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王昭君
〜匈奴に嫁いだ悲劇の美女〜
 今から約2千年昔、ある一人の絶世の美女が、外交上の犠牲となって蛮族と言われる匈奴の王に嫁つがねばならなかった。彼女の数奇な運命は、その後、数々の伝説となり、いろいろな戯曲、小説のテーマにもなり今日まで語り継がれている。
 しかし、なぜ、彼女、王昭君(おうしょうくん)は外交の犠牲となって悲劇のヒロインにならねばならなかったのだろうか? 楊貴妃らと並んで古代中国の4大美女の一人に数えられるも、出没年不明とされ、その多くは謎に包まれたままの伝説のヒロイン王昭君の実体は、いかなるものだったのだろうか? また、彼女の嫁いだ匈奴とは、いかなる民族であったのだろうか?
* 歴代王朝を脅かす恐ろしい敵 *
 古代中国の王朝の歴史は、押し寄せる異民族匈奴との攻防の歴史と言っても過言ではない。歴代の王朝は、この恐るべき異民族との戦いに常に辛酸を嘗めさせられていたのである。ところが、超国家と言われる秦が誕生すると、始皇帝は、その強力な国力をバックに、北辺の防波堤ともいうべき万里の長城を構築し、同時に匈奴をはるか北にまで追い出すことに成功した。
 しかし、紀元前221年、独裁者始皇帝の死とともに秦は、がれきのごとく滅び去ってしまった。秦が滅亡するや否や、全国各地で農民の反乱がぼっ発し、中国全土は、再び戦乱のるつぼに変わり果ててしまったのである。その結果、広大な中国の覇権は、2人の二強の争いによって決められることとなった。
 漢の劉邦(りゅうほう)と楚の項羽(こうう)である。
 彼らは、数年の間、縦横に戦陣を駆け巡り、幾度か激しく刃を交えたが、決定的な勝敗は未だ着かずにいた。しかし、ついに雌雄を決する時がきた。紀元前202年に行われた亥下(がいか)の戦いがそれである。この時、周囲を漢の30万の軍勢に包囲された項羽は、夜更けに、敵陣の中から自分の故国である楚の歌がまき起こるのを聞いて、多くの味方が敵に寝返ったと思い、もはやこれまでと敗北を覚悟したという話は有名である。

 こうして、勝利の女神は、漢の劉邦に微笑み、戦いに破れた項羽は自決したのである。この時、すでに秦の滅亡より20年の月日が経っていた。勝利者となった劉邦は、漢王朝を打ち立てた。いわゆる前漢時代の始まりである。


 劉邦はやがて、高祖と自らを名乗り、初代の皇帝についた。彼はその時、46才になっていた。劉邦はまず都を咸陽から長安に移し、前政権の秦の失敗を教訓にして、現実的な方針で国をまとめ上げていくことに全力を投入していった。そのかいあって、漢の国力は次第に充実の一途をたどっていった。

 しかし一方、外交関係で忘れてはならない重大問題が残されていた。北方の異民族「匈奴」の恐ろしい脅威である。
 秦の始皇帝が、あれほど民衆を弾圧して恐怖政治をひいたのも、北の蛮族、匈奴の脅威を覚え、その侵入を食い止めるために万里の長城を築くため全力を投入した結果に他ならない。
 その頃、秦の滅亡後、中国が四分五裂していた内乱の時期に乗じて、匈奴は始皇帝時代に追い出された地域を回復し、再び勢力を取り戻しつつあったのである。
(左)匈奴侵入の阻止を目的につくられた万里の長城
 まもなく、匈奴は、国境侵入を頻繁に繰り返し、殺りく、略奪などの大被害を与えるようになってきた。そこで、漢の高祖劉邦は、これを阻止しようと打って出たところ、逆に平城(大同)近郊で匈奴の大軍に包囲されて大敗北を喫してしまった。
* 懐柔策に思考をこらす *

