アグリッピナ
〜裏で自在に権力をあやつろうとした暴君ネロの母親〜
* 権力を手中にするために *
 古代ローマ時代、性は乱脈、放縦で近親相姦、同性愛はごく当たり前の時代であった。現代からすれば考えにくいことだがそうなのである。また、女が権力を得ようとすれば、権力者の夫を持つか、さもなくば自分の生んだ子供を権力者の座にすえるのが一番の近道であった。その際、邪魔な相手は消していかねばならない。その手段として、毒殺、謀殺、暗殺など何でもありの時代であった。中国の則天武后はこの手を如何なく発揮した東洋の悪女ナンバーワンと言えるだろう。古代ローマのアグリッピナもそれに勝るとも劣らぬ存在で西の代表格といえるかもしれない。
 アグリッピナは父ゲルマニクスがガリア遠征中、連れ添っていた妻が急に産気づきライン河のほとりにある小さな町で産まれた。紀元15年11月6日のことである。
 アグリッピナが13才のとき、彼女は最初の結婚をする。相手は帝位継承者の一人、ドミティウス・アヘノバルブス(紀元32年にコンスルに就いた)であった。
 しかし結婚した直後、母が陰謀に加担したという容疑で、流罪の後、ティベリウス帝に処刑されるなど薄幸な人生を歩んでいる。
アグリッピナ(15年11月6日〜59年3月19日)
* 残酷な処刑を好むローマの皇帝 *
 この頃、ローマは帝政の時代に入っており独裁色が濃くなって来る。ちなみに皇帝ティベリウスは大変、残酷で陰湿な皇帝として知られている。拷問や処刑が何よりの趣味であったらしい。またのぞき趣味もあるティベリウスは、私的なセックスパーティを催しては、男女の営みをあらゆる角度から見て楽しんだ。カプリ島では毎日のように囚人が拷問を受け、最後に断崖から突き落とされたが、一番よく見える場所に陣取ってそれを眺めて悦に入っていたという。またベッドに連れ込んだ婦人が自分の要求する淫らな要求に不快な表情を示すといじめ抜いて自殺にまで追い込んだという話すら残っている。
 かくして、ティベリウスが78才で死去すると、ローマ市民は20年来の恐怖政治が終わったと言って歓喜で沸きかえった。ところが新たな皇帝として就いたのは、さらに残虐なことで知られるカリグラであった。
 25才で帝位に就いたカリグラも拷問と処刑が大好きで、毎日のように拳闘士の殺し合いを見物していた。カリグラの残酷性を示す例としてこういう話がある。
 ある日、サーカスで猛獣に食わせる生肉の値段を聞いたカリグラは、あまりに高すぎる値段に驚いた。それなら囚人を丸ごと与えた方が大いに安かろうと言い放ったのだ。
 そして死刑囚を並ばせると、あの右端から2番目の男はライオン、真ん中のひげ面の男はワニ、一番左の男はトラ、というようにそれぞれの猛獣のエサにするように指摘すると衛兵に殺させたということであった。
カリグラ(37年3月16日〜41年1月24日)ローマ帝国第3代目の皇帝。狂気じみた独裁者といわれる。
* ネロを出産 *
 このカリグラが帝位についた年の12月15日、アグリッピナは息子ルキウス・ドミティウス・アエノバルブスを出産する。いわゆる暴君ネロとして後世に知られることになる子供である。
ネロを出産したとき、逆子であったため相当な難産であったらしい。アグリッピナとしては自分の腹を痛めて産まれて来た子供の行く末が気になる。
 そこで占い師にたずねたことがあったが、「将来、皇帝におなりになりますが、この子は心の中に竜がいて敵対するものはすべて食い殺してしまうほどの強い性をお持ちです」と答えたという話がある。
 皇帝になると聞いてアグリッピナとしてはそれだけで満足であった。しかし20年後、母親である自分が殺され、ネロのためにローマの都そのものも火の海と化し灰燼に帰してしまうことになるとは誰が予想したであろうか。
ネロ(37年12月15日〜68年6月9日)ローマ帝国第5代目の皇帝。キリスト教徒迫害から暴君と呼ばれるようになる。
 ところでカリグラには三人の妹がいた。ドルシラ、ユリア、そしてアグリッピナである。アグリッピナにとってカリグラは2つ年上の実の兄ということになる。カリグラはこのとき妹のドルシラがお気に入りで近親相姦の関係であった。
