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マリー・アントワネット
断頭台の露と消えた悲劇の王妃
* フランスの王妃として *
 マリー・アントワネットはオーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘として、1755年11月2日に誕生した。女帝マリアが生んだ16人の子供の中の15番目の子供だった。
 マリアは、大変愛情深い母親であったといわれているが、ことさら、アントワネットを最も可愛がったとされている。それは、アントワネットが末娘だったということもあるが、彼女の生まれ持った性向によるものも多分に影響していると思われる。アントワネットは快活で社交的、そして頭のよい子供であった。しかし、その反面、気まぐれで気が変わりやすく、一つのことを長時間続けることが出来ない一面を持つ子供でもあった。アントワネットは、大人になってからも、一冊の本をも最後まで読み通すことが出来なかったと言われている。こうした、無邪気で愛らしく、その反面、気まぐれでこわれやすい面を合わせ持った末娘のアントワネットに、ひとしお、マリアは母性本能を感じたのかもしれない。
 マリアのアントワネットに対する愛情は、彼女の嫁ぎ先として、ヨーロッパでも最強の国の一つフランス王妃の地位を確保してやった事実を見ても理解できよう。そして、このことは、オーストリア・ハプスブルク家にとっても大きな意味を持っていた。
 当時、フランスとオーストリアは、数世紀の間、敵対関係にあった。とりわけ、マリアが23才でオーストリアの王位についた時、女子の王位継承を認めぬプロシアは、交換条件として重要な領土シレジアを要求し、それを断られると、フランス、スペインなどと同盟を組んで戦争を仕掛けてきた。マリアは、自らの王位を守るためにこれらと戦わねばならなかった。この時代、各国は植民地をめぐって、利害関係で同盟を組んだり、対立したり、絶えず離合集散をくりかえしていたのである。
 戦争は、十数年の間、ひっきりなしに続いた。その挙げ句、外交手腕によって何とかこの苦しい戦争を終わらせることが出来たものの、結局、オーストリアの心臓とも言える工業地シレジアをプロシアに奪われてしまった。シレジアを奪われたオーストリアは全くの弱小国に成り下がる危険性があった。
 このことは、男勝りのマリアの気性からすれば、許せざる屈辱とも言えるもので、彼女と国民は、憎むべきプロシアからシレジアを奪回することを合い言葉に、その後、奮闘努力を続けることとなった。
 しかし、プロシアを国際的に孤立化させるためには、どうしても長年の敵とされるフランスの力も借りる必要があったのである。 つまり、フランスの存在こそが、複雑な国家間の力のバランスを左右する鍵を握っていたといっても過言ではない。 
24才時のマリー・アントワネット
 この意味で例え、政略結婚であったとしても、アントワネットがフランスの王妃につくということは、オーストリアがフランスとの絆を揺るぎないものとし、再度、ヨーロッパの強国となるための絶対条件だったとも言えるのである。
* 退廃的な享楽に身をまかせる日々 *
 こうした、国家間の利害目的に、自分が関係しているとは、露とも知らぬマリー・アントワネットは、オーストリアのハプスブルク家から、フランスのブルボン家に輿入れすることとなった。その時、彼女はまだ14才で、いきなり質実で家庭的な雰囲気のオーストリアから、突如として華美で快楽的なベルサイユ宮廷に放り込まれることとなったのである。このことは、思春期の少女だったアントワネットの心に大きな変化をもたらすこととなった。 もともと、社交的で快活、好奇心旺盛の彼女は、このベルサイユ宮廷の持つ華やかなムードにたちまち魅了されてしまった。そうして、彼女の性格は、度の外れた遊びや贅沢を好むようになっていくのである。