 それ以後、漢の皇帝は、匈奴の単千(ぜんう)を常に上に仰ぎ見るという条件で屈辱的な和睦を結ばねばならなかった。単千とは、匈奴の君主を意味する称号である。確かに、誇り高い中国の天子が、野蛮な遊牧民ごときに、ご機嫌とりに従始し、何かと貢ぎ物を送らねばならないということは、堪え難い屈辱であったにちがいない。しかし、それを続けなければ、和平が成立し得ないのも事実なのであった。

 匈奴の横柄さに隠忍自重を続けてきた漢の消極策も、武帝の登場によって大転換がはかられることになった。年少で新進気鋭の武帝は、即位するなり、一転して匈奴に対して強気の政策をとるようになったのである。
 武帝は永年にわたって貯えられて来た軍資金をバックに、宿敵匈奴を撃滅するための計画に着手し始めた 。
 彼は、始皇帝時代に築かれた長城の修復、増強を続ける傍ら、匈奴と仲の悪かった遊牧民族の一つ、大月氏と組んで匈奴を討とうと張騫(ちょうけん)を派遣した。
 また、天才将軍として誉れの高い衛青(えいせい)、雀去病(かくきょへい)の二人の将軍に大軍を預け、匈奴征伐を命じたりしたのである。
武帝(在位BC141〜BC87)強気の外交を押し進めた。
 この武帝に始まった強気一辺倒の政策は、一応の成果を収めたものの、百年経ち、元帝の時代になると、漢の国力は膨大な軍事費支出がたたりかなり低下してしまった。一方、匈奴の方も、さすがに疲弊してその挙句に内部分裂を起こして東西に分かれてしまった。
 西の匈奴は依然強力だったが、東の匈奴は、漢に降伏して和睦を申し出てきたのである。そして紀元前33年、東の匈奴の乎韓邪単千(こかんやぜんう)は、漢との関係をさらに強化するために、皇帝の血をひく子女を妻にしたいと申し出てきたのである。一方、漢側としても、西の匈奴を牽制するためにも、呼韓邪単千率いる東の匈奴を手なずけておくことは必要だった。

 しかし今や、匈奴が巨大な帝国を誇り、漢の天子を見下していた200年前とは異なり、立場が逆転していた以上、漢の元帝にとっては、蛮族である匈奴に皇帝の子女を出す気などさらさらなかったのである。そうして彼は、3千人の女性がいると言われる後宮の中から適当な者、つまり最も醜い宮女を選び、それですませてしまおうと考えたのである。これが王昭君が選ばれることになった背景と言われている。
* 野蛮きわまる匈奴の素顔 *
 当時、中国の王朝やローマ帝国などの文明国家からすると、匈奴などの遊牧民族はそれこそ野蛮きわまりないものとして映っていた。記録を探ると、彼ら遊牧民族の生々しい描写にお目にかかる。
 ・・・彼らは、一様にずんぐりとして、首は太く、恐ろしくがっしりした体を持っている。鼻は平たく、ほお骨は突き出て、目は洞くつのように落ち込んでいる。彼らには住家はなく、生涯を山や荒野を駆け巡って過ごしている。彼らは、生まれつき寒さや飢えにも慣れっこになっている。
 彼らは、室内着も外出着も持たず、布か一枚に縫われた野ネズミの皮で体をおおっている。ひとたびそれを身につけるとボロボロになるまで、それを脱ぎ捨てない。昼も夜も馬上で生活し、売買の交渉の時も、飲み食いする時でさえ、地に足をつけることはない。寝る時も、乗馬の痩せた首に身を傾けて、気楽に眠るのである。彼らは、食べ物を調理もしないし味もつけない。馬上の自分たちの股の間でしばしあたためただけの生肉を手当たりしだいに食べるのである。
 かんまんな動作に見える彼らも、戦闘になると急変する。世にも恐ろしい雄叫びをあげて襲いかかり、はるか遠方より、恐るべき正確さで矢を射かけてくるのである・・・
 この記述から、匈奴を筆頭とする彼ら遊牧民族は、文明国の人間にとって、見るも恐ろしい得体の知れない怪物のように映っていたことは確かである。こういうわけで、元帝が、重要な外交のためとは言え、匈奴ごとき野蛮人に麗しき中国美人をくれてやる気など毛頭なかったのもうなづけよう。
* 悲劇のヒロイン伝説 *
 王昭君が、匈奴の王に嫁ぐことになったいきさつとして、ここに一つの伝説がある。それによると、王昭君は、自分の肖像画を描かせる際、宮廷画家にワイロを支払わなかったために、故意に醜く描かれ、それが災いして、匈奴の王妃に選ばれてしまったというものである。