 ところが兄妹でのこの関係はさすがに皇帝としては聞こえが悪い。そこで美青年のレピドスという男にめとらせることにした。レピドスとカリグラは同性愛の関係である。しかし少なくともそうすることにより、表向きはレピドスとドルシラは婚姻していることになる。そうしておいてその裏ではカリグラはドルシラともレピドスとも関係を続けていた。だがこのややこしい関係も長くは続かなかった。
 流行病でドルシラは早出してしまい、容色を失ったレピドスはカリグラの興味の対象から外されてしまったのだ。若い時はカリグラから寵愛を受け、なにかと優遇され、次期の皇帝にまで約束されていたレピドスだったが、興味がなくなったというだけで、もう用済みとばかり放り出されてしまったので、レピドスとしては恨みつらつらの心境である。アグリッピナもドルシラ亡き後の後釜の地位をねらうが、兄のカリグラはとんと興味を示さない。
 恨みを抱いたアグリッピナはもう一人の妹ユリアと協力して、カリグラを亡きものにしようと暗殺を企てた。暗殺が成功した暁には皇帝の位につけるという話をレピドスに伝えると、当然のことのようにレピドスも乗ってきた。
 しかしカリグラは早々にして、この3人の計画を見抜いてしまった。ある時、何食わぬ顔をしてガリアまで彼らをお供させた彼は、頃合いを見計らって、動かぬ証拠だとばかり三人の間で交わされた手紙を見せたのだ。三人の顔色はたちまち青ざめた。レピドスはただちに処刑され、アグリッピナとユリアは財産没収のうえ、チレニア海の小島に流されてしまうことになった。
 こうしてアグリッピナは島流しに会い、幼いネロは叔母のドミティアの元に預けられることになった。しかも翌年にはアグリッピナの夫は病死してしまい、ネロは孤児同然になってしまうのだ。
* メッサリナの乱行 *
 しかし幸運にもアグリッピナにとって島での忍耐生活は長くは続かなかった。1年後にはカリグラは暗殺され、父ゲルマニクスの弟クラウディウスが帝位に就いたからだ。アグリッピナは流刑地から戻ることを許され、裕福な元老院議員と再婚しネロをも引き取ることができた。しかし2度目の結婚も長くは続かなかった。夫は数年後に死んでしまうからである。しかし彼女は夫の莫大な不動産を手に入れることができた。夫の死因についてはアグリッピナが毒殺したと見る歴史家が多い。
 皇帝になったクラウディウスは政策家としては有能ではあったが、性格的にはお人好しで少々とんまなところがあったらしい。夫としてはあまり威厳がなく、また妻の行動には関心のない男であった。
 この男にはメッサリナという妻がいたが、淫乱で嫉妬深く、何事にも冷酷で強欲な女であった。メッサリナはローマの下賤な売春宿にスキッラという名前で出入りし、一晩中男たちと交わり続け、ある時には25人もの男を相手にしてもまだ物足りなかったという話もある。
クラウディウス(10年8月1日〜54年10月13日)第4代ローマ皇帝。評価は2分される。
 また彼女は自分を不快にさせた者や敵対者がいると、夫のクラウディウスをそそのかし処刑させたりもした。
 したがって宮中の美人や権力者の妻には恐怖の的であった。いったん目をつけられでもしたら因縁をつけられて何をされるかわからないからだ。アグリッピナも彼女の気を引かぬようにして毎日ビクビクと暮らしていなければならなかった。一度など、幼いネロの部屋に死客が送られてきたこともあった。メッサリナとしてみれば、自分の子供の他に皇帝になる可能性をもった子がいる以上、災いの芽をつみとっておきたかったのであろう。しかし幸運にもこの時はことなきを得たようである。
 しかし、メッサリナの乱行にも終止符が打たれるときがきた。クラウディウスの不在時に愛人シリウスとの不義を寵臣ナルキッススに報告されたのだ。かくしてクラウディウスは妻メッサリナに自殺を命じた。このときメッサリナの色情狂に関係した400人ほどの人間も道連れになって処刑されたという。
* 毒キノコで夫を暗殺 *