 この頃のフランスは、ベルサイユ宮廷を中心にロココ主義といわれる文化の絶頂期でもあった。
 ロココ文化と言えば、表向きは繊細で優雅、華美を特徴とする貴族文化とされるが、実際、その背景にあるものは、一時の快楽をむさぼるだけの退廃的精神しか見い出せぬものと言ってもよかった。
ルイ14世が建てたバロック建築の代表とされるベルサイユ宮殿
 それは、恐ろしいほどの退屈の中にあって、これから到来するかもしれない大きな絶望と崩壊を少しの間だけでも忘れようとする刹那的快楽のようなものであった。
 人々は、あえて現実から目をそむけては、得体の知れない不安を感じながらも破滅型の享楽に身を投じ、踊り狂っていたのだった。まさに、それはバブル崩壊直前の日本を彷佛とさせる様相であった。
ベルサイユ宮殿の内部
 その現実とは、財政のひっ迫にあった。その頃、アメリカではイギリスの圧政に我慢しきれず、植民地側が独立戦争を起こしていた。国王ルイ15世は、ライバルのイギリスに打撃を与えるために反乱軍側に20億リーブルという莫大な援助をしたが、そのことが原因で王政は、火の車となり、恒常的な財政難に悩まされていたのである。この当時のフランスの年間収入が5億リーブルというから、国王が反乱軍に援助した額の大きさがわかるだろう。
 国王ルイ15世は華やかさを好み、強気の国王として知られていたが、先のことを考える決断力に欠ける人物でもあった。
 財政の赤字は、銀行から借金をしても、膨らむばかりで、やがて、王は平民に重税を課すようになった。つけを回された平民の怒りは各地で暴動となって頻発するようになっていった。
ルイ15世
 悪い時には悪いことが重なるもので、大かんばつが追い討ちをかけた。1787年には大洪水が起こり、続いてひょうが降った。この異常気象による酷暑と乾燥で、家畜がバタバタと死に絶え、作物は壊滅状態となった。農民は暮らしていくことが出来なくなり、飢餓で野たれ死にする者が後を絶たなかった。多くの農民が浮浪者となって都市に流れ込んでいくが、仕事などあるはずもなく、そこでも失業者だらけで、物乞いする人々がそこら中あふれかえていた。都市の治安は劣悪となり、一日の糧を得ること自体が至難のわざであった。パンの値段はとんでもなく高いものとなり、夜中から、パン屋の前で列をつくっても買えない状態だったのである。
* 残された負の遺産 *
 この経済恐慌をつくった張本人とも言えるルイ15世は、アントワネットがフランスにやってきて4年目、天然痘であっけなくこの世を去ってしまった。こうして、アントワネットは彼女の夫ルイ16世とともに王位につくこととなった。当初の目的がこんなに早く達成したことは幸運であったかもしれないが、彼らに残されたものはと言えば、先王ルイ15世のつくった莫大な負債による経済恐慌だけだったのである。
 この時、王位についたルイ16世は、まだ19才で政治のイロハも知らぬ若造であった。そのうえ、彼は、気が弱く鈍感で不器用で何事にも優柔不断な人物でもあった。つまり、およそ繊細とか敏感とかを持ち合わせるタイプではなかったのである。そして、ルイ16世の道楽と言えば、狩猟をすることと専用の鍛治場にこもって、もくもくと槌をふるって錠前をつくることぐらいであった。   端的に言えば、でくのぼうのような男であった。
 このように、ルイ16世は、妻のアントワネットとは趣味も気質も全くの正反対に位置する人物であったといえよう。しかも、彼は、一種の性的不能者であり、結婚後7年間も彼女を処女のままで放置していたという事実もあった。このことは、彼女の精神構造に少なからず影響を与えたようである。というのも、彼女、アントワネットは、結婚後、たがの外れたような遊びや贅沢三昧の暮らしに浸るようになり、スキャンダルな噂の中心人物になっていくのであるが、それも偏に、度重なる夜のいら立ちとベッドでの屈辱を味わわされた反動だと見てとれないわけでもない。