 当時、後宮には膨大な数の宮女がいたので、皇帝としても、その日の寵愛の相手を決めるのが楽ではなく一仕事だったと言われている。
 ある皇帝などは、ひつじに引かせた車に乗り、女性ばかりが住む後宮内を適当に回り、たまたま、ひつじが立ち止まった前の部屋の女性を選んでいたという話もあるくらいだ。
 それを知った女性たちは、ひつじの好物を部屋の入り口に置き、その匂いで何とかして、皇帝のひつじを止まらせようと躍起になったということである。

 なにしろ、後宮には何千人という宮女がいるので、皇帝の目に留まり、寵愛を受けることは大変なことだった。いたずらに時が過ぎ、皇帝にまみえることもなく、空しく老いていった女性はそれこそ無数にいたのである。

 王昭君は、南の斉(せい)の国の王氏という良家の娘で、17才の時、その可憐な美しさゆえに、選ばれて元帝の後宮に入ったとされている。
 彼女が仕えた元帝は、その日の寵愛の相手を選ぶのに、宮女の描かれた肖像画を見て決めていた。
 そういうわけなので、後宮の女性たちは、肖像画を描く宮廷画家、毛延寿(もうえんじゅ)にワイロを贈り、自分を必要以上に美しく描いてもらおうと躍起になっていた。
王昭君
 ともかく、美しく描かれれば、皇帝の指名にあずかれる可能性があったからである。そのためか、毛延寿には後宮の女性たちのワイロが後から後から入り、彼は次第に傲慢になっていった。
 そのうち、支払われるわいろの額に応じて、美しさの出来が左右されるのが当たり前のようになってきた。最後には、なるべく美女に描いてもらおうとワイロの額を競い合う始末であったという。
 しかし王昭君は、他の女性に比べると一風変わった所があった。他の女性がするように、自分を必要以上に売り込まなかったのである。

 つまり、ほとんどの女性が画家にワイロを贈って必死になっているのに、彼女だけはそれをせず、いたって冷ややかな態度をとっていたのである。それは彼女が自分の容姿に自信があったためだとか、不正を憎む性格であったためだとかいろいろ言われるが真相はわからない。その上、王昭君の平然とした鼻持ちならぬ態度が、ますます毛延寿の怒りを招く結果となってしまい、彼女は見るも無惨な醜女に描かれてしまったということだ。

 こういう理由だったので、王昭君は、いつまでたっても皇帝から指名の声がかからなかった。彼女自身も、寵愛されないわけが自分の肖像画にあることを知らずに、空しく過ぎ去ってゆく時間を恨むようになり、皇帝が後宮に来ようが、もはや顔も出さなくなっていった。

 かくして、匈奴の呼韓邪単千(こかんやぜんう)に嫁がせる女性の人選が始まった。元帝は、どうせさいはての地に住む蛮族の嫁になる女だから、水準以下の醜女でいいだろうと最初から考えていた。元帝は例によって後宮の女性を描いた肖像画をもとに選ぶことにした。