 メッサリナがいなくなって宮中はホッとしたようであった。ところが、すぐに次期の皇妃の座をめぐってしびつな売り込み合戦が行われることになる。ローマの法律では叔父と姪は結婚できないことになっていた。どうしても、自分がクラウディウスと結婚して、さらに息子を皇帝にしたいと思っているアグリッピナは、手段をえらばず、自分の体を売ってまで法律を変えさせた。そして強引な売り込みも功を奏しアグリッピナが皇妃の位につくのである。アグリッピナにとって、あとはいよいよ自分の息子ネロを帝位につける段になった。
 また、この時期になると彼女は自分の野心、すなわち息子ネロを皇帝にさせるべく様々な布石を置くことも忘れなかった。
当時メッサリナによってコルシカに島流しになっていた哲学者のセネカをローマに戻しネロの教育係に登用したことだ。
またクラウディウスに働きかけネロを養子にした。クラウディウスにはメッサリナとの間に、ブリタンニクスという実の子供がいたのだが、ネロの方が年長者になるため、これで帝位継承順では上になった。
ブリタンニクス(41年2月12日〜55年2月11日)14才で毒殺された。
 しかし、クラウディウスはどうやらネロよりも実の子供のブリタンニクスを皇帝にしたがっているように見えた。そこで、アグリッピナは夫の毒殺を計画する。結婚してから6年目、クラウディウスは食事中に毒キノコにあたって死んでしまったのだ。これはアグリッピナがクラウディウスの好物のキノコ料理に毒を盛ったとされている。かくして17才のネロがローマ皇帝となった。
* ネロの裏切り *
 ネロを帝位につけたアグリッピナは、ついに自分の野望が9割がた実現したことを悟った。後はネロを思いどおりに動かし、裏で権力を思いのままにあやつるだけである。そのため、アグリッピナはネロの結婚相手から政治問題までいろいろとうるさく干渉しだした。
 最初は言いなりになっていたネロであったが、そのうち皇帝として独立心が芽生えてくるといいかげんうんざりして来る。ネロの反抗的態度は次第に程度が増してくるようであった。こうなってくると、アグリッピナはブリタンニクスを立ててネロを皇帝から下ろそうと考えはじめた。アグリッピナとしてみれば、自分の思いのままにあやつれる皇帝であればそれでよかったのである。それを見抜いたネロは、ブリタンニクスを毒殺してしまう。ブリタンニクスが死んでしまうと、今度はアグリッピナは色じかけで迫ってきた。さすがに実の母親とは言え、やりきれなさを覚えたネロはいつしか母親の殺害を企てるようになった。
 ネロは母親のアグリッピナをどうすればうまく消してしまえるか、いろいろ考えた。うたぐり深い彼女は簡単には乗って来ないだろう。また毒の知識も自分より上だろうし各種の解毒剤も持っている。したがって毒を盛る方法は通用しない。そこでネロはバイエアの町でもうすぐ行われるミネルバ祭にかこつけて誘い出し殺害することを思いついた。ぜひ主賓として出席して欲しいという手紙を書くことにしたのだ。手紙は一見、愛情と優しさに満ち満ちている内容だった。ネロが自分を殺そうと計画しているとは思ってもいないアグリッピナは、これを機に再びネロの心を捕らえられると喜んだ。そして侍女たちとともに出かけることにした。
 その日、ネロはバイエアの別荘で母をもてなした。宴も終わるころ、アグリッピナが侍女たちと帰路に着こうとすると、ネロはとりわけ優しそうに語りかけてきた。
「母上様、今宵はまた星が格別にきれいな夜です。このままお帰しするのもなんですから、母上の邸宅まで船で送らせましょう。これは私が母上のために特別につくらせた豪華船です」ネロの指さす方向を見ると、一艘の豪華船が夜の波にもまれて浮いているのが写った。
 息子のねぎらいにアグリッピナは上機嫌である。息子のネロは私を慕っている。そう思うと自然と笑みがこぼれてきた。そういうことでアグリッピナも陸路で帰る予定をやめて、ネロの提案にしたがい、侍女とともに用意した船に乗り組んで帰ることにした。アグリッピナの別荘はナポリ湾をはさんで数キロメートル向こう岸にあったのだ。