 一度も満足させられたことのない彼女にとって、退屈と空しい刺激から解放される瞬間は、こうした享楽的な遊びに興じる時間そのものであったのかもしれないのだ。
 やがて、彼女は、ベルサイユ宮殿の一角にあった建物に自分だけの世界を築き上げるようになった。この建物は、4本のコリント式列柱を持ち、繊細で精緻な技工が凝らされたロココ調のお洒落な建物で、プチ・トリアノン宮殿と呼ばれていた。
プチ・トリアノン宮殿
 彼女は、ここに改装をほどこし、毎日のように仮面舞踏会や芝居を演じさせては、自分の気に入った貴族たちと気ままに毎日遊び暮らすようになった。宮殿のそばには、小さな農園や農家をつくった。農園には人工の川が流れ、水車が回り、スイス産の雌牛がのんきに群れていた。また、庭にはお気に入りのハーブが沢山植えられて香ばしい香りを漂わせていた。まさに、それは、童話に出てくるような世界だった。
マリー・アントワネットが建てた農家
 そして、少しでも暇が出来ると、アントワネットは、お気に入り連中らとともに馬車で、夜のパリにくり出し、賭博や劇場などで夜通しばか騒ぎを繰り返した。
 そのため、アントワネットが衣装、装身具、賭け事などの夜遊びに費やされる費用は、おびただしいものになり、それは、累積してとんでもない借金となって膨らんでいったのである。   彼女が、国庫の金を湯水のごとく消費し、トリアノンの宮殿で贅沢三昧な生活をしているのに反して、民衆は飢餓に苦しみ、悲惨な生活を余儀なくされていた。人々が、その日の食べ物を得るだけでも死にものぐるいになっていたことなど、アントワネットにとって全く知らぬ所であった。
* 民衆の不満の対象に *
 彼女のこうした勝手気まま贅沢行為は、噂となり、いつしか人々は、彼女のことを赤字夫人とか卑しいオーストリア女と陰口をたたき憎悪の対象になっていった。
 悪いことに、これに首飾り事件がさらに拍車をかけた。この事件は直接はアントワネットとは関係のない、王妃の名をかたった詐欺事件に過ぎなかったが、160万リーブルという途方もない高額のダイヤの首飾りを購入するという話自体が一人歩きする結果となり、これまでの彼女の浪費家で淫蕩なオーストリア女のイメージを民衆に焚きつけることになったのである。160万リーブルと言えば現代の250億円以上の価値に匹敵するのである。この事件はフランス全土を駆け巡り、彼女の誹謗中傷で埋めつくされたパンフレットが町中に出回り飛ぶように売れたという。
 ここに至り、アントワネットは、フランス中で、最も憎まれる憎悪の対象として定着することとなってしまった。
 一方、王政側は、この危険な経済危機を何とかするべく、三部会を召集することにした。三部会は、1789年5月5日、実に170年ぶりに開かれることとなった。しかし、せっかく開かれたこの集会も、特権身分への課税を巡って最初から立ち往生だった。
 当時のフランスは第一身分である聖職者約14万人、第二身分とされる貴族40万人、最後の第三身分である平民が2600万人ほどいた。聖職者、貴族合わせても54万人で全体の2パーセントほどしかいないにもかかわらず、平民の代表者に匹敵するほどの人数を議会に送り込んでいた。そして、これらは特権階級とされ、一切の課税から免除されていたのである。つまり国の収入5億リーブルは、平民からのみ絞り上げられていたのである。

 集会は、多数決方式を唱える平民側と一身分一票を唱える聖職、貴族側の対立に終始した。つまり、多数決ならば若干人数の多い平民側の主張が通ることになり、一身分一票方式ならば、聖職、貴族の主張が認められ、特権階級への課税は否決されてしまうのである。

