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マリンチェ
〜アステカ帝国を滅亡に導いた女〜
女の恋心で世界が滅びるとしたら、
  なんと壮大でロマンのある話だろう・・・
 16世紀初頭、メキシコで最大を誇ったアステカ帝国は、コルテス率いるわずかなスペイン人によって滅ぼされた。しかし、一人の女性の存在がなければ、強大なアステカ帝国は負けなかったとさえ言われている。アステカ文明に滅亡を持たらした女の名はマリンチェ。今日、彼女の名は祖国メキシコでは裏切り者として見なされている。彼女は何を考え何をしたというのだろう。一体、知られざる史実の裏に何があったのか?
* 不運な少女時代 *
 マリンチェは1502年頃、メキシコ湾の南海岸にあるパイナラという町の首長の一人娘として生まれた。この地方は元来、土地が肥沃で雨も多く、とうもろこしなどの作物がよく実り生活しやすい恵まれた環境である。幼い頃、マリンチェは裕福な名家の子女としてふさわしい教育を受けるために、テノチテトランに留学し勉学に励んでいた。当時のテノチテトランと言えば、まぎれもなく世界一級の巨大都市で、花もときめくアステカ帝国の首都である。
 だが、父が非業の死を遂げたため、急きょ、学業半ばで帰国せねばならなくなる。残された彼女の母は、まもなく新しい夫を迎え男の子を出産した。ところが、このことは彼女の運命を左右する一大事件に発展する。両親にとって、男の子が誕生して首長の家柄が保証された今となって、今度はにわかにマリンチェの存在が気がかりとなって来たのである。
 ある夜、マリンチェは両親が寝室で自分のことを疎ましい存在だとささやき合っていることを偶然耳にしてしまう。つまり、両親にとって自分は将来の憂慮すべき種のように思われているのを知ってしまったのであった。この訳は、彼女の生まれ月にも原因がある。マリンチェは元の名をマリナリと言った。この名は炭の草を意味する。それだけでなく、アステカの特異な暦によれば、この日は第20番目の12日目にあたり、運命的な贖罪(しょくざい)をも意味するのである。
 贖罪とは、何がしかの罪を犯し、その罪ほろぼしのためにいろいろな行ないに走らねばならないことを意味する。アステカ人は誰もが生まれた月の性格に影響されて生まれて来るものと固く信じていた。こういうことなので、両親が今後、利発で美しい自分の娘が、何かとてつもない罪をしでかし、その災いが自分たちに降り掛かかって来るかもしれないと危惧したのであろう。この時、自分の両親に邪魔者あつかいされたマリンチェの悲しみはどれほどのものであったろう。だが今にして思えば、その予言はあたっていたと言えるかもしれない。マリンチェはやがてアステカ帝国を滅ぼすことになる運命の乙女になるのだから。
 この頃、近くの奴隷の家で同じ年頃の少女が死ぬという出来事が起きた。そこで渡りに舟とばかりに、両親は奴隷の家から死んだ少女の遺体を引き取り、マリンチェが死んだことにして丁重に葬儀を行なったのである。言わゆる身代わりである。当のマリンチェは奴隷の娘としてタバスコ地方の首長に売られることになった。現代の基準から考えればひどい話だが、当時は家柄や国のことが最優先で、存続繁栄のためなら個人さえ犠牲にしても構わないというのがごく普通の価値観であったのだ。
 そういうことで、マリンチェは奴隷の娘としてタバスコのある村に売られていった。この地方の言葉はマヤ語である。聡明な彼女はしばらくするうちに、マヤ語を覚えてしまう。こうして、母語としていたアステカ語に加えて、マヤ語も話せるようになったことは、以後の彼女の運命に決定的な意味を持つようになる。
* コルテスとの出会い *
