悟した瞬間から、芳子の身体は、急激に消耗していった。美しかった容姿も獄中生活ですっかり変わり果てていた。白髪が急に目立ち始め、目は焦点の定まらぬうつろなものとなった。まるで別人のようであった。その衰弱ぶりは、まるで断頭台に上るのを待つマリー・アントワネットのようだった。
 そして1948年3月26日、芳子は銃殺にされた。男装の麗人は、こうして刑場の露と消えたのであった。その日、芳子の遺体を一目見ようと何千人という民衆が押し掛けたという。彼女は死しても民衆にとって噂の種だったのだ。
* 時代によって豹変するイメージ *
 彼女のイメージは戦争の推移とともに、めざましく変化している。日中戦争初期には、東洋のジャンヌダルクと騒がれた。しかし、日本の敗戦が、彼女のイメージを180度変えてしまった。東洋のマタハリと呼ばれ、売国奴として中国軍に逮捕され処刑されたのである。ジャンヌダルクが国民的英雄のイメージがあるのに対して、マタハリは、国を売った裏切り者の意味で使われることが多い。要するに、えらい違いである。
 しかし、彼女の評価が、明と暗に分かれる原因は、彼女の生きた時代そのものにあった。彼女が生まれた時代は、有無を言わさぬ時代であったのだ。
 芳子は、型にはめられた社会に置かれ、戦雲の立ち込めた世界情勢に翻弄されながらも、自らの欲するまま情熱的な生き方をしたと考えるべきであろう。
 それは、花のように短く華やかで衝撃的な生き様であった。
 もしも、勝敗の結果が逆だったならば、芳子のイメージも全く違ったものになっていたはずだ。何が正しくて何が悪いかということは、相対的な基準でしかない。勝った方が裁くという軍事裁判も同じである。
 彼女は、時代に操られたと見るべきかもしれないが、むしろ、西太后のように自らの美意識の赴くままに生きたとは言えなくはないか?「俺は、日本のために働くのではない。むしろ、俺の目的と合っているからだ。もし、逆だったら、俺は一番乗りで日本に敵対していたかもしれない」これは、小説の中での芳子のセリフだが、しかし、何とも破天荒な彼女らしいセリフのように思えてならない。
変幻自在に男を欺いた麗人スパイ。男装し時には妖艶に女装する。
世界を動かした大事件の裏に、常に彼女の暗躍する姿があったのだ。
こう考えると、全く何が起こるかわからないものである。
だから、人生は面白いのかもしれないが・・・

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