 そのうち、業を煮やした平民側は、三部会を飛び出し、国民議会と名を代え、これを認めることを王側に要求し出した。平民の要求を形だけ認めはしたものの、王は、平民の力が増大することを恐れ、密かに5万5千の軍隊をここベルサイユに呼び寄せようとしていた。王は、力づくで平民主導の議会を解散させようとしていたのであった。
 軍隊が動員されて、こちらに向かっていることを察知した平民側は、軍隊に対抗するために市民軍を急きょ編成し、武装する必要上、武器弾薬が大量に保管されているバスチーユ牢獄を襲撃する計画をたてたのである。
 この老朽化した牢獄は、囚人といえばわずか7人しかいず、守備隊は100人程度の忘れ去られた牢獄といってよかった。
バスチーユ牢獄の襲撃
 戦闘そのものは1時間足らずであっけなく終わってしまったが、この事件を皮切りに革命の序曲は始まるのである。しかし、いったん波打った革命の嵐は、もう止めることは出来ず、ものすごい勢いで情勢を刻々と変化させ、やがては、おぞましいものとなっていくのであるが、まだこの時点では、当のアントワネット自身も事の重大性を認識してはいなかったといえよう。
* 過激化する革命 *
 バスチーユ陥落の知らせを聞くが早いか、民衆に憎まれていると自覚している多くの貴族たちは、亡命するために国境を目指し殺到した。アントワネットも、ルイ16世に自分の祖国に近い地に旅立つことを強く訴えかけたようだが、結局、それは聞き入られなかったようである。このことは、彼女が、未だに、自分がフランスの王妃であるという自覚を持っていなかったという表れなのかもしれないが・・・
 やがて、暴民によって、ベルサイユ宮廷からパリに連れ戻された国王一家は、半世紀近く放っぽらかしにされ、荒れ放題のチュイルリー宮殿に移されてしまった。国王一家は、数カ月間、この宮殿で過ごしたあげく、オーストリア逃亡に失敗してしまった。この逃亡は、外部の知人の協力で綿密に計画されていたが、オーストリアまで後50キロというヴェレンヌの地で駆けつけた軍隊によって逮捕されてしまった。
 この逃亡事件があって、民衆の心は今度こそ本当に、完全に国王一家から離れてしまった。パリに連れ戻された国王一家であったが、もはや国王として脱帽する者は一人もいなかったという。彼らに待っていたのは、パリの民衆の怒りと侮蔑を込めた冷ややかな視線だけであったのである。
 その後、国王一家、ルイ16世、妻のアントワネット、二人の子供、国王の妹は、陰惨な要塞タンプル塔に監禁されることになった。13世紀に聖堂騎士団によって建設され、その後は修道院として使われていたこの陰惨な建物が、国王一家にとって最後の住居となるのである。ここに移送される途中でも、アントワネットは、国民軍兵士らから、様々な聞くに耐えない罵倒を浴びせられ、堪え難い屈辱を嘗めさせられていた。
* 次々と処刑される貴族たち *
 この頃、革命は、ジャコバン党という一派が革命の主導をするようになってからは、身の毛のよだつ恐ろしいものに変質していた。ジャコバン修道院を拠点にしていたことから、この名がついたこの一派は、下層民衆に支持され、急激な改革を目的としていた。後に、ロペスピエールらによって率いられ、単独独裁を行うようになってからは、反対勢力を次々と断頭台に送り込み、約2年の間に4千人以上の首を落し、恐怖政治を現出するのである。
 そうして、革命前より、民衆に憎まれていた貴族には、憎悪と怒りの鉾先が向けられ、その多くは、実に凄惨な扱いをうける運命にあった。
 彼女の親友だったランバール侯爵夫人などは、亡命もせず、イギリスに渡ったりしてルイ16世一家のための助命嘆願に走ったことがあだになった。帰国した夫人は、怒り狂った暴民に惨殺された。その殺され方も、胸元から下腹部まで、切り裂かれて、心臓をえぐり取られるという惨いものであった。屍体は裸にされたうえ、町中引き回され、その血まみれの首は、切り離され、槍に串刺しにされて行進の先頭に晒された。タンプル塔まで行進した暴民らは、これ見よがしに槍の穂先に突き刺された夫人の首をアントワネットのいる部屋の窓にかざしたのであった。