 それからしばらくして、エルナン・コルテス率いる11隻の艦隊が、マリンチェのいるタバスコの海岸にやって来たのは1519年3月のことであった。その時、マリンチェは17才。タバスコの首長は彼らの機嫌を取るために、黄金や宝石、数多くの貢ぎ物とともに、20人の美女の奴隷を差し出したが、その中にマリンチェもいた。中でもマリンチェの美しい容貌は一際男たちの目を引いた。長身で均整のとれた肢体、栗色に輝く肌、長く垂らした艶のある黒髪。誰もが類まれな美女だと思ったことだろう。しかし何と言っても、彼女の情熱的な輝きを帯びた、知的で好奇な眼差しは千の言葉に匹敵するほどの魅力があった。
 そして事実、彼女はたちまち34才のコルテスの心を虜にしたのである。一方、マリンチェもコルテスの熱い視線を感じた瞬間に安らぎのようなものを感じた。このお方こそケツァルコアトルに違いない。もし、このお方と一夜をともにすることが出来るなら、私は神の子供を授かるかもしれない。この私がケツァルコアトルの子供の母になるんだわ。彼女はそう思うと、全身の血が逆流するような興奮を感じた。この時、彼女は自分でも突飛な妄想だと思ったろう。だが、動き始めた運命の歯車はもう止めることが出来なかった。なぜならマリンチェのこの直感はまもなく現実のものとなるのだから。こうして宿命を帯びた二つの線は必然的に交差するのである。
 この後、20人の女奴隷はキリスト教の洗礼を受ける。この時、マリンチェは自分本来の名前マリナリの発音とよく似たマリーナというスペインふうの名前を授かった。彼女はスペイン人からは、ドニャ・マリーナと呼ばれることになる。ドニャとは高貴な女性を呼ぶ時の尊称だが、これをみてもわかるように、スペイン人たちがいかに奴隷身分だった彼女たちを手厚く待遇し、一人前の人間とみなしていたかわかるというものである。このドニャ・マリーナがアステカふうになまってできた名前がマリンチェで、アステカ人が彼女を呼ぶ時の名前であった。これがマリンチェの由来である。ところが皮肉なことに、アステカふうのこの呼び名には裏切り者という意味も込められているということだ。
 まもなくマリンチェはスペイン語をもたやすく覚えてしまう。かくしてアステカ語を始めマヤ語、スペイン語もマスターしたマリンチェは、以後、コルテスの通訳としてなくてはならぬ存在となり大活躍をすることになるのだ。彼女を通じて持たらされた情報はどれも千金の値打ちがあった。例えば、どの部族が何を考えて、どう行動しているのか、また反乱を企てている部族はどこかといったアステカ帝国の矛盾や弱点、つまり機密情報が手に取るごとく知ることが出来たのである。この一環として、コルテスが彼女からアドバイスを受けたものにケツァルコアトルの伝説がある。
 元来、アステカにはケツァルコアトルの言い伝えがあった。ケツァルコアトルとはもと国王で神官であったのだが、アステカ古来の生けにえの風習に反対して追放された神である。かくして、ケツァルコアトルを追い出した後、アステカ帝国を牛耳ることになったのは、ウィツロポチュトリという戦の神であった。
 追放されたケツァルコアトルは、私は必ず帰って来ると言い残して東の海に姿を消したという。
 その予告の年に偶然、東の方角からコルテスがやって来たものだから、タバスコの首長もてっきりケツァルコアトルが帰って来たと思い込んで慌てふためいてしまったというわけである。
 なにしろ肌の色が白いことや髭もじゃであるという彼の風貌も、伝説のケツァルコアトルの特徴にそっくりなのである。こうしたことから、マリンチェでさえ、最初はコルテスのことをケツァルコアトルだと思い込んだのであった。
部族の使者の通訳をするマリンチェ