 人身御供探しのような作業が始まったが、まもなく、元帝は、膨大な美女ばかりの絵の中から、極端に醜い肖像画を目ざとく見つけたのである。彼は、この醜女なら匈奴の王妃にふさわしかろうと考えた。それらは、ごく当然の成りゆきと思えた。こうして、蛮族に嫁ぐことになる人身御供は、決められたのであった。
 匈奴に旅立つ当日、元帝は、この哀れな女に別れのねぎらいの言葉の一つでもかけてやるつもりで王昭君を謁見した。
 ところが、彼女の並外れた美貌を一目見て、元帝は腰を抜かさんばかりにびっくり仰天せざるを得なかった。彼女は、どう見ても後宮第一の美女だったからである。元帝は地団駄踏んで悔しがったが、もう後の祭りであった。悔しさと怒りで、逆上した彼はただちに毛延寿を逮捕して、市内を引き回した上、首を刎ねて処刑してしまったという。
 その後の王昭君は、馬に揺られて匈奴の地まで2千キロもの道のりを旅したという。
 その長旅は、山超え、砂漠を超え、草原を超え、延々2か月以上もかかる辛いものであった。
 その際、彼女は怨思の歌(えんしのうた)という歌をつくり、元帝に贈ったということである。
 その歌には、一度も寵愛されることがなく、さい果ての異境の地に赴かねばならなかった怨みの思いが綴られているものであった。
 彼女は、毎日、漢のある方角を眺めては帰郷の念にかられて涙し、そして3年後、呼韓邪単千(こかんやぜんう)が死ぬと、子供の妃にならねばならないという匈奴の掟を拒み、毒を仰いで自殺したということである。
匈奴の地、大草原の夜明け。中国人からすれば、さい果ての地であった。
* 異国の地でたくましく生きる *
 ・・・以上が伝説の伝えるあらましである。
 しかしこれは、フィクションであり、悪徳画家の毛延寿は実在の人物ではない。戯曲や小説を面白くするために、後世の人がドラマ性を持たせるためにつくり上げたキャラクターなのである。
 話を面白くして、王昭君を悲劇のヒロインにするためには、どうしても悪役が必要だったのであろう。しかし、このストーリーは多いに受けて、日本の今昔物語にまで採用されている。
 しかし、現実はどうであったろうか?「漢書」などの正史によると、王昭君は匈奴の地で単于の皇后となり、寧胡閼氏(ねいこあっし)と呼ばれたそうである。そして、匈奴の民に大変大切にされたとある。
 やがて、王昭君は単于との間に、男子を設けたが、嫁いでから三年目、単于が亡くなると、匈奴の慣習にしたがって、今度は新王の妻となり、さらに女子二人を生んだのである。要するに、彼女は匈奴の異境の地でたくましく生きたのである。
 確かに、自分の意思に反して、辺境の地に住む異民族に送られるという運命は、女性にとって悲嘆にくれる事実だったかもしれない。しかし、その悲劇性を強調するあまり、後世の人々が想像力をめぐらした結果、誰もが無条件に感動する内容に脚色され物語性も豊かな伝説となっていったのだろう。

 現在、王昭君の墓は、フフホト市(内モンゴル自治区)の山のふもとにある。フフホト市は、今では人口200万を擁する大都市である。また、フフホトとは、モンゴル語で青い城を意味するそうである。
 その墓には彼女の像が建てられている。
 その記念碑では、王昭君と夫の呼韓邪単千がともに馬に乗り寄り添うように闊歩している。
 そこには、外交の犠牲になり悲劇の美女というイメージは微塵も感じられない。
フフホトにある王昭君の墓の記念碑
 彼女の墓は、いつしか「青塚」と呼ばれるようになった。それは匈奴の地では白い草しか生えず、それも秋になると草木はみんな枯れてしまうのに、王昭君の墓の周辺だけはいつも枯れることもなく、ずっと濃い緑の草木が満ちているからだそうである。
青い草は中国の地にのみ生えるものらしい。そう考えると、彼女の故郷を想う哀愁が変じて草木に宿ったのだとすれば、それもうなずけるというものだ。
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