 また、かつて、ルイ15世を魅惑し寵愛を一身に受けたデュバリー夫人は、愚かにも亡命先のイギリスから、隠した宝石、貴金属を取りに舞い戻ったところを逮捕されてしまった。尋問を受けた彼女は、助かりたい一心で、宝石の隠し場所をすべて白状したが、そのために、処刑の延期をする必要がなくなったと聞いて、夫人は卒倒してしまった。
 断頭台のある処刑場に引き立てられる間中、彼女は命乞いをして泣き叫び続けだった。いよいよ、処刑人が彼女を押さえつけようとした時、50代の女とは思えぬほどのバカ力で、大の男3人の手を振払って、狭い処刑場の中を悲鳴をあげて逃げ回ったのである。夫人は両手を縛られまいと渾身の力でギロチン台の端にしがみつく。処刑人は、何千という観衆の前で、彼女の指や手を一枚一枚、それこそ貝殻でも剥がすようにして引き離さねばならなかった。3人がかりで組み伏せ、ようやくギロチンの台に押さえ込もうとするときでさえ、夫人は叫びつづけだった。
「イヤー!」「たすけてー!お願い!」「私は何もしていない」「もらっただけなのよ!」夫人の顔は涙でグシャグシャになり、凄まじい形相になった。執行人たちは、ばたつかせる足を力いつぱい押さえ込んで、泣き叫ぶ夫人の身体を横に抱きかかえると首を半円形の板に強引にねじ込もうとする。「ぎゃー!」「イヤー!」夫人の首が入るや否や首を固定する金属製の首輪が引っぱり下ろされた。「カチン!」首が固定されるとすかさず執行人の一人が目配せした。
「ガーッ!」恐ろしい音を立ててすさまじい勢いでギロチンの刃が落ちて来た。「ぎゃぁー!たすけ・・・」「ドシン!」重い震動音がして、夫人の叫び声が途中で途切れた。「ビシャ!」彼女の身体を押さえつけていた執行人たちの顔に鮮血が飛び散った。「ガサ、ゴトン・・・」夫人の頭が向こう側の籠に落ちる音がした。首を失った夫人の身体は猛烈な血しぶきを上げながらも、しばらくの間、小刻みに痙攣をくり返していた。
 こうして、やっとのことで夫人の首を落とすことが出来たものの、首と胴が離れる瞬間まで泣きわめき続けた地獄のような光景に、観衆の多くはその後の人生観をすっかり変えられてしまった。そして、このような恐ろしい結末は、今後の国王一家の運命を暗示するものでもあった。
 * ルイ16世の処刑 *
 まもなく、裁判は始まり、まず国王のルイ16世が、塔内より引き出されて、情け容赦のない尋問が開始された。そして、形だけの裁決を行い、一票差で有罪としたあげく、1か月後には処刑が行われたのである。
 夫に先立たれたアントワネットは、日に日に痩せ衰えていった。しかし、まもなくして、最愛の7才の息子とも引き離される運命にあった。
 その時、アントワネットは、悲鳴をあげて幼いルイ・シャルルを腕の中に抱きかかえて1時間あまりも空しい抵抗を続けたという。
 将来はルイ17世になるはずだったこの少年は、その後、歴史の闇に葬られその存在自体も謎のままかき消されてしまうのである。
ルイ16世の処刑
 タンプル塔には、彼女の他、14才の長女マリー・テレーズと、国王の妹エリザベートの3人が残されることになったが、1か月余りたったある夜、今度は、アントワネット自身が連れていかれる番となった。いよいよ、彼女自身の裁判のための特別法廷に移送される日がきたのである。
 母のアントワネットが連れていかれて、叔母のエリザベータもその後、まもなくどこかに移送され、ただ一人残された長女のマリー・テレーズは、17才になるまでの3年間を、このタンプル塔で過ごすことになる。

 彼女には皮肉にも、革命政府が戦争を始めたかつての母の祖国である、オーストリアとの捕虜交換の切り札として、利用される運命が待っていたのである。
* 誇り高い王妃として *