 コルテス自身も、マリンチェから自分がかつて追放されたアステカの神と間違われていると聞かされた時は大変驚いたらしい。ではいっそのこと自らケツァルコアトルと称してふるまった方が、何かと都合がいいし物事も運びやすいと考えた彼はその伝説に便乗することになる。これもコルテスの抜け目なさの一面と言えよう。今でこそ、コルテスは黄金に目のくらんだだけの欲深い征服者のように思われているが、実際の彼は、ユーモアがあり、大変な女好きで、そのうえ頭の回転もはやく、相手の心理をみすえた組織の統率力は非常に有能で並外れたものがあった。
 例えば、部下たちがこれ以上の進軍に不安を抱き始めていると気づくと、船と食料を用意するから退却したい者は、これでキューバまで退却してもよいと言ったことがあった。不思議なことに、人間というものはいったん逃げ道が確保されてしまうとにわかに強気になるもので、そのうち他の者がそんな弱虫はむしろ軍法会議にかけるべきだと騒ぎ出す。結局、コルテスは頃合いを見て、軍法会議はちょっとやり過ぎだよなどとつぶやきながら、では進軍するしかないなと言って撤退許可をしぶしぶ取り消すのだが、それは一種のポーズなのである。結果的に彼としては、部下たちに自主的に行軍を決めさせることとなり、むしろ全軍の士気が強まったと内心ほくそ笑むというわけだ。
 また、民家から数羽のニワトリを盗んだ兵がいたが、彼は「掠奪することは断じて許さん。光輝ある我スペイン兵にあらず。即刻死刑だ」と大声でどなり、絞首刑にしようとしたことがあった。多くの兵士の見つめる前で、さあ処刑が行われようとする寸前、コルテスの幕僚の一人が兵の助命を懇願しながら大袈裟なデスチャーで飛び出して来た。コルテスは頭を抱えてしばし考えた末、舌を鳴らしながらこれを認めて兵の首からロープをはずしたという。これを見ている兵もコルテスの寛大さに感謝の念を覚えたにちがいない。しかし、これにしてもポーズで、最初からすべて幕僚と打ち合わせがなされていたのである。こうした見事な演出により、貴重な兵士の命をムダにすることなく、全軍の規律を引き締めることが出来たというわけである。
 コルテスのやり方は万事がこんな調子で、相手の心理を見ぬいた上での巧妙な駆け引きというものであった。つまり間接的に誰かをはさむことで、さもかし自分たち自身で重大決定をしたかのように自覚させて自発的に行動するように仕向けるのである。だが実際は、彼に心理を見透かされて思惑通りの方向にまんまと誘導させられているのに他ならないのだ。
* テノチテトランへの進軍 *
 スペイン人が海岸部に到着したことを知ったアステカ帝国皇帝モクテスマは、ただちに使者を送った。彼らがどういう目的でやって来たのか知りたかったからだ。贈り物の黄金の装飾品をたずさえた使者はコルテスのもとに使わされた。使者は帰って来るなり見聞きしたことをモクテスマに報告する。その内容は、大音響を轟かせて何物をも粉々にしてしまう大砲のことや見なれぬ馬のこと、そして白い肌でひげもじゃのスペイン人の風貌などに終始していた。
 これを聞いたモクテスマは恐怖にうち震えた。聞けば聞くほど伝説とうりふたつなのである。最後には絶望のあまり卒倒しそうになった。伝説のケツァルコアトルがついに我々を滅ぼすために帰って来たと思ったからである。モクテスマがこのように信じ込むのも無理はなかった。ちょうどこの数年、テノチテトランには不吉な前兆と思われるさまざまな異常現象が起きていたからである。例えば、奇妙な光が天空に走ったり、神殿のあちこちに不審火があがったり、夜になるとどこからともなくうす気味の悪い女のすすり泣く声が聞こえて来たりするのである。湖で奇妙な鳥が捕らえられたこともあった。その鳥の頭には半透明の球がのっていた。モクテスマがその球を見ると、鹿のような怪物にまたがった異様な姿の戦士の群れが映ったということだ。また頭が二つある奇怪な人間が市中で目撃されたこともあった。