 しかし、この船は名匠と呼ばれる大工に壊れやすいように特別につくらせた船であった。全長7メートルほどで、豪華そうな木製の屋根も設けられている。しかしこの船はある時間が経つと、機械仕掛けで屋根がくずれ、中央から真っ二つに折れて沈んでしまう仕掛けになっていたのである。
 ネロは、湾の真ん中で船を沈没させて母親を溺死させようとしていたのである。こぎ手にもネロの死客を送り込み、万が一には止めを刺すように命令されていた。計画に抜かりはなかった。
 ところが、湾の中ほども来たのに、船はいっこうに沈没する気配がない。ようやく屋根の部分がミシミシと音を立てはじめた。内部で何かが破裂して栓が抜けたような音を立てる。船が急に大きく左右に揺れ出した。
「きゃーっ!」侍女たちの悲鳴があがった。ガクンと振動して重い屋根が崩れてくる。「ガン!」侍女の一人がそのまま下敷きになり即死してしまった。アグリッピナと侍女のアケロニアは真っ暗な海に投げ飛ばされた。船は真っ二つにならずに傾いたままの恰好で浮いている。こぎ手たちが自分たちを探しているのがわかった。舷側につかまった二人は、息を殺して波のうねりにまかせてプカプカ浮いていた。
 やがてこぎ手が二人を見つけた。そのとき侍女のアケロニアが「私は皇帝の母親です。私を助けなさい」と叫んだので、死客たちは侍女のアケロニアをオールでなぐって殺してしまった。アケロニアの犠牲的な行為で、アグリッピナは間一髪のところを命びろいした。泳ぎが達者だったアグリッピナは密かに混乱現場を離れると、しばらく泳いだ後、近くにいた小舟に助けられた。
* ネロからの死客 *
 こうしてアグリッピナは無事に自分の別荘にたどり着くことができたのである。
「たいそうな船は役立たずで終わりましたね。私は死にかけたところ九死に一生を得たのですよ」皮肉を込めて手紙にそう書くと、彼女はネロあてに使者をつかわせた。
 一方、ネロの方では暗殺がうまくいかずイライラしていたところに、アグリッピナから使者が来た。このとき使者が短剣を所持しているのを見て、ネロはアグリッピナが自分に刺客を送り込んだということにして罪を着せてやろうととっさに思いついた。ネロは手紙を受け取るふりをして、やにわに剣を引き抜くと使者の胸に深々と突き立てたのであった。そうしてこう叫んだ。
「こやつは短剣をたずさえておった。母上は私に死客を送り込んだ。これは皇帝への反逆罪だ!ただちに母上を処刑せよ!」ネロはこうわめきたてると、アグリッピナの元に近衛兵を送ったのである。
 アグリッピナは皇帝暗殺の容疑をかけられたことなどつゆとも知らずに旅したくをしている最中であった。そこにいきなりネロの近衛兵が邸宅に上がり込んできたのだからアグリッピナは驚いた。近衛兵に反逆罪として処刑すると聞かされた時、アグリッピナは自分の腹を指をさして叫んだそうだ。
「刺すならここを刺すがよい。お前たちに命令を下したネロはここから生まれてきたのだから」
 今まさに殺されんとするアグリッピナの精一杯の皮肉であった。近衛兵たちはアグリッピナをめった斬りにした。
 その後、近衛兵たちがアグリッピナの遺体をネロの元に運んで行ったところ、自分の母親の遺体を検分したネロは、あらためて「母上の身体はこんなに奇麗だったのか」と感嘆の声をもらしたというが真実かどうかは定かではない。
 ティベリウスやカリグラとは違い、血を見るのが嫌いで、芸術、竪琴を引くのが好きな、一見、普通のナイーブな青年に見えたネロであったが、母親からの呪縛から解放されたとたんに、暴君と言われるように豹変していくのに、そうたいした時間はかからなかった。
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参考文献
「世界悪女物語」澁澤龍彦 河出書房新社
「世界の中の女性たち」三浦一郎 社会思想社
「世界犯罪史」コリン・ウイルソン 関口篤 訳  青土社
参考資料サイト http://ja.wikipedia.org/wiki/小アグリッピナ
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