 特別法廷に連れていかれたアントワネットは、まだ38才だというのに、体の衰弱は痛々しいほど激しく、あれほど豊かだった金髪も真っ白に変わり果てていた。
 顔からは、ほとんど表情らしきものがなくなり、ただ死を待つのみとなった。彼女は、既にあらゆるものを失っていた。この時、彼女の心の中にあるものは、王妃らしい名誉ある最後を迎えることだけだったと思われる。

 彼女の裁判は、10月14日から、始まったが、2日半におよぶ弁論と審問も形だけで、死刑判決は、とうに用意されていたものであった。

 この間、彼女は風邪をひき最悪の体調にあった。寒さゆえの毛布も認められず、痔の出血にも悩まされていた。にもかかわらず、処刑の前日、アントワネットは貧血で倒れそうになりながらも、夜明けまで遺書を書いた。そこには、死にゆく者が愛しき者にあてた心からの別れの言葉と願い事が書き連ねられていた。

 そこには、以前の軽率でわがままで遊び好きのイメージはなく、自ら苦悩にもがき、過酷な運命の戯れによって、内的な変化を遂げた誇り高き王妃としての姿があった。しかし、この手紙は義理の姉の手には渡らずに、21年もたってから偶然発見されることになるのである。
 処刑当日、彼女を刑場まで連れていく憲兵が来た時も、最後の下着に着替えることすら許されず、止む終えず、血に染まった下着を壁の隙間に押し込んで、最後の旅立ちをせねばならなかった。
 その日は朝から雲がかかり、小雨がぱらついていた。午前11時、アントワネットは、出迎えの馬車に乗って、処刑場に向かった。処刑場に着いて、観衆の怒号と野次の中、アントワネットは、最後の気力を振り絞って断頭台への階段を一歩一歩不自由な身で登っていった。
 断頭台に上った所で、彼女は姿勢を崩し、一人の処刑人の足を踏みつけてしまった。「ごめんなさいね。ムッシュ・・・」 この時、彼女は静かにこう言い、深くため息をつくと近視の進んだ目で、はるか向こうにそびえるチュイルリー宮殿を細めた目で食い入るようにじっと見入った。
 恐らくそれは、今まさに、死ぬとわかった時、普段見慣れた光景であったものが、限り無く美しいものであることを知った人間だけが見せる最後の表情であったのだろう。
 自分はもう数分後には生きてこの地上にいないのだ。そう思うとすべてが愛おしく思われて来るのである。宮殿は小雨の中、薄いモヤに溶け込んで心なしか色あせているように見えた。そこには彼女の青春があった。あの時、あれほどたいくつで無味乾燥だと感じられた日々が、今は永遠のかけがえのない時間に思われて来るのである。処刑台の下から罵声を浴びせて来る民衆たちでさえ、なぜか憎む気にもなれなかった。
「さようなら、子供たち、私はあなたたちのお父さんのもとにいきます」彼女は目を閉じると静かにそうつぶやいた。それを聞いたそばにいた処刑人のサムソンは思わず涙したという。

 決して許されることではなかったが、彼はそのとき彼女の冥福を祈って心の中で十字を切った。
 まもなく、彼女の体は処刑人たちに抱え上げられ、断頭台に首が突き出るように投げ入れられた。頭上には不気味に輝くギロチンの刃があった。
「はやくその淫売女の首を落としてしまえ!」騒ぎ立てる民衆から猛烈な野次が飛んだ。最後の最後まで彼女は民衆にとって憎悪の対象であった。
マリー・アントワネットの処刑
 アントワネットは目を閉じたまま、激しく唇を動かしていた。何かの祈りの言葉を懸命に捧げているのだろう。せめて至福に充ちた状態で最期の瞬間を迎えたいという彼女の気持ちなのだろうか。だが、狂ったような心臓の鼓動がその期待を裏切っていた。

 すべてが一瞬、何もかも凍りついたように動きを止めた。だが次の瞬間、断頭台の落下してくるガラガラという鈍い音が静寂を破った。ほんのまばたきするいまわの際、彼女の脳裏をかすめたのは何だったのだろうか・・・
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