 これらの前兆は何を意味するのであろうか? ケツアルコアトルがやって来て、アステカ帝国を滅ぼす前ぶれなのであろうか? モクテスマと神官たちはそう考えて、何とかして彼らを食い止めることは出来ないものかと思索を思いめぐらした。そうして得た結論は、貢ぎ物を持たせて使者を繰り出し、彼らの機嫌をとってテノチテトランへ来ることを断念させようとすることだった。一方、コルテスは使者が携えて来た見事な黄金の贈り物に目がくらんでいた。皮肉なことに、使者が貢ぎ物を持って丁重にメキシコから立ち去るようにと頼めば頼むほど、それに反比例するかのように、彼らスペイン人はますます興味を持ってのめりこんでいく結果となってしまった。
 こうしてテノチテトランへの行軍が開始された。表向きは友好のために皇帝に会いにゆくとうたっていたが、その実体は侵略して金銀財宝を奪うことが目的である。進撃に先立ち、コルテスは海岸に停泊している船を一隻だけ残し、すべてを燃やしてしまった。こうすることでもう後戻りが出来ないことを部下に示して、勝利への執念を焚きつけるためである。残された一隻はスペイン本国に向かって出帆していった。その目的はキューバ総督の許しなくメキシコ征服に乗り出していくことへの承諾を国王から得るためであった。だが、その前にはいろいろな部族が立ちはだかっていた。当時のアステカ帝国は、言わゆる連邦制で、大小の国々から成り立っていたのである。しかし連合と言っても、アステカ族中心の専制支配であることにはちがいなく、その過酷な取り立ては各部族の憎悪を誘う要因にもなっていた。そのため敵対する部族と戦争が絶えることはなかった。
 だが戦争と言っても、その目的は儀式のための生けにえを得ることがメインで、あくまで相手の国を侵略して滅ぼしてしまうという性格のものではなかった。つまり、戦争は殺し主導ではなく、捕虜を生きたまま捕えることに主眼が置かれていたのだ。その上、戦うにしても決まり事があり、例えば、戦う際には寝込みを襲ってはならず昼間に行われねばならないとか、休日には戦争をしてはならないとか、まるでスポーツ感覚にも等しいところがあった。アステカ人はこれを花の戦争と呼んでいたらしい。
 ともかく、コルテスの軍隊は時には威嚇し、時には話し合いという懐柔策を交えて、部族を手なづけながらさらに奥を目指した。マリンチェは通訳のみならず、時にはアステカの女となって相手の陣営に入り込み内幕を探って大活躍をした。相手もアステカ人と見れば気を許して話してくるので、さまざまな情報が聞けたのである。こうして、センポアラ族、トトナカ族がコルテス陣営に加わった。
 行軍はさらに続く。景色はやがて草原から高原のものに移っていった。これまでよく目にした綿の木やトマトの木は、刺のある肉質の植物にとって代わってゆく。やわらかな地面はゴツゴツした岩肌に変化していった。この辺はトラシュカラ族の領地だということであった。この高原に住む種族は、アステカ族でさえ一目置くというほどの獰猛で好戦的な山岳部族で知られていた。
 この部族との戦いは苛烈をきわめ、貴重な馬数頭と50名ほどのスペイン兵が失われてしまった。しかし大砲や火縄銃、鋼鉄製の剣や甲冑は、戦いでその威力を存分に見せつけた。特に馬に乗った騎兵の姿は、異様な生き物と映ったらしく彼らの戦意を喪失させ大混乱を巻き起こした。こうして幾度かの戦いの後、トラシュカラ族はコルテスからの和平を承諾し同盟に加わることを決意する。
 かくして行軍をはじめて半年後、コルテスの軍隊とインディオの同盟軍は、ついに巨大ピラミッドがある古い城塞都市チョロランに到着した。マリンチェはここでも重要な情報をコルテスに持たらした。チョロランの部族が歓迎するふりをしながら、その裏ではひそかに攻撃の準備をしていると報告したのである。これを聞いたコルテスは、先制攻撃だとばかり、チョロランの兵を広場に集めると大虐殺を行った。 この時ばかりは、マリンチェはあまりの残酷さに失望し意識を失った。アステカのためだと信じて最善をつくして来たはずが、果たして本当に正しかったのだろうか?彼女の心の中でコルテスへの怒りが生じたのも確かである。
 だが、チョモランも落とした同盟軍は着実にアステカ帝国の首都テノチテトランに忍び寄っていた。山々の空気は冷たく希薄になり、時おり粉雪もぱらつき始める。
 険しい山道を何度か通るうちに、急に広大なメキシコ盆地が眼下に広がって来た。将兵の中には思わず感嘆のタメ息をもらす者さえいる。
 とうとう、大小の湖に囲まれてひときわ大きな湖の真ん中に白く輝く巨大な都市が浮かび上がって来た。これこそ、夢にまで見たアステカの首都テノチテトランである。
スペイン兵たちは、ついにメキシコ盆地を眼下にするところまで来た。
* 壮大な都テノチテトラン *
 アステカの首都テノチテトランはテスココ湖に浮かぶ小さな島の上に築かれていた。市内に入るには、湖を二分する幅8メートル、長さ7キロの石で鋪装された堤防の道を渡らねばならない。コルテスは馬に乗ってはなばなしく行進してゆく。その後を旗を持ったり、鋼鉄製の刀をたずさえたスペイン兵の隊列が続く。堤防の道は途中で、幅5メートルの水路があって橋がかかっていた。橋を渡り終えると、急に視界が開け、もうそこは別世界であった。真っ白に輝く神殿や宮殿の一部が目前にせり出して来る。とてつもない巨大さに圧倒されそうになる。周囲は耳を覆いたくなるようなものすごい大歓声だ。胸を打つ鼓動が頭の中でガンガン響き渡っているのが聞こえるほどだ。
 テノチテトランに入城したコルテスは、そこでついにアステカ帝国皇帝モクテスマと会った。モクテスマは長身で黒い髭を生やし、40才前後の澄んだ眼差しをした痩せた男であった。一見、友好的にふるまってはいるものの、彼の複雑な表情からは、いかにコルテスの機嫌をとって厄介払いしたものかという意図が見てとれた。これまで、へつらったり貢ぎ物を送ったりもした。脅したりごまかしたりもした。しかしそれらをすべてはねのけて、険しい山岳地帯を通り抜け、インディオの襲撃をものともせず、とうとうやって来たのである。言い様のない不気味さを感じるのも当然である。
 とりあえず、コルテス一行は神殿の一角を割り当てられ、そこを宿舎とすることになる。その後、市内を見物することを許されたコルテスは、中でも最大の神殿の一つに登ってみることにした。
 部下に付き添われて、息せき切って140段の石段を登りつめ、ようやく神殿のてっぺんにまで到達したコルテスは、そこで湖中の巨大都市テノチテトランの壮大な全景を目の当たりにした。自然と見事なまでに調和した幾何学的な人工美がそこにあった。魂のふるえるような感動とはこのことを言うのだろう。右手には巨大なウィツロポチュトリの神殿がそびえ立ち、その両となりにも雄大なピラミッド、巨大な塔や像などが整然と立ち並んでいる。周囲は見渡すかぎりのコバルトブルーである。目を細めると、陽の光を受けてキラキラと光る湖面の間を無数のカヌーが行き来しているのが見える。はるか湖岸には延々と連なる美しい白亜の町並みが望見できた。遠くでうっすらとそびえ、もくもくと白い煙を立ち上らせているのは、アステカ人の言う悲しみの山と呼んでいる活火山であろうか。
 あまりの壮大なパノラマに我を忘れたコルテスは、驚嘆のタメ息をついて目前に広がるテノチテトランの景観に見入っていた。これほど壮麗で雄大な水の都は見たこともない。恐らく、壮大さと美しさでは噂に聞くベネチアをはるかに凌駕していることだろう。眼前にあらわれた光景が果たして現実のものかどうかさえわからなかった。まさに夢うつつの気分なのだ。
* 黄金に目のくらむスペイン兵 *
 テノチテトランでは、多数の奴隷にかしづかれ、もてなしを受ける毎日だったが、モクテスマの意中を見抜けないコルテスは次第に不安になってゆく。一見、穏やかな振る舞いの中に、隙あれば打ち倒してしまおうという魂胆が隠されているように思えてならないのである。ちょうどこの頃、宮殿の一角で黄金、財宝が隠されていた秘密の部屋が発見された。しかし厳重に口どめをしたにもかかわらず、この黄金の宝庫発見のニュースは全軍に伝わってしまった。部下のスペイン兵かトラシュカラ族が黄金に目がくらみ反乱を起こす危険性すら出て来た。このため、早急にアステカ征服という目的を将兵に示し、全軍の士気を高めるために何らかの手段を高じる必要があった。コルテスはよく考えた末、口実をもうけてモクテスマを自分たちの宮殿に幽閉することにした。
 そんな時、800人の新たなスペイン兵が海岸に上陸したことが告げられた。キューバ総督のベラスケスが無断で内陸侵攻をしたコルテスに激怒し、討伐しようと派遣した懲罰軍である。ウカウカしていれば、味方の手によって処刑されてしまうかもしれないと判断したコルテスは、300名ほどの兵をテノチテトランに残して、上陸したスペイン軍を迎え撃つために海岸に急行する。コルテスが率いる兵は90名ほど。これでは普通では勝ち目はない。しかしコルテスには一計があった。要所要所の地形に通じていた彼は、奇襲作戦をとり、派遣部隊の隊長を見事捕らえることに成功したのである。安堵のタメ息もつかぬ間、彼はここぞとばかりスペイン兵の前で言葉たくみに演説した。
「我らはテノチテトランを制圧した。さあ、今こそ、力を合わせてスペイン王のために奉仕する時だ。黄金はすべて諸君にも分配しようと思う。俺について来るか?」
 もちろん、彼の言葉に反対する者はいない。こうして千名近くに膨れ上がった部下を引き連れて、再びテノチテトランに舞い戻ろうとした。その矢先、テノチテトランで反乱が起きて深刻な事態に落ち入っているというとんでもない知らせが部下によって持たらされた。残って彼の留守をしているはずのスペイン兵たちが黄金に目がくらみ、こともあろうに数百人のアステカ貴族を虐殺して、身につけている装身具や金品を奪ったというのである。これが原因でアステカの全市民は激怒して立ち上がり、スペイン人を追いだそうと一致団結して猛烈な攻撃を加えているということであった。
 果たして、コルテスがテノチテトランに戻って来ると、都は死の静けさが支配していた。スペイン兵たちは、食料も水も不足して瀕死の状態で神殿の一角に追い詰められていた。彼らの中にいたマリンチェに聞くと、アステカ人たちは幽閉されて何の権限もないモクテスマに代わって、弟のクイトラウクを新しい皇帝に立てたということであった。アステカ人の怒りは、収まることもなくその苛烈さは表現のしようがないほどであったという。
 コルテスの要請で、彼らを静めようと民衆の前に立ったモクテスマだったが、裏切り者とののしられ、民衆の怒りを招いただけだった。たちまち石と矢が雨あられと浴びせかけられ、モクテスマは地面に倒れ伏してしまう。モクテスマは深手を負ったというよりも、自分の地位が地についてしまったことの方がショックだった。「私は裏切られた。私はアステカの民に裏切られた・・・」モクテスマはうわごとのように、その言葉ばかりくり返していた。そして3日間も苦しみ抜いた末、マリンチェの手を握ったまま息を引き取った。
 モクテスマが死んでしまった以上、もう誰も彼らの怒りをなだめることは出来なかった。もうこうなればいちかばちかで脱出するしか手がない。かくして必死の撤退劇が敢行された。猛烈な石と矢が降り注ぐ中、犠牲者の体を盾にしながら、また敵か味方かわからぬ死体を押しのけながら、ただ闇雲に突き進むだけであった。こうして何とか逃げおおせることが出来たのは、全体の3分の1ほどであったという。スペイン人に付き従っていたインディオもほぼ全滅状態であった。大砲も火縄銃もすべて失われた。
 しかし、コルテスにとって一番嬉しかったのはマリンチェが無事だったことである。ようやく脱出劇が終わった頃、生き残りの中に彼女の姿を見つけたコルテスは、始めて男泣きした。ふだん沈着冷静で決して弱音など吐かなかった彼が、疲れ切った部下の目の前で、マリンチェの手を取って泣き崩れたのである。信じられぬ光景だったが、それほど脱出劇は苛酷なものだったのである。マリンチェの心もそれは同じだった。コルテスの通訳であり、また妻として付き従っていたマリンチェは、この時ほどコルテスの愛情を感じたこともなかったにちがいない。もう死ぬも生きるも一緒、彼女は自分に課せられた定めを今さらのように噛みしめるのであった。
 こうして、惨たんたる敗戦を経験したコルテスは、生き残りの兵を集めてひとまずテノチテトランを後にする。それはコルテスがテノチテトラン入城を果たしてから8か月後のことでことであった。
* アステカ帝国滅亡 *
 この後、天然痘が猛威をふるい、敵味方を問わずメキシコ全体を総なめにした。免疫力のないインディオたちは、発病すると高熱が出て体中が斑点だらけとなりまたたくま間に死んでいった。コルテスが引き上げた後のテノチテトランでは、アステカ族の実に大半が死んでしまい、新皇帝のクイトラウクもこの伝染病で死んだ。新大陸から持たらされたこの生物兵器こそが、アステカ帝国滅亡に大きな手助けとなったことは間違いない。
 それから5か月後の1520年12月28日、コルテスは再びテノチテトランの征服に乗り出そうとしていた。彼の部下は40人の騎兵を始め、600人のスペイン兵である。行軍の途中で、これまでアステカ族に煮え湯を飲まされて来た部族が次々と加わり、その数15万人以上に膨れ上がっていった。巨大化したコルテスの軍隊とインディオの同盟軍は、ひたすらテノチテトランに迫ってゆく。こうしてアステカ帝国滅亡の序曲は始まった。
 これまで、アステカ族から共同戦線を張ってともにスペイン人と戦おうという申し出が何度もあったのだがすべて拒否されていた。帝国内のどんな従属国もアステカ族に味方するものはなかった。長年の圧政によってアステカ族はことごとく憎まれていたのである。あらゆる部族からそっぽを向かれたアステカ族は、完全に孤立化し、四面楚歌の状態に追い込まれてしまった。
 コルテスは、テノチテトランに到着すると、包囲して兵糧攻めにすることを考えていた。沿岸部を押さえて、首都への補給を断ち切ったのである。最初、士気が旺盛だったアステカ族もみるみる弱まり出した。沿岸部からは大砲がひっきりなしに撃ち出され、アステカ族を吹っ飛ばす。大量の石や土が運ばれて来て、橋が取り外された切れ目に投入された。やがて頃合いを見計らって、スペイン兵がなだれ込んで行く。飢えと病に苦しんで疲弊するアステカ族にもう彼らの侵入を防ぐ力はなかった。たちまち運河にはアステカ族の死体が積み重なってゆく。
 急速にろうそくの炎が消えていくようにアステカ族の抵抗は弱まっていった。これがアステカ帝国の最期の様子である。スペイン軍の軍門に下ったアステカ帝国最後の皇帝クアウテモックは全面降伏を承諾した。6万のアステカ兵はすべて武器を捨てた。1521年8月13日、その日がアステカ帝国滅亡の日であった。
* 永遠の眠りにつく *
 その後、マリンチェはコルテスの子供を身籠った。1523年の暮れ、マリンチェは男の子を無事に出産。その子の名前はマルティン・コルテスと名付けられた。コルテスはついに自分の跡継ぎができたと言って大喜びであった。その間にも、彼のおさめるメキシコ国内ではさまざまな問題が噴出し始めていた。スペイン本国からも多くの役人が補佐として続々と到着していたが、その実体は彼の監視役で、隙あらばコルテスの罪状をぜっちあげて権限をとりあげることであった。また国内でもかつての彼の部下が公然と反旗をひるがえしたりしていた。反乱と陰謀がところ狭しと渦を巻いていたのである。
 そのためコルテスは、一か所で落ち着くことも出来ず、マリンチェを連れて各地に鎮圧に出かけねばならなかった。ところがそのマリンチェは産後の肥立ちが思わしくなく、それに度重なる行軍の疲れが追い打ちをかけた。彼女は日に日に弱まりついに重い病気になり病床に伏してしまったのだ。死の直前、コルテスは涙ながらに死相のあらわれたマリンチェの手を取って懸命に励ましていた。そのかたわらには、まだ4つにもならない彼女の子供マルティンが死にゆく母親を分けもわからずじっと見つめている。やがてマリンチェは病人とは思えぬほどのしっかりした口調でコルテスの目を見つめて言った。
「私はメヒコ(メキシコ)の女でありながら、アステカを滅ぼしました。その意味で私は裏切り者です。でも私は今、メヒコのために死にます。人の死は新たな生命となってよみがえります。それがアステカのおきてです。きっと・・・きっと、メヒコが新しくよみがえることを・・・私は信じています・・・」
 こういい終えたマリンチェの表情はとてもおだやかに見えた。ほんの一瞬、マリンチェの目に炎のような輝きがもどった。コルテスは目に涙を一杯ためマリンチェの手をしっかり握りしめている。彼の脳裡には奴隷の身分だった彼女との初めての出会いから、さまざまな辛苦をともに過ごした数年間の出来事までが走馬灯のようによみがえっていた。それからまもなくして、マリンチェは静かに目を閉じると永遠の眠りについた。時に1527年、アステカ帝国が滅亡して6年後のことであった。
* 生き続けるマリンチェの心 *
 その後のコルテスの運勢は下降線をたどってゆく。何度かスペイン本国とメキシコを往復して、ある時は嘆願に、ある時は弁明に駆ずりまわった。いたるところに彼の成功をねたむ者はいたのである。落ち目となった人間に運命の神は無慈悲である。まもなくコルテスは資金不足にあえぎ出し、借金をするまでに追い詰められていった。メキシコ政庁の彼の領土を召し上げるという法令に激怒したコルテスは、国王に直訴すると言って本国に旅立ってゆく。しかしこれが最後の航海になった。彼は本国を駆ずりまわったあげく、重要な会議にも出席を許されず、悲嘆のうちに病死するからである。コルテスの遺言は自分のなきがらはメキシコに葬って欲しいというものであった。マリンチェが死んで20年後のことである。
 一方、残された子供マルティンの方は、しばらくマドリードに残って生活していたが、彼が40才の時にメキシコに帰って来た。しかし1年後、反政庁の陰謀に加担したという罪で投獄され、メキシコの地から永久追放にされた。同時にスペイン宮廷からも追放処分を受けたという。マルティンがその後どうなったのか誰も知る者はいない。
 マリンチェが死んで5世紀近くが経った。現在、マリンチェの子孫たちはメキシコの風土に深く浸透し、将来の繁栄を担う重要な存在になっている。
 確かに、マリンチェは一時は祖国を売った裏切り者のように見なされたこともあった。しかし彼女は今では神話化され、未来を生む象徴とまで見られるようになっている。
 つまり、新しい世界の第一歩を築くため、禁断の実をアダムにすすめたイウ゛とでも表現すればいいのであろうか。
 こう考えれば、マリンチェはやはり誕生の母であったと言うべきかもしれない。子孫に受け継がれた彼女の魂は今も脈々と受け継がれている。
ベラクルス州の町にはマリンチェの像が立てられている。
 アステカ生まれの乙女マリンチェは、新しいメキシコのマリンチェとなってこれからも人々の心の中で、永久に生き続けることだろう・・・。
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